「神話」というものから何を受け止めるか、随分人によって違うように思う。
「神話」は、人間がこの世界にあることの意義や歪みを、意識の奥に伝えてくれる。
もしも消えた記憶に響くこともない神話なら、とおにこの世界から消え去っているはずだ。
それは、人間や自然の元来の姿をストレートに伝える唯一のよすがである。
さて、コロナウイルスで、世界がかなり変色した感のある今日、伝道者のパウロがローマ人への書いた手紙の一節が心に思い浮かぶ。
「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章)。
やや難しいが、「新しい世界」が生まれんとする”生みの苦しみ”について語っていることがわかる。
コロナ後の世界では、働き方から学び方など、より自由で柔軟な世界が現れることへの期待もないわけではないが、"滅びのなわめ"という言葉に、長引く自粛生活への不安と気の重さが重なる。
また、ソーシアル・ディスタンスをとるとか、食事は横並びで会話は控えめにするなどの「新しい生活様式」に、殺伐とした思いにかられる。
もちろん、パウロがいわんとすることは、ウイルスからの解放を意味するものではない。
旧約聖書の「創世記」には、ヘビにそそのかされた人間が、神が禁じた「善悪の木」の実を食べ、自らが裸であることを知って、イチジクの葉をつづりあわせたものを腰につけたという出来事がある。
この「イチジクの葉」は、人間が最初に行った「過剰」といえるかもしれない。
つまり、元来それなしで生きてこれた人間が、それなくしては生きられない「過剰」への第一歩だったということだ。
フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、必要以上のものを過剰に生産し過剰に消費する、そこに快感を覚えるのが人間であるという。
グローバル化の一方で、テロリストによる破壊行為などを見ると、全体としてバタイユの「過剰生産→蕩尽(破壊)」はよく当てはまっているように思う。
人類学者の川田順三は、人類学という学問について、"歪ん"でしまった人間の、「原型」を追及する学問とした。
人間は、元来しきたりや習俗といった人々が共通にもち、半ば意識されずに従う行動様式が人を人たらしめる要素であった。
ところが「善悪の木」を食べた人間は「エデンの園」から追われ(失楽園)、失ったものを取り戻すかのように「過剰」にものを作り出した。
つまり、人間の抑えがたい宿業とは、生きるに"必要以上"のものを作り出し、それが争いを招いて、自らを滅ぼそうとしている存在なのかもしれない。
自然界の摂理は、与えられた環境に対して「過剰」なものは常に滅びていくからだ。
さて、川田が西アフリカで研究を始めた頃、文字を知らない現地人と暮らすうち、コミュニケーションが多様で豊かなことを知り、この人々は「文字を必要としなかった」のではないかと思うようになる。
そして、文字に頼りきった現代人が忘れているものを思い知らされたと、一つの思い出を紹介している。
農閑期の夜、熾き火(おきび)を囲み、子供達がお話を皆に聞かせるときの喜びの表情と声の美しさを忘れることができないという。
昼間は大人にこき使われていた子供達の、どこからこんな傑作な話が出てくるのかと、文字教育で画一化されていない「声の輝き」を感じ取る。
録音して日本に持ち帰り皆に聞かせたら、皆声の美しさに驚き、その伝える喜びや躍動に、人間が「文字」の世界に支配されるにつれ、こうした声や表情を失ったのかもしれないと思うようになったという。
さてバタイユの思想に啓発を受けた人類学者の栗本慎一郎は、金銭・性行動・法律・道徳や戦争までを「パンツ」という比喩で表わし、人間を「パンツをはいたサル」と表現した。
とするならば、文字でさえも栗本氏のいうところの「パンツ」、聖書でいう「イチジクの葉」といえるかもしれない。
そして重要なことは、人間が生きるに必要なだけの食糧や金で生きられる存在ならば、きっと核兵器をもつことも、遺伝子を操作することも、スマホで空しい時間を過ごすことも、人間のコントロールのきかないAIを制作することもなかったに違いない。
そしてこういう抑えがたき「過剰さ」こそが、人類の最大のリスクになっているのではなかろうか。
そして、パウロは「ローマ人への手紙」で、”被造物全体”が生みの苦しみで呻いていると書いている。
被造物の全体とは生きとし生けるものをさし、それが呻いているというのは、ある意味、人間が「過剰」であることの必然的な結論ではある。
その分、コロナで人間の日常が止まって人間が海や山をなど訪れなくなった分、自然も息を吹き返した面もあるにちがいない。
結局、人間がパンデミックで苦しむのも、そうした”過剰”が招いたものなのだ。
近代思想の代表者のJJルソーは、「自然に帰れ」と語ったが、ルソーがいうほど、自然は人間を本来の姿に戻してくれるのだろうか。
文化人類学が、人間の”原型”からの歪みを教えてくれるのと同様に、聖書は、"自然"が本来の姿から歪んでいるということを、仄めかせている。
イエスが或る時、道を歩いていたところ、空腹を覚えた。するとそこに、いちじくの木があったのだが、いちじくの木には実がついていなかった。
そこでイエスは木に向かって「呪われよ」と言葉を発するや、いちじくの木は即座に腐ってしまった。
ところが、この出来事のオチは、拍子抜けするような言葉で終わっている。
「いちじくの木が実を出す時期ではなかったからである」(マルコ11章)と。
一般的にいえば、イチジクが呪われるべき要素はなにひとつない。なにしろ、いちじくは「自然」のまま(生まれたまま)であったにすぎないからだ。
だが、イエスの言葉は、自然そのものが”あるべき”姿にはないことを示している。
「エデンの園」において、人間は必要なものを自由に得ていたのだが、人間が「善悪を知る木」を食べて以来、自然界では「あざみといばらを生じた」とある。
イエスは他で、「いばらからぶどうを、あざみからいちじくを集めるものがあろうか」とも語っている。
つまり、自然がエデンの”実り豊かな世界”とは異質な世界に変ったことが感じられる。
またイエスは、”いばら”を神への信仰を阻む”世の心遣いと富の惑わし”のたとえとしても語っている(マタイ12章)。
さらに、エデンの園でヘビに最初に騙され、アダムに木の実をたべるように促したエバにの過ちによって、神は女の生みの苦しみを増す(創世記2章)としている。
だが、自然における最大の異変は、人間が「死ぬ存在」になったということだ。
さて、神は人(アダム)に、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2章)。
ところが、人はヘビの巧みな誘いに乗ってしまい、「善悪を知る木」からその実を食べたことにより、もともと永遠に生きる存在であったのに、「死ぬ存在」となったのである。
しかし、エデンの園における「善悪を知る木」の実をたべて人が「死ぬ」存在となったというのは、我々の常識からすれば、かなりブッ飛んだ話である。
なぜなら、家庭でも学校でも、まずは子供達を、善悪をわきまえた人間に育つように教育しているからだ。
だがそれは、人間が「楽園追放」後の寄る辺なき環境と身の安全との折り合いをつけるべく、「善いこと/悪いこと」を仕分けするようになったことにはじまる。
我々は、この世を生きる子供達にそうした善悪の判断基準を伝えるべく教育をしている。
しかし、「エデンの園」の出来事が教えるメッセージとは、本来のコトの良し悪しは、人間がこの世の経験で学んだ「善/悪」にあるのではなく、神の意思そのものにあるということだ。
しかし人間はもはや、神の意思をたずねることをしない、自ら「良し」と思うことを基準にして生きる存在になったのである。
実際、聖書から”道徳的”な生き方だけを求める人にとっては、めまいを起こしそうな世界である。
我々は、コロナ危機で様々なことに気づかされた。通勤や通学がかならずしも必要というわけでもないとか、料理はテイクアウトの方が落ち着くとか、医療従事者がこんなに少なかったのか、などなど。
また、人間は、非日常や危機に直面すると、隠していた顏を見せること。
それは家族もしらない自分自身も気が付かなかった一面であるかもしれない。
そして強く感じたのは、人々が普段なら抑えている攻撃性で、それはとりもなおさず善悪の主人になった人間の暴走の危険性といえる。
コロナウイルス感染拡大防止のために、外出や営業の「自粛」が広く要請されるようになってからというもの、感染者や医療従事者に嫌がらせを行ったり、営業を続けるライブハウスや飲食店に苦情の電話を入れたりするなど、「自粛警察」といわれる行為が多発している。
その原因は何よりも、政府が「自粛要請」という曖昧な形で危機をやり過ごそうとしたことにある。
「自粛要請」というのは、個々人の自助努力と自己責任に対応をゆだねるということである。
それは、充分な休業補償が提供されず、従わなくても処罰されるわけではないので、生活のために仕事や外出を続ける人も当然出てくる。
そうすると一部の人たちの間に、自分は自粛しているのにあいつは自粛していないじゃないかという不公平感が生じる。
今後日本各地でばらばらに「自粛要請」の解除が進んでいくと、そうした不満はますます増大することになるだろう。
みんなで力を合わせて危機を乗り切ろうとしているときに、自粛していない人は勝手な行動をとっているように見える。
そのような人を懲らしめてやれという他罰感情に対して、政府の「自粛要請」はお墨付きを与えてしまうことになる。
「自粛警察」のような行動に出る人たちは、政府の要請を錦の御旗にして他人に正義の鉄槌を下し、大きな権威に従う小さな権力者として嬉々として力をふるうことになる。
さてイエスは、「自ら背負いきれない重荷」を貧者に担わせながら、みずからを「律法」を立派に守って神に仕えていると自認する律法学者を厳しく批難した(ルカ11章)。
今日、自宅で悠々とコロナが過ぎるのを自宅で待って自粛できる人もいれば、リスクを冒しても外に出て働かざるをえない人が存在する。
また、こんな時リスクを冒してパチンコをする人は娯楽としてではなく、”生きるため”にする他はない人々が少なからずいるのに、彼らをあたかも道徳的な悪者ときめつけて攻撃する。
政府という大きな権威に従うことで、自らも小さな権力者となり、存分に力をふるうことに魅力を感じるようになった。「権威への服従」がもたらす暴力の過激化といえる。
権威の後ろ盾のもとで異端者に正義の鉄槌を下すことで、こうした権威への服従と異端者の排除を通じた共同体形成の仕組みを「ファシズム」とよんでよい。
さて、あらためて問うのは、「善悪の木の実」を食べて以来の善悪をわきまえた人間存在とはなんなのだろうか。
「エデンの園」では、神の心と人間の心が調和していて、そもそも「善/悪」という概念自体がなかったのである。
そこでは人が神の意思に沿っていきることがごく自然なことであった。
すなわち、人間が善悪を判断す能力とは、本来の姿からみて”過剰”、つまり「イチジクの葉」もしくは「パンツ」なのだ。
パウロがローマ人への手紙で語った”滅びのなわめ”とは、本来、人間にとって当たり前でもなんでもない”死”
に他ならない。
そして、「エデンの園」からはずれて、神の意思とは別に生きなければならなくなった人間の状態を「原罪」とよんでよい。
とはいえ、被造物全体の生みの苦しみにあって、パウロは「ローマ人への手紙」で「神の子の栄光の自由にはいる」望みが残されていると語っている。
この”望み”とはどのようなものであろうか。
パウロは「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによる」とある。
服従させた方とは神をさすが、なぜ人を虚無に服させたのか。
実は、エデンの園には中央に「善悪の木」とは他に、「命の木」というもう一本の木が植えてあったことが書いてある。
「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(創世記第2章)。
「エデンの園」での出来事で確認しておきたいことは、神は「善悪を知る木」についてのみ、取って食べてはならないと言っているが、「命の木」について、何もふれていないということである。しかし神は、人間が「善悪の木」の実を食べた後、つまり人間が「死ぬ存在」になった後に、「命の木」に対して、或ることを施している。
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と、「命の木」の周辺に回る炎の剣(つるぎ)を置き、そこに人が近づかないようにしたという(創世記3章)。
それは、神が人間を、死についてみずからの力ではどうすることもできない”無力な状態においた”ということである。
これこそがパウロが手紙で語った、神が人間を”虚無に服させた”ということだ。
パリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは、「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章)と応えている。
日本人一般は、この言葉を「神の国」とは心の持ちようのことと思いがちである。
しかしそれはいまだ来たらぬ「神の国」に、「先んじて」入ることを意味する。
イエスは、ニコデモというユダヤ人指導者とのやりとりの中で、人が「生まれ変わる」ことにつき、日本人一般が思いもよらない応えをしている。
「人は水と霊によって生まれ変わらなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3章3節)。
人は洗礼によって罪を除き、聖霊によって復活の保証を受けるということなのだが、聖書は、"人間の自然"についても肯定的ではない。
「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2章)。
その一方で聖書は、人間が「エデンの園」から追放されてから早々に、「女から生まれるものがヘビをくだく」(創世記3章)と預言している。
この「女から生まれるもの」こそがイエスであり、自ら”死人の蘇り”の初穂となって「滅びのなわめ」すなわち”死”を打ち砕くということである。
それこそが、パウロがいう神の子の栄光の自由に入る"望み"ということである。
さらにパウロがいう「被造物が虚無に服したのは、服従させたかたによる」とは、神が人を"救い"を求めるように”灯”をも置いたということだ。