旧約聖書の「ヨナ記」は、神のよびかけと人の応答により、神が人をどう取り扱うかが興味深く書かれた短い書である。
ユダヤ人の預言者ヨナに、神の言葉が臨んだ。アッシリア(今のシリア)の首都ニネベに行き、「悪から離れなければ、神が滅ぼす」、というメッセージを伝えよというものだった。
しかしヨナは神の言葉に従わずに逃げようとした。
アッシリアは敵の大国、ヨナからすれば、いっそ滅んでしまえ、と願ったのかもしれない。
そして内陸のニネベではなく、海側のヨッパに向うと、タイミングよくタルシシ行きの船が来た。
ヨナは「渡りに船」とばかりに、乗り込んだ。
ところが、神に逆らって乗ったその船は嵐に遭遇。船員たちは、突然の嵐の原因は乗り込んだ人間にあると、クジ引きをする。するとヨナに当たってしまう。
ヨナは神に逆らったことから、自分のせいで罪なき人が命を失うことをよしとせず、船員たちに自分を海に投げ入れるように願った。
ところが、海に投げられたヨナは思いもよらず、大きな魚に飲み込まれる。
そして大魚の中で3日3晩すごす。ヨナは大魚の中にあって神と向かい合う。
そして神は大魚に命じたので、大魚はヨナを陸に吐き出し、命拾いをする。
結局、ヨナは神の命じられたところにしたがってニネベに向かい、人々に神のメッセージを伝える。
ちなみにタルシシの場所はよくわかっていないが、仮にトルコのタルソスならば、使徒パウロの生誕地で、クルオパトラとアントニウスの再会の地として有名である。
旧約聖書のメッセンジャー「ヨナ」のニネベ行きが、「使徒パウロ」のローマ伝道と不思議と重なる。
ヨナとパウロの人間性は全く似ていないし、伝道に対する前向きさにおいても正反対である。
しかし二人が置かれた状況や神の「とりあつかい」という点で重なる点が多く、興味深い。
パウロの伝道は、新約聖書の「使徒行伝」で確認することができる。
「ヨナ書」は次の言葉ではじまる。「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、 ”立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである”」。
ヨナは神の前を離れてタルシシへのがれようと、地中海沿岸のヨッパに下って行った。
一方、パウロは厳格な律法学者としてキリスト教を迫害することが神の道にかなうことと信じ、ダマスコに向かって行った。
このように、神のみ旨を知りながらそれに反したヨナと、神をいまだ知らずに反したパウロは、いずれもある時期、「神に逆らって」歩んでいたのである。
ヨナの道を阻んだのは「嵐」であったが、パウロを阻んだのは「光」であった。
パウロを方向転換させた「光」については次のように記されている。
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時”サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか”と呼びかける声を聞いた。そこで彼は”主よ、あなたは、どなたですか”と尋ねた。すると答があった、”わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう”」(使徒行伝9章)。
ヨナは嵐に見舞われて海に投げこまれ魚の中で「暗黒の3日間」を過ごすが、パウロもまた光に打たれた後、「暗黒の3日間」をすごす。
サウロは光にうたれたあと地に倒れ、起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。
神はアナニアという人に幻をみせパウロの元につかわそうとするが、なにしろパウロ(サウロ)は有名なキリスト教迫害者である。
アナニアがそのことを訝ると、神は「あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」と告げた。
そこでアナニヤは、出かけて行ってパウロがいると示された家にはいり、パウロに手をおいて祈ったところ、たちどころにパウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。
「目からうろこ」のパウロはバプテスマ(洗礼)を受け、食事をとって元気を取りもどした。
そして、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、「このイエスこそ神の子である」と説きはじめたのである(使徒行伝9章)。
ところで、ヨナが大嵐に見舞われた場面は次のとおりである。神が起こした激しい暴風で、船が破れるほどのになり、水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。
しかし、ヨナは船の奥に眠っていたので、船長があなたの神に呼ばわりなさい。あるいは我々を顧みて、助けてくださるだろう語った。
やがて人々は、この災が我々に臨んだのは、誰のせいか知ろうとクジを引いてみるとヨナに当った。
そこで人々はヨナに「あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」と問い詰めた。
ヨナは彼らに「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」と語った。
すると人々は、ヨナに「あなたはなんたる事をしてくれたのか」と語った。ヘブライ人(ユダヤ人)の神ヤハウぇの名は他国にも知れ渡っており、ヨナが神の前を逃れようとていたことを聞いていたから、「なんたることをしたのか」と問うたのである。
しかし海がますます荒れてきて、人々はヨナに「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」と問うたのである。
追い詰められたヨナは彼らに「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」と答えた。
それでも人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。
そこでヨナは「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」と祈った。
そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ(ヨナ書2章)。
一方、パウロも命にかかわるほどの激しい嵐に見舞われている。
パウロはヨナと違い、敵対する大国に積極的に伝道することを願った。パウロが生まれたキリキア州の住民は「ローマ市民権」をもっていて、その権利をフルに活用しようとした。
それはパウロが語る「新しい教え」について取り調べようとしたローマの千卒長とのやりとりで知ることができる。
千卒長が「わたしはこの市民権を、多額の金で買い取ったのだ」というと、パウロは「わたしは生れながらの市民です」と応じた。
するとパウロを取り調べようとしていた人たちは、ただちに彼から身を引いて、パウロがローマの市民であること、そういう人を縛っていたことがわかって恐れた(使徒行伝22章)。
パウロはローマ支配下のイスラエルの秩序を乱す人間と「訴えられたこと」を、ローマ皇帝の前に立って弁明する、つまり「新しい教え」を伝道するチャンスととらえた。
ところが、その護送中に「嵐」にみまわれたのである。
しかし嵐に見舞われても「神の導き」を知っていたパウロは、ひとり大揺れする船中で平然と振舞っていた。聖書は、パウロが船員たちを励ました時の様子を次のように伝えている。
「元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使(みつかい)が、わたしのそばに立って言った、
”パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている”。
だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」(使徒行伝27章)。
実際にパウロがいうとうりマルタ島に打ち上げられるが、ローマの兵卒も船乗りも怯えきっていた。
パウロは島でヘビにかまれ、原住民からいつ死ぬのかと見守られたが、神の導きの確証を握っていたパウロはなんら苦しむ様子も見せず、島民から反対に神だと崇められる。
ヨナが向かったニネベは大国アッシリア の首都で当時の最大の都市といって過言ではない。
のちに北イスラエルはアッシリアに滅ぼされたくらいだから、南北分裂前のイスラエルにあっても圧倒的な脅威であったことが推測される。
それはパウロの置かれた状況と同じである。パウロもまたユダヤ人(イスラエル人)でありながら、大帝国ローマへの伝道を命じられる。
パウロは、イスラエル12部族に属するベニアミン出身、タルソス生まれであったため、ヘブライ語とギリシア語の両方を話すことができた。
BC4Cごろから、タルソスはペルシアの総督の所在地だった。
その後セレウコス朝シリアの一部となるが、ローマが征服した後、キリキア州の首都となり、全ての住民は「ローマの市民権」を与えられた(BC66年)。
そのため、パウロは、ローマの市民権をもっていた。このことは、重要な意味をもつこととなる。
のちに、「新しい教え」つまりキリスト教について、皇帝の前で弁明する機会を得たからである。
ヨナが、神から与えられたメッセージにニネベの人々に伝えると、人々は悔い改め神は災いを下すことを思いとどまった。
ヨナは、そのことが不満だったらしく、神に次のように訴えている。
「わたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
それに対して神は「あなたの怒るのは、よいことであろうか」とヨナの心を探った。
そこで、ヨナは町から出てに一つの小屋を建て、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、神に「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」と訴えた。
しかし神はそんなヨナに対して次のように語る。
「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(ヨナ記4章)。
以上のようにヨナは神より「とうごま」による実物教育をうけるが、パウロにもまた神より与えられた「トゲ」によって教育されている。
パウロは信徒にあてた手紙の中で、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」と断ったうえで、次のように述べている。
「わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」。
ところが主が”わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる”と語った。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と述べている。
パウロはこのように身におびた「トゲ」について語ったいるが、それが具体的に何なのかについては語っていない。
ただパウロは、次のように語るのみである。
「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする」(コリント人第二の手紙12章)。
また、ヨナもパウロも「幻と啓示」をもって教えられている。
ヨナが大魚の中にいた「暗黒の三日三晩」で体験したことを次のように述べている。
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。 わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。水がわたしをめぐって魂にまでおよび、 淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。 しかしわが神、主よ、 あなたはわが命を穴から救いあげられた」(ヨナ記2章)。
一方、パウロは「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう」と断ったうえで、次のように語っている。
「わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は14年前に第三の天にまで引き上げられた~それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」(コリント人第二の手紙12章)。
パウロがここでいう「キリストにあるひとりの人」とは自分のことであることである。つまりパウロはここで、霊的な神秘体験をしているが、その体験をあえて「第三者」的に表現している。
パウロは、人々の注目が自分に集まることを極力さけ、神の方を向くように仕向けているのである。
ちなみに、パウロがいう「第一の天」とはこの世、「第二の天」とは天使が住むところ、「第三の天」とは神の住むころ、「天国」である。
では、パウロがこうした神秘体験をした「14年前」とはいつのことであろうか。
パウロの年譜によれば、パウロが「暗黒の三日間」を過ごし、バルナバ(慰めの子)によって、かつてキリスト者の迫害者として名を馳せていたにもかかわらず、信者たちの群れに加えられた時期である。