世界最古の都市といえば、メソポタミアのバビロン王朝下のウル・ウルクといわれる。
ユーフラテス川の西岸近くには、ジグラットとよばれる塔、空中庭園やバベルの塔の物語が残っている。
このウルで生まれたのが、アブラハムの一族である。
アブラハムというと、遊牧民の天幕生活者とイメージしがちだが、こうした発掘から元々は都会の洗練された生活をしていたことがわかった。
そこでは、高さ21メートルほどの神殿塔(ジッグラト)がその遺跡の最も際立った特色となっている。
発掘者たちはウルの王墓に金,銀,ラピス・ラズリの品や他の高価な物品を数多く見つけたほか、粘土板の多くは商業上の文書であるが、粘土板から文字と算数を教える学校があったこともわかった。
さらに、陶製の下水管が発掘され、大きな汚水溜めにつながっていた。
「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた」(創世記5章)とある。
つまりアブラハムは,高度に発達した都市と、そこで得られる安全で快適な生活すべてをあとにして、”遊牧民”になったのだ。
さて、聖書全般のトーンは"寄留"という言葉をぬきに考えることはできない。
それはバビロン捕囚のような強制移住もあれば、飢饉のためにカナンの地からエジプトに移り住み、そこに400年もの間寄留したことはよく知られている。
アブラハムは「信仰の父」ともよばれ、新約聖書は「へブル人への手紙」で、アブラハムの信仰について次のように賞賛している。
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである」。
また、パウロは自ら「この世の寄留者であり、国籍は天にある」と語っている(ピリピ3章)。
江戸発展の基礎を築いた徳川家康は、アブラハムと似たような決断の場面に遭遇している。
その一つが、アブラハムが都市ウルからカナンの地へ行くのを神から命じられたように、家康は本拠地である愛知県岡崎を中心とした地域・三河の地から関東へと移封を命じられる。
当時の情勢をいうと、家康の父、松平広忠はまだ幼い家康を今川に人質に出し、弱小だった三河の存続をはかる。
だが広忠は家臣の謀略によって命を奪われ、本拠地の岡崎城は城主が不在となる。そのため今川から代官が派遣され、三河は今川の属国のような扱いになってしまう。
この家康の人質時代に岡崎城を預かっていたのは、「本多、榊原、石川、鳥居」といった長老たちだった。いわゆる三河武士団である。
この長老たちは、のちに家康を支える本多忠勝や榊原康政といった重臣たちの親世代であり、家康の祖父にあたる松平清康の時代からの家臣である。
若くして三河を統一する勢いだった祖父の清康は非凡な才能をもった英明な君主と期待されながら、政略によって家臣に殺されてしまった。
この無念を晴らすべく家康に期待していたのである。
窮乏生活に耐えながらも、いつかは家康を岡崎城の城主に迎え入れるという思いが、彼ら”三河武士団”の結束をいっそう固めた。
さて、戦国時代の3人の武将・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のうち、信長も秀吉も大きな「負け戦(いくさ)」をしたことがない。
ところが家康は若い頃、「三方ケ原」というところで武田信玄に大惨敗を喫している。
武田信玄が上洛のために家康の領内を通過するが、家康としてはいかに相手が強大であっても、領内を「黙って」通らせるわけにはいかない。
そこで若き家康は果敢に戦いに挑むのだが、当時最強といわれた武田軍団に軽く蹴散らされてしまう。
しかし家臣団は負けるとわかっていても果敢に野戦に挑んだ若い家康を支えようと固い結束をしてくのである。
家康が並の武将でないことは、浜松城に戻った家康は、絵師を呼んで恐怖にゆがんで引きつっている「自画像」(しかみ像/下写真)を描かせて、人目につくところにこの絵を置いていたというところ表れている。
アブラハムが向かった「約束の地」カナンの地とは、どのような場所であったのであろうか。
当時のカナンの地は、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至る」(創世記15章)細長い地域だから、今日のパレスチナよりも広く、パレスチナの語源となったペリシテ人ばかりではなく「カイン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモリ人」などの先住民がおり、それぞの王が抗争を繰り返していた。
それでも、神はアブラハムにこの地を彼等の子孫たちに与えると約束している。
ただ、アブラハムは異民族ばかりではなく、身内との争いも加わった。
カナンの地に入る頃一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか良いほうをロトに選択させるのである。
つまりロトに優先権を与えるが、ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが、その風景も時の経過とともに変化する。
年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、ロトも神の使いを守るために自分の娘達を獣のような男達に差し出すという悲嘆をナメさせられている。
そしてついに神の怒りが発せられ、ソドム・ゴモラの町は滅ぼされる。
神の怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりアブラハムの親族・ロトの一族のみが助け出される。
その時、ロトの妻は神の命に反して焼き尽くされる町を振り返ったために「塩の柱」となったとされる。
ちなみに、ロトの長女がモアブでモアブ人の祖となっている。
その一方、異民族との戦いに明け暮れるアブラハムに対して、神は「あなたを祝す者を祝し、あなたを呪う者を呪う」(創世記12章)という保証を与える。
実際、アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。
アブラハムは、住むべき土地を選択する際に優先権を与えているので、ロトからすれば皮肉な結末となったわけだ。
実は、アブラハムに現れた神との間で、「あなたの子孫はその星の数ほどになる」という約束があった。
「信仰の父」ともよばれることになるアブラハムは、この約束に対する信仰を土台として、「土地の選択権」をロトに与える(創世記15章)、つまり”神に委ねる”ことにしたということである。
神はアブラハムのそうした一貫した「信仰」の姿勢に、約束の実現をもって応えたといえよう。
さて徳川家康は、小田原の北条氏討伐の功績により豊臣秀吉の関東行きを命じられた時、関東の風景に何を見たであろうか。
家康は大方の予想とは違って、要害の地・鎌倉でも水陸の便に恵まれた小田原の地でもなく、関東8か国の扇の要のような江戸の地をあえて選んだ。
確かに、この地の選定は当を得ていたといってよい。
何故なら天下人として日本全国の号令を下すのに、鎌倉や小田原では規模が小さすぎる。
鉄砲や大砲などの近代的な武器が発達し、合戦も集団戦闘に変わってきているいま、いくら要害の地だからといってそこに未練を持つのは、笑止のことだと考えたかもしれない。それらは岡崎や駿府の条件と大差なかったからである。
当時、江戸の地は、戦国初期の名将・太田道灌によって築城された小規模の城砦であった江戸城があった。
カナンの地ほどの異民族との戦いはない一方、水利をめぐる闘いがまっていた。
隅田川・荒川、そして当時は利根川といった大河川が江戸から江戸湾に流れ込み、大雨などが降るとそれらの河川が氾濫する。
江戸をはじめとする関東平野は農業や町割には不適切な湿地帯に覆われている状態であった。
家康は江戸の町割も大坂の町づくりを見本として、江戸に入府した早々の1590年7月、神田山などを削り、湿地帯の埋立作業を実施し城下町を整えた。
つまり、家康が江戸を選んだのは、関八州の広大な農耕地と生産物を運ぶに便な江戸の水利を考え、移転を敢行したということである。
冒険にも思えた江戸移転だが、家康は”経世家”としての先見の明があったといえる。
アブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、サラの「自分の子」が欲しいという切なる訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
ちなみに「イサク」とは「笑う」という意味で、子どもが与えられたのがよほど嬉しかったのであろう。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子が苦しめられる番で、結局追い出されるハメになる。
それでも神は、荒野をさまようハガル・イシマエル母子を見捨てない。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)
そしてハガル・イシマエル母子は、流れ流れてアラビア半島のメッカに移り住む。
そして彼らの子孫はアラブ人となり、アブラハム・イサク・ヤコブと続くユダヤ人として今日のイスラエル国家を築く。
彼らは相互に、時に共存し、時に激しく対立してきたのである。
聖書は、ハガルが生んだ子イシマエルの子孫すなわちアラブ人に対して次のように預言している。
「彼は野ろばのような人となり、手はそべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵してすむでしょう」(創世記16章)。
ところで、徳川家康が遭遇したアブラハムと共通するもうひとつの場面は、「愛する子を捧げる」という悲痛な体験である。
神はアブラハムを試みて彼に言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムはイサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは神みずから燔祭の小羊を備えてくださると応えて一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と声がかかった。
そして御使いは「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
主の使は再び天からアブラハムを呼んで「あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」と語った。
徳川家康は生涯で11男5女の16人の子供に恵まれたものの、時は戦国の世、家康の子供たちには幾多の苦難が待ち受けていた。
家康の長男・信康が生まれたのは1559年。この時、家康は18歳。家康は東海地方の大名・今川家に支配される弱小大名にすぎなかった。
家康の家臣たちは、今川家に年貢を納めるため自ら鍬を持って田畑を耕す苦しい生活をし、戦になると先陣の役割を押しつけられるなどしていた。
そんな苦難の時代に生まれのが長男の竹千代。「竹千代」は代々跡取りにつけられた名前で、家康自身も名乗った由緒ある名前であった。
今川家はその竹千代さえも人質として求めて、それを受け入れざるをえなかった。
そんな家康に転機が訪れたのは、1560年の桶狭間の戦い。今川義元が率いる3万の大軍を織田信長が打ち破った。
今川家は大混乱に陥り家康はその隙をつき、今川家の城を攻撃し家臣を捕らえた。
そして、竹千代との人質交換を要求し、今川家はしぶしぶその交換に応じた。
こうして家康は我が子・竹千代を自らの手に奪い返した。家康は、苦労して取り戻した竹千代だけに溺愛する。
竹千代が5歳になると織田信長の娘・徳姫との婚約を取りつけ、12歳になると岡崎城に送った。
やがて元服した竹千代は「信康」と名乗るようになる。
ただ家康の信康への溺愛は、信康を身勝手な若殿を育ててしまったようだ。
あまりの非道ぶりに、家臣の中からも信康の資質を疑う声が出始める。
信康のこうした乱暴な性格を嫌ったのか妻・徳姫。
ついに、徳姫は信長に夫の行状を訴える手紙を送った。
そこには「信康の母が武田家に通じ、謀反を企んでいる」と書かれていた。信長は激怒し、家康に「信康を切腹させよ」と申し渡した。
接する武田家が勢力を拡大し徳川家が生き残るには、どうしても織田家との同盟に頼る必要があった。
家康は苦悩の末、信康に自害を促し、1579年9月15日、信康は二俣城で切腹した。
家康は終生、我が子・信康の死を悔やんだという。
そんな家康を支えたのが神仏への信仰だったかもしれない。その信心のひとつが静岡浅間神社。
同社の背後に築かれた武田氏の城塞攻めを決めた家康は、再建を誓いつつ、社殿を焼き払って城塞を攻略した。後に社殿は約束通り造営され、家康は生涯にわたって同社を尊崇したという。
家康も、アブラハム同様に信仰の人であった。天下統一後には毎日念仏を唱え「南無阿弥陀仏」を長い巻物に一心に書き続けたという。
その信心深さは町づくりでも発揮され、江戸城の周囲に鬼門封じの寺社を建て、火伏せ神・愛宕神社を京都から勧請したのもその表れである。
江戸幕府成立から13年、家康は75歳で死去し、「東照大権現」の神号を得て日光東照宮に祀られた。
家康の遺訓に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。 堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり」とある。