山梨県で、富士山を背景にコンビニが見える「映えスポット」に人が殺到している。なるほど、コンビニは、いまや日本のシンボルなっているのか。
確かに、日本におけるコンビニの密集度が高く、多機能になってもはや「インフラ」といってよい。
コンビニあふれる日本社会は、村田沙耶香 の芥川賞作品が「コンビニ人間」(2016年)にみるように、「コンビニの社会化」がおきている感さえある。
さて、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が「それをお金で買いますか」(2014年)で問題提起したように、なんでもお金で手にはいるコンビニな社会にあって、ラブレターや謝罪文なども、代書屋にお金を出しても書いてもらったとしたら、その価値はどれほどのものであろうか。
ところが今や代書屋にお金を払わずとも、AIで「心がこもった風」の文章が書ける。
さらには、バーチャル化で「現場にいる臨場感」でものごとを経験できるようになった。
社長が入院しても、社長の日ごろの言動を学習したアバターが代って会議の主宰ができるし、天候不良で練習ができない高校球児はVRゴーグルを身に着けてバーチャル画面をみながらバットを振ることができる。
さて、「コンビニ化」は均質化・マニュアル化といいかえてよいが、AIは、客の感情さえ読み取り柔軟な対応やフレキシブルなサービスを提供できる。
最近、新聞で「コンビニは安心できる絶対に”ほんもの”だけは置いてないから」という俳句に目が留まった。この歌を返すと、「AIには安心できない。本物と偽物の判別がますます困難になったから」。
もしぺスタロッチが現代に生きていたら、今日のAI化やバーチャル化をどのように受け止めるだろうか。
「近代教育の父」と言われるペスタロッチ(1746~1827年)は、「直観教授(実物教授)」を提唱したスイスの教育実践家である。
直観教授は、実際のものに触れたり、見ることによって五感を使って学ぶ指導法である。
言語、文字を使った座学だけではなく、模型、絵、標本、知育教材などを使った直接経験で学習していく。
彼の教育思想の原点は、幼少期に目の当たりにした貧富の差から生じた教育格差であった。
たペスタロッチは、外科医の父親を5歳で亡くし、残された母親、兄、妹、ペスタロッチは年金生活者となり、貧しい生活を送っていた。
ペスタロッチの父親代わりとなったのは、牧師である祖父アンドレアスである。
チューリッヒ近くのヘンク村で活動している祖父を慕って、幼いペスタロッチは村を頻繁に訪れていた。
ヘンク村の子ども達は、学校に行かず働いていた。チューリッヒでは子どもは皆、学校に通っていたのでペスタロッチはそれに驚く。
祖父が訪れる信者の家庭は貧困や病気で、生活苦にあえいでおり、子どもを学ばせる余裕はなく、労働力にせざるを得ない状況であった。
祖父はヘンク村の住民たちに寄り添い、食べ物や薬を無償提供していて、自分の食事をも分け与える無私無欲の施しに、ペスタロッチは感銘を受ける。
祖父の背中を見て育ったペスタロッチは1771年、貧しい農民を救うためアールガウ州ビル村に「ノイホーフ」と呼ばれる農園を作り農場経営を行った
ちなみに、現在の「ノイホーフ」は障害を持つ若者の教育・職業訓練施設となっている。
ペスタロッチは、ナポレオンのフランス軍の攻撃で壊滅的な被害を受けた地域の孤児院で、教育実践を行った。
そして1800年~03年、ブルクドルクで小学校教諭として家庭ペスタロッチは、良家の子息から、孤児まで家庭環境の違う多くの子どもを指導しくなかで気づいたのは、「言葉だけで教えるのではなく、実物を見て、触れて学ぶことでより理解が深まる」ということであった。
ペスタロッチが教職についていた18世紀は、教師が講義し教科書の内容を言葉で覚えさせる「概念教授」が当たり前でした。受け身の学びが主流だった。
知識は文字や言葉を中心とした座学で学ぶだけではなく、「五感を使って感覚的に学ぶことで身につく」と提唱する。
直感教授を行うことで知的教育・身体的教育・道徳教育の根本力が養われると考えたのである。
そしてペスタロッチにより子どもの個性、能力に合わせた初等教育を実践である「直感教授(メトーデ)」が教育界を席巻した。
また1801年に刊行された著書「ゲルトルート児童教育法」で示した新教授法「直感教授=メトーデ」が、教育界で高く評価されるようになった。
ペスタロッチの教育手法「直観教授(メトーデ)」とは具体的にはどういうものだろうか。
ペスタロッチは直観は「数」「形」「語」の3つ(=「直観のABC」)で構成されるとし、これらを基礎に教育を行うことが重要であるとした。
数、形、語の基礎概念を五感を使って
身につけることで、高度な知識もスムーズに覚えられるようになる。
「実物教授」とも呼ばれ、ボヘミアの教育思想家コメニウス、フランスの啓蒙思想家ルソーらが先駆者であった。
我々にとってはあたりまえのように思えるが、今のように教材、教具が豊富ではなかった18世紀においては画期的なものであった。
例えばペスタロッチが子どもたちに「数的推理力」を学ばせる際に、講義や暗記を行わさえず、カード、石、豆などを使って、子どもの興味を引き、手先を動かして感覚を使って数の概念を理解させることから始めた。
五感を使うことで脳の発達が促進される幼児期。特に脳の発達の9割が完成する6歳までは、五感を使った学習が効果的である。
ペスタロッチが道具を使って指導したように、現代の幼稚園、保育園、幼児教室などでも、カード、パズルなどの教材や教具を使った学習が行われている。
上流階級や中流家庭の「教育をされた」子どもだけではなく、
学校に行ったことのない子ども達に直観教授で基礎学力を身につけさせながら、農作業、機織りなどの職業訓練も行った。
単に知識を増やし学力をつけるだけではなく、それを生かして社会に貢献できる「生活力」を育んだ。貧困から脱却するには、働く能力が必要だと考えたからである。
ペスタロッチは授業の中に農作業や、美術鑑賞などを取り入れ、「子どもを能動的に学ばせる」ことに成功したといえる。
見て、触れて学習効果を高める直観教授法は画期的とされ、世界中に広がっていった。
ペスタロッチの子どもの未来を見据えた教育思想は、現代にも通用する普遍的なものであった。
明治初期、教育内容の改革が進められ、日本初の師範学校が創設され、ここで教員育成の指導の先頭に立ったのはアメリカ人スコットであった。
スコットが導入した教授法は、アメリカで支持を集めていたペスタロッチ主義「実物教授=直観教授」を取り入れたものであった。
1881年に定められた「小学校教則綱領」では、博物・物理・化学等も最初は児童の生活に結びついた「実物」によって教授しなければならないとし、女子には裁縫および家事経済を必須科目として、家事経済は衣服・洗濯・住居・什器・食物・割烹・理髪・出納等の一家の経済に関する事を授けるべきであるとした。
その一方で、日本が独自に培ってきた教育方法の一つに「生活綴方(つづりかた)」がある。
生活綴方は、戦前から戦後にかけて、国定のカリキュラムとは別に取り組まれてきた、いわゆる「書くこと」による教育実践である。
「生活綴方」は、ペスタロッチのいう直観のABC(「数」「形」「語」)の中で、「語(言葉)」に傾いているように思えるが、「能動的学習」という意味では、ペスタロッチの教育感と通じるものがある。
「生活綴方」の実践家の国分一太郎によれば、生活綴方は、子どもがそれぞれに持っている見方や考え方、感じ方で捉えた世界を、事実にもとづきながら、あるいは実感をもととしながら、「書くこと」を通して自分のコトバで表現させるものであるという。
こうした生活綴方から発展した教育実践が「生活綴方的教育方法」である。
教師の多くは、目の前の子どもたちが「学校向け」の貌と「生活者」の貌とをもち、その両者の亀裂と断絶のもとにあること。生活者(「小さな百姓・労働者」)の感性や理法が内部に芽生えてきても、学校の制度的特質によりそれらが絶えず抑止(封印)されていくという点に敏感であった。
教室の中では、その小さな生活者たちは、〈育ちざかり〉の身体をかがめ、公認の「よそ行き言葉」を口真似し、腹が立っても「体全体で怒る」ことから遠ざけられ、「ものの言えない」・「学習意欲のない」存在へと押しやられていた。
子どもに「ありのまま」の生活を「ありのままに」綴らせるという文章表現の指導をとおして、書き手自身の、生活と表現(言葉)との間に生起してくる様々な緊張関係に鍬をうちこみ、そこから生活知性を耕して行くという教育思想・方法であった。子どもの学びと成長の根を、そこに見いだし、そこを耕そうとしたのである。
昭和を代表する実践家の一人、東井義雄は、生活綴方的教育方法について次のように論じている。
「文を書くとか書かないとかいうことはひとまずあずけて、とにかく、子どもの、ものの見方・感じ方・考え方・行ない方・生き方そのものをゆり動かし、もりあげ、客観性のあるものに拡げ、ねうちのあるものに高めていこうという考え方、これが『生活綴方的教育方法』なのだと考えている」。
教育における取り組みの在り方については、「ほんとうの認識、ほんとうの知恵が育つためには、身のまわりの物ごとが”自分の問題”にならなければならぬ」としている。
福岡県宗像郡、神興(じんごう)東小学校校庭に「神興教育の碑」がたっている。そこには、「ひとりの子を 見失うとき 教育は その光を失う」と刻まれている。
大正から昭和にかけてこの学校に勤務した青年教師、安部清美(男性です)の愛と情熱の教育格言である。
この教育理念は「神興教育」として,福津市の教育の基盤となっている。
安倍は、後に「東洋のペスタロッチ」とまでいわれるほどの教育者であった。
安部は宗像郡東郷村(現在の宗像市)出身。1920年から12年間、同校の前身の神興尋常高等小学校で訓導(教員)として勤務した。
現在の「神興東小学校」は明治開校の「神興小学校」の流れを組み、校舎内には「安部清美資料室」が整備されている。
東郷村田熊(現在の宗像市田熊)出身の安部は父が日露戦争で戦死し、苦学して師範学校を出た。
19歳で神興尋常高等小学校の訓導(教員)になるが、旧福岡師範学校を卒業した安部は、新任教員として着任。4年生の担任になった。
その年1920年秋、担任していた4年生の金森イソが運動会練習で急死する。
リレーのバトンを握りしめたまま動かなくなったイソを、駆けつけた家族が抱きしめて泣き叫んだ。
子どもの体調に気付けなかった自責の念から自死をも考えた安部は、子どもや親と心を通い合わせる教育を探り始めた。
安部は両親が田畑で忙しく、子守をせざるを得ない児童のため、教室に畳を敷いて幼い弟妹を連れて登校できるようにした。
裏山で児童と一緒に遊び、貧しい子の学用品代に給料をつぎ込んだ。
年明けの3学期から学校に復帰した安部が、まず力を注いだのが家庭訪問。子どもの育ちの背景まで知っていれば、との悔恨があったのだろう。
教室の風景も変わっていった。教壇、教卓を撤去し、子どもたちの机の配列も変えた。教員の「上から目線」を見直す狙いがあった。
教室の掃除も児童と一緒に当たった。すると児童一人一人が触発され、当番制が不要になったという。
教室には畳敷きの一角も設けた。当時の農村は貧しく、親も忙しかった。弟や妹をおぶって登校する児童も珍しくなく、子守りを支援するためだった。
小学校を、単なる子どもたちの学習施設ではなく、村人全体の学びの拠点として捉えた点でも新しかった。
青年団を結成し、若者の先頭に立つ。学校では村人たちを対象にした農業研修会を開き、「地域振興」につなげていった。
特につづり方指導に力点が置かれ、児童は日常の体験や作業学習を作文した。その作文が「高等小学校読本:農村用」(文部省編)に掲載されて、「愛の教育」「土の教育」「全村教育」などと称され、全国から視察が相次ぎ、多い年には年間3千人が押し寄せた。
陣川桂三・福岡大学元教授(教育学)は「地域の暮らしや歴史、自然に学ぶ教科横断型の総合学習を、あの時代に実践した先覚者だ。子どもたちの自主性や個性を尊重し、伸ばしていく自由主義教育を地方に導入し、学校から地域全体に広めていった」と述べている。
福岡東区の和白に私立の立花高校がある。
この私立学校の創立者こそ安倍清美で、校長室には今も「一人の⼦を粗末にする時,教育はその光を失う」という扁額が掲げれている。
その後、高等女学校(現在の香椎高校・筑紫中央高校)校長、参院議員などを歴任した後、1956年、81歳で死去した。
鹿児島本線JR「東福間駅」近くにある二つの記念碑がある。ひとつは、前述のように安倍清美の格言を記した「神興教育の碑」。そしてもう一つが、「神興共立医院」の記念碑である。
個人的に、この二つの「記念碑」の立つ距離、約2キロという近さに「偶然以上のもの」を感じた。
江戸時代には、宗像地区(福津市や宗像市)の農民は、凶作が続くと医者にお金が払えなくなり、医者もそのような農民からお金をもらうのに困っていた。
そこで、農民たちは話し合いをして、医者にかかってもかからなくても、収入に応じた米を医者に渡し、きがねなく治療を受けられるようした。
このことを、宗像では「定礼」(常礼)(じょうれい)といっていた。
そのような中、1899年に無医村であった神興(じんごう)村の手光(てびか)地区と津丸地区の人々は、お金を出し合って両地区の中間である通り堂に「神興(じんこう)共立医院」を建てたのである。
そして、その跡地が現在の「定礼公園」がある。
「定礼」の意味は、医者にかかってもかからなくても、経済力に応じて医者に定まった額の謝礼(常礼)をするという意味である。
そこには、常々、お世話になっている医者に礼を欠かしてはならないという意味も含む。
各戸が米を出し合い、年2回、地域のかかりつけ医への謝礼に充てる。その代わり、病気やけがの際は無料で診てもらえるという仕組みだ。
単に医療保障だけでなく、各戸が出す米の多寡は資力に応じていた。
定礼は村人どうしの「相互扶助」というだけではなく、医師の「生活保障」という面もあったと考えられる。
調査官は、農村医療が理想的に運営されている実態を見てこれを手本として、1938年の世界にも前例のない「国民健康保険制度」が誕生したのである。
ところで、「生活綴り方教育」には文学者も関心をよせ、そのひとりが中野重治である。期待が大きいだけに厳しい批判も寄せている。
中野は「生活の理法」という用語を、子どもの綴方作品を批評・理解する際のキーワードとして用いた。
中野によれば、「生活の理法」は、自然の摂理、社会の矛盾を含むが、主として生活事象(対象)に「働きかける」際の合理、行動や作業の手順、不当なものへの抗議や反発の根拠、さらには理(ことわり)を追いかける「ねばり強さ」等を指すとしている。
その「生活の理法」とは、まさに神輿の人々が江戸時代の先人たちが「定礼」とよばれる相互扶助で実践したことに他ならないではないか。