公民の授業で「市場経済」を学ぶとき、かならず登場するのが、アダム・スミスの「見えざる手」。
各個人は、自分の利益を追求しているにもかかわらず、「見えざる手」(インビジブル・ハンド)に導かれて全体の利益をもたらすことになる。
これが、アダムスミスの経済観「予定調和説」で、自由放任主義(自由主義経済)の根拠となっている。
参考書によっては、「見えざる手」をわざわざ「神の見えざる手」としているが、アダムスミス自身は、「見えざる手」という表現にとどめている。
この微妙な違いを思い起こさせるのが、旧約聖書に"神の手"が出現する二つの場面。
そのひとつが「十戒」を二つの石版に刻んだ「神の手」。そしてもう一つが旧約聖書「ダニエル書」に登場する、厳密にいうと、「神が遣わせた手」である。
カルデア王ベルシャザルが1000人の貴族や後宮の女達とともに宴会を開きワインを飲んでいた最中、突然に”手の指”が現れて壁に字を書いた。
ベルシャザルは恐れ慄いてその字を読める者を探した。
そして母親の助言により、父王ネブカドネザルの時代から仕えているダニエルと言う神官長をよびよせた。
実はダニエルはユダヤ人で、父王ネブカドネザルが、ユダヤ人を民族ごと拉致した(バビロン捕囚)際、見目麗しい4人の少年を王の近くに仕えさせた。
そのうちのひとりダニエルは特別に優れていて、神官長になっていた。
ベルシャザルがダニエルを呼び、字を解読させたところ、ダニエルは「メネメネ、テケル、ウパルシン」と読んで、解き明かしを行った。
それぞれ「量る」「終わる」「分ける」の意味である。
あなたが「量られ」て、あなたの国が「終わり」、他国に「分けら」れる、と読み解いた。
さらにダニエルは、父王ネブカドネザルに権勢と栄光を与えたを与えたが、 傲慢になり王位から退けられ、獣と共に住んだことがある。
しかしそれによって、父王はようやくこの世を統べるのは神である事を知った。
しかし、子のベルシャザルは、父の事を知りながら主に向かって自ら高ぶり、神をあがめようとしなかったために神は、このような”手”を遣わせたのだと非難した。
これを聞いて恐怖に駆られたベルシャザルは、ダニエルにあらかじめ約束していた「第三の位(第三の権力)」が与えた。
しかし、ベルシャザルはその日のうちに部下に殺され、国はメデアとペルシャの人々に与えられた。
つまり、神が遣わした手が描いた手の預言通りになったのである。
次に真正の「神の手(指)が現われた」のが、モーセに「十戒」が与えられる場面である。
紀元前15世紀頃ヘブライ王国では、飢饉で寄留していたユダヤ人(ヘブライ人)と、エジプト人との争いが絶えなくなると、エジプト王は、ユダヤ人の生まれてくる子をすべて殺せという命令を出す。
しかし、ユダヤ人のある夫婦が子供を殺すに忍びず葦でつくった箱舟に入れてナイル川に流す。
すると、その箱舟がエジプト王宮の仕え女の元に流れ着き、子供がほしかったエジプト皇女がその子をエジプト人として育てることになる。
その子は、モーセと呼ばれ、王位継承者として育てられる。
しかしモーセは、あることをきっかけに、自分がエジプト人ではなくユダヤ人であることを知り、王宮での空しい生活よりも、神に選ばれたユダヤ人として生きることを決意し、奴隷の身として生きることを決意する。
ところが王様気分が抜けなかったのか、ユダヤ人同士の喧嘩の仲裁にはいって人を誤って殺してしまう。
しかもそれを同胞に目撃されて、この場にいられなくなりミデアンの野に逃れる。
モーセは、自分のミデヤンの地で結婚し、羊飼いとしての生活をして40年という月日がたつ。
ところが人生も終盤80歳になったある日のこと、モーセがシナイ山のふもとで羊を追っていた時、燃える柴の中に神の使いが現れ、近寄るモーセにささやいた。
「エジプトに帰り、イスラエルの民を救え。そして、約束の地カナンに連れて行くように」と。
モーセは神に、わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに「あなたがたの先祖の神が,わたしをあなたがたのところへつかわされました」と言うとき、彼らが「その名はなんというのですか」とわたしに聞くならば、なんと答えましょうかと問うた。
すると神はモーセに「イスラエルの人々にこう言いなさい。「わたしは有る」というかたが,わたしをあなたがたのところへつかわされました」と(出エジプト3章)。
この「わたしは有る」がヘブライ語の”ヤハウェ”なのだが、これは神の固有名ではない。実は、新約聖書に「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜った人々に、御名をあらわしました」(ヨハネ福音書17)とある。
モーセは、アロンという雄弁な祭司の助けを得て、神に命じたように、エジプト王に「民をさらせよ」と神の言葉を告げたが、 聞き入れられなかった。
モーセそれを神にそれを訴えると、様々な災害をエジプトに下し、最後に人も家畜も初子は全て殺すまで厄災が及ぶ。
しかし最後の災害を起こす前に、神はモーセに「子羊の血を門柱に塗りなさい。私はエジプト中の初子は全て殺す。しかし、血の塗られた家は過ぎ越していくだろう」と告げる。
これがイスラエル最大のまつり”過越祭の”の始まりである。
そしてついにエジプト王はユダヤ人がエジプトを出ることを許した。モーセは200万人のユダヤ人を連れてカナンの地に向かう。
エジプト王はエジプト脱出を許したことを後悔し、ユダヤ人を皆殺しにすべく軍勢を率いて追跡した。
前方には葦の海、背後にはエジプト軍と、絶体絶命の危機に陥ったその時、奇跡が起こる。
モーセが、海に手を差し伸べると、神は強い東風で海を二つに分け道を作った。ユダヤ人達がその道を通って渡り終えると海は閉じられ、追ってきたエジプト軍は海に沈んだ。
エジプト脱出の日から3ケ月が経ち、モーセ一行はシナイ山のふもとにたどり着く。神はシナイ山の山頂でモーセに「十戒」を授けた。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、”神の指”で書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31)とある。
その後、シナイ山の麓でモーセを待っていた群衆が、偶像崇拝をするなどの罪に陥ったり、モーセがヨルダン川を前に亡くなり、ヨシュアが後継者となって民を率いて故郷カナンの地に帰還する。
近年のニュースで、イランや北部アフリカなどのイスラム教国では未だに「石打ちの刑」が行われているという話を聞いた。
半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げ死に至らしめる。
残酷なのは、罪人が即死しないよう、握り拳から頭ほどの大きさの石を投げつけるという。
こんなこといまだにやっているのかと驚きあきれたが、イエスの時代にはそれが普通に行われていたのである。
聖書は、その出来事を次のように伝えている。
律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
「ヨハネの福音書8章」が伝えるこの出来事の顛末だが、罪なき者はいるかと問われ、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行ったというのも、含蓄のある場面ではある。
イエスの「あなたがたの中で罪のないものが 石をなげつけよ」という言葉には、それだけの権威があったに違いない。なにしろ、人々はそこから一人残らず立ち去ったのだから。
しかしそれ以上に気になるのは、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」という箇所である。
パリサイ人や律法学者が問い続けている真ん中で、身をかがめて地面に何かを書くことを二度まで行っているのだから、全体の文脈の中で「地面に文字を書く」ということがいかに重要なのかがわかる。
それでは、イエスは、地面に何を書いたのか。そしてそのことで、人々に何を伝えようとしたのか。
新約聖書を旧約聖書をつき合わせてみると、「謎」が氷解することがある。
実は、イエスが”指”で地面にものを書くということに対応する箇所が旧約聖書にある。
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「十戒」のなかの第七戒は「汝 姦淫するなかれ」であるが、イエスがここで地面に書かれた文字が、モーセの「十戒」であるならば、「地面に文字を書く」という仕草は、この戒律を与えたものこそがイエスであること。さらにはイエスこそが”神”そのものであることを示すサインなのである。
主イエスが指(単数)で地面にものを書くということは、新約聖書全体を見回しても「単数の指で」ものを書いているという記事はこの箇所ノミである。
すると旧約聖書の中でも一箇所だけ、単数の指でものを書いている箇所がある。
それが前述の「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、”神の指で書かれた石の板”をモーセに授けられた」(出31章)とある場面である。
新約聖書の最大の使徒・パウロはしばしば自らを「土の器」と表現している。
「ああ、人よ。あなたは神に言い逆らうとは、一体、何者なのか。 造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
陶器を造る者は同じ土くれから、一つを尊い器に他を卑しい器に造り上げる権能がないのであろうか。
もし、神が怒りを表し、かつ、ご自身の力を知らせようと思われ つつも、滅びることになっている怒りの器を大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意された憐れみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされた とすれば、どうであろうか」(ローマ9章)。
「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります」(Ⅱテモテ2章)。
このように、パウロは創造主なる神を「陶器師」になぞらえているのである。
ところでイエスが、民衆の病をいやす場面はいくつかあるが、特に印象的な二つの場面を比較すると、同じ癒され方でも、性格が違うことがわかる。
最初のケースは、12年間も長血を煩っていた女性が、イエスのうしろから近づいて衣にさわったところ癒された出来事。
女性は人目につかないように去ろうとするが、イエスは"わたしにさわったのは、だれか"と言われた。
女性は、イエスにさわったわけと、さわるとたちまち治ったこととを、みんなの前で話した」(マルコ5章)。
この女性が、穢れた存在として人々から排除され、身を隠すように生きてきたことは、"群衆にまぎれて"イエスの衣に触れたことでもわかる。
さすがに体にまで触れることはしなかったのも、病を負った女性の微妙な立場を表しているようだが、それでも”大胆な行為”であることに違いない。
そして「み衣にさわりさえすれば癒される」というほどの信仰を抱くことができたのが際立っている。
実際、女性はその信仰どおりに即座に癒されるが、その際イエスは力が出ていくのを感じ、「わたしの着物にさわったのはだれか」と問うたほどだった。
女性ははっきりと自分であると表明したばかりか、皆の前ですべての経緯を話したのある。
第二のケースが、生まれながらに目が不自由な男が癒される場面である。
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねると「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と応えている。
そう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム(「遣わされた」という意味)の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
目が見えなかった物乞いの男が癒されたのをみた人々は、 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいて、本人は「わたしがそうなのです」と証言している。
ところで、第一の「長血を患った女性」は、イエスの衣に触れただけで癒されたのに比べ、第二の「目が見えない男」へのイエスの癒しは随分手間をかけている。これは何を意味しているだろうか。
聖書の「土をこね目をふさぐ」とは何か陶器でもつくるような表現である。
イエスがつばで土をこねて目をふさいだ行為は、「癒した」というよりも、「創造した」という方が近いかもしれない。
パウロは土の器に譬えつつも、自らのうちに”宝”をもっているとも語っている。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4章)。
それは、創世記のはじめに、神が人(アダム)をつくる際に、土からつくられ、神の霊を吹き込んだ(創世記2章)とある。
つまり、パウロがいう「土の器の宝」とは、聖霊をさしている。
以上をまとめていうと、新約聖書に現れるイエスこそが、モーセに十戒を与えた神であること、そして創造主なる神であることである。
実は聖書には、異なる時代に生まれたはずのイエスとモーセが語り合う場面がある。
イエスがペテロとヤコブとヨハネをつれて山に登ると、「彼らの前でイエスの姿が変わり、その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないほどになった。すると、エリアがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた」(マルコ福音書9章)とある。
この場面で、イエス・モーセ・エリアよりさらに高い存在は見えず、イエスは弟子達に「人の子が蘇るまでは、いまみたことは誰にも話てはならない」と語っている。いわば”奥義”である。
そして、この世のはじめより隠されてあること、「ヤハウエ(私は有る)」の実体こそが、イエスということ。したがって神の名は「イエス」となる。