エルサレムで誕生した「初代教会」において十二弟子たちの働きを助けるために選ばれた7人の執事の一人にステパノという人物がいた。
「使徒行伝」に、ステパノが演説をふるっている様子が書かれているが、その時、ステパノは、アブラハムからイエス・キリストまでのイスラエルの歴史を滔々と語り、「あなたがたは強情でいつも聖霊に逆らっている」と責め、ユダヤ人達を怒らせる。
そのためステパノは石打ちにより死亡する。その殉教の現場にいたのが、当時熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を異端として取り締まる立場にあったサウロという青年であった。
事前にステパノ処刑の決定に賛成していたサウロは、刑の執行者たちの着物の番をしていたという。
その後、異端者を捕えるために鼻息も荒くダマスコに向かう途中で光にうたれ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声をきく。
その後、3日間目が見えなくなりアナニヤといわれる人物の処に導かれ視力が回復に向かうが、クリスチャン達はなかなか迫害者サウロ(パウロ)を受け入れようとはしなかった。
そんな折、使徒たちによって「バルナバ」(「慰めの子」という意味)と呼ばれていた信者がいた。
使徒行伝には、「聖霊と信仰に満ちた立派な人」(11章)と書いてある。
バルナバは、「彼(パウロ)の世話をして使徒達のところへ連れて行き、その身に起こったことを説明し、人々がパウロに対して抱いた恐れを取り除こうとした。
聖書には「バルナバは彼を引き受け」と記されているとおり、生活全般の面倒を見たと推測できる。
パウロは神を知らなかったとはいえ、自分が下した数々の決断に身震いしたに違いない。特に、ステパノの殉教の場面はに立ち会ったことは、消すことのできない焼印を残したに違いない。
そんな暗黒の日々に慰めを与え続けたのが、バルナバという存在であった。
それ以来、パウロは使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、ギリシア語を使うユダヤ人達としばしば語り合い、論じあうほどになっていく。
ところが、その1年後にバルナバがパウロと激しく対立する場面がある。
パウロとバルナバによる第1回の世界伝道旅行の時、助手としてマルコを連れて行った。ところがマルコは、キプロス島伝道のあと、現在のトルコに上陸してからエルサレムに帰ってしまう(使徒13)。
なぜマルコが途中で帰ってしまったのか、その理由は定かではないが、第二回目の伝道旅行の際に、助手のマルコが途中で退却したことが、問題となった。
バルナバはマルコを一緒に連れていくと主張するが、パウロは、途中で帰ってしまったような人など連れて行けないと、たいへん厳しい。
その際、パウロとバルナバの対立は消えず、両者は別行動をとることになり、バルナバとマルコは共に行動することになる。
このことは、福音の”広がり”という観点に立てば、後退というより前進であったに違いない。
ところで、この時問題となったマルコは「マルコによる福音書」を残すほどの存在だから、長い目で見てくれたバルナバの存在が大きかったにちがいない。
ただ、自他ともに厳しいパウロにも弱点があった。「ごう慢にならないように私の肉体にトゲが与えられた」(コリント人への第一の手紙15章)といい、このトゲから解放してもらえるように三度も神に願ったものの、神は「私の恵みはあなたに対して十分である」と応えている。
そんなパウロが、使徒達に書いた手紙の中に、バルナバという人物を髣髴とさせる箇所がいくつかある。
パウロは次のように語っている。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」 (コリント人への第一手紙13章)。
また、パウロは「信仰の実」として次のような資質をあげている。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5章)。
パウロの激しい生き様からすれば、少々違和感さえ感じる手紙の内容であるが、パウロは”自分の命の恩人”ともういうべきバルナバと接する中で、それを見出したのではなかろうか。
徳島県坂東には、四国霊場めぐりの一番札所である霊山寺があり、昔より心傷ついた者達を暖く受け入れてきた。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえたドイツ人捕虜達を日本国内各地の俘虜収容所に送り込んだが、1920年この坂東の村に「ドイツ人俘虜収容所」がつくられた。
この収容所の所長は松江豊寿(まつえ とよひさ)で、会津で生をうけたがゆえに、収容所長にして松江ほど敗者の側の気持ちを理解できるものはいなかったにちがいない。
幕末、戊辰戦争に敗れた会津藩の人々は、賊軍として青森県南部の「斗南」という不毛の地に「強制移住」され、塗炭の苦しみを味わいながらもそこを開拓し生き延びた。
ところで、会津という賊軍出身の松江が就任したドイツ人俘虜収容所の所長という地位をどのように考えるべきであろうか。
「夷を以て夷を制する」という言葉があるが、個人的な印象としては、「賊をもって夷を制する」という程度のものではなかろうか。
ただ、会津人は閉鎖的で融通が利かない人々ではなく、ユニバーサルな精神を持ち合わせている。
1900年に義和団事変で諸外国をまとめた指揮官の役割を果たした柴五郎大佐、また「白虎隊の精神」はイギリスで誕生したボーイスカウトの精神に生かされていることや、現代では国際的に活躍するフラメンコ・ダンサーの長嶺ヤス子などを輩出している。
こういう会津の「ユニバーサリティ」はどこに由来するのか。
意外や、会津が琵琶湖の東部で活躍した「近江商人」との関係が深いことを知った。
実は多くの著名な商人群像を輩出した近江の地は、戦国時代には大名・蒲生氏氏郷の領地であったが、蒲生氏郷はその後に伊勢松阪に転封となり、さらに福島県会津へと「転封」となっているのだ。
その際に名だたる「近江商人」をも連れて行ったのである。
ここに東北の盆地である会津という閉鎖的な地に「新しい血」、いいかえるとそれまでとは異なる「メンタリティー」が入り込んだことになる。
伊勢松阪の繁栄にせよ、蒲生氏郷が連れてきた「近江商人」ヌキにしては考えにくいのかもしれない。
ところで、そんな会津のユニーバサルを担う松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない」。
そして国際法にのとってドイツ兵を遇した。そして日独の驚くべき文化交流がうまれた。
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。
また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。
ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソーセージつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。
彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリーダーとする楽団で日本で始めてのべートーベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。
エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。
その中には練習場として使った徳島市の立木写真館の人々もいて、NHKの朝ドラ「なんちゃんの写真館」(1980年)の中にも、その時の場面が描かれていた。
エンゲル楽団は日本を去っても「第九」は残り続け、毎年大晦日に「第九」の合唱が響いていくようになり、それは今でも続いている。
「世界を変えた男」(原題:「42」)は、2013年制作のアメリカ映画で、アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを描いた作品である。
そして「慰めの子」という言葉で思い浮かぶのは、このロビンソンではなく、ロビンソンをチームに引き入れたゼネラル・マネージャーのことである。
1947年、ブルックリン・ドジャース(ロサンゼルス・ドジャースの前身)のゼネラルマネージャー・ブランチ・リッキーは、ニグロリーグでプレーしていたアフリカ系アメリカ人のジャッキー・ロビンソンを見出し、彼をチームに迎え入れる事を決める。
リッキーは、多くの黒人には野球ファンが多く、批判攻撃されてもかまわないとロビンソンを迎え入れる。
そしてロビンソンに野球のプレイを磨くことよりも、予想される差別に耐え抜くことが第一の条件であることを伝える。
それがどんな不条理なものであったも、もしもロビンソンがそれを反撃するようなことがあれば、黒人に野球プレーヤーの道は開けないという厳しい要求でもあった。
当時アメリカで起きていた人種差別の壁は高く、当時のMLBは白人選手のみのリーグとして存在し、黒人選手はニグロリーグでプレーすることしか許されない暗黒の時代だった。
それでもロビンソンは類まれな野球センスで、28歳のときにドジャーズに昇格したが、メジャーリーグは白人だけのものだったことから、彼の入団は予想されたとはいえ、球団内外に異常に大きな波紋を巻き起こすことになる。
ロビンソンは他球団はもとより、味方であるはずのチームメイトやファンからも差別を受け孤独な闘いを強いられる。
球団の移動も別行動、食事もシャワーの使用も別行動、そして球場で浴びせかけられる野次は耐え難いものであった。
さらには「黒人お断り」のホテルが並ぶ中、彼はチームと別に一人で宿探しをするなどつらいものがあった。
結局、ロビンソンはそうした差別を、観客を魅了するプレーで打ち消してていく以外に、生きていく道はなかった。
控え室でバットを叩き割るようなこともたびたびであったが、リッキーとの約束どうりあらゆる中傷に対して反撃しない「自制心」を貫き通す。
それが、後続の黒人がプロスポーツへの扉を開く道であるという強い意志があったからだが、白人ゼネラル・マネージャーのリッキーが絶えず彼の心を慰め支えたから出来たことであった。
そして、ロビンソンのプレーに、批判ばかりしていたチームメイトやファンたちの心は、やがてひとつになっていく。
そればかりか、そのプレーは黒人ばかりではなく白人をも魅了していく。
そしてロビンソンの孤独な戦いは次第にチームメイトの共感をよび、球場内の殺気だった差別的雰囲気の中にあって、ロビンソンへの野次に反撃する者や、あえてロビンソンの肩を抱いて、自分の気持ちを観客に表明する選手も現れていった。
そしてロビンソンの話を聞き日々慰めたのが、リッキーにほかならなかった。
しかし、リッキー自ら「攻撃の矢面」に立ってまで、どうしてロビンソンを世に出そうとしたのか。
ロビンソンが問い詰めると、リッキーにもまた秘められた過去があった。
ともあれジャッキー・ロビンソンは、リッキーの支援でナショナルリーグMVP1回/ 新人王/ 首位打者1回/ 盗塁王2回/MLBオールスターゲーム選出6回/など「黒人プレイヤー」のパイオニアとして、あまりある成績を残している。
リッキーの背番号「42」は永久欠番となっている。
バルナバが迫害者パウロを受け入れ、松江豊寿がドイツ人俘虜を厚遇し、リッキーが黒人ロビンソンに道く。そして、ひとりの日本人がユダヤ人亡命の手助けをした。
この外交官の行動は、国家的観点からも外交官という職務の上かも、法的根拠から導かれたものではなく、あくまでも「人道的観点」からのものであった。
その外交官とは、第二次世界大戦中にリトアニア大使館に勤務していた杉原千畝(すぎはらちうね)で、その人柄からしても「慰めの子」とよぶにふさわしい人物であった。
杉原千畝は1900年1月1日岐阜県八百津に生まれるが、この年は日清戦争と日露戦争のちょうど中間にあたる年である。
この年に北清事変がおこり、これを契機にロシアが満州を支配しようとしたため、日本国内にはイギリスとの同盟論が強まっていく。
1924年、杉原は外務省の書記生兼通訳官となり、満州に配置された。1932年満州は日本により独立国と宣言され、満州国と改名された。杉原は満州国の外務省に所属する公務員となった。
満州国は傀儡国家として建設されたが、彼は満州における日本人の我が物顔なふるまいに耐え切れずこの地位を1935年辞任している。
1937年、杉原はヘルシンキの日本公使館で通訳としてのポストに着任するために妻を伴って船でヨーロッパに向け発った。
しかし2年後、彼はリトアニアのカウナスに領事館を開設するようにと公式の命令を受け取った。
リトアニアのカウナスで杉原にとって、またそれそれ以上にユダヤ人にとっても運命的な出来事と出会う。
杉原は、リトアニアにおいて、ナチスの迫害に追われた、大量のユダヤ人難民に遭遇することになった。ユダヤ人難民たちは、ナチスから逃れるために、日本の通過ビザを求めて、カウナスにある日本領事館に、殺到していたのである。
領事館の日本通過ビザ発行の慣例では、行き先の相手国が発行したビザ、あるいはそれに代わる書類の提示を必要としたが、ユダヤ難民たちの多くは、希望する相手国が発行した書類をもつはずもなかった。
当時の西欧の国々は追われてきたユダヤ難民を受け入れる国はほとんどなく、パレスチナを管理していたイギリス政府は1939年の春、パレスチナに移住するユダヤ人の数を厳しく制限していた。
杉原は、緊迫してきた1940年7月から9月初旬に、何度も外務大臣あてに電報をうち、本省にビザ発行の許可を求めたが、ビザ発行に反対の返事だけが返ってきた。
そいてついに公式の許可なしに、つまり自分だけの責任において日本の通過ビザの発行に踏み切った。
そして、杉原は同年7月から8月26日までに「杉原リスト」として知られるビザを発行した。
8月29日、杉原はドイツ併合下のプラハ総領事館勤務を命じられ、カウナスの領事館を閉鎖して、ベルリンへ向かった。
しかし杉原は、汽車が発車する直前まで、ビザの発行を続け、杉原ビザによって救われたユダヤ人は約6000人にのぼった。
杉原は敗戦で帰国するも、外務省における職は続けられず、不遇な日々が続いたといってよい。
しかし救われたユダヤ人達は杉原をけして忘れず、戦後も恩人・杉原を捜し求めた。
そしてついにユダヤ人達は1968年東京の貿易会社で働く杉原を見つけた。
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞している。