「岬めぐり」は、1974年にリリースされた山本コウタローとウィークエンドのファーストシングルである。
♪岬めぐりのバスは走る 空に広がる青い海よ 悲しみ深く沈めたら この旅終えて 街へ帰ろう♪
人それぞれの「岬めぐり」というものがありそうで、それがヒットに繋がった最大の理由であろう。
作詞家の山路夫によれば日本各地の岬を歩きまわってできたイメージをもって書いたそうだ。
しかし、神奈川県三浦市では三浦半島がモデルであると信じられており、京浜急行電鉄久里浜線三崎口駅の電車の接近メロディーは「岬めぐり」をアレンジしたものだという。
さて、"バス旅"ばかりか、"バス通勤"や"バス通学"にもそれぞれの青春の思い出があるにちがいない。
高校時代、女子高生のファンクラブができて「バス停の君(きみ)」とよばれていたのが福山雅治。
福山は小学校の高学年の頃から新聞配達のアルバイトをしていて、将来は音楽の先生になりたかったが、家庭の事情で進学をあきらめた。
福山は、長崎の工業高校時代に兄とバンドを組んで音楽活動をはじめいつしかミュ-ジシャンに憧れるようになります。福山はギター、兄はドラムを敲いていたそうです。
そんな福山は、意外なことに茶道部に所属していたが、その理由はお菓子が食べられるからだった。
福山の兄は自衛隊に就職し、福山は高校卒業後地元で電機会社で数か月間働いたようだが、あまり仕事には身が入らなかったようだ。
ミュージシャンをめざし上京しはじめて東京で生活をした町が昭島市の福生である。
福生といえば横田基地の町で、村上龍の芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブル-」の舞台となった町。
福山にとって基地は大きな意味があったに違いない。
2009年8月11日「長崎原爆の日」FMのレギュラー番組に出演した福山は、「父親はもろに被爆しました。母親 も厳密に言うと被爆してることになる。だから僕は被爆2世ということになる」といっている。
年譜を見ると、高校卒業後、父親が他界しており、兄も自衛隊に入隊していたため、母親をひとり残して東京に行くことができず、地元の電気会社に就職することになった。
上京する時は、さすがにミュ-ジシャンになるとはいえず古着屋になると言って出てきたという。
福山がなぜ長崎の町を出たのかはわからないが、福山がデビュー時のオーデションで歌った歌が泉谷しげるの「春夏秋冬」だった。
あの歌の歌詞に、♪季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち 夢のない家をでて 愛のない人に会う♪、といったフレーズがあるが、当時の福山の心情を物語っているように勝手に想像している。
福山はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えている。福生で生活していた時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていたという。
ライブ活動をしながら1988年にあるオーディションに合格し、俳優デビューしている。1993年 フジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下で」で人気に火がつき、ミュージシャンとしても知られていく。
福山は、ドラマ「ひとつ屋根の下」でブレイク後、自分探しをするように世界中をバス旅して各地を回って、それが自分の原点にもなっているという。
シンガーソングライターの広瀬香味も「バス停」と特別に縁深い。なにしろ書き溜めた作曲の多くは、通学路のバス停周辺で書いたものだったから。
和歌山県で生まれで、6歳まで大阪府門真市で育った。
父は建設関係の職業で、6歳から福岡県育ち。
幼い頃から英才教育を受けたのは、「手に職を付けてもらいたい」という母の意向で、4歳からピアノ、そして5歳から和声学などクラシック音楽の作曲法を習い始めた。
練習をしなければ夕食抜きになるなど、学習は非常に過酷であった。
第1号作品を完成させたのは6歳で、タイトルは「パパとママ」である。
初めて買ったレコードはバッハの「マタイ受難曲」。この作品には作曲法が詰まっていて、作曲のルールを身につけるための勉強になるからという先生からの教えで、夕食中などにも聴き続けていた。
日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え、頭の中に浮かべ続けていたという。
新しいメロディが浮ぶと、その場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた。後年に広瀬が発表した楽曲の中には、こうして子供時代に作ったメロディを使ったものも多い。
元々人が歌うのではなく、ピアノやヴァイオリンなどの器楽曲として書いたものだったことは、メロディの起伏が激しいという特徴につながっている。
東京の音大を目指し、地元福岡での勉強に加えて2週間に1度は飛行機で東京にレッスンに通っていた。
福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)卒業後、国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学するも、学科内での成績は悪く講師から「何になりたい?」と尋ねられて作曲家と答えるも、”無理”と言われた。
幼少期から養った音楽理論と自身の夢を否定された広瀬は、気分転換を兼ねて高校時代の友人を訪ねるためロサンゼルスへと旅立った。
そこで、マイケル・ジャクソンやマドンナのライブを観て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。
クラシックの楽曲を編曲してマイケルに楽曲提供したいという夢が生まれた。
そして夢に少しでも近づくためポップ・ミュージックの勉強を開始する。
広瀬は、中高生が音楽のピークだったというが、浮かんだ曲を五線紙に書くだけの”浮いた”存在。
誰に声をかけたらいいかわからない。かけようとも思わない。
フツフツしてどう吐き出していいか、どう生きたらいいか煩悶し、親にも心配かけたくはなかったという。
あの「ロマンスの神様」や「ゲレンデが溶けるほど恋したい」の爆発力からは想像しにくい姿である。
中学、高校生時代にはよく通学中に作曲していたという。1983年ころ「ロマンスの神様」や「愛があれば大丈夫」の一部は福岡市南区の井尻六ツ角交差点の歩道橋の上で五線紙を広げて作られた。
歩道橋を降りると福岡女学院行きバス停広場で、歩道橋は今日は学校にいくべきか戻るべきかの、いわば「ルビコン川」みたいな処だった。
そして通学バスのナンバー「す3316」を覚えていて、バスが初恋の相手で「スー君」と呼んでいた。
ブレーキ音シューに「エアーブレーキ」の音がセクシーで心をわしづかみされたという。
TV番組「激レアさん」で見た山本宏昭さん。
バス好きが嵩じてバス路線の運転手になった人。
そんな人どこにもいると思いそうだが、大型のバスで人の送迎をしていたところ、それが公的なバス路線としてみなおされ、夢のバス運転手として採用された。
夢の始まりは、家がバス停の前にあり、子供の頃からその大きさに憧れたという。
その思いは変わることなく続き、バス会社に就職をと思った山本だが「若造は経験と腕がないからNG」などという理由から採用試験に落とされてしまう。
それでも、バスへの思いは消えることなく、個人で中古バスを購入、葬儀屋の送迎を請け負うことで、一応バスを運転する夢がかなうことにはなる。
もちろん、中古バスを購入するにもそれなりの資金が必要だが、折しも買った株があたってその利益をすべて中古バスの購入につぎ込んだのだという。
山本は自分でバスを所有することが出来た喜びで、車体の手入れをすることに夢中で、時間を過ぎても帰ってこないことさえもあったという。
しかし、送迎バスの仕事は赤字続きに陥ってしまう。
そんな逆境に置かれても、山本の「バスを運転したい」という思いは尽きなかった。
そんな山本の情熱は「コミュニティー・バス」の運転手に応募して採用されることに繋がった。
そのうち、住民の要望で山本が運転するバス路線がついに市営のバス路線となり、念願の路線バスの運転手になることが実現する。
そんな山本は「自分の好きなことをさせていただいて、お客さんに生かされていると。皆さんに感謝しかない」と番組で語った。
路線バスは観光バスより上級な免許が必要。貧乏な一般人が大きなバックボーンもなく、路線バスの運転手の認可を受けてやるというのは、「奇跡中の奇跡」で戦後初の快挙なのだそうだ。
山本の並々ならぬ「バス愛」が引き寄せたとしかいいようのない「激レア」ケースであった。
バス運転手ではなく、バス車掌についての感動話が残っている。1947年長崎県時津町で起きた、”もうひとつの塩狩峠”というべき出来事であった。
長崎のグラバー亭から15分ほど、長崎市郊外の時津町に「打坂」というバス停がある。
1949年、長崎自動車の当時木炭バスが37名程の乗客を乗せて、打坂を登っていった。
乗客は殆どが原爆症の治療の行く老人と子供達であったが、坂の途中で突然にエンジンが停止して、動かなくなってしまった。
運転手がブレーキを踏んで、エンジンを入れ直そうとしたところ、ブレーキは利かず、補助ブレーキも働かず、バスが後ろ向きに暴走し始めた。
当時は打坂峠は舗装されておらず、勾配が20度もある急な坂道でバスの運転手から「地獄坂」と呼ばれていた。バスは車体の後ろに大きな釜をつけ木炭を焚いて走っていた木炭バスだ。
打坂峠の頂上までもう少しのところでバスのギアシャフトがはづれた。
運転手はあわててサイドブレーキを引いたがブレーキは全く効かずバスは急な坂をズルズルと後ろ向きに下がり始めた。
運転手はバスを止めようと必死になるがバスはドンドン下がって行く。
運転手は車掌に向かって「鬼塚!すぐ降りろ!石ころを車の下に敷け!」と絶叫した。
すぐに鬼塚車掌はバスから飛び降りた。
手近にあった石をいくつか車輪の前に置きバスを止めようとした。
しかし急な下り坂で加速度的に勢いをつけて下りてくるバスの車輪は石を乗り越えて輪止めの役をしない。バスは高さ20メートルの険しい崖に迫った。崖からバスが落ちれば乗客の命が危ない。乗客はなすすべもなくパニックになった。
「こいは、おしまいばい!」と乗客皆がそう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まった。運転手と乗客はホッとして「よかった、よかった」と我にかえった。
運転手はバスから降り「鬼塚!どこに、おっとか!」と叫んだ。乗客の一人が「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」とこわごわと指さした。
車輪の下を見て驚いた。鬼塚車掌が車輪の下に横たわっていた。彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いだのだ。
時刻は朝の10時過ぎ、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込んだ。
病院での必死の手当てのかいもなく、鬼塚車掌は21歳の若い生涯を閉じた。
鬼塚車掌は長崎バスの大瀬戸営業所の二階に住み込んでいた。毎朝バスの出発の2時間前には木炭の火をおこして準備をし、火の調子を整えていた。
また走行中にもよくエンジンが止まり、その度に車体後部の釜の炭火を長い鉄の棒でかき混ぜ火の調子を整えるのが車掌の仕事だった。
この事故が起こった時期は日本が敗戦後の虚脱の状態で人はみんな生きていくのが必死の状態で、鬼塚車掌の尊い行為も人々の記憶から薄れて行った。
事故から27年たった1974年、長崎自動車(長崎バス)は鬼塚車掌の勇気をたたえ、事故現場の国道206号線沿いの打坂峠に唐津石で作った慰霊地蔵尊を建てた。
車掌の命日であり事故が発生した9月1日には毎年、長崎自動車の社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っている。
アメリカと中国の国交回復のきっかけは、バスの中の出来事であった。
初出場の中国チームは、1961年の北京大会で当時の「卓球王国」日本の五連覇をはばみ、その後の大会における優勝を含め、「三連覇」を達成していた。
さらに1965年の世界大会では実に7種目中5種目で優勝するなどして日本に代わる「世界最強」のチームといってよかった。
ところが中国で「文化大革命」がおき、中国が参加する機会を失った67年69年は、世界卓球選手権はもはや「世界大会」とはいえなかった。
後藤は周囲の反対にあいながらも、北京を訪問して名古屋大会への「中国参加」を働きかけた。
そして、中国と太いパイプを持っている西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らの協力を得て、「中国参加」を実現したのである。
そしてこの名古屋大会において、ある歴史的なハプニングがおきた。
中国選手団のバスにアメリカ選手が「間違って」乗り込んでしまったのだ。
当時、中国には「アメリカ人とは話しをするな」という不文律があったのだが、復帰した元世界チャンピオン荘則棟氏は、チームメートの制止をよそに、アメリカ選手に気軽に話しかけたのだ。
そして、この「対話」で両国選手団にすっかり友好ムードが漂ったのである。
そして翌年それまで国交のなかったアメリカに、中国の卓球選手団が招待されたのである。
そして後藤こそが、中国選手のアメリカ訪問の舞台を準備して演出したのだ。
そして同じ年の1972年2月23日にニクソン大統領の電撃訪中が実現し、米中の国交が正常化する。
その際に、人民大会堂で開催されたレセプションで周恩来首相から元世界チャンピオンの荘則棟選手が大統領に紹介されるなどして、ピンポンが米中国交樹立に少なからぬ役割を果たしたことを示した。
その後、日本をはじめ中国との国交回復をはかる国々が相次いだ。
中国では「井戸を掘った人の恩を忘れない」という言葉があるが、井戸を掘ったのは、愛知工業大学の後藤鉀二(ごとうこうじ)学長であり、「ピンポン外交」という言葉はこの後藤に帰する。
後藤は、1971年第31回世界卓球選手権名古屋大会当時、日本卓球協会会長でアジア卓球連盟会長であった。
さらに後藤は、長く国際スポーツの世界から遠ざかっていた中国の参加を実現した人物である。
そして後藤鉀二氏の意思を引き継ぐかたちで、「ピンポン外交」において大きな役割を果たしたのが、後の世界卓球協会会長の荻村伊智朗である。
荻村が1971年、後藤と共に日本チーム団を率いて中国を訪問した際に、荻村は周恩来首相に中国がこれから力をいれていく卓球のために力を貸して欲しいと告げられた。
周恩来によると、中国には早くから国家的にスポーツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足(てんそく)」という習慣であった。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし纏足は女性を家に縛りつけておこうという男性側の都合でできた悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことは、この「纏足」をやめさせることに繋がるというものであった。
さらに中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていて、中国は卓球というスポ-ツで自信を回復したいという内容だった。
それは、荻村らかつてめざした”卓球日本”とピタリと一致した思いだった。