佐賀県・吉野ヶ里遺跡は、1991年5月28日に国の特別史跡に指定された。そして、国営公園(吉野ヶ里歴史公園)として、周辺の佐賀県営公園とともに、一体的な都市公園として計画・整備されている。
1986年、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。
開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、「文化財保護法」によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。
というわけで、佐賀県庁文化課では「吉野ヶ里発掘プロジェクト」を立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。
吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。
そうした中でただ一人、七田忠志(地元神崎高校の社会科教師)だけは違っていた。
生涯をかけて(1981年没)独力で発掘調査を続けたのだ。その息子が「吉野ヶ里発掘プロジェクト」のリーダーとなった七田忠昭である。
発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。
ただし、この調査はあくまで「開発調査」であり、発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない。
現に、発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。
調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。
発掘を進めるうちに忠昭は確信するようになっていた。この遺跡は絶対に壊してはならない。
そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。
弥生時代の環壕集落跡である広大な吉野ヶ里遺跡は、ある新聞社が「邪馬台国」と関連付けて報じたこともあり、世間の注目を集めた。
弥生時代の墳丘墓は、当時の王や首長の墓とされ、「クニの成立」といった社会発展の指標とされる。当時は発見例も少なく、吉野ヶ里の墳丘墓は、最古かつ最大の規模とみられていた。
県教委文化課長の高島忠平は、文化庁へ出向き、保存区域をどうすべきか、打診したのだった。
文化庁が示した案は、広大な環壕集落全域の保存を前提とした国史跡指定だった。
前述のように、吉野ヶ里遺跡は、県が進めていた「神埼工業団地」の開発に伴って見つかった。
広大な環壕集落全域を保存する事になると、もはや、工業団地としての形をなさない。
そして、古墳を保存するか、古墳を壊して団地を作るか、最終的には、佐賀県知事・香月熊雄の判断に委ねられることになる。
墳丘墓の発掘調査の結果をみて決めよう。明日からでも発掘にかかりなさい」。
平成元年3月1日。香月熊雄知事は、こう語って知事室での論争を収めた。吉野ヶ里遺跡の保存範囲をめぐり、県幹部が激しくやり取りがあったのだ。
工業団地造成の責任者にとってはとんでもないことであった。青天の霹靂だった。
起工式も済んで、工事に入っている。
墳丘墓の内部の様子は、甕棺墓が複数存在すること以外、分かっていなかった。
知事の指示通り、3月2日から墳丘墓の発掘を開始した。事件はその初日の夕方に起きた。
発掘の現場リーダーの七田忠昭が、墳丘墓の上で、大きく腕を振った。その時、新聞・テレビなどの報道関係の人たち20~30人がいた。
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発掘調査は原則、報道陣をシャットアウトしていたが、毎日夕方16時の説明会も終了した後であったことから解放状態となっていた。
それが、報道陣の目の前で重大な発見がなされることとなった。
高島は皆に「たった今、銅剣が出土した、その状況を皆さんに見ていただきます」というと、皆が色めき立って墳丘墓へ駆け登った。
銅剣が、甕棺の内部を埋めていた土の中から少し顔を出していた。
そして、十字形の柄をもつ有柄銅剣が、その全貌を見せてきた。「王者の剣」にふさわしい優美なデザインだった。
報道陣のカメラのシャッターが一斉に切られた。フラッシュに映えて、甕棺の内側に塗られていた朱と青緑色の銅剣とが色鮮やかな対比をなした。
この瞬間こそが、実質的に「吉野ヶ里全域の永久保存」が決まった瞬間といえる。
考古学上の金言「一寸地下は闇である」をそのままいいあてた瞬間でもあった。
福岡市の銀行に勤めていた土井善胤(当時55歳)は、多忙極める日々の中で心の励みとなっていたのは、通勤途中にある9本の桜の木。
ところが1984年3月10日 一本の桜が無残に伐採されていた。
福岡市は、1972年に政令指定都市となり年々人口が増加、当時の福岡市・進藤一馬は、都心と郊外を結ぶ交通網が急務と判断、市内のいたるところで道路の幅を広げる工事がはじまり、桧原もその対象となっていた。
4mほどであった道幅を広げる計画だったが、片側は池であったため、池岸の桜をどうしても切らざるをえなかった。
その時、土井に「残りの桜が哀れと」いう気持ちが悠然とこみあげてきた。
9本の桜の木は「桧原桜」とよばれ、地元の人からも深く愛されていた。樹齢は50年、子供たちは桜とともに成長し、人生の節目節目に桜を見上げてきた。
桧原の人たちにとってかけがえのない桜だった。
翌日早朝、土井は桜並木にむかい、そして誰にも気ずかれぬよう、そっと桜の木にしたためた短冊を結びつけた。
結びつけた短冊には、「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二殉 ついの開花をゆるし給え」と書かれてあった。
桜をあわれむ歌であり、花守りとは花の番人、道路工事はやもうえない、でもせめてあと20日間だけ工事をとめ、最後の開花をゆるしてほしいという「陳情」だった。
土井はこれにより何かが変わるとは思わなかった。ただ、抑えきれない思いを歌にして結びつけたあけだった。
しかし、その思いはある人物に受け継がれた。
偶然、この歌をジョキング中に目撃した人物は、当時九州電力の社長の就任したばかりの河合辰雄だった。
河合は、どなたの歌かはわからないけれど たまらず貼った歌だとすぐわかった。
その日の夜、河合は社長室にて、「今朝 花を哀れむ歌をみてな なんとかいい知恵はないものかな」と、当時九州電力・広報担当の大島淳司に語りかけた。
河合のことをひとりの人間としても慕っていた大島は、その歌をみてみようと翌朝、桧原へと足をはこんだ。
そして旧知の仲の新聞記者に公衆電話から電話をかけた。「桧原におもいしろいことがある。いってみらんね」。
その数日後のこと、事態は誰も予想谷しなかった方向へと転がりはじめる。
新聞の社会面に、桧原桜が大写しで紹介されているではないか。
新聞記者によると、大島の秘めたる思いをしるべく桧原にむかった。そして貼り紙を最初にみたときにすぐにジーンとくるものがあった。こういう「陳情」の仕方があるのかと。
そしてこの記事は、福岡市長 進藤市長の目にもとまる。つまり最初に土井が歌を詠んだ相手である。
進藤は、記事を読んだときの心境を西日本新聞によせた回顧録に書いている。
「たとえ市長である私がどう思っても、個人としての私情ではどうにもならないことが行政には多々ある。だから桜の木はきり倒されるかもしれない」と。
ところが、新聞を見た当日、桜の木を確認しにいくと、驚くべき光景が広がっていた。土井の歌に続けとばかりに、たくさんの短冊や色紙が桜の木に結ばれていたいた。
花をあわれむひとりの男の思いが、いつのまにか「大きな世論」となっていたのだ。
そして進藤市長が福岡市役所・道路計画課長で工事責任者と協議を重ねていた。
「本当は私情を挟むのはよくないことだけれども、できれば桜を残すことはできないだろうか」。
工事責任者は、「桜を残すとなると予算も増えるし、工期の方もかなり遅れることになりいます」というと、市長は、「かまわんよ そん時は私が全部責任をとる」と応じた。
ひとりの男の思いが進藤市長のこころが届いた。桧原桜は、拡幅工事で広くなった道路の横で桜が残った。
桜の側に道をっひろげるのではなく、予算はかかるが池の一部を埋め立て反対側を広げることにしたという。桜も職人たちの協力をえてすべて移し替え桜並木となっている。
桧原桜の傍らには、土居の歌が刻まれた石碑が立っている。その横には進藤市長の歌も刻まれた。
実は、市長の家は、桧原桜から歩いていける距離にあり、市長は土居の歌を目にしたとき、土居に返歌をおくっていたのだ。
「桜花(はな)惜しむ 大和心のうるわしや 永久に匂わむ 花の心は」。
デトロイトといえば自動車産業、かつてはアメリカン・ドリームの象徴の街であった。その恩恵を受けた豊かな労働者が暮らしていた。
1970年代後半、石油ショックにより燃費が重視さあれるようになり、1980年代には日本車がシェアを拡大した。
大型車を作り続けたジェネエラル・モータースは、時代の波に乗り遅れて業績が悪化。2009年に経営破綻。
歴代の市長や議員は、福祉などの公共サービスを削減したり、職員を減らしたりすると市民の反感を買い、次の選挙で当選できないので、予算の削減には反対し、将来誰かが解決するだろうと問題を先送りにした。
1960年代、人で不足に陥ったGMは賃金が安い黒人労働者を雇った。
公民権運動とも重なり黒人暴動が頻発し、9割を占めていた白人は黒人とは一緒に暮らせないと一斉に市外にでる「ホワイト・フライト」という現象が起こった。
しかも自動車3社が、税金の安く優遇措置のある州外へ工場を移転させた。
デして2012年トロイトに本社をおくゼネラル・モーターズが経営破綻した。
そして2012年 名門デトロイトタイガースの球場では警察官によって「デトロイトには自己責任でお入りください。デトロイトは全米一殺人事件の発生率が高い街です」というビラが配られるほどの惨状だった。
一方行政も、公共サービスは削減できず、問題が先送りするばかりで、2013年7月18日、史上最大の自治体破産。負債総額は1兆8000億円でった、
デトロイトの財政破綻直後、デトロイトでは「財政再建計画」をめぐり激しい衝突が起きていた。
巨額の財政負債を解消するために、市の元職員にたいする年金の大幅削減案が提案されたからだ。
財政破綻直後の2013年、9割ともいわれた年金の削減案に、市の元職員は「市の給与は低かったが、何度も給与カットを受けいれた。そのたびに、あなたたちには手厚い年金があるからといわれました 約束をやぶるなんて法に反している」。
そんななかミシガン州から任命された緊急事態管理官ケビン・オアはデトロイト美術館にある貴重なコレクションに目をつけた。
世界的オークション会社クリスティーズを招待し、6万6千点の査定が行われた。
これが市民の意見を2分する大論争に発展した。
市民の誇りを売り払うなんておかしい。多くの市民がデトロイトの誇りが世界中に売り払われると、猛抗議。
対立する利害関係者の調停にあたっていたローゼンは、年金受給者との間で話し合いをはじめた。
退職者からは美術館の売却を求める声が多かった。ある退職者は、「美術館は大好だが、壁にかかる絵と孫の生活をまかなう年金のどちらを選べといわれれば、答えは簡単である」と語った。
市民の誇りを守るのか、それとも年金受給者の生活を守るのか、議論は全米中に広がった。
ゴッホの自画像、モネのグラジオラス、なかでもメインホールに展示される壁画、1933年に描かれ自動車産業で働いた街の人々の誇りと歴史が刻まれていた。
年金を削るか美術館を売却するか、その命題を背負ったのが破産調停人となった破産裁判所判事ジェラルド・ローゼンである。
デトロイトに育ったローゼンには、できれば美術館の売却は避けたいという思いがあった。
美術館は年間60万人が訪れる市内で唯一活気のある場所だった。
どうすれば美術館を守りつつ、年金受給者の理解をえることができるのか、。
ローゼンは苦肉の策をひねりだす。美術館を市から独立した団体に移行させ、売却そのものを防ぎ寄付を募るというもの。
そこでローゼンはかつてデトロイトの自動車産業をささえたメーカー(フォード)がささえる財団に、話をもちかける。
だが首をたてにはふってくれなかった。実はローゼンには寄付者の同意の上、寄付の一部を年金受給者のために使うというアイデアがあった。
しかし9つの財団に声をかけたものの、なかなか理解はえられなかった。
そんなとき、ローゼンのもとに突然、一通のメールが届く、「自分の人生で得たものは、すべてデトロイトのおかげだ。
5億円を寄付したい」。
ローゼンははじめ新手の詐欺だと思ったが、署名がはいっていて、彼の名前を検索したら詐欺でないことがわかった。
寄付をしたのは、デトロイトの大学で化学の教授をつとめるポール・シャープであった。
病気の原因となる細胞をみつける分子を発見し、その特許でえた大金を寄付したいとのことだった。
これが報じられると、事態は急展開した。この報道で世界中のアート関係者からデトロイト美術館を助けたいと寄付が寄せられ、
人々はこのプランを「グランドバーゲン」とよび関心があつまり始めたのである。
難色をしめしていた財団をはじめ、フォードやGMもTOYOTAも、自動車産業発祥の地のために、寄付をきめた。
世界中の企業や団体から3億6千700万ドルという当時のレートえ約380億円が集まった。
そしてローゼンはミシガン州知事リック・スナイダーを訪ねる。あとは知事をどう説得するか。
寄付を成立させるためには州の助成金をだすという条件があった。
フォード財団が131億円を寄付し、ほかの団体か
らも寄付が集まったと告げ、知事にサインするしかないですねとと、ミシガン州からも巨額の助成金が決定した。
90パーセント減といわれれた年金は、最終的に最大4.5パーセント削減減にまで縮小した。
だがこれまでもらえていた生活調整費までカットされたままであった。細かく計算すると合計40パーセントまでへらされました。退職者にとっては大打撃であった。
このプランを実行に移すには、こうした人々を説得し、その半数以上の賛成が必要だった。
判断は年金受給者自身による投票にゆだねられた。結果は賛成票が73パーセント、年金受給者が破綻の痛みを背負うという
結論に合意したのだ。
賛成票を投じた人々の意見は、前向きだった。若者たちの未来のために受け入れる。
財政破綻がおきたからこそ私たちは、皆が助け合うことが大切だときづいた。再建はみちなかばだが、みながひとつになったその先に、街の未来がある。