ビートルズやカーペンターズのカバーで知られる「プリーズ ミスター
ポストマン」(1961年)の歌詞は、現代のメール時代からすれば、ほほえましくもある。
♪カバンの中に、僕宛ての手紙は無いの?僕はずっとずっと彼女の便りを待っているんだから♪
心待ちにし過ぎて郵便屋さんにちゃんと手紙を探してよとお願いしている始末。こんなメンドクサイ相手に絡まれている郵便屋さんはたまったものではない。
さてNHKの「ファミリーヒストリー」で、俳優の草刈正雄が死んだと思われた父親のルーツ探しがなされたが、祖父がアメリカで郵便配達を仕事にしていたことが判明した。
草刈の祖父「ゼブロン・トーラー」は郵便局員であったが、50代で難病に陥り、正雄の父が生まれる3か月に他界した。
それにより一家は困窮するが、第二次瀬下愛大戦終了後に、草刈の父ロバート・ハンター・トーラーは、福岡県の築城空軍基地の第一航空郵便隊24分遣隊に配属されていた。
朝鮮戦争が始まると、福岡から韓国の金浦空軍基地に派遣され、最前線に出向いていって家族の手紙を渡すのが仕事だったという。
アメリカでは、士気を高めるため手紙(メール)を重視していて、そこは民主国家らしく、それを軽んじると家族からクレームくるほどであった。
1951年1月3日に帰還 郵便の仕分け作業をして、町にでかけた時に一人の女子と出会う。
そこは「一人分の幅しか通れない橋ですれ違った」と、草刈が母親から聞いていたという。
基地の町である築城町には、米兵向けのバーが立ち並んでいた。
草刈の母親すえ子は19歳からバスの車掌として働いていて、築城町がバスの休憩ポイントであった。
そんなロマンチックな出会いから交際がスタート、その後、ロバートは東京の極東空軍羽田基地に配属となる。バスの車掌をやめて都内で二人暮らしをはじめ、草刈が生まれた。
さて、名作「星の王子さま」で知られるフランスの小説家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、「郵便飛行士」の経験をもっている。
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(以後,アントワーヌ)は、1900年フランスの南東部に位置するリヨン市で生まれた。
父親のジャンが保険会社の調査員としてリヨンに赴任し、そこで母親のマリーと出会ったため、そのままリヨンで結婚となった。
ただ、父親のジャンがアントワーヌ4歳のときに病気で亡くなったため、幼少期は母方の大叔父にあたるトリコー伯爵夫人に連れられ、サン=モーリス城というお城で過ごすことになった。
この館はどこか哀愁のある雰囲気があり、アントワーヌの文学観に影響を与えたとも言われている。
父のジャン、母のマリー共に貴族の家系で、幼少期から金銭的に不自由したことはなかったようである。
アントワーヌは9歳の時にノートルダム聖十字学院に入学するも、枠に収めようとする学校教育は彼の自由な発想力・創造力には合わず、成績は低迷。
その後スイスにある聖ヨハネ学院でも文学にいそしみ、勉強とはそりの合わない学生生活を続ける。
そして19歳の時、その性格が災いしてか海軍兵学校の筆記試験で落ちてしまう。
こうして出世コースを完全に外れたアントワーヌは、パリの美術学校建築科にギリギリで入学するも、進路先に悩む青年時代を送った。
その後兵役(志願)により、再度操縦士になるチャンスを得たアントワーヌはストランブール第二航空隊に入隊する。
そして、1922年には操縦士の免許を次々に取得し、夢に見たパイロットとなることができた。
しかし、翌年の5月、リソーという少尉と共に飛行場を飛び立つが、墜落してしまい頭蓋骨骨折の重傷を負ってしまう。
それにより当時の恋人ルイーズ・ヴィルモランの家族の反対に遭い、最終的に操縦を止めて軍を除隊した。
操縦士を辞めたアントワーヌは、その後民間の自動車販売会社へ就職する。そこではトラックのセールスマンとして働くが、1年間でたった1台しかトラックは売れなかった。
結局、ルイーズとの婚約が破綻すると、再びパイロットの道へと向かう。
ラテコエール航空会社(のちのアエロポスタル社)に就職し、「郵便飛行」のパイロットとして働き始める。
当時は、今ほど航空技術の発達していない時代で、飛行機に乗るということは常に命の危険と隣り合わせであった。パイロットたちの多くは、その飛行の途上で、墜落や遭難によって命を落とした。
アントワーヌはモロッコ海岸沿いにあったラテコエール社の中継基地、キャップ・ジュビーの所長に任命される。
そして自身の経験を生かして26歳のとき、文芸誌に彼のデビュー作「飛行士」が掲載された。
物語は世界中で読まれ、その後も操縦士に関する話を多く執筆したことから、その界隈では名のしれた人物となった。
さて、アントワーヌにまつわる有名な逸話として、「フランス-ベトナム間の最短時間飛行記録に挑戦した際、機体トラブルで砂漠に不時着した」というエピソードがある。
当時、飛行機はたびたび燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかったので、飛行機が不時着したりすると現地のム-ア人(北西アフリカのイスラム教徒)達は飛行機の乗組員を捕虜にして、スペイン政府に武器や金品を要求するなどということが頻発していた。
リビア砂漠(サハラ砂漠)に不時着後は生存が絶望視されていたのですが、なんとそこからベドウィンという遊牧民に助けられ、歩いてエジプトに到着。奇跡的な生還を果たしている。
アントワーヌは航路の中継点でム-ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりした。
そして星の降る村の風景、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民、壮大な自然などがサンの心の養分となり、文学的イマジネーションの源泉ともなっていったのである。
その時の体験を元に書き上げたのが、「南方郵便機」であった。
1931年1月に、フランスにカバンの中には、「夜間飛行」という小説の原稿を携えて帰国する。
そして「夜間飛行」の出版で名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会い、31歳の時、コンスエロ・スンチン・サンドヴァールという女性と結婚している。
彼女は見た目から非常に美しい女性で、性格は気まぐれ・奔放であったと言われている。
しかし、彼女との結婚生活は順風満帆とはいかず、結婚後すぐに性格の不一致から関係に破綻をきたしてしまう。
アントワーヌは地上では死んだようで、虚飾にみちた地上での生活にますますイヤケがさしていったようだ。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、彼は空軍の教官として徴兵された。しかし、彼は前線への配属を希望しており、最終的には偵察部隊のパイロットとして参戦している。
しかし、フランスで「ヴィシー政府」がドイツと講和をし、アントワーヌはアメリカへ亡命する。
アメリカでの亡命生活は孤独なもので、英語を学ばなかったアントワーヌにはなかなか友人もできず、また同じく亡命してきたフランス人同士の対立にも巻き込まれた。
孤独な亡命生活を送るアントワープに対し、アメリカのある出版社のオーナーが、彼の気をまぎらわせようと、童話を描くことを提案する。
その提案を受けて書かれたのが、あの名作「星の王子さま」であった。
「星の王子さま」が出版された翌年の1944年、アントワーヌは再びフランスへ戻り、パイロットとして偵察飛行に出ることを決断する。
アントワーヌは1944年の7月31日、コルシカ島からグルノーブル,アヌシー(いずれもフランス内陸部の都市)らを偵察に単機で出撃。しかし地中海付近で行方がわからなくなり、完全に消息を絶ってしまう。
そしてその翌年に裁判所がアントワーヌの死亡を認定する。
アントワーヌどんな最期をとげたのか、長い間謎に包まれていた。
行方不明から54年が経った1998年に地中海のマルセイユ沖にある島近くの海域で、妻や連絡先などが書かれたブレスレットが発見される。
その後サンテグジュペリが最後に乗っていたされる飛行機の目撃情報がいくつか寄せられた(写真もあった)ため、大規模な捜索を実施。
それをキッカケに同海域で既に見つかっていた飛行機の残骸写真との照合がされ、2000年にアントワーヌの搭乗機が発見された。
当時は多くのメディアでこの大発見が報じられ、話題となった。
そして、2004年になって、マルセイユ沖でアントワープが乗っていたと思われる飛行機が発見され、2008年には、元ドイツ軍パイロットが仏紙プロバンスに対し、アントワープを撃墜したのは自分であると公言した。
ところで、「星の王子さま」では、「ぼく」はサハラ砂漠で「王子さま」と出会う。彼はとある小惑星からやってきており、彼の惑星にあるバラと喧嘩をしたため、他の世界の星を見る旅に出たのだと語る。
主人公の「ぼく」と共に旅に出る「星の王子さま」は、まるで子どものようにピュアな性格であり、それゆえに大人がハッとするようなことを次々突きつけていく。
この物語が人気となったのは、何といっても「人間の本質をつく言葉」が多く含まれていて心に響くからだ。
例えば、「大切なものは、目には見えない」の言葉は、彼の代表作「星の王子さま」で登場する台詞。
「おとなは、誰も始めはこどもだった」言葉も「星の王子さま」に登場する一節である。
児童文学を通して、かつて子供だった大人へ物語を届けたいと彼が強く願っていたことがよくわかる。
他にも、「本当の愛はもはや何一つ、見返りを望まないところに始まる」。
「あなた自身を与えれば、与えた以上のものを受け取るだろう」などの名言がある。
「星の王子様」が愛される理由は「愛や平和など、人間が生きる上で大切なこと全てを教えてくれるから」に他ならず、この忘れかけていた純真な心を思い出させてくれる「問題提起」のような文章が、この作品の肝となっていている。
日本のアニメーション作家「宮崎駿」が、実はサンテグジュペリの愛読者であったことは有名な話でその価値観が類似していると感じる箇所はいくつもあるとみられている。
郵便配達人として手紙を配達する仕事を通じて、言葉や政治に目覚めた男を描いた映画「イルポステリーノ」は、第二次大戦直後の南イタリアの港町ナポリの沖合いの小さな島カプリを舞台とした「実話」を元にした映画である。
その映画の舞台は、サンテグジュペリが消息を絶ったコルシカに近く、時代設定も近い。
実在した詩人パブロ・ネルーダに材を取ったA・スカルメタの原作を基に、イタリアの喜劇俳優が病をおして撮影に臨み、映画化にこぎつけた執念の作品となった。
1950年代のナポリの沖合いに浮かぶ小さな島、そこへチリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダが滞在する事になった。
パブロ・ネルーダは南米チリを代表する20世紀最大の詩人である。チリ大学在学中に「二十の愛の詩と一つの絶望の歌」を出版し、中南米の有望な詩人として認められた。
そのナポリ沖合いの小島に一人鬱々と暮らす漁師の青年がいた。
青年マリオは漁師の父親とふたりで暮らしているが、海が嫌いなマリオには仕事がなかった。
パブロネーダには世界中から手紙が届けられ、マリオはこの詩人に手紙を届けるだけのために、郵便局の「臨時配達人」となる。
丘の上の別荘に毎日郵便を届けるうちにネルーダとマリオとの間には年の差を越えた友情が芽生えた。
ネルーダは美しい砂浜で自作の詩をマリオに語って聞かせ、詩の「隠喩」について語り、マリオは次第に詩に興味を覚えるようになった。
ある日カフェで働く美しい娘ベアトリーチェに心を奪われたマリオは、ネルーダに彼女に贈る詩を書いてくれるように頼んだ。そしてネルーダ自身が妻のマチルダに贈った詩を捧げた。
それをきっかけに、物事を直接的に語ることしか知らなかった朴訥な青年は、詩人からメタファー(隠喩)で語ることを教わる。
ところで、ネルーダの「愛の詩」の日本語訳をネットで探すと次のような詩が掲載されていた。
//君より背の高い女性はいるかもしれない、君より清らかな女性はいるかもしれない、君より美しい女性はいるかもしれない、でも君は女王様なんだ。
君が通りを歩くとき誰も君に気がつかない、君のガラスの冠に気がつかない、 赤と金の絨毯の上を君が歩いてもその絨毯に誰も気がつかない、その存在しない絨毯に君が姿を表わすと私の体の中のすべての河が騒ぎだし、空には鐘が鳴り響き、世界は賛美歌に満ちる ぼくと君だけ、いとしい人よ、ぼくと君だけがそれを聞く。//
この詩人を師匠としたマリオは思いを寄せるベアトリーチェに、「君のほほ笑みは蝶のように広がる」といった表現で手紙を書くようになり、少女の心を射止める。
しばらくして、国外追放令が解かれたネルーダ夫妻はチリに帰国してしまうが、またマリオはネルーダの詩の創作のために、様々な「音」を集めて送っている。
実は、漁師の倅マリオの青年が住む島には水道もなく、水道をひくという選挙公約もいつも反故にされてきた。こうした島の人々の不満や苦しみを青年は、詩人が教えたメタファーをもって世に訴えていく。
そして、島を代表してイタリアの共産党の大会に参加し、自ら作った詩で放置された「島の窮状」を訴えるのである。
この映画の主題は、恋愛をきっかけに「言葉の力」に目覚めた人間が、社会的問題の「本質」をつかんで自らの言葉で表現することで、人々を動かしていく姿にある。
一方ネルーダは1927年外交官となり、34年赴任したスペインの内戦では「人民戦線」を支援した。
1948年独裁色を強める大統領を非難し、地下に潜伏し、アメリカ大陸の文化、地理、歴史、世界の階級闘争を包含する一大叙事詩「おおいなる歌」を執筆した。
1971年ノーベル文学賞受賞し、73年9月クーデター勃発し、まもなく癌により死去している。
ところで映画「イルポステリーノ」に描かれた世界的詩人パブロ・ネルーダと小島の漁師マリオとの関係に勝るとも劣らぬ絆が、カメラの裏に隠されていた。
この映画は1993年3月に撮影をスタートしているが、この映画の主役となったイタリア人喜劇俳優トロイージはその時心臓の病におかされていた。
しかし映画製作を優先し手術を延期し、治療を続けながら撮影を続けた。
トロイージの体は日増しに弱っていったが、ネルーダ役であるイタリアの名優フィリップ・ノワレの励ましを受けつつ、撮影は続けられ、6月3日にはすべてを撮り終えた。
そして撮影終了後わずか12時間後、トロイージは41歳の若さで世を去る。
イタリアの名優フィリップ・ノワレと喜劇俳優マッシモ・トロイージによって演じられた「イル・ポステリーノ」はアカデミー賞5部門にノミネートされた。
この映画が「黄金の魂をもつ作品」と評される由縁である。