ハイブリットな「キリスト教」
ペテロやパウロの伝道によりイエスの教えは地中海世界、ギリシア・ローマに広がり325年ニケーア公会議にてカトリック教会ができた。
そして16世紀にルターらの宗教改革がおこりカトリックの腐敗・堕落を攻撃し、プロテスタントが誕生。
その間、教父哲学やらスコラ哲学などのキリスト教神学が生まれたが、それだけの長大な思想の営みにもかかわらず、カトリックも、プロテスタントも、本源的な問題にきちんと答えられないという現実がある。
それは、神とイエスの関係で信者はイエスを「Lord」すなわち「わが主よ」といいながら、なお天に父なる神がいるという分裂感である。
神(ヤハゥエ)も神の子(イエス)も聖霊も一つという教説があるが、その「一体」の内実は不明でカトリックはそれに加えてマリアを「聖母」としている為、信者の多くはマリア様に願い事をしているという。
キリスト教は唯一神宗教どころか、まるで「多神教」ではないか。
それは、キリスト教以前のヨ-ロッパ社会と無縁ではなく、キリスト教を布教しようとしたところ、各地には「地母神信仰」が残っていた。
そうした土着の神を人々から取り上げることができないとわかると、人々が崇拝していた女神をマリアとすり替えてしまったのだ。
これによって改宗が困難を極めていた異教徒もキリスト教徒になったのだ。
征服者が強制するイエス崇拝はいやだが、女神に似たマリアならキリスト教徒になるということで、ヨーロッパ各地に古くから存在していた地母神崇拝にキリスト教の装いをかぶせたものである。
実は、女神信仰だけではない。パレスチナ生まれのキリスト教は、ヨ-ロッパに広がるにつれ、在来の神々と時に戦い、時に取り込み、本来のキリスト教とは「異質」なものとなっていった。
キリスト教以前の世界に広がっていたケルト人らの在来宗教は、日本と同じように「多神教信仰」だったが、日本のそれとは違っている。
山や海や森や泉を、そのものではなくてそこに神が宿るが故に崇拝するという精神性は、古代ギリシア人やゲルマン人にも認められた。
パウロがアテネを訪れた時、街中で出会った異教の神々に
ついて、「信仰心に富む人々よ」とお世辞を言いつつ次のように述べている。
「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」。
そう語った人々の中には、エピクロス派やストア派らの哲学者もいたが、
パウロは「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」と語った。
パウロはさらに、他の箇所で自然哲学者を「空しいしいだましごとの哲学」と断言し、「このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない」」(使徒行伝17章)と訴えた。
キリスト教は唯一神の造物主がこの世界を創ったという創造の教義が根幹だが、ギリシア哲学とは異教的自然観・世界観ということになる。
つまりパレスチナ生まれのヘブライズムと、ギリシアのヘレニズムとの対立である。
しかし「キリスト教」はギリシア哲学と結びつき、その論理をつかって正統か異端かを判別していく「キリスト教神学」が成立した。
さて、日本人は多神教であるが、海や山を神と呼んだりすることもあるが、本居宣長は、何か尋常ならざる「すぐれた」力をそなえていて、それに対して恐れかしこまざるを得ないような対象を「カミ」とよんだとしている。
日本人には、自然の存在または自然の現象それ自体が神でありうるのだ。
これに対してキリスト教以前の森の宗教は、つまりギリシア人、ゲルマン人、ケルト人などの精神世界に満ち満ちていた妖精や精霊や悪魔の類で、それらの中には固有の名前がついたものもあり、キリスト教はそれらを圧伏することによって広がっていったのである。
欧州の山野に潜む異教の神々は征伐され、抹消されたり追放されたりして、古代異教民族の自然物崇拝の心性は圧伏されてしまう。
この文脈でいうと、中世ヨ-ロッパでおきた「魔女狩り」など、キリスト教本来のものとは異質なものから派生したといってよい。
さて、異教"Pagan"という言葉の語源を溯ると、ラテン語の"paganus"すなわち「田舎に住むもの」という意味の語にたどりつく。"pagan"は文字通りキリスト教が行き渡らない僻地の人々、古い土着の自然崇拝を守る人々のことだった。
カトリック教会はこうした田舎の村"village"に住む人達を恐れたので、かつては単に「村人」を表す語であった"villain"が、「ならずもの」という意味に変化してしまったのである。
さて、社会科の教科書や資料でヨーロッパの「小麦カレンダー」をみる人は多いかもしれない。
興味深いのは、その農業的暦の中にキリスト教のイベントが織り込まれていることである。
例えばイタリアでは、秋の終わりに種を蒔き、昼が短く雨が多い冬になると農作業は一時中断するが、
冬はクリスマスやカーニバルなど祭りの季節でもある。
春、イースター(復活祭)の後に農作業が本格的に再開し、夏になると小麦の収穫。秋にはブドウの収穫やワイン作りなどが続き、その後収穫祭で一休みしてから、翌年の小麦作りの準備に入る。
ヨーロッパでは封建社会に移行し、地中海世界以外の農村各地に教会が出来ていくが、農民の生活とキリスト教が一体化していく過程で、各地でうまれた「守護神信仰」がキリスト教に取り込まれていくのである。
そもそも、キリスト教教理の中核「三位一体論」は「三つにしてひとつ」という意味であるから、それ自体に多神教的要素を含んでいる。
キリスト教は、ギリシア哲学の論理をかりて、神と神の子と聖霊は同じものにして、どうにか一神教の論理を貫徹しようとした。
これを「教父哲学」というが、父と子が同じという論理は実体がとらえにくく、キリスト教の中でも「東方系キリスト教の諸派」はこれを認めなかった。
彼らはイエス・キリストを人間の属性をもたない神であると信じたのである。「神人両性」ではなく、こうした考えを「単性論」という。
5世紀にコンスタンチノ-プルの総主教をつとめたネストリウスは、逆にキリストは人間であると考えた。
ネストリウスは異端として司教の地位を逐われ、451年にエジプトで死んでいる。
ネストリウス派の信者たちは東方にのがれ、一部は唐にまできている。今日、ネストリウスの教えはイラン、イラク、トルコの三カ国に分布するクルド族の間に残っている。
実はこのネストリウス派キリスト教(景教)を日本に持ち込んだのが中国から渡来した秦氏で、京都の開拓者であった彼らは平安京遷都の黒幕といわれている。
「平安京」の名前が「エルサレム(平和の都)」と同じであるのも、彼らの存在を感じさせし、聖徳太子(厩戸王子)の誕生もイエスの誕生箪と重なる。
唐に留学した空海もネストリウス派キリスト教に接触し、それをベ-ルに覆って日本に持ち込んでいる。
実は、学校の教科書と違ってザビエル以前にキリスト教はすでに日本に伝わっていた。
イスラム教を開いたムハンマドは、若い頃ダマスカスで学び、東方キリスト教の影響を強く受けたようである。
ムハンマドは「三位一体論」は間違っていると考え、ネストリウス派のいうように、キリストは最大最後の預言者だったと解釈した。
さて、325年ニケ-ア公会議を主宰したのはロ-マ皇帝コンスタンティヌス帝であり、ロ-マでキリスト教を公認した人として有名である。
コンスタンティヌス帝は、生涯を通じて異教徒で今際(いまわ)の時に洗礼をうけたにすぎない。
当時のロ-マの国教は太陽崇拝であった。コンスタンティヌスはその大神官であった。
折りしも、キリスト教徒と異教徒の間で宗教戦争が勃発しそうな勢いだった。
そこで、元来キリスト教はユダヤ教の安息日である土曜日を聖別していたが、コンスタンティヌス帝が、異教徒の尊ぶ「太陽の日」と一致するように変更したのである。
日曜日はキリスト復活の日、すなわち活動すべき日であり、安息の日ではなく、まして聖なる日でもない。
旧約聖書には、コンスタンティヌス帝を預言した箇所がある。
「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法を変えることを望む」(ダニエル書」第7章25)。
律法を変えるとは、「十戒」の第四戒「安息日を聖とせよ」(出エジプト20章8節)をネジ曲げたということである。
人類は早くも紀元4世紀に、「神が天地を創造し第七日目に休まれた」という天地創造の摂理から離れてしまったのである。
その元凶がヨ-ロッパで異教と習合(妥協)しつつ形成された「キリスト教会」だったといってよい。
さて、キリスト教はローマで激しい弾圧をうけ、信者たちは文字通り地下に潜った。
地下墓地(カタコンベ)が彼らの礼拝所となったのである。
ローマ市民はかつての覇気も剛直の精神も失い、政治的権利を奪われた代償として与えられる「パンとサーカス」、すなわち社会保障とレジャー娯楽に満足して、理想も道義も忘れ、辛い労働は奴隷に任せて、安穏にその日その日を送ることを考えていた。
権力にあずかる者は、パンを保障し娯楽を提供することによって大衆の心を掴まなければならず、どの町にも権力者の負担で立派な教義上、劇場・浴場・闘技場が建てられた。
しかし劇場では高尚な悲劇ではなく猥雑お笑い劇が演じられた。
競技場では戦車のレース、闘技場ではプロの剣闘士による殺人ゲームのトーナメントが行われた。
「パンとサーカス」の提供が充分ではないと大衆は不穏の気を示したが、帝国が内憂外患で危機に陥っても国を守るために指一本動かそうとしなかった。
すでにローマ市民権を持つ者は兵役を免除されており、武器をとる術さえ知らなかったのである。
そしてローマの国境を守ったのは彼らが蛮族とみなしていた雇われたゲルマン人であった。
独裁体制のもとで政治参加を封じられ、パンとサーカスとお風呂によって腐敗せられた帝国市民大衆は、もはや国を守るためにも経済を立て直すためにも、何の力にもならなくなっていた。
自分の命と快適な生活以外には何の信ずべき価値ももたない大衆は、権力の支柱にもなりえない。
だが例外だったのが、長く迫害に耐えてきたキリスト教徒であった。
人口の5分の1を占めるに過ぎない少数者であったけれでも、みずからの神を固く信じ、劇場や闘技場の退廃的・非人道的娯楽を排し、命を賭して信仰を守っていた。
自分の命と快適な生活を捨てて「守るべき何か」をもっていたのは彼らだけだった。
圧倒的多数を擁する異教徒は、もはやみずからの神々を信ぜず、信仰の問題にも無関心を決めこんでいた。
313年のコンスタンティヌス帝による「キリスト教公認」および、395年の「キリスト教の国教化」は社会の紊乱をキリスト教をもって抑えこもうとした。
天に向かって高く高く、より高くとそびえ立つ「ゴシック建築」は、森をあらわあしている。
柱が林立し、葉っぱのように見える装飾(彫刻)は荘厳でもある。
これこそがまさに、キリスト教と異教との融合を表す典型である。ゴシックとは「ゴート人の」という意味である。
最初は15世紀から16世紀イタリアの文化人がアルプス以北から伝播してきた建築様式を侮蔑的にこう呼んだのであった。
ゴート人とはスウェーデン南部にいたゲルマン民族の一種族で5世紀には西ローマ帝国に侵入しスペインに「西ゴート王国」を、イタリア半島に「東ゴート王国」を築いた。
前述のように、ヨーロッパの「キリスト教化」には、かなり時間がかかっており、改宗が進んでいたのは上層階級であって、農民は異教徒が多く、迷信や魔術が信じられていて、カトリックは異教の習慣・風俗を巧みに取り込み、勢力を拡大しました。
キリスト教徒でなくても知っているキリスト教の祭日はクリスマスであるが、もともとキリスト教とは何の関係もないものであった。
12月下旬は日照時間が最短になり、そこらまた日が長くなり、自然が死から「再生」する日としてゲルマン人ほか異教徒にとって大切な日であった。
カトリックは彼らの「冬至の祭り」をキリスト教の祭り「クリスマス」にしてしたのである。
また、ケルト人が新年の「再生の日」として最も重視していた11月1日は殉教者を祀る「万聖節」となった。これがハロウィーンの日である。
ハロウィーンの風習が色濃く残っていたのはアイルランドですあるが、移民によってアメリカに伝播し、アメリカナイズされた大衆文化として、いまや世界各地に広まっている。
クリスマスツリーも、もともとはドイツの習慣で、イギリスのヴィクトリア女王がドイツ出身の夫アルバートのために飾ったのが、大英帝国に、そして世界へと広まった。
ゴシック建築の代表といえば、ドイツのケルン大聖堂であるが、中世キリスト教信仰と自然崇拝が生んだ聖なるかたちとして、都市の真ん中に森林のようなカトリック大聖堂が作られている。
ゴシック建築には十字架に釘で打ち付けられて血を流しながら痛々しい姿のイエスが、教会の目立つところに飾ってある。
ローマ時代の初期キリスト教においては、そのような悲惨な絵や像はなかった。
初期キリスト教時代に描かれた図は、イエスが奇跡を起こしたり、人びとを救ったり、幸せな喜ばしい光景を描いた絵であった。
ゴシック以前にも磔刑像はあったものの、「勝利のキリスト」を表し、死に打ち勝ち復活を果たした力強い姿で表現されていた。
神聖ローマ帝国11世紀から12世紀半ばまでのロマネスク時代に、そのような木彫の磔刑像が盛んに作られる。
その特徴として、磔刑図ではキリストが生きているように描かれるか、あるいは死の姿においてもなお永遠の命の輝きのうちに描かれることが主流だった。
十字架上で血を流し、苦しんでいる姿を写実的に描くようになるのはゴシック時代以降で、とくに13世紀からの盛期ゴシックの時代になると「苦悩のキリスト」が大聖堂の十字架やステンドグラスに飾られるようになった。
法政大学の酒井健教授はその著書「ゴシックとは何か」の中で、ケルト人やゲルマン人の「地母神」は生贄を供される対象であり、ゴシックの大聖堂に集った人びとは十字架のイエスに、森林のなかの供犠を見ていたのではないかという説を唱えられている。
世界中の文化はどこかで繋がりがあるのか、この説にインドから伝わり日本にも祀られている「鬼子母神(きしぼじん)」を思い浮かべる。
ともあれ、カトリック・プロテスタント含め、ヨーロッパのキリスト教がこれほどまでに異教を取り入れたハイブリットな存在ならば、新約聖書「使徒行伝」にあるイエスの直接の弟子たちが創設した「初代教会」の在りように、「キリスト教の原点」を確認したいものである。
国教会内部では、カトリック的要素を強化する立場もあり、その一人がジェームズ1世の「欽定英訳聖書」翻訳委員会委員であり、格調高い説教師として著名なランスロッド・アンドルースであった
。
宗教上の二つの立場は、議会派と王党派という政治上の対立にも反映され、ピューリタン革命とクロムウェル体制、国王チャールス1世の処刑で極点に達した。
共和政時代に、主教の下での「監督制」が廃止され、俗人である「長老」が教会を運営する「長老制度(プレスビタリー)」が採用された。
1660年の王政復古後、「クラレンドン法」が定められ、国教主義に対する「従順(コンフォーミティ)」が聖職者に強いられることになったが、拒否して国教会を離れる者も多く、一般に「非国教徒」(ノンコンフォーミスト)とよばれた。
非国教徒の立場は英国国教会からの離反であるのに対して、国教会の内部改革も続けられた。
18世紀の「福音主義復興」がその一つである。
その立場は、個人の回心とキリストによる贖罪に対する信仰を強調することにあった。
同時代の奴隷貿易への反対で、「アメイジンググレイス」の作者を思い出す。また、「クラッパム派」の社会奉仕など、社会的関心が強うことも、その特徴となっている。
国では宗教教育に携わった日本人司祭は、「宗教がらみのテロも目をそむけずとりあげる。違いを超え、どう共に生きていくか、公共性をはぐくむ教育へと進化している」。
息子に「宗教の授業で何を学んだか」と尋ねると、「宗教はそれぞれの大切なバックグラウンドだけで、その人のすべてではない」ということ。
br>同じヨーロッパでも宗教への向き合い方には国の濃淡がある。
絶対王政を倒した18世紀のフランス革命後、個人の自由など普遍的価値観を掲げる共和国と、宗教的権威との息づまる相克が各地で続いた。
なにしろロベスピエールの時代には、キリスト教暦を排除して、植物の名を冠した暦をつくったのだから。
例えば「ブリュメール」は「」で、「テルミドール」は「」である。
「もみの木パパとママに、モミの木ペペ(赤ちゃん)が生まれました」とは、フランスの公立幼稚園で、クリスマスツリーが、かように説明されている。
かたやキリスト生誕を再現した。フランスではおなじみの飾りつけ「クレシュ」への言及はどこにもない。
イギリス・ロンドンでは「宗教」の必修科目があり、調べ学習が中心で、「あなたの信仰とは異なる宗教について調べなさい」という課題で、この特派員の息子はシーク教を選んだという。
学校では、宗教上の祝祭日にその信者の生徒は休むことが認められていた。
フランスには「ライシテ」とよばれる厳格な政教分離の原則があり、とりわけ高校までの公教育では宗教性が徹底的に排除される。
イスラムの女子生徒がスカーフをかぶっての通学を禁じられる。
日本でも「心の救済」であるべき宗教にカルトが入りこんだ。日本でも「宗教をめぐる正しい知識を教え。リテラシーを高めるべき」という意見がでてきた。
フランスの徹底した政教分離には、バーソロミューの逆殺などの出来事をふまえ、国家と宗教を切り離すことで、信仰・よって良心の自由を守る意味があった。
一方日本では、政治と宗教の自律性が不可分で、戦前の国家神道体制のように統治に利用された過去もある。
戦後憲法は宗教の自由を保障したが、「お互いが癒着しやすい土壌は残った」ということがいえようだ。
ノルマン人は二手にわかれて侵入するが、リューリックは北のノヴゴロドを拠点にするが、822年にキエフを陥落させることによって、バルト海からギリシアを結ぶ通商水路が統一権力下に置かれ、「キエフルーシ」とよばれる最初の国家
が生まれる。
13世紀から2世紀半に及ぶ「タタールの軛(くびき)」(タタールとはギリシア語の「地獄」に発する)によって、文字通りモンゴルの支配を受け、このことがその後のモスクワ国家に「アジア的専制」と呼ばれる政治形態をもたらした。
ロシアは988年にキエフ大公ウラジーミルが、それまで敵対していたビザンチィン帝国と和平を結び、キリスト教を国教として、ビザンチィン皇帝パシリウスの妹アンナを妃にする。
これによってロシアはヨーロッパに共通するキリスト教文化圏に組み込まれるからだ。
しかしキリスト教はローマ・カトリックではなく、ビザンチィン帝国の精神的統合原理だった東方教会のギリシア正教である。
ここでもロシアは東方性を帯びることになる。
11世紀、ヤロスラフ公のもとでキリスト教は定着し、ソフィア大聖堂やペチュルスカヤ大修道院が建立される。
キエフ・ルーシのウラジミール大公は、キリシア正教を国教として取り入れることとした際に、ドニエプル河で民衆を
半ば強制的に集団洗礼させた。
ルーシの宗教はそれまで雷神、太陽神など土着の神を敬う原始宗教であったが、これではキエフの支配者を権威づけることができず、キリストを主と仰ぐ強力な一神教が必要とされたのである。
ギリシア正教会独特のネギ坊主の形状は火炎をあらわし、教会内での聖霊の活躍を象徴する。
当初ネギ坊主一つの素朴なカタチであった、17世紀の教会改革を強行したニコン総主教の命により、主イエスキリストをあらわす大きなネギ坊主を中心に、福音書を記したルカ・マタイ・マルコ・ヨハネを象徴する4つのネギ坊主がそれを囲むように創るのが一般的になった。
さらに15世紀以降モスクワ公国によるロシア統一と、「モスクワは第三のローマ」というロシア正教の独立とで、教会の権力が強まるにつれ、あたかも誇示するかのように、ネギ坊主の数を増した絢爛豪華たる教会が建立されるようになった。
キエフ大公の息子たちが各公国を統治するが、内紛がおこり分裂していく。
この混乱に乗じてバァドゥを司令官とするモンゴル軍が急襲をかけ、1240年にはキエフも陥落し、各国はモンゴルの汗に貢税を納め臣従関係を余儀なくされたが、ともかくもタタールの軛を耐えたことは銘記されていい。
スズタリ公国の小村にすぎなかったモスクワをロシアの中心にまで発展させたのは、イワン・カリタ(銭袋の意味)にモンゴルに納める徴税権を委ねられ、府主主教座をウラジーミルからモスクワに移すことで、ここをロシアの宗教的中心にしたのだった。
その後、イワン3世の時代に名実ともにモンゴルの支配を脱し、モスクワが全ロシアの支配権を得る。
この時ビザンチン帝国はオスマン・トルコに滅ぼされており、イワンは最後の皇帝コンスタンチヌス11世の姪ソフィアを妃にすることで、東ローマ帝国たるビザンチンをも継承し、真のキリストキリスト教を保持するのはモスクワ、モスクワこそは「第三のローマである」という思想が、プスコフの修道僧フィロフェイによってうたいあげられた。
これはモスクワが全世界を救済するというメシアニズムであり、20世紀初頭の哲学者ベルジャーエフは、「共産主義の世界制覇」というボリシェヴィズムの源泉がある。
イエスがバプテスマのヨハネに洗礼を受け、救世主(メシア)としての自らを表したのは、ヨルダン川である。
イエスの十字架の死後、弟子たちの間でイエスの復活の信仰が生まれ、エルサレむの教会を含む7つの教会を初代教会とよんでいる。
こうして、パレスチナの地で生まれたキリスト教は、イエスの使徒達によって地中海世界に広がっていく。
イエスが洗礼者ヨハネに当初、キリスト教は激しい弾圧をうけ、信者たちは文字通り地下に潜った。
地下墓地(カタコンベ)が彼らの礼拝所となったのである。
ローマ市民はかつての覇気も剛直の精神も失い、政治的権利を奪われた代償として与えられる「パンとサーカス」、すなわち社会保障とレジャー娯楽に満足して、理想も道義も忘れ、辛い労働は奴隷に任せて、安穏にその日その日を送ることを考えていた。
権力にあずかる者は、パンを保障し娯楽を提供することによって大衆の心を掴まなければならず、どの町にも権力者の負担で立派な教義上、劇場・浴場・闘技場が建てられた。
しかし劇場では高尚な悲劇ではなく猥雑お笑い劇が演じられた。
競技場では戦車のレース、闘技場ではプロの剣闘士による殺人ゲームのトーナメントが行われた。
「パンとサーカス」の提供が充分ではないと大衆は不穏の気を示したが、帝国が内憂外患で危機に陥っても国を守るために指一本 動かそうとしなかった。
すでにローマ市民権を持つ者は兵役を免除されており、武器をとる術さえ知らなかったのである。
そしてローマの国境を守ったのは彼らが蛮族とみなしていた雇われたゲルマン人であった。
独裁体制のもとで政治参加を封じられ、パンとサーカスとお風呂によって腐敗せられた帝国市民大衆は、もはや国を守るためにも経済を立て直すためにも、何の力にもならなくなっていた。
自分の命と快適な生活以外には何の信ずべき価値ももたない大衆は、権力の支柱にもなりえない。
だが例外だったのが、長く迫害に耐えてきたキリスト教徒であった。
人口の5分の1を占めるに過ぎない少数者であったけれでも、みずからの神を固く信じ、劇場や闘技場の退廃的・非人道的娯楽を排し、命を賭して信仰を守っていた。
自分の命と快適な生活を捨てて守るべき何かをもっていたのは彼らだけだった。
圧倒的多数を擁する異教徒は、もはやみずからの神々を信ぜず、信仰の問題にも無関心を決めこんでいた。
だから権力は、キリスト教徒以外に拠るべき基盤を見出すことができなかった。
コンスタンティヌス帝の断行したキリスト教の公認からそれ以後の国教化は、そうした政治的必要から生じたもので、大衆自身がキリスト教に帰依したからわけではない。
ローマ・カトリック教会は、地理的に編成された組織と、機能的に編成された組織の二本立てとなっている。
フランスの街を歩くとよく見かける、いわゆる教会というのは前者に属する組織であり、その役割は当該地域の信徒の 信仰生活を指導することである。
後者には、社会福祉活動を目的とするものや、外国での布教活動を目的とするもの、学校教育を目的とするものなど様々あり、目的に応じて、特定の地域だけで活動するものから、イエズス会のように世界的な規模をもつものまである。
俗に「修道院」とよぶのは、後者の組織に所属する聖職者の居住する施設である。
どちらの組織もローマ教皇の宗教上の指導のもとにあることに変わりはなく、ただ役割が違うのである。
「イエズス会派」などという訳があるので教義上の相違かと勘違いしやすいが、そのようなことはのない。
起源はどちらも古い。地域ごとの教会の起源はキリストの弟子の時代からはじまるが、392年にキリスト教がローマ帝国の国境となると、全体をいくつかに区分し、司教区、教区、小教区などのようにピラミッド型に編成され、村の町の教会が末端にある。
そこには司祭がおり、村民の誕生から成人、結婚、出産などの生涯の節目に所定の儀式を行って人生を導き、人生の終末に際して無事に神のもとに赴けるように送り出した。
教育も基本的には司祭の役割であったし、つまり教会は今日の市町村当局のような存在であり、住民行政のすべてを司ったりしていた。実際、戸籍の管理は、フランス革命までは教会の仕事であった。
神に仕える聖職者の中にも、人の面倒をみる仕事にはつかず、己の魂の救済のために祈りと冥想に時を費やす者がいた。
こうした隠遁の生活を送る聖職者たちは、しばしば共同生活を営んだ。これが修道院の原型である。
6世紀前半にイタリア半島で聖ベネディクトゥスが戒律を定めて以来、この戒律に従う修道院が西ヨーロッパに広がっていた。
だが12世紀の始めになると、十字軍の活動に加わったフランス人によって、軍事活動を目的とする修道会がうまれる。
聖堂騎士団がそれであった。理論武装した聖職者によって、全世界の布教を目的にしたイエズス会が生まれたのは16世紀であり、最初のメンバーたちはパリ大学に学ぶスペイン出身の聖職者たちであった。
このなかのひとり、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝える。
イギリスの宗教改革は、普遍的な支配を主張するローマ・カトリック教会に対する主権国家としてのイングランドの独立宣言という性格をもっていたが、肝腎の教義と組織の改革が不十分であたっため、国教会はつづく二人の国王のもとでは、左のプロテスタント、右のカトリックへと激しい動揺を余儀なくされた。
その後、即位したエリザベス女王は、「中道政策」をとって国教会を確立させ、さらに慢性的な経済不況に対して、「救貧法」を初めとする対策を講じながら、ヨーロッパ最強国スペインと対抗してきた。
イギリスの南西部のコーンウエルにはストーンサークルに、ケルトの「アーサー王伝説」が残っている。
ここはアガサクリスティの生誕地でもある。
さて、表紙掲載の11世紀のキリスト磔刑像は、十字架磔刑図の歴史の中でも、一つの転機を示すものでもある。キリストが十字架にはりつけになっている姿を描く図像は、5世紀頃から登場し、浮き彫りや写本画、イコンで描かれているが、立体的な彫像として描かれていくようになるのは、10世紀後半の西方においてである。
その最初の代表例が、960 年頃ケルンで作られたいわゆる木製彫像であり、ヨーロッパ史では、オットー1世により神聖ローマ帝国が始まる時代にあたる。10世紀末~11世紀の「オットー朝美術」の時代から12世紀半ばまでのロマネスク時代に、そのような木彫の磔刑像が盛んに作られる。その特徴として、従来の磔刑図ではキリストが生きているように描かれるか、あるいは死の姿においてもなお永遠の命の輝きのうちに描かれることが主流だったの対して、オットー朝以降には、さまざまな要素をもって“死んだイエス”を描く傾向が強まっていく。
とはいえ、十字架上で血を流し、苦しんでいる姿を写実的に描くようになるのはゴシック時代以降である。
ロマネスク時代までの木彫磔刑像は、死んだ姿であるにしても、それほど生々しく痛々しくはなく、穏やかに眠りについた姿にみえる。表紙作品は、その意味では、体がやや曲がり、重さによって少し沈んでいるようで、頭も下に下がっている。とはいえ、それほどの死の強調はなく、下向きのイエスの表情も穏やかに静かに死んでいるように見える。これがこの時代の磔刑像の傾向をよく示しているといえるだろう。
胴はやせ細っているのに、脚や腕はしっかりとしている。ほぼまっすぐに伸ばされた両腕は、なお力がみなぎり、その脚にも、地上から天上へと旅立とうとするような力が感じられる。このような表現のうちに、イエス・キリストの神と人を仲介する働きがよく示されているのではないだろうか。ミサにおいては、「神の小羊」というイメージで表される、贖いのいけにえとしてのキリストの姿、聖体となって、我々の中にこられる主の姿を心に刻むために、味わい深い像であるように思われる。
ちなみに、イエスの頭上の銘は、元来は罪状書きになるが、ヨハネ福音書19章19節のとおり「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記されている(他の福音書は「(これは)ユダヤ人の王」)。この「王」という言葉が、十字架を通して全く新しい意味を帯びるようになる。きょうの福音のテーマと関連させて、ここでは、フィリピ書2章6-11節を味わうのがふさわしい。そこで告げられる主の姿は、ミサの中でいつも中心にいる、いつも想起され、我々とともにいる方の姿にほかならない。
きょうの福音箇所をさらに深めるために
三 偶像の世界
現代人の心の中に、目覚めの悪い表情を持つ、「陶酔への渇き」があるというのならば、陶酔を呼ぶ「偶像への渇き」があると言い換えてもよいでしょう。しかも、偶像というものは、魂の渇きを癒すよりも、ますます、魂の涸渇の苦悩を増し加えるものであるならば、偶像の追求は、偶像のたえまない喪失という代価によって支払われているということです。偶像とは、本来神ならぬものを神とすることであるのですから、無限の神を追求する人間の魂が、有限の神ならぬものの屍(しかばね)を、たえまなく乗り越えていこうとする悲劇性が、すでにそのうちに宿されていると言えましょう。