福岡市舞鶴に建つ福岡城には天守閣がない。
一応、土台となる天守台は残っているものの、天守閣があったかどうかは定かではない。
2024年1月、福岡市の高島市長が福岡城の天守台の上に天守閣をイメージした高さ約14メートルの仮設の工作物を設置し、3月中旬から5月日まで、LEDをつかって夜だけライトアップする。
天守閣のデザインは、「公募」するのだという。
福岡城は、天守郭がないので一般の注目度は低いが、いろいろな知恵が凝らされた名城らしい。
初代藩主・黒田長政の父親は、いわずとしれた豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛である。
例えば「多聞櫓」は籠城戦に備え、上に編んである竹はすべて弓の矢になる竹で、それを結んでいる干しワラビは、いざとなると食料になるものである。
籠城戦で有名なのは、秀吉が兵糧攻めにした鳥取城であるが、実は、城には食糧以外の非常食が用意されている。それが、周囲に植えられている松である。
松には、樹脂を多く含む皮があり、それを剥くと、白い薄皮が付いている。
この薄皮は脂肪やたんぱく質を多く含んでいるため、非常食として重宝された。
時代に農民を苦しめた「近世の三大飢饉」でも、飢えに苦しんだ農民たちによって街道の松並木が丸裸にされた。古人たちは松を食べて生き延びてきたのだ。
松の使い道はそれだけではない。
松の脂分は燃料にもなるうえ、傷ついた兵士の止血薬にも利用することができる。
古人たちも、そんな強靭な生命力を感じていたのか、「松竹梅」や「松に鶴」というように、老長寿のシンボルと称えられてきた。
ドイツのグリム童話に「お菓子の家」というものあるのを思い出した。
ある大きな森の前に貧しい夫婦が暮らしていた。夫婦にはヘンゼルとグレーテルという子どもがいたが、飢饉により、その日の食事もろくになかった。
このままでは全員が飢え死にしてしまうから、子どもを森に捨てようという母親。
父親は「子どもたちがかわいそうでとてもそんなことはできない」と言うものの、最後には承諾してしまう。
両親に連れられ森の中へ入っていく兄妹。その途中でヘンゼルは、パンをちぎって道に落としていく。
両親に置いて行かれた兄妹は、パンのかけらを目印に帰り道を探すが、パンくずは鳥に食べられ目印は消えていまっていた。
帰り道を失った兄妹は、森の中を3日ほど彷徨うと、ケーキで作られた「お菓子の家」を発見する。
親切なこの老婆の正体は、実は魔女で、真の目的は子どもを殺して食べることであった。
魔女はヘンゼルを小屋に閉じ込め、グレーテルには窯に入ってパンの焼け具合を確かめろと命じる。
どうやら魔女は窯に入ったグレーテルを閉じ込めて、焼いて食べるつもりでいた。
ところが、魔女の企みに気づいたグレーテルは、窯への入り方が分からないふりをして、魔女に手本を見せるように促す。
魔女が窯に入ると、グレーテルはかんぬきを掛けて魔女を閉じ込めた。
魔女はそのまま焼け死に、グレーテルはヘンゼルを小屋から助け出し、魔女の家にあった財宝を持って、ふたりは元いた家に帰りついた。
家に帰ると、母親は病気で亡くなっており、子どもを捨てたことを後悔していた父親は、帰ってきたふたりの姿を見て喜び、持ち帰ってきた財宝で苦労をすることなく、楽しく暮らしした。
日本には、作者の体験した食糧難から「アンパンマン」が生まれたが、「ヘンゼルとグレーテル」は、中世ヨーロッパで実際にあった大飢饉(1315-1317年)を背景として生まれた物語なのだという。
最近、3Dプリンンターで一戸建ての家を建てている映像をみたことがある。
素材は化学物質の樹脂を使っていたが、この技術を使えば、「チョコレートの家」や「クリームの家」を作ることは、物理的に可能かと思った。
それは2人で住める住宅で、巨大な3Dプリンターを使いにかかった時間は44時間半だった。
バス・トイレも備えていて、建築基準法に準拠し、耐火性、耐水性、断熱性も担保する。
費用は、車を買うのと同じくらいの費用で建てられる。
かつて自動車産業がロボットを使って効率化を始めたように、3Dプリンター住宅は住宅産業の完全ロボット化の始まりになる。
さて、能登半島地震の発生から約1カ月がたったが、つらい避難所生活を一変させた、あるアイテムが注目されている。
完成までわずか15分で子供でも組み立てられる「インスタントハウス」である。
この「インスタントハウス」を作ったのは、名古屋工業大学の北川啓介教授(49)である。
段ボールの「ダブル」というものを使っており、シングルに比べて構造的にも強くなるし、断熱性もある。
屋根の形にこだわったのは、屋根は家ができてくる「象徴」ともなるからだ。
ただし、あくまで室内用の家で野外では使えない。
インスタントハウスを作り、被災地に届け続けることになった北川だが、そのきっかけは、13年前の東日本大震災で出会った子供たちのある言葉だった。
北川の実家は、名古屋城に近くで営業している、1964年創業の名店「尾張菓子きた川」である。
父の玉一さんは15才からこの道に入り、瑞宝単光章まで受賞した和菓子一筋の職人だ。
全部「手作り」でやっていて、北川は、父と母の背中を見ながら、そしてお客さんに喜ばれるのをみて育った。
北川少年は、父が生み出す美しい和菓子の数々に魅了されながら、 幼い頃から店を手伝い、客の喜ぶ顔に幸せを感じる子供だったという。
もちろん、将来の夢は「和菓子職人」だった。
そんな北川が大学受験をしたのかは、同級生がみんなセンター試験(現・大学入学共通テスト)を受けているのをみて、寂しくなったからだという。
それだけの理由で名古屋工業大学を受験すると、あっさり合格し、建築学科に進んだ。
課題では、和菓子の材料で作った美術館を設計した建築模型を提出したこともあった。
「人間が持つ曲線の美しさが表現しやすい」という理由で、曲線を描く壁から、周囲の樹木まで、すべて、和菓子の材料で作った。
指導教官から素晴らしいと褒められ、そのまま大学に残り、研究者の道へと進んだ。
そして、節目となったのが2011年の東日本大震災であった。
「建築の専門家の視点で、被災地を見て欲しい」という新聞社の依頼で、いくつもの現場を見て回った北川は、とある避難所でふたりの子供にあった。
小学校3年生と4年生の子が、その間ずっとついていてくれた。きっと彼らも、話を聞いてくれる人をずっと求めていたのだろう。
避難所の視察を終え、その場を後にしようとした時、キュッて北川の指を握って、一緒に来てと言って、運動場に連れて行いった。
そして、「なんで仮設住宅ができるまで、3カ月も半年も待たなきゃいけないの」「先生、大学の先生なんでしょ。だったら、来週建ててよ」と言ったという。
北川はその言葉に打ちのめされ、避難所を後にした。
そしてノートに、なぜ3カ月から6カ月もかかってしまうのか、その理由をノートに書き出してみた。
するとちょうど40個の理由が思い浮かんだ。
問題点をその右側に、「重い」の反対は「軽い」、「(値段が)高い」の反対は「安い」といった形で、それぞれの40個の理由の対義語を書き出した。
そして北川は、それを全部クリアできれば、皆に役に立つ住宅を即座に届けられると思い至たのである。
そんなことを考え続け、アイデアは被災地からの帰り道に降りてきた。
外に出た時に、ダウンジャケットをリュックからと出した。それをパッと着た時に、はたとこれ40の問題点なんか関係してるかなと閃いた。
その時に、「空気」というものをのを考えたら、40個クリアできそうに思えたのだ。
そこから北川教授は、身の回りにあるもので手当たり次第に実験を重ねた。
最初に試したのは風船。大量のペンシルバルーンを膨らませ、編み込んで、中に入ってみると、暖かかった。しかし、風船はすぐにしぼんでしまう。
そこで、次に試したのが家の形に縫い合わせた大きなスポンジ。
布団圧縮袋。掃除機でギュッと小さくして、それで開けたらふわってなるかなと思ってやってみたら、ちゃんとなった。
その後も、ありとあらゆるものを試した。
花火使ったり、中に爆竹入れといてボンってやったら、破れて大きな音がして、隣が名古屋大学病院であったために怒られた。
そんな失敗を繰り返すこと約5年。あるとき北川は、理想の構造をパン屋さんに見つけた。
それは、「フランスパン」だった。
大きいフランスパンは、中はふわふわで、外が硬い。これこそがベストな構成だと気がついた。
ならば、そんな構造を作ればいいのではと考え、「試作品」を作った。内部はウレタン塗装を施し、塗装費用をとにかく安くおさえた。
ウレタン樹脂を用いた塗料は、柔軟性があり、塗装した素材との密着度が高い。
また、光沢がほかの塗料よりも強く、塗装面はツヤのある仕上がりになる。
2016年10月、「試作品」の発表の時がやってきた。
建築構造の先生や生徒、お願いしていた吹き付け屋さんも集まってれて始まった。
皆が思ってたのは、また失敗するだろう、北川自身にもそんな思いがあった。
まず、大きなテント状のシートを送風機で膨らまし、その内壁に発泡性の断熱材を吹き付けていく。それは、柱も壁もない、前代未聞の建築物だった。
出来たよと言って触ったら、フランスパン触った時と同じ感触がした。
それを4人でみんながうれしそうに運んでくれた。
その時、北川は建築やっていて、本当に良かったと思ったという。
この時の「試作品」をさらに進化させたのが、いま被災地で使われている屋外型のインスタントハウスである。原価は一つ15万円ほど、しかもわずか1時間で完成する。
そのインスタントハウスは、まるで美味しそうな大福餅のようだ。
勢いに乗った北川は、「屋内用」として原価約1万円の、段ボール製の「インスタントハウス」も同時開発した。
中を空気膜で膨らませておいて、中全体に断熱材を吹き付けている。
夏は涼しく、冬は暖かくしてくれるし、元々軽いものは地震の影響を受けにくく、壊れることはまずない。
災害時には、暖かさやプライバシーが保てるようなものが、3日間以内に必要だと思った。
ダンボール製の屋内用インスタントハウスは15分ほどで組み立てることができ、形を変えたり連結したりすることも可能である。
北川は石川県入りしていて、避難所の輪島中学校に白いテント、屋外用のインスタントハウスを設置した。
すでに輪島中学校の体育館に10設置され、授乳や着替え、おむつ替えなどに使用されている。
前述のように、素材として段ボールの「ダブル」というものを使った。
ダウンジャケットのように空気層が間にあると断熱性とか遮音性に優れ、もちろん視線も遮ってくれる。
石川を襲った地震で、このダンボール製のインスタントハウスが量産体制に入ることになった。
愛知県にあるダンボール加工工場で、次々と型が抜かれていく。ダンボール素材を作った名古屋の会社も、急ピッチで作業を進めた。
石川県の地震でも、発災の翌日にはありったけのインスタントハウスを車に詰め込み、被災地に向った。
避難所でインスタントハウスを組み立て始めると、子供たちが、「一緒に作ろう」って言ってくれた。
壁からまず組み立てて、屋根を横で作って、のせた瞬間に、みんなが歓声をあげた。
ひとりの母親が、家が悲惨な状況になって大変な時に、その娘が「おうちができた」なんて言うから、涙もこらえきれなくて、外に出て泣いていた。
日本の和菓子といえば、紅梅、水仙、椿もち、丹頂、干支、初霜、清流、花びらもち。
季節の素材やその土地の産物は、職人の掌の中で、風雅な銘と共に花鳥風月を映した約40gの和菓子として彩られている。
それらは日本の風土に根ざして徐々に育まれ、伝統を受け継ぎ、技巧を凝らし、素材を吟味してきたものばかり。
和菓子と建築は、一見すると異なる分野の産物であるととらえられがちだが、実は、両者はとても密接な関係がある。
建築は、古くから、風土、気候、構造、防御などの物理的な要求により人間を守り、また宗教・信仰などの精神的な要求により、宗教建築物や支配者の宮殿に人々を集めてきた。
また和菓子を包む日本の紙の使い方も、建物と関係が深い。
日本の折り紙はあまり身近で、誰でも鶴を折れる日本では、折り紙は子供の遊びというイメージが強い。
ところが、折り紙の数学的な応用が、アメリカを中心に起きている。
マサチューセッツ工科大学の当時33歳の教授が科学雑誌に掲載したものによれば、オリガミは100度の熱で収縮する形状記憶ポリマーのシートで作られた。
折りたたまれていたシートが、内蔵の電子回路の熱で縮むと体になり、約4分で昆虫のロボットのように組み上がり、秒速5分で歩き始める。
人の手を借りずに立体的に組み立てられるため、災害で狭い場所に閉じ込められた人の救助や危険な現場での復興作業などえの活用が期待される。
映画「トランスフォーマー」を思わせるハイテク・オリガミである。
さて、北川教授らが開発した「インスタントハウス」は、2021年は、トルコ・シリア地震やモロッコ地震の被災地にも設置された。
屋外用はポリエステル製の防炎シートを円すい形に膨らませ、内側から断熱材として難燃性の発泡ウレタンを吹き付ける。
1棟当たり3~4時間で完成する。面積は約20平方メートルで、15人ほどが座れる広さだ。
北川は、2017年から米国・プリンストン大学に在籍中に国連と打ち合わせた際に、難民向けの仮設住宅では、いざというときにすぐに逃げられる。
つまり、現地に置きっぱなしでも良い素材のみでの建設が理想的であると知った。
それ以降、人や動物や昆虫が食べて消化できる生分解性の素材のみで建設できるインスタントハウスの研究開発に取り組んでいる。
最近、実際に「食べられる家」というコンセプトが生まれている。
家を作るに際し、多様なプラスチクスなど、かなりの化学物質を使い、家を壊すとそこに土壌汚染が生じるからだ。
「身体に悪いものは使わない」をモットーとし、誰もが安心して暮らすことができる家づくりを目指している。
それは、シックハウス症候群のなかった頃の昔の家づくりで、昔の家は土と木、そして草や紙などで構成され、バランスがとれていた。
その考えを軸に、現代の家づくりに合うよう何度も吟味を重ね、自然素材に徹底的にこだわって完成させたのが「無添加住宅」である。
北川教授は、今でも和菓子職人になる夢を諦めていない。それは住宅ばかりではなく、和菓子も一緒に、被災地に笑顔を届けたいという思いがあるからだ。