逃げ上手の若君

最近、話題のアニメ「逃げ上手の若君」は、日本史の「史実」を元にしつつ、大半がフィィクションで、エンタメとして成功している。
主人公が、鎌倉幕府滅亡後、最後の執権北条高塒の次男・北条時行というのも斬新である。
北条時行は、建武政権期、北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して鎌倉街道を進撃し、1335年に「中先代の乱」を引き起こした。
兵は5万騎に膨れ上がり、挙兵からわずか1か月、足利直義を破って鎌倉奪還に成功したが、わずか20日で尊氏に逐われた。
南北朝の内乱では、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦っている。
以上が史実に即した話だが、「逃げ上手の若君」で時行は、信濃国の神官である諏訪頼重が、父親代わりになって鎌倉奪回のために育てられる。
逃げてばかりの軟弱な若者が、いつしか”逃げ”を武器に果敢に戦うのが面白いところ。
アニメ「逃げ上手の若君」では、「逃若党」の部隊を組んで戦い、南朝に下って戦ったりもして、北畠親房なども登場する。
さて歴史上に「逃げ上手」を探そうとしたら、むしろ思い浮かんだのは「逃げ下手」の方であった。
フランス革命時のルイ16世とマリー・アントワネット夫妻のこと。
パリでは混乱の中、パンが値上がりし女性たちを中心に「ヴェルサイユ行進」が起き、民衆と共にパリに連れてこられたフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット一家。
華麗なるヴェルサイユ宮殿から、パリ市内の旧王宮今や蜘蛛の巣の張ったチュイルリー宮殿に戻される。
マリー・アントワネットは、オーストリア出身の王妃で、国家財政を揺るがすほどの贅沢三昧で民衆からの大反感をかっていた。
マリーはこのパリにいたら、どんな目に遭うかわからない。先行きの不安から”逃げる”ことを決意。
祖国オーストリアに行けば、兄のレオポルト2世が助けてくれるであろう。
その手助けをしたのは、スウェーデン貴族のハンス・フェルセン伯爵で、マリー・アントワネットの愛人として知られている人物である。
彼は、莫大な逃走費用を個人的に用立てし、周到な計画をたてた。
決行の日は1791年6月19日と決められ、フェルセンは道中に配置した協力者に細かく指示を行う。
夜、皆が寝静まった頃、王子王女を起こし、王も大変な苦労をしながらベッドを抜け出し、変装して貸馬車に乗り込んだ。
国王一家が一般貴族に変装し、簡素な馬車で出れば、誰も気に留めなかったであろうが、高級な馬車を用意したため、結局目立ってしまう。
御者はフェルセン。そして、パリ市外に出て、市外で例の大型馬車に乗り換え、王の命令でフェルセンは離脱する。
さらに、近臣のトゥルゼル夫人や身の回りの世話をするために侍女ふたりも乗ることになる。
その結果、大いに人目を引く、豪奢な一行となってしまったのだ。
王妃の奢侈品やワインなども積み、これでは馬車の速度は大幅に落ちてしまう。
一刻を争う旅なのに、ルイ16世は旧知の知人のところに立ち寄るなど道草をする始末。
夜が明けると、馬車は目立ち、オーストリアとの国境にあるヴァレンヌの宿場ではこの大仰な馬車に一目が集まる。
軽騎兵を率いたショワズール公爵が待っているはずの宿場であったが、公爵は4時間経っても王が来ないので、何かの事情で計画が中止になったと思って、持ち場を離れていたのだ。
すでに、途中で一行を王一家と睨んでいた宿場長が先回りをしており、町の民衆も馬車を取り囲む。
本当に王一家かどうかは分からず、パリから誰か貴族が来るまで、彼らは人生はじめて民泊をする。
そうこうするうち、王を捕まえるため、国民議会から派遣された特別任命委員ふたりが、明け方に到着。
ロメーフは王妃の前に進み出ると、国民議会の「王を拘束せよ」という命令書を渡した。
国王でありながら国を離れようとしたルイ16世に対し、6月25日、国民議会は「王権の停止」を布告。
同日6時、国王一家パリに連れ戻され、テュイルリー宮殿で半ば幽閉された状態となる。
ルイ16世は国王であることには変わりはなかったが、この事件をきっかけにその権威を失墜し、議会と市民の中に王政廃止、共和政実現の声が強くなった。
国王の逃亡を手助けしようとした人々は少なからずいたのに、彼らの準備や手筈や計画はすべて無駄になってしまい、彼らの運命を決定づけることになった。
そして二人は、最終的には革命政府によってギロチンで処刑される。
ルイ16世の逃亡未遂は、王政の終焉と共和制への移行を加速させるきっかけとなり、フランス革命の転換点となった。
そればかりか、他のヨーロッパ諸国に君主制の脆弱性をも示す結果となり、革命の波を広げる一因となった。

1917年、ロシアにおいて世界初の社会主義革命が成功する。その中心になったのがレーニン率いる共産党の前身「ボルシェビキ」である。
遡ること1905年の第一次革命で、ボルシェビキは破れ海外に亡命を余儀なくされため、1917年の第二次革命(3月革命)ではブルジョワ寄りのケレンスキーが臨時政府の首相に選ばれた。
「臨時政府」はボリシェヴィキ弾圧に踏み切り、レーニンやトロツキーらも再び国外に亡命した。
しかし、日露戦争を継続する臨時政府への労働者・兵士の不満は強まる中、帝政派の将軍の反乱が起こるとケレンスキー内閣はそれを抑える力が無く、ボリシェヴィキの力を借りざるを得なかったため、ボリシェヴィキは勢いを盛り返した。
この様子をみていたレーニンやトロツキーらは帰国し、武装蜂起して「臨時政府」を倒した。これが「11月革命」である。
その後、レーニンは新国家建設は「ボリシェヴィキ独裁」のもとで行うという方針を打ち出し、ボリシェヴィキは党名を「共産党」に変更した。
遡ること1905年いわゆる「血の日曜日事件」がおこりロシア全土にゼネストが拡大し、この動乱(第一次革命)のなかでトロツキーは、レーニン中心の「ボリシェヴィキ」に参加するようになる。
しかし、そのとたんに逮捕され、「シベリア流刑(終身流刑)」をいいわたされる。
これで終わりかと思われたが、護送中に脱走すると、ウィーンに亡命、このウィーンで書いた草稿が「プラウダ」に発表された「永続革命論」である。
1914に第一次世界大戦が始まり、ロシアも連合国としてドイツとオーストリアと戦端を開くことになった。
トロツキーはスイス社会党に依拠して「反戦」を訴えたものの、ボリシェヴィキに入党するとペトログラード・ソヴィエトの議長となり、そして「11月革命」では軍事革命委員会の委員長として国内の内乱や反乱の鎮圧に乗り出すための「赤軍」を組織する。
その矢先レーニンが脳卒中で亡くなり、革命の最大の推進力となったのはトロツキーであったが、中央委員会ではスターリンらの三人組が擡頭した。
トロツキーは軍事担当を解かれ、いっさいの役割から放逐され、1929年にはソ連国外追放となったのである。
トロツキーは亡命先をフランスからノルウェーに移して「ソ連とは何か、そしてどこへ行くのか」を執筆、それがフランス語版でタイトルが「裏切られた革命」となったのをトロツキーも承認した。
トロツキーは「スターリンのソ連には社会主義はまったく存在しない」と批判したのである。
そしてスターリンにより、「トロツキー暗殺」の刺客がはなたれる。
ソ連内務人民委員部エージェントであるラモン・メルカデルという、ハンサムで申し分のないマナーを身につけたバルセロナ生まれのスペイン人であった。
彼は、ソビエト当局から次のような命令をうける。 ベルギーの大富豪になりすましてパリに行き、シルビア・アゲロフという27歳のロシア系アメリカ女性に近づいて、彼女を丸めこめというのである。
というのも彼女はトロツキーの信奉者で、おまけに彼女の姉が「秘書」をしていたのである。
豪華な自家用車に乗ったベルギーの大富豪の贈り物攻めにあったシルビアは、たちまち彼のとりことなり、やがて二人は一緒に暮らし始める。
1939年10月、メルカデルは表向きはベルギー新聞の取材ということで単身メキシコに渡り、ニューヨークにいたシルビアを呼びよせる。
その目的はもちろんトロツキーの秘書をしている姉に会うためである。
1939年11月、シルビアは姉に自分の婚約者「ベルギーの大富豪の息子ジャック・モルナール」を大得意で紹介する。
翌年3月、の偽名でトロツキーの別荘に出入りし、新たにトロツキーの秘書になったシルヴィアと共に自分をトロツキーの支持者だと信用させた。
その間、直属の上司にあたるエイチンゴンの要請によりメルカデルの母と弟はパリからモスクワに送られており、彼らは事実上の「人質」となっていた。
そのような状況の元で、メルカデルはついにエイチンゴンから暗殺の命を受けていたのだ。
1940年8月20日、メルカデルは自分の論文を見せるとして暗殺のためにトロツキーの別荘に入った。
書斎でメルカデルは7cmのピッケルを「論文」を読み始めたトロツキーの頭に振り下ろしたが、トロツキーは意識を失わずに叫び声を上げ、抵抗した。
すぐに警備員がやって来て逃げようとしたメルカデルを袋叩きにした。
トロツキーは直ちに病院に搬送されたものの、結局これが致命傷となり翌日午後に病院で死亡した。
メルカデルがトロツキーを殺したと知ったシルヴィアは卒倒した。
8月22日の「プラウダ」紙は、「暗殺者はジャン・モーガン・ワンデンドラインと自称し、トロツキーの信奉者かつ側近である」と発表した。
メルカデルは逮捕後、メルカデルはシルヴィアとの結婚を拒否されたための私的な報復だと主張して一切の証言を拒否した。
メキシコで懲役20年の最高刑(死刑はない)に処せられるも沈黙を続け、得体のしれないパトロンたちの援助をうけながら、かなり快適な刑務所生活をおくることとなる。
服役期間中も仮釈放を条件に真実を明らかにするよう説得が試みられたが、メルカデルはこれを拒否して刑期満了まで服役した。
彼は殺し屋は必ず口封じのために殺されるという共産主義の現実を知っていたからかもしれない。
それにしてもトロツキー暗殺への一貫した意志には驚かされる。
事件から約10年後、メキシコでの獄中、指紋の分析かメルカデルの正体がようやくつきとめられた。
1960年5月6日に釈放されて、スターリン死後のソ連に戻るも厄介者扱いされたのか、その後キューバに移送され、秘密裏にベルギーに送られ、天寿を全うした。
映画「暗殺者のメロディ」(1972年)は、メルカディルによるトロツキー暗殺を描いたs作品である。
メディカル役を演じたのがアラン・ドロン、シルヴィア役がロミー・シュナイダーである。

イギリスは4つの国スコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、の「連合王国(UK)」である。
スコットランドは、固有の法体系をもっており、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化をもち、1707年までは独立した王国であった。
1637年、ステュアート朝(スコットランド系)のイングランド王チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。
それに対してスコットランドの長老派はそれに対決すべく兵力を集め始めた。
それに対して、チャールズ1世は、スコットランドに進軍するも、あえなく敗北。
再度、スコットランド遠征を企てえた国王は、その戦費を得るために1640年に議会を招集したが、国王と議会の対立が鮮明となり、1642年の「ピューリタン革命」へとつながっていく。
チャールズ1世は処刑され、護国卿クロムウェルの共和制がうまれるも、保守派の巻き返しから処刑され、フランスに亡命していた息子のチャールズ2世が即位し、「王政復古」が実現する。
そのチャールズ2世の死後、弟ジェームズ2世が即位するも、1688年に追放。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王として即位する。
これがいわゆる「名誉革命」でめでたしめでたし、高校世界史の教科書ではこれで決着がついたかのようであるが、実は続きがある。
これに納得ができなかった一派が本拠をスコットランドにおく「ジャコバイト」(「ジェームズ派」のラテン語)で反乱を起こす。
この「ジャコバイトの反乱」において、反乱軍の主力となったのは屈強の「ハイランダー」達だった。
「王位継承権は、ジェームズ2世の二男であるジェームズ3世にあるはずだ!」。
当人であるジェームズ(老王位僭称者)は、何度かの反乱に敗れたあと、フランスに逃亡するが、これで収まらなかった。
今度は、ジェームズ3世の息子「チャールズ・エドワード・ステュアート」こそが正式な王位継承者であるとして、担ぎ上げられる。
彼は、ジャコバイトやスコットランド人からは親しみをこめて「ボニー・プリンス・チャーリー」(美しいチャーリー王子)と呼ばれ、ハンサムで勇敢。大変、魅力的な若者だった。
フランスで育ったボニーは、1745年の「ジャコバイト反乱」に呼応してスコットランドに上陸。 怒濤の進撃を続け、スコットランドの大半を手に入ると、そのまま南下してロンドンを目指す。しかしイングランド軍が兵力を整えて反撃に出ると、たちまちボニー側は不利な状況に追い込まれる。
ボニーは、カトリック教徒ということもあって、期待したほどの協力も得られず、追い込まれたボニーは、ハイランドへと撤退する。
このとき彼の兵力といえば脱走兵が多く出て崩壊状態となり、ボニーの軍勢は、カロデン・ムアの地に追い詰められていく。
1746年4月、それでもボニーは命からがら戦場を「抜け出し」ヘブリディーズ諸島にたどりつき、そこで、友人を訪ねて来ていたフローラ・マクドナルドという勇敢な娘に出会う。
フローラにとってはとんだ人物が飛び込んできたことになる。映画「ローマの休日」の男女逆バージョンのような話だが、現れた逃亡者は彼女の心を引き付けたのであろう。
フローラはボニーを「女装」させ、ベティ・バークという「アイルランド人侍女」だと名乗らせる。
そしてボニーを小舟に乗せ、ヘブリディーズ諸島北方のスカイ島へ導き、ボニーはそこからフランスに亡命する。
フローラ・マクドナルドは、その後逮捕されてロンドン塔に収監されてしまう。
しかし、後に釈放され、夫ともに天寿を全うし、勇敢なジャコバイト女性として、歴史に名を残した。
一方、フランスに亡命したボニーを慕い続け、ジャコバイトの人々の集まりでは、乾杯をするとき「水の向こうの王へ乾杯」と言い合あった。
その意味は、「ボニーに乾杯」という意味で、「マイ・ボニー」という有名なスコットランド民謡はこの史実が背景にある。
日本語で「いとしのボニー」のタイトルでカバーされ、その歌詞は「愛しいボニーは海の向こう側にいる、ボニーを私のもとへ返して」である。

福岡県南部の筑後地方には「宮の陣」「大刀洗」などの「戦い」を想起させる地名が数多く残っている。
後醍醐天皇と足利尊氏の対立に端を発した南北朝の動乱は日本全国に広まるが、後醍醐天皇は南朝勢力を拡大するため全国に自らの皇子を派遣した。
義良親王を奥州に、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に、恒吉親王を越前に、そして懐良親王を九州に派遣した。
つまり後醍醐天皇は地方の武士を結集するために、皇子(みこ)という「貴種」である親王を派遣した。
この時皇子の中には10歳にも満たないものもあったが、何よりも血統がモノイウ時代であったのだ。
ただ、奥州の義良親王には公家である北畠顕家が軍勢を引きつれていったが、九州の懐良親王には五条頼元を筆頭に十数人の公家が付き従ったにすぎない。
五条家は、南朝の後醍醐天皇の皇子「懐良親王」を守るべく九州まで付き従った公家であるが、 そして今、五条家の子孫が住む「五条邸」は奥八女にある黒木町に今も存在している。
少ない人数を従えた懐良親王だったが、九州の菊池氏を味方につけ一時は九州を制圧するほどの「勢い」をもった。
1359年九州における南北朝の最大の戦いである「筑後川の戦い」(大保原の戦い)で南朝が勝利し一旦は大宰府を制圧したほどの勢いであった。
筑後川の戦いで、懐良親王の陣地があったところが「宮の陣」で西鉄大牟田線の駅名ともなっている。
またこの戦いで菊池武光が血刀を洗った場所が「太刀洗」で大刀洗町の町名のおこりとなっている。
さらに、1361年に「征西府」を熊本の菊池武光の居城・隈府から大宰府に移している。
この時九州は一時的には独立王国のようになり、中国大陸からみて懐良親王は「日本国王」のように見えたという。
しかし今川了俊率いる「北朝勢力」におされ、南朝勢力は筑後の山間に逃げのびたのである。
しかし南朝の懐良親王は高良山を根拠地として抗戦し続けたが劣勢をはねかえすことができぬまま、征西将軍を後村上天皇の皇子「良成親王」に譲る。
良成親王は奥八女の矢部山中の大杣で先述の五条氏に守られ再興をはかろうとしたが、それもカナワズこの地に没するのである。
奥八女の矢部村には、山中奥深くに懐良親王の墓がある。
また、良成親王の御陵はさらに山深い所にあり、その地には「御側(おそば)」という地名がついている。
この御陵の地をすこし登ると大杣公園がある。
ところで五条家は、黒木町のおそらく昔とほとんど変わらぬ佇まいの中にヒッソリとある。
懐良親王のいわば「教育係り」でもあった五条家保存の重要文化財指定の文書の中には、後醍醐天皇最終の綸旨や武家文書など南朝方の動向を物語る369通17巻もの史料群がある。
また後醍醐天皇が、皇子懐良親王を征西将軍に任命した時の「しるし」として節刀と共に授けられたのが、重要文化財指定の「金烏の御旗」(きんうのみはた)である。
毎年、9月23日の五条家における「御旗祭」で一般に公開されている。
そして、五条家の末裔達は、いまもなお懐良親王、良成親王の墓を守っておられるのだ。
ころで川上村に隣接する「天川村」はその地名にもソソラレルが、「天河伝説」といわれるものが残っている。
内田康夫の「天河伝説殺人事件」により、一躍有名になったところである。
世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の柱のひとつである修験の山・大峯山があり、そのふもとには「天河大弁財天社」がある。
ちなみに、村の名前は「天川」で、神社の名前は「天河」である。
天川村には「天川大弁財天社」は、音楽や芸能をつかさどる古社がある。
弁財天といえば「弁天様」のことでインド系の女神であるが、この天川村は修験道の霊場・大峯山の入口にあたることもあって、古来から信仰の地として栄えた。
特に芸能人にとっては、今も昔も大切な神様で、ミュージシャンの中にも天河の熱心な信者がいるという。
この古社でかつて世阿弥が「唐船」という能を御前で舞い、合わせて一打の「能面」を奉納している。
その能面の内側には、「心中所願、成就円満也」と書かれている。
署名まであるので間違いのないモノだが、世阿弥は一体どんな願い事をしたのだろうか。
天川村には川上村と同じように南朝への「朝拝式」が今でも行われていてる。
ここでは、南朝初代の後醍醐天皇を拝礼する「位衆傳御組」とよばれる人々がいるのである。
この天川村には、後醍醐天皇の皇子である後村上天皇も滞在したことがあって、それも南朝への思い入れは強さの根拠となっているようだ。
そしてこの後村上天皇の「御子」こそが、福岡県南部の奥八女地方と関連が深い人物なのである。


最後に、奥吉野と奥八女の「意外な」共通点として、その延長線上に「核廃絶」への願いと結びついたモノがあることである。
奥八女の「最奥」には、高千穂に劣らぬ神秘的な景観をみせている「秘境」ともいうべき日向神峡があり、また日本中で一番星が美しく見えるという星野村の天文台で何万光年か前の星々を眺めることができる。
そして、この星野村には平和記念公園がある。
ここに平和公園が設立されたのは、星野村出身の山本達雄氏が持ち帰った一点の「火」によるものである。
広島に原子爆弾が投下された1ヶ月後、召集で広島県内の駐屯地にいた山本達雄氏が、本通商店街にあった叔父が経営する書店にクスブッテいた火をカイロに移して、福岡県八女郡星野村の自宅に持ち帰り保存していた。
そして23年間山本家で守り続けられた後、1968年、星野村に引き継がれ「平和を祈る火」として、慰霊碑の中で今もなお大切に保存されている。
長崎の「とうろう流し」実行委員会副委員長が毎年、星野村に出向き「採火」しているし、日本ばかりではなく世界でこの火を「分火」する動きがおきている。
この那智勝浦に面した熊野灘の海底に水爆の放射能をうけた「第五福竜丸」のエンジンが長く沈んでいたといっても、ほとんどの人は信じないかもしれない。
しかし、本当の話である。
1954年アメリカのビキニ環礁における水爆実験で被爆したのが静岡県焼津を母港とする「第五福竜丸」である。
この第五福竜丸は、この後検査と放射能除去が行われた後に三重県伊勢市の造船所で改造され、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」となった。
この「はやぶさ丸」も1967年に老朽化により使用可能な部品が抜き取られた後に「廃船」となった。
その心臓部であるエンジン部分は廃船時に船体から「切り離され」て別の貨物船に搭載されていたが、この貨物船が1968年に航海途上の熊野灘で座礁し沈没したのである。
また第五福竜丸(新生「はやぶさ丸」)の方は、東京都江東区「夢の島」の隣の第十五号埋立地にウチ捨てられていた。
しかしそれが、同年東京都職員らによって「再発見」されると、「保存運動」が起こり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されている。
また、1996年12月、和歌山県・民間有志らによって熊野灘の海底から、沈んだ貨物船エンジンすなわち元第五福竜丸のエンジンが引き揚げられ、「第五福竜丸展示館」の脇の空地に展示されることになったのである。
人生も様々な変転をたどるものだが、こうしたモノにも、有為転変というものがあるものだ。
近畿・奥吉野も九州・奥八女も共に「南朝の哀史」をとどめ、しかもそのドンヅマリに「核廃絶の願い」を秘めた場所へと導かれるとは、よほど厭戦の気性が篭った場所だからなのか。
『マイボニー 』は、1962年にリリースされたトニー・シェリダンのアルバムで現代風にアレンジされ、世界的に有名になったスコットランド民謡である。
♪My Bonnie is over the ocean  My Bonnie is over the sea  My Bonnie is over the ocean  O bring back my Bonnie to me.♪。
当時の音源で聞いた人も少なくないと思うが、このアルバムでバックバンドを務めたのが、なんとあのビートルズ。
ただ当時は「ビートブラザーズ」として参加していた。
ビートルズがバックバンドを務めた「マイ・ボニー」のモデルといわれるのが、歴史上の「美しいチャーリー王子」で、女装して島を脱出するなどのエピソードを残している。
桂小五郎(かつらこごろう)とは、西郷隆盛・大久保利通と共に「維新三傑」の一人として知られるが、幕末の京都では「逃げの小五郎」と呼ばれ、新選組などから逃げ回っていた印象が強い。 桂小五郎は若い頃、柳生新陰流の道場で学び、江戸三大道場の一つ「力の斎藤」こと神道無念流・練兵館で塾頭を5年も務めていた。 坂本龍馬とも試合を行ったことがある剣豪だったことは、あまり知られてはいない。 「逃げの小五郎」と呼ばれた桂小五郎は、どれほどの剣豪であったのだろうか? 出自 画像 : 木戸孝允生家 wiki c そらみみ ------------------------------------------------