「特攻」および日本アニメ

卓球の早田ひながオリンピックから帰国後のインタビューで「行きたいところ」を聞かれて、「特攻資料館」と答えた。
このことに、早田と親交のあった中国のトップ選手がSNSのフォロウワーをはずれるなどしたことが物議をかもすことになった。
早田にとっても想定していなかったにちがいない。
中国の反日教育のなかで、特攻精神や靖国神社はセットで教えられているのだろう。
中国や韓国でこの問題が大きくなったのは、1978年秋、靖国神社で当時の宮司だった人物がA級戦犯を「合祀」に踏み切ったことだ。日本国民でさえもこれをが知ったのは翌年の新聞報道だった。
靖国神社は官営ではなくなってはいたが、戦前は国家神道の中核であったため、「A級戦犯」を指定した「東京裁判」を否定する行為としてアジア諸国を中心に非難が起きた。
2005年、06年の、小泉首相の「靖国参公式参拝」については中国サイドで驚くほどの「非難」が湧き上がったことは記憶に新しい。
さて、日本は中国から儒教や仏教をとりいれ「中国文化圏」とみなされるが、どうしても相いれない部分があるように思える。
それを一言でいえば、亡くなった人の「鎮魂(ちんこん)」という点である。
奈良仏教は中国由来の「鎮護(ちんご)国家」の仏教、つまり仏法により国の安泰を祈る思想である。
聖武天皇により日本全国に国分寺や仏像や仏塔が建てられた。
東大寺および奈良の大仏は、それらのいわば総本山で「鎮護国家」のシンボルといってよい。
そうしたものは見た人びとに、「国」という新しい制度と新時代の到来を強く印象づけるものであったであろう。
東大寺に並んで有名な法隆寺の「五重塔」は日本最古といわれ、「世界遺産」ともなっている。
法隆寺も、鎮護国家のシンボルかと思いたくなるが、考古学者・梅原猛の「隠された十字架」(1976年)は、法隆寺がなぜ建てられたかを「斬新な」発想で読み解いたもので、衝撃的な内容であった。
梅原によれば、法隆寺は「仏法鎮護」のためではなく、聖徳太子の怨霊を「鎮魂する」目的で建てられたと主張したのである。
その大胆な仮説は、数々の古典や史料、論考などを論拠として提示されたものであった。
そういえば、法隆寺は奈良とは距離のある斑鳩(いかるが)に位置する。
「隠された十字架」の中で、梅原は「たたりの条件」として、次のようなものをあげている。
個人で神々に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。且つそのとき、彼らは無罪にして殺害されたものである。
罪無くして殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
時の権力者はその祟りを鎮め自己の政権を安泰にする為に、祟りの霊を手厚く葬る。
それとともに、祟りの神の徳を褒め讃え、貴い「おくり名」をその霊に追贈する。
以上のような見解から、梅原氏は「聖徳太子」がこの条件を満たしているとして、その上で法隆寺の「建造目的」が聖徳太子の「怨霊鎮魂」のためとする論を展開し、「隠された十字架」は、1972年に毎日出版文化賞を受賞している。
我々自身を探ってみても、死んでしまった人を悪く言わないし、死者の霊を鎮めるという文化がある。
まして死者を鞭打つなんてことはしない。
つまり日本では、人間は誰も死によって罪を逃れるが、中国は人間が亡くなっても罪は罪で、決して消えるようなことはない。
例えば、日中戦争で日本政府と組むことによって彼なりに和平を追求した汪兆銘は「売国奴」として、手を後ろでに縛られ頭を垂れる像が作られ、中国の観光客はその像を棒で突っついたり、つばを吐きかけたりもする人もいる。
どうやら中国人の精神は、日本人特有の「怨霊鎮魂」の精神風土とかなり隔たりがあるようである。
中国人は人が亡くなると魂になると考えるので、靖国神社には「好戦の魂」が漂っていて、日本の首相や閣僚が公的であろうと私的であろうと参拝を行うことは、再び「好戦の魂」が蘇って、日本人は再び戦争を起こすのではないかと考えるのである。
この問題をなお難しくするのは、日中双方の政治が絡んでくるからだ。日本の首相および閣僚が「日本人の遺族」への政治的配慮、アジアの人々の「感情」の狭間の中で、参拝するかどうか、参拝のかたちを決断しなければならない。
戦争中、国家神道は「尊いおくり名」のうえをいく「軍神」なるものを生み出し、それが軍国主義を鼓舞したことは事実で、今日でも自衛隊員の集団的な靖国参拝の問題も浮上している。
しかし、今日の日本人の祈りの方向性は「安らかにお眠り下さい」と霊を鎮めているのである。
靖国を訪問している大半の人々が、平和を願って参拝しているのである。
また早田が語った「特攻資料館」というのは正式には「知覧特攻平和会館」。この名称からも分かるように、特攻を美化しているわけでも、日本の戦争を肯定しているわけでもない。
日本人の心情はどうあれ、外からは違ってみえ、中国にはそうした「鎮魂の思想」が伝わりがたい。
日中の文化的基層にまでの相互理解を掘り下げるのは、政治が前面に出るとますます困難になる。

1972年5月30日、テルアビブ・ロッド国際空港。世界を震撼させるテロ事件がおきた。
24名が殺害されたテルアビブ空港乱射事件で、「3人の実行犯」はいずれも20代の日本人だった。
逮捕された実行犯の一人は「日本赤軍」を名乗る岡本公三、他の一人は射殺されたが、もうひとりが手榴弾で自爆したことに衝撃が走った。
1948年イスラエル建国の陰で、土地を失ったアラブ人たちは、ゲリラ組織を結成し、「テロリズム」によって自らの主張を国際社会に訴えようとした。
PFLPは、「我々はナチスの行いの対価を支払わされている。我々は難民を戦士という新しい人間に変えるのです。パレスチナゲリラとして家のない難民が自由の戦士となるのです」という声明をだした。
とはいえ、こうしたテロは、ゲリラたちの「生存」を前提としたものだった。
ヨーロッパに潜伏していた日本の過激派である赤軍幹部・重信房子の下、日本赤軍が「パレスチナゲリラ」と合流する。
「日本赤軍」は、戦後イスラエルが占拠し、追い出されたかたちのパレスチナの人々に共鳴していた。
岡本は逮捕後、「今回の作戦はアラブ世界に対して大きな勇気づけを行うであろう」と述べている。
もともとイスラム教で自殺は禁じられているにもかかわらず、このテロで3人は英雄視され、「自爆テロ」は新しい戦術として広まっていく。
岡本公三は法廷で「世界中の人に警告しておく。これから同じような事件はニューヨークワシントンで次々おこる。ブルジョワの側に立つ人間はすべて殺戮されることを覚悟しておかなければならない」と語った。
その予言は3か月後の1972年8月、オリンピック「ミュンヘン大会」で現実のものとなった。
大会11日目、イスラエル選手団の宿舎に8人のパレスチナゲリラが侵入した。二人を殺害し9人を人質にとった。
当局に拘束されている岡本公三ら政治犯の釈放を要求。交渉に臨むその右手には常に手榴弾が握られていた。
ゲリラは、「我々の作戦がオリンピックに参加した青年の心を傷つけたとしたら謝る。だが24年間もその土地を占領され自尊心を踏みにじられ苦しみ続けている者のいることを思い起こしてほしい。なぜテロと脅迫によって占領を続けているイスラエルが参加を許され、我々の旗は会場はどこにもないのか」と訴えた。
事件は最悪の結末を迎えた。実行犯5人は射殺されたが、死の直前、人質9人を乗せたヘリコプターを手榴弾で爆破し、人質9人全員が死亡した。
犯人の棺を出迎えるアラブ人の映像に、歓声をあげて迎える人々の姿があった。
ゲリラ組織の司令官は「自爆テロはジハードの最高レベルであり、私たちの信仰の深さの表れだ。爆撃者は聖なる戦士なのである」と語った。
われわれが「東洋」という時、一般に「東アジア」を考えるが、ヨーロッパからみて「東洋」というのはオリエント、「中近東」をさす。
日本的な特攻精神に、パレスチナゲリラが感激するみたいな面があるのならば、イスラム原理主義などのラディカルなイスラム教にも、儒教・仏教・神道などにみられる東洋的な倫理観・価値観みたいなものが流れているのかもしれない。
そうすると「東洋」という概念ももっと拡張しなければならなくなる。
欧米はかつて太平洋戦争の特攻作戦で、日本の兵士を「野蛮」として日本を文明国扱いしなかったのと同じように、過激なテロリストの行動は「狂気の沙汰」としか映らないであろう。
したがって「文明国」と「野蛮国」との戦いは、文明国側からすれば正当化される。
それはアメリカに根強い「マニフェスト・デステニー」(明白な使命)という考えからも裏付けられている。
現在、アメリカがイスラエルとハマスの「停戦交渉」の仲立ちしているが、果たして911テロに対するアメリカの報復は正当であったのか。
アルカイダの本拠地とされるアフガン空爆は4万6000人の一般住民を巻き添えにしたし、首謀者のオサマラビンラデインの急襲による殺害は、裁判するわけでもなく正当化できるものであろうか。

早田ひな選手が帰国後、もうひとつ行きたい処と答えたのが、「アンパンマン・ミュージアム」であった。
「アンパンマン」は、作者やなせたかしの戦争中の飢餓体験がある。
また、日本の特攻精神は戦争においては極端な表れ方をしたが、日本のプロ野球とメジャーリーグの明らかな違いの一つは「犠牲バント」の多さである。
そして、自己犠牲もしくは献身の精神は、世界中で日本のアニメ人気が高い要因である。
今や「クールジャパン」と称される日本のアニメや漫画の文化、1990年代までは「OTAKU Culture」とよばれていたことがあった。
東京秋葉原は「OTAKUの聖地」であり、「OTAKU」という言葉は海外に広がっていった。
ただ「OTAKU」の言葉の由来からすると、こうした文化の担い手は、どこか日本社会の中で「生きづらさ」を抱えていた人々であった。
(もちろん、そうでない人もたくさんいます)。
日本は戦後、幸いにも平和が続いたが、「生きづらさ」を原動力にした人々の優しさやけなげさが、戦乱や貧困の中で不安を抱える人々の心を慰めるのではなかろうか。
「京都アニメーション」の事件は、生きづらさの中にも活路を見出した人と、そうではなかった人とが加害者と被害者に分かれた事件ではなかったか。
今から30年以上も前、アメリカのサンフランシスコで見つけた「セーラームーン」は、主人公が可憐な少女ではなく、ワンダーウーマンみたいな強力な女性として描かれていた。
「生きづらさ」とは無縁の存在で、日本では、かわいい、小さいという存在が、たとえ現実離れしていようと、強者」を倒すからこそ人々の心をうつ。
一寸法師、牛若丸、アラレちゃんみな然りである。
さて、中南米を舞台に映画化された「パイレーツ・オブ・カリビアン」でジョニー・デップが演じるとぼけた海賊が登場するが、日本アニメ「ワンピース」は人間味あふれる海賊が登場する。
「ワンピース」は、欧米やアジアなど世界のファンに読まれて、卓球選手では水谷選手がファンであると語っていた。
最近では、フィリピンを拠点とする詐欺集団が、主人公の名「ルフィ」を名乗ったりしたが、「ワンピース」に登場する海賊は、貿易船を強奪するわけではなく宝探しをするストーリーである。
同時に主人公であるルフィが、仲間と共に海賊王に成長していく冒険の物語である。
主人公のルフィは冒険に必要な航海士やコック、医師を集める。それも、自分に出来ないことが出来る人達を喜んで仲間にする。
ぶらりとやってきた人の能力を見て船の操縦が出来れば、料理が出来れば、音楽ができれば、それで採用。
それぞれに欠点や弱点をもっていてほほえましい。
ゾロは極度の方向音痴、サンジは女に弱い,ミナミは金にもろい。
主人公であるルフィは、「おれは剣術を使えねぇんだコノヤロー 航海術ももってねぇし ウソもつけねぇ おれは助けてもらわねぇと生きていけねぇ自信がある」と言っている。
このルフィの言葉は心底から出た言葉で、リーダーに頼られることで仲間は達は自分の力を発揮する「個性派集団」なのである。
ワンピースには「悪魔の実」という、その実を食べることで超常的な力を得ることができる食べ物が登場する。
『ゴムゴムの実』だったら全身ゴム人間に。『メラメラの実』だったら全身炎を自在に操れる人間に。
ゴムだったらルフィ、炎だったらエース、などのように、キャラクターの特徴づけにも使える。
こういう感じで、各悪魔の実につき特徴的な能力がキャラクターに付与されるのもポイント。
少々の欠点には目をつぶって、自分のスキルを伸ばす生き方は、他人への依存度が高くなるけれど、仲間への貢献度も高くなる。仲間がいなければ死んでしまうことを実感できる船。
仲間が集まる場でありそれぞれが得意を生かせる場であるところが引きつけるのではなかろうか。
それが、『ONE PIECE』という漫画のタイトルの意味するところである。
非正規雇用の拡大など、人間が会社にとって「コスト」としか見られない社会にあって、現在で一番渇望されているのは「麦わらの一味」のような共同体ではなかろうか。
そこに敵対する勢力が現れ、様々な政治的権力をを駆使して集団を押しつぶそうとする存在。
「ワンピース」の人気のひとつは、リーダーを含めてメンバーが「横並び」の集団でありながら、敵を打ち破っていく「爽快さ」にあるのだろう。
例えば、ある暴君は医者を独占することで権力を得ようとする。お抱え医師団をつくって他の医師団を追放して、国民は君主に忠誠を誓わなければ診療を受けられない。
また世界中の地図を掌握しようとする海賊団も登場し、情報を独占して世界を支配しようとするのはGAFAを連想させるなど、現代的テーマと重なる点も魅力の一つである。
また大海原の自由さ、スタイリッシュでかわいい女の子の存在も大きな魅力になっている。
現在、中東パレスチナ自治政府のガザ地区では、「アタック オン タイタン」が流行しているという。日本のアニメ「進撃の巨人」のことだ。
ガザ地区の人々は、イスラエルが建てた高いコンクリートの壁に閉じ込られて暮らす。
取材した新聞記者は、少年がいった「だって、壁の中で戦う話なんだよ。いろいろと似ているんだ」という言葉にハットとしたという。
「進撃の巨人」は、巨人の襲撃を恐れ、高さ50mの壁に囲まれて生きる少年たちの物語。だが、高い壁だけが共通しているだけではない。
何しろガザのハマスがテロを起こし、イスラエルはその報復を行っている。
「進撃の巨人」の作者、諌山創(いさやま はじめ)は、日田出身で高校まで過ごしていている。諌山創が幼い頃よく遊んでいた大山渓谷は、山が壁のように切り立ったところで、諌山自身も、新聞社のインタビューに日田の風景が作品に影響したと答えている。
「進撃の巨人」の主人公が壁の外を目指していたように、諌山も日田から出ることを夢見ていたという。

ちなみに映画(「サムソンとデリラ」)にもなった、旧約聖書に登場する怪力男の「サムソン」は、ガザ出身である。
主人公ルフィをはじめとして、剣士ゾロやコックのサンジなど、各メインキャラクターの動機(目的)がとてもハッキリしています。 ルフィは海賊王になりたい ゾロは世界一の剣士に サンジはオールブルーを見つけたい キャラクターの動機が明確なことで、そのキャラクターがどんな人間なのか、輪郭がハッキリします。 人間という生物が、根本的に『何かに所属したい』『誰かと結ばれたい』という欲求を抱く生き物である限り、けっして廃れることのない王道であり続けます。 ワンピースにおいては、主人公たちが問題に直面しても、最終的に彼らならそれをなんとかしてくれるだろうという期待感があります。 ストレートな言い方をすると、ルフィたちは必ず最後には勝ってくれる。 そういう無意識化の安心感が存在しているのもワンピースのストーリーの良いところ。 もちろん各自の目的がかぶっていないのも良いね。 ルフィが海賊王を目指す理由はシャンクスとの出会いから ゾロは少年の時の親友との約束から サンジもまたその壮絶な過去から 厚く深い物語や生き様が背景にあって、彼らが各目的を抱くのにまったく違和感がありません。 こういったキャラクターの衝動(欲求)に対して、読む人が思わず納得するようなストーリーがほぼすべてのキャラクターに対して設定されているのがワンピースのすごいところ。 魅力的なキャラクターを描く時はぜひ参考にするべきポイントです。 女性キャラが大抵ナイスバディ 馬鹿みたいに思うかもしれませんが、これもかなり重要です。 ナミは金に弱い こういった弱点は、むしろキャラクターの親しみやすさの一因になります。 すごい人物だけど、実はこんな普通なところもある。 すべてが完璧の超人は人間味が薄くなりがちです。 普通の人がなれない『海賊』がテーマ ワンピースは海賊たちの物語です。 今、この時代を生きる普通の人間は海賊にはなれません。 この、普通ではできない生き方を疑似体験させてくれる装置として、海賊というのは夢があります。 また、海賊が連想させてくれるイメージに『自由』があります。 何物にもとらわれず、自由に大海原を行く。 行く先々で貴重な体験をし、人と出会い、心地良い物語に触れてまた旅に出る。 誰もが憧れるような夢の体験を、ワンピースは体現しています。 誰でもなれるような身分をテーマにしていたら貴重性はないし、今の自分になれないけどちょっと気になる身分、というのがエンタメ性をすでに内包している。 悪魔の実という象徴的アイテム わかりやすさ、覚えやすさという点でこういった『一人につき一つの特殊能力』はかなり有効。 悪魔の実の名前が能力と合致してるのも良い。 さらに言うなら、その名前が象徴的な擬音語や擬態語であることもまた良い。 言いやすい上に覚えやすい。 悪魔の実に副作用があるのも良い この悪魔の実に「食べると泳げなくなる」という副作用があるのもとても良いところ。 もちろんこれがなくても良いアイテムであることに変わりはありませんが、副作用があることでキャラクター付けにも使えますし、より異質性が強まります。 また、の実を食べる時のドキドキ・ハラハラ感、適度な緊張感の付与にも一躍買って出ている感じ。 金や財宝のように、「多ければ多いほど良い」と単純に言えないところに、作中キャラクターでも認識の幅が生まれる(多様性・考え方の違いの提示)。 『すごいアイテムだけど俺はいいや』というキャラもいれば、『いくらでも食いたいぜ!』というキャラもいる。 『ONE PIECE』のメディア(媒体)に関して ワンピースが漫画であることにどんな意味があるのかを分析していきます。 絵があるからこそのキャラクター数 ワンピースはとても長い物語です。 当然登場人物も膨大な数になります。 正直、これを文字だけの小説で表現しろと言われたら血の気が引くレベルです。 たぶん発声者の区別や動作したキャラの区別のための外見描写だけで3万文字くらい使えそう。 このワンピースのキャラクターの多さは、イラストのある漫画だからこそできる芸当です。 キャラクターが多ければそれだけたくさんの関係性(物語)をわかりやすく詰め込めます。 そのうえで笑い声などに特徴づけを行っている さらにワンピースは各キャラクターが特徴的な笑い方をします。 これはイラストによるキャラクターの区別に加えて、文字としての区別にも繋がります。 王道というと簡単に聞こえますが、ここまで丁寧に王道的エッセンスをちりばめる総合的な構成力がなによりも脅威。 第一次世界大戦前、パレスチナの地は、ユダヤ人は人口の約1割、わずか9万人にすぎなかった。しかし、ナチスによるホロコーストにより、国際社会でシオニズム(イスラエルの祖国復帰運動)がおき、第二次世界大戦後には258万人となった。
ところでA級戦犯に指定されたものの中には、福岡県出身の首相広田弘毅もいる。
城山三郎の小説「落日燃ゆ」では、広田弘毅や「A級戦犯」という存在のイメージを一新した。
そういえば、福岡市内の大濠公園内にある広田弘毅の石像は、正面向かい側の護国神社をしっかりと見据えて立っている。
さて、この「護国神社」とは何か。
福岡県にも明治元年に福岡藩主の黒田長知が戊辰戦争に殉じた藩士を祀るために創建した招魂社をはじめ、県内の旧藩主等が創建した護国神社が複数存在した。
1943年4月、現在地の福岡城址横の練兵場跡に、県内の護国神社を統合して「福岡縣護國神社」に改称、内務大臣指定「護国神社」となった。
護国神社は、明治維新から大東亜戦争に至るまでの約13万柱の英霊を祀ったものである。
つまり「靖国神社」の地方支社のようなものである。
この護国神社前に広田像が建設されたのは1982年のことであるが、これは1978年のA級戦犯の靖国合祀、「延長線上」にあるものではなかろうか。