聖書(とどめ得ない・あざ笑う・一瞬で)

聖書の言葉は古びることなく、最近の世界情勢に対しても「浮かびあがる」言葉がある。
旧約聖書に、「バベルの塔」建設に向かう人々の言葉がある(創世記11章)。
「彼らは互に言った、”さあ、れんがを造って、よく焼こう”。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、”さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう"。
時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、”民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、”もはや何事もとどめ得ない”であろう。
さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう”。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた」(創世記11章)。
塔の建設につき神が「彼らはすでにこのことをはじめた」とあるが、聖書には、神は人間にとても高い能力を与えたことが、記されている。
「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩編8編)とあるように、神は人間を神に似せて「創造者」としてつくられた。
ところが「バベルの塔」物語では、その被造物たる人間があたかも創造者である「神」に対抗するかのような「企て」をしているのである。
ちょうど今、ロボットが人間の力を一部超えつつあるように。それも人間が「ひと塊」になって「天の頂に届かん」、つまり神と等しくならんとしている。
この様子に、中東のドバイあたりに林立する超高層ビルが脳裏に浮かぶが、神は洪水後ノアに「生めよ 増えよ 地に満てよ」(創世記9章)とあるのに、「全地のおもてに散るのを免れよう」と人間が一か所に高く伸びようとしている。
またAI技術の中でも世界中の投資家が競うように「ChatGPT」に投資していることや、人間のように自律的判断をしたり、ロボットもができるようになりつつあるのは、「もはや何事もとどめ得ない」状況にある。
また、AIを搭載した「無人機」がまるで自分の意志をもって人間さえ攻撃の対象としている。
「ヨハネ黙示録」に登場するイナゴの群れは、ドローンの群れとイメージが重なる。
これらの技術がどのような結末をもたらすかについて人間はそれほど頭を巡らせていないようだ。
使う側は、便利がよいから、作る側は利益が大きいから「とどめようもない」ということになる。
しかも、バベルの呪いで言葉が通じなくなった人間も、高機能の音声翻訳機でそれを克服しつつある。
使徒ヤコブの手紙に次のような言葉がある。
「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、(神に)求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブの手紙4章)。
今日、SNSの悪用は、この「悪い求め方」の典型であろう。
そして、生成AIによる画像・音声・文章・映像の「生成」は本物と見紛うばかり、そして「事実」よりも「フェイク」の方を受入れようとす心理さえ生まれている。さらには、「匿名・流動型犯罪」が多発する時代になった。

2024年イスラエルとパレスチナの戦闘が拡大しつつある。このユダヤ人とユアラブ人の戦いははるか紀元前3000年にまでさかのぼることができる。
エルサレムはユダヤ教では聖なる都、ユダヤ教を母体とするキリスト教ではイエスの十字架の死と復活の聖地、イスラム教ではムハンマド(モハメッド)が幻となってユダヤの神殿の上に現れ昇天したという聖地、となっている。
パレスチナは、ユダヤとアラブそれぞれが神に与えられた土地と主張する。
長年離散しユダヤ人が留守にした土地に第二次世界大戦後イスラエル国家ができユダヤ人がアラブ人を押しのける形で住み着き、パレスチナ難民が生まれた。
結局パレスチナは国連介在でユダヤ人居住区とガザ地区などパレスチナ人(アラブ人)居住区と分けたが、イスラエル側は壁をつくり、ユダヤ人がかつて経験した「ゲットー」のような空間を作り出している。
ユダヤ人とアラブ人の戦いは、サラとハガルという女の戦いに淵源する。
アブラハムには子がなく、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませた。それがイシマエルであるが、サラはいい気になったハガルに苦しめられる。しかし自分の子が欲しいというサラの切なる訴えは神に聞き届けられ、生まれたのがイサクである。
そして今度はサラによってハガルとイシマエル母子はカナンの地から追い出されメッカに流れ住む。
イサク・ヤコブと続く系統がユダヤ人で、イシマエルの子孫がアラブ人となる。
要するに今日のアラブとイスラエルの戦いはル-ツをさぐれば、腹違いの兄弟という「骨肉の戦い」というところに行き着く。
しかしサラに嫌われ家を出され荒野をさまようハガルの子・イシマエルを神は見捨てない。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)。
アラブ人について聖書は次のように預言している。 「彼は野ろばのような人となり、手はそべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵してすむでしょう」(創世記16章)
さて、アブラハムとサラの間に長年子供が生まれることもなく高齢となる。
ある時、み使いのひとりがアブラハムに「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。
サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。
そして生まれた「イサク」とは、「笑う」という意味の名前である。
聖書には、サラとは対照的に心の中で「笑った」が故に不妊になった女性もいる。
古代イスラエルの初代サウルと二代目ダビデは、祭司サムエルによって「油そそがれた者」であった。
それは王位に就くための形式ではなく、二人とも祭司が油を注ぐと、「主の霊が激しくのぞみ新しい心が与えられた」(サムエル記上10章/17章)。
"救世主"を意味する”メシア”は、この「油そそがれた者」に由来する。
ただ、サウルとダビデの違いは、「油そそがれたこと」に対する意識の違いといえるかもしれない。
それを軽んじて神から遠ざけられるサウルと、過ちを犯してもなお神の憐みをうけるダビデ。
サウルはダビデにとって、あたかも反面教師のような存在である。
ダビデは、王になって最初の戦でペリシテ人を打ち破り、「契約の箱」を携えてエルサレムに凱旋した。
そのときダビデは喜びのあまり、主の箱の前で力を込めて踊った。
ところが、その様子を窓から見た妻ミカルは先王サウルの娘で気位が高かったのかダビデを蔑んだ。
そして家に帰って来た夫に、皮肉を交えて次のように語った。
「きょう、イスラエルの王は何と威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」と。
それに対してダビデは「わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう」と応えている。
人に気に入られるより神を讃えようとするダビデは、人の声に動かされたサウル(およびその娘)とは対照的である。
聖書は、妻ミカルがダビデを蔑んだ(あざ笑った)ことから、子供に恵まれなかった(サムエル記下6章)とある。
一方、神に「あざ笑われる」ような死に方をする人物もいる。
新約聖書の最初に出てくるヘロデ王は、イエスが生まれた頃ユダヤの王として即位していた人物で、ヘロデ大王とよばれる。
ヘロデ大王は、「メシア」(救世主)誕生のうわさを聞いて心に不安を感じて二歳以下の子供の殺害を命じた人物である。
ただし、身ごもったマリアと夫のヨセフは、神の導きどおり、エジプトに避難していた。
そしてヘロデ大王の2番目の妻による孫が「ヘロデ・アグリッパ」である。
このヘロデ王によって使徒ヤコブは殉教している。
このヘロデ王がローマ総督の管轄地区である地中海沿岸のカイサリアでしばらく滞在していた時期がある。
そのことを知ったフェニキア地方(現在のレバノン)のツロとシドンの指導者たちは一同うち揃って王様を表敬訪問している。
ツロとシドンの地方は当時ローマの統治によるシリヤ州に属する地中海沿いにある町で、この地方はヘロデ王の国から食料を得ていた。
ヘロデ王はそれとは裏腹に、なぜか「ツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」(使徒行伝12章)とある。
このまま王から敵意を抱かれたままだと、彼らの食料の確保についても不安定になってしまいかねない。そこで人々は和解のために長い道のりをやってきたのである。
そして、定められたヘロデ王との面会の日がやってきた。ヘロデ王は王服をまとい、王座に座り、大演説をする。集まった人々は口々に「これは神の声だ。人間の声ではない!」と叫び続けた。
人々が叫んでいるマサにその時、ヘロデの足元に一匹の虫が忍び寄ってくる。
王はばったりと倒れ、息が絶え死んでしまう。
神は天の高みから、地上の権力者を「笑う」こともある。
「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、 "われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう"と。 天に座する者は”笑い”、主は彼らをあざけられるであろう」(詩篇2篇)。

ガリラヤのカナで婚礼があって、親族としてイエスと母も、また弟子たちも、その婚礼に招かれた(ヨハネの福音書2章)。
結婚式が進んでいくと葡萄酒がなくなっていく。
しもべがそのことをイエスに告げると、イエスが水瓶に水を満たしなさいと命じた。
しもべ達がそのようにすると、驚いたことに水瓶の水が濃厚で芳醇な葡萄酒に「一瞬にして」変ってしまったのだ。
この結婚式で、水が葡萄酒に変ったという奇跡を認識できたのは舞台裏にいて水瓶に水を満たしたしもべ達だけで、「水をくみししもべは知れり」(マタイの福音書8章)と告げている。
さて、世の終わりに起きることとして「ひとりは取られ、ひとりは残される」(マタイの福音書24章)とある。
使徒パウロは生きながらにして「天に昇る」体験をしているが、その体験をあえて「第三者」的に表現している。
「私はキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にひきあげられた。それが、からだのままであったか、私は知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」(コリント人第二の手紙12章)。
パウロがここでいう「キリストにあるひとりの人」とは自分のことであることを断っておこう。
パウロは、人々の注目が集まることを極力さけ、皆の心の視線が神の方を向くように仕向けているのである。ちなみに、パウロがいう「第一の天」とはこの世、「第二の天」とは天使が住むところ、「第三の天」とは神の住むころである。
そのパウロが信者宛に書いた手紙の中に、次のような預言がある。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(テサロニケ第一の手紙4章)。
ここでパウロは、「死者の蘇り」と「生者が天に移される」ということを語っている。
いわゆる「キリストの再臨」とは、イエスの昇天の際の出来事の反転で、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう”」という約束を指している。
そして聖徒が空中に引き上げられ、次の段階でイエスが聖徒とともに「地上再臨」するということである。
現代人にとってはにわかには信じがたいことだが、パウロはわざわざ「奥義」と断ったうえで、次のようなことも語っている。
「私達すべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なざなら、この朽ちるものは必ずくちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(コリント人第一の手紙15章)。
「水が葡萄酒に変わること」と「死なないものを着る」ことは共に「一瞬にして」起きたことであるが、前者は「イエスの血で洗われること」つまり洗礼を意味し、後者の約束の保証となるものである。
さてヘロデ王によって殺害された使徒ヤコブは、信徒への手紙で次のように書いている。
「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、"ほふらるる日"のために、おのが心を肥やしている」(ヤコブの手紙5章)。

彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。 12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。 < 12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして 12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。 < 12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。