2024年4月、NHK番組「未解決事件」は、終戦直後の怪事件「下山事件」につき、新たに入手された「極秘資料」に基づいて真相を追及していた。
1949年6月1日に発足した日本国有鉄道の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、大田区上池台の自宅を公用車で出た。
出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。
午前9時37分ごろ、公用車から降りた下山は「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げて三越に入り、そのまま消息を絶った。
自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄本社内は大騒ぎとなり、警察に連絡、失踪事件として捜査が開始された。
翌7月6日午前0時30分すぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅ー 綾瀬駅間の東武伊勢崎線との立体交差部ガード下付近で下山の轢死体が発見された。
1951年、吉田茂首相は、アメリカの国務長官ダレスとの会談で、下山総裁の暗殺につき韓国人の仕業とし、韓国人を捕まえることはできず韓国に逃亡したと述べている。
では吉田が言及した「韓国人」とは何者なのか。
事件の主任検事が布施健で、時効15年がすぎ、捜査本部が解散したあとも密かに事件を追い続けていた。
「極秘資料」を分析する中で吉田首相が名指した人物につきうかびあがってきた男の名は、「李中煥(りちゅうかん)」。
警察が特に注目したのは、下山総裁について語っていた李の供述だった。
李によるとソビエトから下山に接触するように指令がきた。事件の3か月前の4月中旬ごろだった。
そして事件の5日前の6月30日、共産党関係の情報を提供するとして、ソ連の駐日幹部が下山と接触、その日の夜モスクワから下山暗殺の指示が出されたという。
7月5日日本橋三越北口で落ち合うと、都内をまわってソ連大使館へとむかった。
四人の男が大使館の裏のプール近くの3号館に抱え込み、列車に切断された方の腕の第二関節内側に何かの注射をして完全に殺害し、同じ場所の血管を切断して血をぬいた。さらに李は轢断現場付近で目撃された人物について言及した。
秘密党員のひとりが下山から脱がせた衣類を身につけて上野まで乗用車で行き、そこから電車を利用して礫断現場付近に行き、約3時間ぐらいその辺をうろついた。
李の話す具体的な内容は、犯人しか知りえない「秘密の暴露」にみえた。しかし、李を捜査する新聞記事が出るや、李の供述の信憑性が揺らぐことになる。
渡辺修二を名乗る探偵社に勤める人物、かつて李とともに諜報活動に関わったことがあったという。
「最近 朝日新聞に李が重大証人という記事がでていましたので、またやっているなと思い、だまされる事がないように注意しようと思って本日やってきたのであります。李は大使館や諜報機関に虚偽の情報を提供して金をもらっておりましたが、連大使館に勤務しておったことは全然ありません。下山事件が起きますと新聞や雑誌などからいろいろの情報を収集し、それを基礎にでたらめな事実を作りあげたのです」。
こう語る渡辺の証言に当局は混乱し、核心が掴めいまま李の捜査は終わった。
アメリカの意向で打ち切られた李の捜査、検察は李のソビエトとの繋がりだけでなく、アメリカとの繋がりを捜査しようとしていたことが明らかになった。
極秘資料では、李が情報を渡そうとしていたアメリカの人物の名が記されていた。「ビクターマツイ」。
ソビエトのスパイを名乗っていた李がなぜアメリカの諜報機関とつながっていたのか。
GHQ傘下で活動していたマツイがインタビューに答える映像が見つかった。
「私は繰り返されていた国鉄のストライキや妨害活動などをさぐるよう命じられていた。私たち機関は24名がどの二重スパイを協力者として使っていました。すべてソビエトに対して有利な状況を作り出すことが目的であった」。
松井が語っていたのは、日本での秘密工作の実態。国鉄内部の共産主義者の情報をえるため、「二重スパイ」をつかっていたというのだ。
下山事件が起きた1949年、米ソの覇権争いが激化し、アメリカは日本を反共の砦にしようとしていた。
マツイが所属していたのはジャック・キャノン少佐率いる「Z機関」であった。
「Z機関」はGHQ下のG2(参謀第第二部)の下、旧陸軍出身者や警察官組織と深くつながり、様々な反共工作を行っていた。
キャノン機関が活動していた1949年には不可解な鉄道事故が3つおこった。下山事件の10日後の三鷹事件、その一か月後の松川事件。
キャノン機関が絡んでいると疑惑があったが、NHKのインタビューで関わりを否定していた。
しかし極秘資料の中に、キャノンと松井が、李の能力を見込んで利用していたという記録がみつかった。
李はソビエトクーリエ(諜報員)の組織のリーダーを名乗り、日本占領アメリカ軍のCIC(Counterintelligence Corps/対敵情報部隊)を支援をしたいと申し出てきた。
そして、下山事件が起きる2週間前、キャノンとマツイはCICの事務所で李と接触していた。
元キャノンの側近が「キャノン機関では共産党員がどんな活動をしているのか可能な限りの計画や情報を収集していた。
また、「二重スパイ」とよばれる作戦も展開していた。知り合った人物を日本の警察関係者の間に潜り込ませ、ソビエトのためにスパイ活動をするように見せながら、実際にはアメリカのためにスパイ活動をしていた」と証言した。
李は下山事件はソビエトの仕業であると語ったが、布施検事の取り調べの内容はアメリカ側にツツ抜けだったこともわかった。
アメリカ公文書館の機密文書に「布施は李の詳細な供述の中には捜査価値のあるものも含まれているとみているようだ。それがまったくのでっちあげと明らかになるまで李のストーリーを追い続けるだろう」と、アメリカの手の平に転がされる日本の司法当局の実情が表現されている。
1953年4月13日 李はアメリカによってプサンへ強制送還される。その後の足取りはわからない。
アメリカの反共政策をおっていた読売新聞の記者である鑓水徹は、下山事件をおいかけ独自の情報をつかんでいた。
仲間の記者に「李はアメリカとソ連のダブルスパイで、アメリカが李に下山謀殺の半分くらいの本当を添えて自首っせたのだ。李はアメリカが仕込んだ下山事件をソ連になすりつけるためのピエロさ」。
つまり鑓水は李を共産主義者による他殺と信じこませるために利用されただけで、下山事件の犯人ではないとみていた。
鑓水は、戦前からの人脈で政財界から裏社会に通じていたフィクサー児榮譽士夫とつながりをもち情報えており、「極秘資料」でも、児玉が「必ず下山はやられますよ」と、国鉄の人員整理に絡んで下山の殺害計画があったと語っていたのだ。
CICに所属していたのは多くが日系2世、かれらは事件後アメリカへ帰国し、事件の実態を語らぬままであった。
東京神奈川CICの中心人物とみられていたアーサー・フジナミ、下山の身辺をしらべ、行方不明になった当日も、日本橋三越によびだした人物とみられる。
フジナミこそが事件の真相を知っているとNHKがアメリカを取材した。しかしフジナミは2020年、101歳で亡くなっていた。
しかし娘が、父が日本で何をしていたかを聞き取り、詳細なメモを残していた。
CICは共産主義が日本に蔓延することを懸念し、国鉄の総裁が共産主義に加担しないか疑い尋問しました。CICは下山が共産主義者の側につくことを疑っていたというのだ。
その後、「総裁は暗殺された」と記述している。実行犯が誰なのかは言い残してはいなかった。
鑓水記者の息子は、朝鮮戦争が起きる、起こすというのが前提でアメリカは準備をしていた。
国鉄をアメリカが自由に使う必要があったが、下山総裁はそれに対して自分に任せてくれと異をとなえ、そのために下山は殺されたと語っていたという。
下山事件の3か月前の中央情報局CIAの報告書では、1952年末までにアメリカとソ連が開戦した場合、日本が戦略的に重要になると分析していた。
そして10万人の人員整理は大きな抵抗なくおわり、1年後にはじまる朝鮮戦争では国鉄は軍事物資や兵士の輸送に協力し、朝鮮戦争開始から2週間で1万2千両(客車7324、貨車5208)を突破し、国鉄史上最高であった。
1917年、世界初の社会主義革命であるロシア革命では、レーニン率いる「ボルシェビキ」とマルトフ率いる「メンシェビキ」の対立があったことはよく知られている。
また、知識人主導で農民の土地問題解決の優先するナロードニキの流れをくむ「社会革命党(エスエル)の勢力もあった。
1905年の第一次革命で、ボルシェビキは破れ海外に亡命を余儀なくされため、1917年の第二次革命(3月革命)ではエスエルの代表でブルジョワ寄りのケレンスキーが臨時政府の首相に選ばれた。
「臨時政府」はボリシェヴィキ弾圧に踏み切り、レーニンやトロツキーらも再び国外に亡命した。
しかし、戦争を継続する臨時政府への労働者・兵士の不満は強まる中、帝政派の将軍の反乱が起こるとケレンスキー内閣はそれを抑える力が無く、ボリシェヴィキの力を借りざるを得なかったため、ボリシェヴィキは勢いを盛り返した。
この様子をみていたレーニンやトロツキーらは帰国し、ペトログラードでボリシェヴィキを武装蜂起させ「臨時政府」を倒した。これが「11月革命」である。
その後、レーニンは「全ロシア=ソヴィエト会議」の名で「議会」を閉鎖するという強硬手段に訴え、新国家建設は「ボリシェヴィキ独裁」のもとで行うという方針(4月テーゼ)を打ち出し、ボリシェヴィキは党名を「共産党」に変更した。
時代を遡のぼること1898年、トロツキー18歳のとき革命煽動の小冊子を書いて配布したところ、200人の仲間とともに逮捕され、シベリア流刑4年の判決を受けている。
トロツキーは獄中結婚し、二人の娘をもうけて、革命学習に集中し、刑期半ばでシベリアから脱走し、ロンドンに身を隠しながら、機関誌「イスクラ」を刊行するなどした。
1905年いわゆる「血の日曜日事件」がおこりロシア全土にゼネストが拡大し、この動乱(第一次革命)のなかでトロツキーはペトログラード・ソヴィエトのリーダーの一人になり、レーニン中心の「ボリシェヴィキ」に活動位置を移した。
しかし、そのとたんに逮捕され、ふたたび「シベリア流刑(終身流刑)」をいいわたされる。
これで終わりかと思われたが、護送中に脱走すると、ウィーンに亡命、このウィーンで書いた草稿が「プラウダ」に発表された「永続革命論」である。
「永続革命論」によれば、プロレタリアート(労働者)が、一挙に権力奪取に到らないかぎり、革命は成就しないと見ていた。
一方レーニンは、帝政を倒すにはまずは労農主体の「民主主義革命」をおこす必要があるとしたが、革命の機運が盛り上がるにつれ、レーニンも「プロレタリア独裁」による権力掌握に舵を切ったのである。
1914に第一次世界大戦が始まり、ロシアも連合国としてドイツとオーストリアと戦端を開くことになった。
トロツキーはスイス社会党に依拠して「反戦」を訴えたものの、ボリシェヴィキに入党するとペトログラード・ソヴィエトの議長となり、そして「11月革命」では軍事革命委員会の委員長として国内の内乱や反乱の鎮圧に乗り出すための「赤軍」を組織する。
その矢先レーニンが脳卒中で亡くなり、革命の最大の推進力となったのはトロツキーであったが、中央委員会ではスターリンらの三人組が擡頭した。
トロツキーは軍事担当を解かれ、いっさいの役割から放逐され、1929年にはソ連国外追放となったのである。
トロツキーは亡命先をフランスからノルウェーに移して「ソ連とは何か、そしてどこへ行くのか」を執筆、それがフランス語版で「裏切られた革命」になったのをトロツキーも承認した。
トロツキーは「スターリンのソ連には社会主義はまったく存在しない」ということだったからである。
そしてスターリンにより、「トロツキー暗殺」の刺客がはなたれる。
ソ連内務人民委員部エージェントであるラモン・メルカデルという、ハンサムで申し分のないマナーを身につけたバルセロナ生まれのスペイン人であった。
彼は、ソビエト当局から次のような命令をうける。
ベルギーの大富豪になりすましてパリに行き、シルビア・アゲロフという27歳のロシア系アメリカ女性に近づいて、彼女を丸めこめというのである。
というのも彼女はトロツキーの信奉者で、おまけに彼女の姉妹が「秘書」をしていたのである。
豪華な自家用車に乗ったベルギーの大富豪の贈り物攻めにあったシルビアは、たちまち彼のとりことなり、やがて二人は一緒に暮らし始める。
1939年10月、メルカデルは表向きはベルギー新聞の取材ということで単身メキシコに渡り、ニューヨークにいたシルビアを呼びよせる。
その目的はもちろんトロツキーの秘書をしている姉妹にあうためである。
1939年11月、シルビアは姉妹に自分の婚約者「ベルギーの大富豪の息子ジャック・モルナール」を大得意で紹介する。
翌年3月、の偽名でトロツキーの別荘に出入りし、新たにトロツキーの秘書になったシルヴィアと共に自分をトロツキーの支持者だと信用させた。
その間、上司のエイチンゴンの要請によりメルカデルの母と弟はパリからモスクワに送られており、彼らは事実上の「人質」となっていた。
そのような状況の元で、メルカデルはついにエイチンゴンから暗殺の命を受けていたのだ。
1940年8月20日、メルカデルは自分の論文を見せるとして暗殺のためにトロツキーの別荘に入った。
書斎でメルカデルは7cmのピッケルを「論文」を読み始めたトロツキーの頭に振り下ろしたが、トロツキーは意識を失わずに叫び声を上げ、抵抗した。
すぐに警備員がやって来て逃げようとしたメルカデルを袋叩きにした。
トロツキーは直ちに病院に搬送されたものの、結局これが致命傷となり翌日午後に病院で死亡した。
メルカデルがトロツキーを殺したと知ったシルヴィアは卒倒した。
8月22日の「プラウダ」紙は、「暗殺者はジャン・モーガン・ワンデンドラインと自称し、トロツキーの信奉者かつ側近である」と発表した。
メルカデルは、メキシコで懲役20年の最高刑に処せられるも沈黙を続け、得体のしれないパトロンたちの援助をうけながら、かなり快適な刑務所生活をおくることとなる。
服役期間中も仮釈放を条件に真実を明らかにするよう説得が試みられたが、メルカデルはこれを拒否して刑期満了まで服役した。
彼は殺し屋は必ず口封じのために殺されるという共産主義の現実を知っていたからかもしれない。
事件から約10年後、メキシコでの獄中、指紋の分析かメルカデルの正体がようやくつきとめられた。
1960年5月6日に釈放されてキューバに移送され、秘密裏にベルギーに送られ、天寿を全うした。
1972年公開の「暗殺者のメロディ」はレフ・トロツキー暗殺を描いた英仏伊の合作映画である。
メキシコに亡命したトロツキーにリチャード・バートン、ソビエト連邦のスパイのラモン・メルカデルにアラン・ドロン、シルヴィアをロミー・シュナイダーが演じた。
この配役陣、「史実」に劣らぬサプライズである。