「IR」というギャンブル

1989年に開通した横浜ベイブリッジの海面から橋げたの高さは55m。当時、世界最大規模の客船でも通れるように設計されたが、それ以上に大きな船が増えてきた。
そこで、ベイブリッジをくぐらなくても良いように、その手前にある大黒ふ頭に客船用のターミナルを作った。横浜港初の本格的な”島式ふ頭”で、この大黒ふ頭に着岸したのが、大型客船の「ダイヤモンド・プリンセス」である。
さて横浜港にはもうひとつ注目された埠頭がある。IRの候補地の横浜港・山下ふ頭である。
横浜市は2019年8月、カジノを含む統合型リゾート(IR)を誘致すると発表した。その拠点が山下公園などの観光地にも近い山下ふ頭である。
「IR法」というのは正式名称は 「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律」で、Integrated(統合された) Resort(リゾート)」で、日本語では 「統合型リゾート」と呼ばれている。
最近、少子化で、東京都民に愛されてきた豊島園が閉園というニュースがあったが、横浜市は人口減少が進み、経済の活力低下や財政悪化が進むとの見通しの上、IRはこれまでにない経済的社会的効果が見込まれるとしてIR推進へとカジをきった。
現在、国の認可の上限は3か所。候補地は全国10都市あまりだが、その中で一気に“本命”に躍り出た感がある。というのも、IRの横浜誘致の陰には、菅義偉・官房長官の存在があるからだ。
菅官房長官は横浜がお膝元で、「IR法」を成立させた中心人物でもある。
「IR法」推進に関する委員の人選は、菅義偉の存在が大きいといわれる。
そんな中、昨年末に秋元司衆院議員が東京地検特捜部に逮捕された。IRへの参入を目指していた中国企業に国交省などからIRに関する資料を取り寄せるなど便宜を図った見返りに、現金300万円などの賄賂を受け取るなどしたというもの。
秋元はIR法の管轄官庁の国交省の副大臣という立場にあっただけに影響は少なくない。
菅官房長官は、秋元議員の逮捕には関係なくIRを推進していくと述べているが、果たして司直の捜査は秋元議員でまでで収まるだろうか。
また、横浜のIR参加表明は駆け込みの感があった。そこには「ハマのドン」と呼ばれ、横浜港の港湾荷役を取り仕切ってきた藤木幸夫(横浜港運協会会長)の存在がある。
藤木は、菅の古くからの有力後援者だが、港湾荷役の拠点である山下埠頭へのカジノ建設に反対して2人は対立したという。
さらに横浜が首都圏初の候補地として名乗りをあげると、大阪進出を目指していた米国のカジノ最大手ラスベガス・サンズ社のアデルソン会長は横浜進出に方針を変えたということもある。
アデルソンはトランプ大統領の盟友で、日米首脳会談にも同席して安倍首相に日本の「カジノ解禁」を説いたとされる人物でもある。
ラスベガス・サンズはトランプ大統領の大口スポンサー であり、大統領が献金者の個人的なビジネスの利益を他国の首脳に求めるなど、日本の首相が「桜の会」に後援者を招くどころの話ではない。

高倉健と藤純子主演(1969年)の「花と龍」は、北九州若松を舞台とした物語。その初映画化(藤田進・山根寿子主演)が1954年で、エリア・カザン監督のニューヨークを舞台とした「波止場」と”奇しくも”同じ年に公開されている。
"奇しくも"というのは、いずれも若松港とニューヨーク港ではたらく港湾労働者の世界を描いたものだからだ。
エリアカザン監督といえばジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」(55年)があまりにも有名で、同監督による「波止場」は、陰に隠れた感があるが、実は1954年度のアカデミー賞作品賞など8部門を受賞し、主演男優賞が当時30歳のマーロン・ブランドが元ボクサーという役で出演している。
この映画はそのタイトルどおり、1950年代のニューヨーク港の波止場において船荷の運搬作業に従事する沖仲仕(おきながし)たちと、それを牛耳る港湾組合のボスたちの姿を描いたもので、組合長とマフィアとの港の支配権をめぐる争いを描いたものである。
一方「花と龍」は、若松出身の作家・火野葦平が書いた小説を原作として、九州若松における沖仲仕たちの仕事とそれを牛耳るヤクザの姿を描いたもの。
船荷の運搬作業をめぐる「利権争い」は日米の映画共通である。
さて北九州は、明治中頃から昭和40年代(1970年前後)までの約80年間、筑豊炭鉱の興隆にともない、石炭の集散地として発展した。
しかし1942年、国家総動員法に基づく個人企業整備、港湾労働者は整理され、戦後は、エネルギーは石炭から石油へ転換。「ごんぞう」と呼ばれた荒くれ男達の姿は、次第に姿を消していった。
一方、映画「波止場」舞台となったニューヨークは、17 世紀以降オランダからの入植が本格化して人口が増え、船舶による物資の搬出入作業は必須であった。
自らの肉体のみを頼りとする荷役労働は次々に到来する移民たちの就業先となり、ニューヨークに着いたばかりの新参者たちがこうした仕事の中心となった。
あらゆる物資の搬出入を担う「港湾労働者」は必要不可欠な存在であり、ニューヨークの各港湾地区で働く労働者を組織していたのは国際港湾労働者組合(ILA)で、アイルランド系やイタリア系を中心に、移民労働者を組織基盤としていたILAは、労組の支部を「桟橋群」ごとに築いたのである。
さて、IR法推進の藤木会長が「山下埠頭は聖地、博打場にはしない。命を張ってでも反対する」と気を吐いた。
横浜の港湾労働者の実態はよく知らないが、若松の港湾労働者の世界にはかつて「博打(ばくち)」があった。それこそ「花と龍」の世界なのだが、体をはって生きる者達の世界に、カジノに集う金ぴかに着飾った男女が出入りするのに反対する気持ちはわからないではない。
ちなみに、火野葦平の自伝的小説「花と龍」のモデルとなった玉井金五郎であるが、火野葦平は本名は玉井勝則といって、玉井金五郎の長男である。
そして葦平の妹の子供が、先日亡くなった「ペシャワール会」の代表の中村哲医師である。
つまり母方の祖父が、石炭の沖仲士の組合「玉井組」を立ちあげた玉井金五郎という関係である。

IRは果たして成功するのかどうか。思い出すのは、バブル全盛の1987年制定された「リゾ-ト法」である。
リゾ-ト法は「総合保養地域整備法」の略称で、多くの人々が多様な余暇活動が楽しめる場を、民間事業者の能力の活用に重点をおきつつ、総合的に整備することを目指して制定された法律である。
都道府県が策定し国の承認を受けた計画に基づき整備されるリゾート施設については、国及び地方公共団体が税制上の支援を行う等の優遇措置が執られた。
カネ余りと内需振興の掛け声により、各地方が民間企業と組んでリゾート開発を計画し、41道府県の42地域が国の承認を受けた。
しかし、その後のバブル崩壊等もあり、そのほとんどが頓挫し、また、大規模年金保養基地(グリーンピア)等の公共リゾート等の失敗もあいまってリゾート開発の時代は虚しくも終焉を迎えた。
TVなどで建設途上の施設が廃屋と化し、残骸のように朽ち落ちた観覧車などを見るに付け、日本人の考えるリゾ-トの”薄っぺらさ”が曝け出された印象が残った。
つまり、人間にとってとても大切な余暇や保養の追求ではなく、誰かに金儲けさせようという発想がミエミエなのである。
これまでのも、ホテルを建て、どこもここもゴルフ場と他のスポ-ツ施設をつくり、ちょっとした遊園地をセットにして、人々を呼び込もうとした。
実際、同法の適用を受けたのは、おもにゴルフ場、スキー場、マリーナなどで、計画の段階でこういう施設を作ること自体が適用をうける条件となったことが、安易なリゾート開発を導き、建設業者をもうけさせるに一役買ったことになる。
そのようなところで、今その設備が残っているところは、どれほどあるのであろうか。
反対にそういう流れには乗らなかったリゾート地は今も生き残っている。
東京デズニーランドは、様々な物語の中に自分を置くことができるというコンセプトで、多様な人々を飽きさせない様々なアイデアが成功に導いた。
福島県常磐市の「いわき温泉」は、炭鉱の町をハワイアンセンターに変え、ひたむきかつユーモラスな生き残りの姿が、「フラガ-ル」というタイトルで映画化された。
そこには”ハコモノ”で人を引き寄せようというものとは違う、人間的な発想があったように思う。
リゾート開発で好対照となったのが、大分県湯布院町と北海道夕張市である。
また、まったく無名な農村・湯布院のリゾート化へのスタ-トは、今から50年ほど前に、三人の若者が町長に百万円の借金を申し込んでドイツのバーデンに視察に行ったことから始まる。
彼らは、バーデン市長の「町づくりは百年単位」「大切なのは静けさと緑」というその言葉に感銘を受けたのが原点となり、頑なにその姿勢を貫いた。
湯布院町長はダム建設にNOと言い、地震で湯布院壊滅報道で客足が遠のけば、また借金して馬を買い自力で調教して馬車を走らせた。そしてそれがマスコミに取り上げられ、かえって客が来るようになったという。
実は、湯布院にとって最大の危機はバブルであった。札束を農家の目の前に積み上げ農地を買い取りリゾートマンションを計画する業者が、町に開発許可を求めた。
町職員は、農家や町の人々と湯布院の町を守っていこうとよびかけるが、難敵が甘い誘惑をエサに次々やってくる。
建設省から呼び出され、建設省通達より厳しい基準の条例はあり得ないと却下されるが、この時企画課長だったH氏は建設省の高級官僚に自分たちのふるさとを守る為に力を貸して欲しいと捨て身のプレゼン作戦を行い、条例案の文章を一部変更するなどの智恵を借りて通したという。その結果、ついに業者は開発をあきらめた。
こういう苦闘の末に、湯布院は全国リゾート人気ナンバーワンになったのである。
対照的だったのは北海道の夕張市の財政破綻である。その原因は「リゾート開発」の失敗でバブルに呑み込まれたといってよい。
夕張は明治の初めにアメリカ人により石炭の鉱脈が発見され、後に財閥などが採炭を開始した。
1960年に炭鉱は24山にのぼり人口は12万人と増加した。
エネルギー政策が石炭から石油に転換されると閉山が相次ぎ、1971年に人口減少で過疎地の指定を受けるようになった。
平成に入ってから最後の炭鉱が閉山し、現在では1万4千人ほどの人口で全国で4番目に少ない市になる。
町おこしのために”夕張メロン”を開発した。ところがメロンは、日持ちが悪かったため流通に乗らなかったのだ。
実は、クロネコヤマトを一躍有名にしたのがこの夕張メロンの産地直送サービスだった。
そこで、宅急便の産地直送となったわけだが、これが大ヒットし、クロネコヤマトも夕張メロンもこれをきっかけに急成長したのである。
ここまではよかったのだが、町の根幹たる炭鉱閉山を余儀なくされ、観光都市に転換しようと1980年のテーマ・パークブームに乗った。
「石炭の歴史村」が開館し、遊園地やスキー場が次々と整備されていった。道東自動車道が開通してリゾートタウンともてはやされたのだが、市の「ハコモノ行政」が裏目に出て一転赤字転落。
夕張市は、この財政赤字額を銀行融資で賄ったが、道庁の許可なしに行なっていたことを表面化させないための粉飾決算までも行い、さらに財政赤字を拡大し破綻都市へと転落した。

「リゾート」は英語の意味からすると「頻繁にかよう」「(手段に)訴える」「頼り/たのみ」などの多様な意味を含んでいる。
「リゾート法」で定義されたリゾ-トとは「国民が多様な余暇活動を楽しめる場」であるから、テ-マパークもその一つと考えてもよい。
リゾート法の失敗から見えてくるのは、リゾート開発は、長期的な視野と緻密な戦略が必要となるということだ。
しかし、日本のIR推進はあまりにも唐突かつ性急で、かつての「リゾート法」の二の舞になる懸念さえある。
IRは、カジノ誘致により観光客が増えるということを前提に、 もてなす人員も増やす必要があり、それによる雇用の増加に繋がると言われている。
また 観光客は「複合型観光施設」の売上だけでなく、 施設外のお店で消費してくれることに繋がり、そうなると様々な企業の利益は上がり 税収も増加するという図である。
一方、「日本人をギャンブル依存症にするのか」などの反対の声には、ある程度根拠がある。直接的影響かどうかは定かではないが、ラスベガスがあるネバダ州は、約半数が借金問題を抱えているという。
もしギャンブル依存症から貧困層が増えた場合、 その地域の治安悪化にも繋がり、観光客のマナーの欠如による治安悪化も考えらる。
反対論を抑えるためか「IR法」で日本人の入場規制をすることになっている。
日本人の入場を制限した。外国人は無料なのに、日本人からは入場料6000円を取る。しかも、入場は週3回、月10回までしか認められない。場内にATMの設置を禁止している。
当然、偶然に勝つ要素が高いわりに、長くギャンブルを続けていくと確率的に客が必ず負けるようにできている。
日本人の一般ギャンブルファンは、こんな面倒なカジノには行きそうもない。
日本人の富裕層の個人金融資産量を割ると、日本のカジノ1カ所当たりの個人金融資産量は、アメリカ、中国をはるかに上回るのだそうだ。しかしこれで「確実に利益が上がる」というのは早計だ。
というのも、富裕層が求めるものに、日本では受けられない海外での”VIP待遇”だからだ。
となると、入場を制限されない海外からの顧客がたよりとなる。それも、中国人富裕層がどっと来なければ、日本のカジノは成功できそうもない。
我が福岡でかつての「リゾート法」で開発されたのが、マリノア・シティ。そこには日本最大の観覧車ともうひとつ、2つの観覧車があった。
大きい方の観覧車は、2006年に中国に抜かれるまではアジア最大の観覧車としても有名だった。
しかし、客が減って日本最大の方は2009年に台湾へ移送されて現在も稼働している。
残った小さな方の観覧車でさえ、アジアからの観光客頼りの状態である。
ところで、ラスベガス空港に降りてみて早速驚くのは、空港にスロットマシンがあることである。
ホテルでも客の多くがテーブルゲームではなくスロットマシンに興じている。
ラスベガスのようなギャンブルの街でも、一般人は本格的なギャンブルよりもスロットマシンに向かっている。日本なら近所のパチンコ屋で十分で、規制の多いカジノにわざわざ足を運ぶとは考えにくい。
しかも、アジアにはシンガポール、マカオ、韓国にカジノが存在しており、それらに優る「付加価値」を提供できるのだろうか。
現在、日韓関係の悪化で韓国客、新型コロナウイルスで中国客が減少している。つまり外国人客は、不確定要素がつきまとう。
TVで大黒ふ頭に停泊中のダイヤモンドプリンセスを見るにつれ、ウイルス拡大の心配に加え、「IR」自体が日本にとってギャンブルに思えてきた。

当時、東京地検特捜部はまず、事前の届け出のない海外との金銭取引を行ったという外為法違反の容疑で関係者への捜査に踏み切った。その過程で、5億円が田中氏に渡り、それを受けて田中氏が全日空に働きかけたことを明らかにしたうえで、1976年7月、外為法違反と受託収賄の容疑で田中氏を逮捕したのだった。 今回の行方は… 「秋元氏は否定しているが、便宜の詳細は、これから徐々に明かされてくるだろう。かなりやましいところがあるのが実際とみられる。その証拠に、逮捕状が出そうだとなると、妻子を早々にハワイに逃がしている。おそらく夫婦で接待を受けたりしたことを案じてのことだ。そのくらいの深い関係であった以上、業者の要望にも相当、応じているのではないか。今回こそは起訴を免れないだろう」(同関係者) 特捜部が現職の国会議員を逮捕したのは、約10年ぶり。マスコミ各社は、2010年1月に政治資金規正法違反の容疑で逮捕した石川知裕衆院議員(当時)以来だと報じている。ほかの国会議員への波及や、本稿のようにロッキード事件に言及する向きもあった。実際、捜査は拡大し、12月25日には自民党の白須賀貴樹議員の事務所にも家宅捜索に入った。 だが、日本政界に衝撃を与えた田中角栄の事件と比べればあまりに中身も規模も違う。マスコミの「わかりにくい報道」にも疑問の声が少なくない。 特捜部の捜査のありかたや、それを取り巻く環境はいま大きく変わりつつあるのかもしれない。 運営会社プリンセス・クルーズ(Princess Cruises)によると、イタリア・ソレント(Sorrento)半島出身のアルマ船長は、1998年に入社。研修生からスタートし、2018年にダイヤモンド・プリンセスの船長に就任した。
しかし、その出世の先で、ダイヤモンド・プリンセスが14日間にわたる過酷な隔離下に置かれ、600人を超える乗客乗員に新型コロナウイルスへの感染が見つかって、船長の資質を試されることになるとは思いも寄らなかっただろう。
毎日のように新たな感染者が出る中、アルマ船長は船内に一日中閉じ込められた乗客ら2600人に向け、頻繁にメッセージを送った。
窓のない小さな客室から出られずにいる乗客もいる中で、情報を提供し続け、励ましの言葉を掛けた。
「ダイヤモンドというのは、高いプレッシャー(圧力)の下で非常にうまくいった炭素の塊です」。アルマ船長は乗客にこう語り掛け、ソーシャルメディア上にハッシュタグ「#hangintherediamondprincess(ダイヤモンド・プリンセス頑張れ)」と一緒に投稿された応援メッセージを読むよう勧めた。
「ここに残る人々が家族のように団結できると確信しています。一緒にこの旅を成功させましょう。世界が私たちに注目しています」。
バレンタインデーには、乗客にチョコレートを贈り、「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」との聖書の一節を添えた。
神経の擦り減る過酷な隔離生活が続くうちに、乗客たちはアルマ船長の落ち着いたアナウンスに信頼を寄せていった。「乗客の間でパニックが起きていない理由の一つは、船長のリーダーシップだ」と、乗客の一人はツイッター(Twitter)に投稿した。
「定期的に情報を提供し、検疫官に相談して乗客のリクエストに応え、デッキを歩き、医薬品の配布の遅れを謝罪する…こんな人に、私たちの国の指導者になってほしい」。
また、米ニューヨークのハドソン川(Hudson River)に旅客機を不時着水させ、乗客全員の命を救った「ハドソン川の奇跡」のチェズレイ・サレンバーガー(Chesley Sullenberger)機長(当時)を思い出したと投稿した乗客もいた。
乗客からは「恐れを知らない司令官」への応援メッセージが殺到し、アルマ船長はよく感謝を口にしていた。「私を心配してくれる皆さん、あなた方の優しさにとても心を動かされました。ご安心ください、私は元気そのものです。12日前とそっくりそのまま同じ船長です。ただ、白髪はちょっと増えましたが」。
アルマ船長のメッセージにはしばしばイタリア語のフレーズが登場した。食事の際に「ボナペティート(召し上がれ)」と言ったり、下船する乗客に「アリベデルチ(さようなら)」と声を掛けたり、といった具合だ。一方で、恥ずかしそうにイタリア語なまりの英語を謝罪することもあった。
「イタリアにいる友人が、私のアナウンスを録画した動画を送ってくれました。何度も何度もこれを聞かされた皆さんに謝ります」とアルマ船長は述べている。「正直、自分で自分のアナウンスを聞いて、発音のひどさに驚きました。でも、悪いのはマスクです。そういうことにしておきましょう」。
母国イタリアでは、アルマ船長を「イル・カピターノ・コラッジョーゾ(勇敢な船長)」とたたえている。妻マリアンナMarianna Arma)さんによれば、アルマ船長は「温厚で、責任感の強い人」だという。
故郷サンタニエッロ(Sant'Agnello)のピエトロ・サグリスターニ(Pietro Sagristani)市長は、地元住民全員が心配しながら日本から届くニュースを追っていると話し、「だが、われわれは彼を信頼している」「彼はきっと大丈夫だ」と語った。

こちらが現在のマリノアシティ福岡の様子。 観覧車の存在感は絶大。マリノアに行って観覧車に気づかない人はまずいないだろう。 しかし、昔は観覧車がもう一つあったと言うから驚きだ。 観覧車が2つあった時代の写真がこちら↓ マリノア観覧車画面左側が今もある観覧車、右側が今はない観覧車。 写真を見て分かる通り、今はなき観覧車の方が大きかった。 それもそのはず、撤去された観覧車「Sky Dream Fukuoka(スカイドリームフクオカ)」は高さ120.0メートル、直径112.0メートルで日本最大の観覧車だったからだ。 マリノアにある2つの観覧車のうち1つが撤去されると決まった当時、大きい方と聞いて「そっち?」と突っ込んだ人も多いはず。 それほどインパクトのある観覧車だった。 Sky Dream Fukuokaは今どこに? 気になるのは撤去されたSky Dream Fukuokaのその後だ。どうなったのだろうか? ここからはSky Dream Fukuokaの基本情報とその後をお伝えしたい。 Sky Dream Fukuokaがあったのは厳密に言うと、マリノアシティ福岡にかつて隣接していたエンターテイメント施設エバーグリーンマリノア内だった。 稼働していたのは、2001年12月15日〜2009年9月26日。 営業が終了した理由は利用者の減少によるもの。 その後、Sky Dream Fukuokaは台湾の企業への売却が決定した。 ここからがすごい。 なんとあの巨大な観覧車を撤去して台湾まで運んだのだ。 現在は台中市にある「リーパオリゾート」と言うリゾート施設で現役で稼働している。 観覧車の新名称は「天空之夢 スカイドリーム」で、台湾一の高さを誇る観覧車として地元民に愛されているようだ。 改めて思う観覧車2つ Sky Dream Fukuokaこちらは明るい時間帯に撮影した2つの観覧車。 以前、当サイトで福岡天神駅前にある向かい合うカフェを特集し、お互いに目があったら気まずいのではないかと検証した。 この場合、観覧車同士で目が合うという不思議な現象が何度も起こったことだろう。 「観覧車同士で目が合う」 もう文章だけで笑えてしまう現象だ。 おそらくは、どっちの観覧車に乗るかで迷った人も多かったことだろう。 こうやって2つある観覧車を写真で見て振り返ると、改めて異質な光景に思える。 しかし、この光景を見た人は長い間、観覧車が2つあったという事実を忘れないことだろう。