聖書の言葉(壊す・泊まる・寄りかかる)

聖書は、読んだ時の心の状態なのか、それまで見逃していたなんでもない「言葉」が、あたかも浮き上がってくるように心に入ることがある。
その言葉とは、ある場面での人の振る舞いを示す「動詞一語」だったりもする。
そして、そのわずか一語によって急に視野が広がったり、心の支えになったりする。
「神の言葉は霊であり、また命である」(ヨハネの福音書6章)とはそういうことなのかもしれない。
さて新約聖書に、ひとりの女がイエスの頭に香油を注いだという話がある(マルコの福音書14章)。
「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。
その場にいた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに」と言って彼女を厳しくとがめた。
するとイエスは、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と応えた。
ナルドの香油というのは当時1デナリオンは1日の日当分だから、労働者1年分の給料の価値があった。
それ故に、周りの人々の反応は至極もっともなのだが、イエスの応えは異次元なものだった。
イエスは、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と語っている。
人々はこの理解しがたい言葉をスルーしたに違いないが、イエスははやくも「十字架」という自分の進むことになる道を告知しているのである。
一般にメシヤという言葉はヘブライ語で、「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉で、メシアのギリシア読みが「キリスト」である。
つまりマリヤは香油をそそぐことをもって、イエスの十字架への準備をなしたばかりか、はからずもイエスが「キリスト」たることを示したことになる。
イエスはさらに「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と述べている。
その言葉どおりに、我々は聖書を通じてマリヤの行為を知ることになった。
さて、このエピソードで個人的に浮きがった「言葉」というのが、マリヤが香油のはいった石膏の壺を「壊した」という言葉なのだ。
まるでマリヤが自分の殻を打ち破って人格のすべてを注ぎだしたようにも感じる。
ダビデの「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51篇)という歌が思い出されるからだ。
しかし、この「香油の壺を壊した」ことは聖書全体からみてもっと大きな広がりをもっている。
この「同じ場面」を別の福音書では、「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネの福音書12章)という言葉が加わっている。
旧約聖書には、イスラエルの祭司が神殿にいけにえを捧げる時に香をたくのであるが、その際に「聖所」(および至聖所)は香の香りで一杯になったと書いてある(へブル人への手紙9章)。
神殿の庭には祭壇があり、ヤギやはと、傷のない子羊が丸焼きにされ、罪の贖いのために神への犠牲が捧げられた。
聖所では、香をたく祭壇が正面にあり、その聖所の奥に「至聖所」と呼ばれる部屋がある。
分厚い垂れ幕によって、聖所と至聖所に分けられていて、至聖所には、「契約の箱」があった。
大祭司が動物の血を契約の箱にふりかけることでイスラエルの民の1年間分の罪が赦される、というのが「古い契約」である。
しかし「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人第二の手紙5章)、イエス・キリストにより新たな契約が結ばれる。
なぜなら、イエス自身が「贖罪の羊」となったからだ。
またイエスの十字架に架けられるという最後のシーンで、イエスが息を引き取られたその時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起きた(マタイの福音書27章)とある。
その結果、パウロは「わたしたちは、イエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道を通って、はいっていくことができる」(ヘブル10章)としている。
聖書における「幕」は、単に幕屋の中の聖所を区別するものばかりではなく、神と人間との間にある「隔て」を表すたとえとして語られる場合が多い。
さらに、十戒の石版をもって下山したモーセの顔の輝きに、「顔覆い」がかけられたことから、人と神との「隔て」の意味でも語られる。
イスラエル人の「思いは鈍く」なり、今日に至るまで、同じおおいが取り去られないままで残っているとしている(コリント人への手紙第3章)。
つまり、神と人類との間には「覆い」がかかっていることだが、その覆いが取られ「顔と顔をつきあわせるように知る日が来る」という。
つまりイエスの十字架によって、天における神と人との「隔ての幕」がなくなり、すべての人々に「聖所」への道が開かれたということである。
また、祭司がたいた「香のかおり」は聖所の内側から外にも流れ出ることになる。マリヤが「香油の壺」を「壊した」ということは、祭司が日々贖罪の儀式を行う必要さえなくなったということだ。
またイエスが「壊す」という言葉で、人々を驚かせたことがある。
「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」(ヨハネの福音書2章)。
ここで、「イエスは自分のからだである神殿のことを言われた」とある。
したがってマリヤが香油の壺を「壊した」という行為は「幕屋が裂かれれた神殿」を指し示すばかりか、イエスの「復活」のことを暗示するものであった。

イエスはその伝道の過程において、二人の金持ちと遭遇するが、イエスは二人に対して対照的な対応をしている。
一人の青年がイエスの元やってきて「自分はどうすれば永遠の命を得られるか」と聞いた。
イエスはすべての掟を守り「あなたと同じように隣人を愛しなさい」と答えると、青年はそれはすべてやっているという。
この青年は金持ちの息子で、行いのうえでは非の打ちどころもない人間だったようだ。
それでも、自分が救われるかどうか確信がない。だからこそイエスの処にきたことが推測される。
イエスは青年に「もし完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」というと、青年はこの言葉を聞き悲しみながら立ち去った。
たくさんの財産を持っていたからである。
その時、イエスは「金持ち天国にはいるのは駱駝が針の穴を通るより難しい」と語っている。
この話の中で、イエスは青年の心をあらかじめ知ったうえで、青年の痛いとこころついた感じだ。
またイエスがザアカイという金持ちとの出会う場面(ルカの福音書18章)では、直接名前で呼びかけている。
ザアカイは取税人のかしら、つまりローマの手先となってユダヤ人から税金をしぼりとり、金持ちだが「罪人」と見られていた。
このザアカイはひと目イエスを見ようと、背が低いこともあって木の上に昇ってイエスが通りかかるの待っていた。
するとイエスが、多くの群衆の中で名指しで、「ザアカイよ 急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけた。
ザアカイはイエスが自分の名前を知っているだけでも驚きなのに、こちらの都合も聞かずに家に泊まることにしているというのだ。
イエスの「ザアカイよ降りてきなさい」という言葉は、神の前にへりくだることを示唆しているようにも聞こえる。
それはザアカイの「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という言葉に表れている。
こういう「二人の金持ち」対するイエスの態度を見ると、救われる者が「予め定め」られているようにも思えるし、「人はうわべを見るが主はこころを見る」(サムエル記上15章)という言葉が思い浮かぶ。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった」(ローマ人への手紙8章)。
ザアカイはイエスが泊まることを受け入れるが、このなにげない「泊まる」という言葉が、浮き上がって感じられる。
それは、イエスの十字架と復活後に下って信徒に「宿った聖霊」を預言しているように思えたからだ。
さて、イエスが、十二使徒を除いて親しく名前を呼んだ者がザアカイ以外にもう一人いる。それは上述のマリヤの親族のラザロである。
ラザロは病で死んでしまったのだが、イエスは死臭さえはなっているその死体をみて、「ラザロは眠っているのだ」といい、人々が見守る中でラザロを復活させる奇跡を行った。その場面は次のとおりである。
「大声で”ラザロよ、出てきなさい”と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、”彼をほどいてやって、帰らせなさい”」(ヨハネ福音書11章)。
イエスの名ざしで呼びかけ「ザアカイよ、急いで降りてきなさい」「ラザロよ出てきなさい」は、とても厳かなコーリングの瞬間であったであろう。
なぜなら、両者は聖霊降臨と復活という「福音」をそのまま表しているからだ。
またイエスは聖霊として宿った者たちを今度は「天国の住まい」へ導くと語っている。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネの福音書14章)。

旧約聖書「出エジプト記」によれば、モーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこでその時々、神によって立てられた小リーダーが「士師」と呼ばれる人々で、そのひとりにサムソンももいた。
このサムソンが生きた士師の時代は、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配され、その偶像にもおかされて、神への純粋な信仰が失われ、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う」(士師記21章)、いわば牧者を失った時代であった。
サムソンは御使いからのみ告げによって予告されたナジル人(神への献身者)として生まれて、彼の使命は「イスラエルをペリシテから救い始める」(士師記13章)ということであった。
イスラエルの人々は、ペリシテから武器を奪われ、鉄を精製して武器を造ることも禁じられてた。そこでサムソンはある時、武器として手にしたロバの顎の骨で、ペリシテ人とひとりで戦い、千人を倒したという。
そんなサムソンの怪力ぶりに苦しめられたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わし「弱点」を探らせる。
サムソンはデリラの誘惑に負け、その力の秘密をついに明かしてしまう。
その怪力の秘密は髪にあり、それを剃り落されたなら、怪力は失われ、並みの人とおなじになると打ち明けた。
その結果、デリラの膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の捕虜となり、目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる惨めな状態に落ちてしまう。
サムソンの人生そのものが、不思議にイスラエルの歴史と重なってみえる。
特に「目がくりぬかれる」とは、「契約の箱」を奪われたり、ローマによってエルサレムの神殿が破壊され、「契約の箱」が行方不明になったりしていることである。
またかつてエルサレムでソロモンの神殿があったあとりは岩のドームが築かれイスラムの支配下にあることである。
この「契約の箱」が失われることの重大さは、旧約聖書「サムエル記上」に記載されている。
イスラエルの民は、他国と同じように王を求め、士帥の時代から王制に転じる。
最初の王としてサウルが立てられたが、民の声を優先し祭司サムエルの言葉を軽視するなどして、祭司の怒りをかう。
そして「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という「神の臨在」喪失の時代を迎えたのである。
その一方で、「契約の箱」を奪い取ったペリシテ人にも「災い」をもたらし、イスラエルはそれを「取り戻す」に及んで「その力を回復」したことがわかる。
さて難敵のサムソンを捕縛したペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを祭る祭りを開催し、会場となる大会堂に国中のペリシテ指導者を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
そこで、サムソンは、盲人となった彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、主に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかった。 するとその会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、サムソン自らも命を失うが、その時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよものより多かったという。
ペリシテ人は、油断したのかサムソンの髪が伸びることに気が付かなかったのだ。
サムソンの髪が伸びることは、イスラエルが神の前にへりくだってその関係が修復されたことを思わせる。
ただし「契の約の箱」は、いまだ行方不明なのである。
その箱は「失われたアーク」ともいわれ、それを探せば「ソロモンの秘宝」が一緒にあるのではないか と探し求めている人々が少なからず存在する。
サムソンの人生の核心は、たとえ失敗だらけの恥多き人生であろうと、ぺリシテを倒すという使命を忘れることなく、満身創痍でも最期の時にその使命を全うした点である。
さてこのサムソンの壮絶な最後のエピソードの中で、個人的に浮き上がった言葉は、「寄りかかる」という動詞である。
鎖に繋がれ手も足も動かせず、目も見えなくなっていたサムソンにできることといえば、力を込めて柱に「寄りかかる」ことしかできなかった。
しかし、そんな人間の状態こそが、むしろ神の御心にかなうことだったかもしれない。それは「信仰」がためされる場面であった。
「詩篇」には、信仰の言葉があふれている。
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。 しかしわれらは、われらの神、 主のみ名を誇る」(詩篇20篇)。
さて、「ペリシテ」とは今日の「パレスチナ」を意味し、サムソンは、現在激しい戦争が繰り広げられている「ガザ出身」である。
現在のイスラエル政権の状況をみると、「契約の箱」を失って幻も預言も示されない「イ・カボデ」の時代を彷彿とさせる。