台湾で李登輝元総統が亡くなった。マレーシアのマハティール首相と共に、日本をモデルに国づくりをした親日家で、アジアの「お父さん」といってもよい雰囲気の存在であった。
日本の政治家の中には、李総統やマハティール首相に匹敵するようなアジアのリーダーは見当たらないが、あえて探せば中曽根康弘元首相であろうか。
戦後の日本が唯一自発的・主体的に提唱した世界秩序構想が、「APEC(アジア太平洋経済協力)」である。
これは、1978年に大平正芳首相がアジア太平洋地域の経済協力体制構想すなわち「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことに始まる。
大平首相は、ハプニング解散後に急逝するが、中曽根康弘首相が「大平構想」に注目し、大平首相時代のブレーンを中曽根内閣のもとに「再結集」して、1989年に生まれたのが、「APEC」である。
一方、民間人の中にはアジアで「父」とよばれた日本人がいる。
さて、インドのラス・ビハリ・ボーズといえば、近年「中村屋のボース」として知られている。
ボースは1915年2月にはラホールでインド兵の叛乱を計画するなど、祖国の「独立」をめざす革命運動に従事していため植民地政府(イギリス)の官憲に追われ、同年6月に偽名を使って日本に入国した。
そして、在日同志と共に武器調達など、インドに残った革命運動家を支援する活動を行った。
しかしイギリス政府はボースが「偽名」を使って入国していることを察知し、外交ルートを通じてボースの逮捕を要求する。
日本政府は「日英同盟」もあってイギリス側の強硬な姿勢に屈し、ついに11月28日、ボースの「国外退去命令」を発した。
退去期限は12月2日であり、そのタイムリミットが真近に迫っていて絶体絶命の状況にあった。
そんな中、孫文をはじめアジアの革命家を保護していた福岡の玄洋社に関わりのある人々が動き出した。
まずボースは、、孫文の紹介で福岡の春吉生まれのの東大天文学教授の寺尾亨宅を訪れた。
そこで玄洋社社主の頭山満を交えて話し合いが行われ、ボーズの潜伏先として浮上したのが新宿中村屋であった。
この店が浮上したのは、中村屋の主人相馬愛蔵・黒光夫妻はロシアの反体制詩人などを保護していたという経緯があったからだ。
そして頭山らは、杉山茂丸(すぎやましげまる)に対して、ボースらを逃亡させるために自家用車の提供を要請した。
何しろ杉山の自家用車は当時東京に何台もない最新の高速車であったという。
さて杉山茂丸とは何者か、明治・大正・昭和を通じて政界の黒幕と呼ばれた人物で、山県有朋、井上馨らの参謀役を務めていた。
官職につかず教科書には出てこないが、政界へ強い影響力をもつ。
さて、12月1日夜、警察官に尾行されたボースは暇乞いと称して頭山邸を訪れると、そのまま裏口から抜けだし、杉山の自家用車に乗って一路新宿へと逃亡したのである。
ボースは新宿中村屋で匿われた後も、頭山や杉山らの人脈のお蔭で、官憲もそれ以上踏み込んで追求することはなかったようだ。
一方、隠れ家を提供した中村屋夫妻はボーズと生活を共にするにつれ、その純粋な人柄に惚れ込み、娘俊子と結婚させボーズは日本に帰化することとなったのである。
こうして本場インド・カリーの作り方が、この新宿中村屋に伝わったのである。
杉山の長男が、小説「トグラマグラ」で知られる福岡出身の小説家・夢野久作である。
この中村哲と同様に、インドの農村復興に貢献した人物がいた。それが夢野久作の息子杉山龍丸である。
杉山龍丸はインドで「グリーファーサー」とよばれて、いまだにインドの恩人とされる人物である。
父の夢野久作1913年3月、は福岡市の北東、香椎村の唐原の丘陵を買収し、約四万坪といわれる農園を拓いた。
時に久作は24四歳であり、買収資金は父・杉山茂丸がまかなった。
現在は立花山の麓のゴルフ場となっているが、この「杉山農園」は何のために設立されたのであろうか。
杉山龍丸は「わが父・夢野久作」の中で、杉山農園とは茂丸の「アジアの独立運動を推進するための構想計画のひとつ」であり、「最大の目的は、アジアの開発に役立つ人材の養成」であったと記している。
なんとも壮大な構想だが、それは龍丸によって、祖父の思惑とは少しかたちを変えて実現することになる。
杉山茂丸は、1919年に福岡市に生まれた。終戦後、プラスチックの仕事を経て1955年インドのネール首相の要請で、アジアの発展途上国のために「国際文化福祉協会」をつくり、ガンジーの弟子たちとの交流を深めた。
1962年龍丸はガンジー翁の弟子たちに招かれてはじめてインドへ行き、「アシュラム」という集団農場をまわり、できる限りの技術指導をしていった。
杉山龍丸は杉山農園を売って、飢饉に飢えるインドの砂漠を緑化し、今でも「グリーンファーザー」と尊称されているという。
また祖父茂丸の関係者に協力してもらい、台湾から門外不出であった蓬莱米の種を譲り受け、ガンジー塾で米作りにも成功し、不可能と言われていた稲作を成功させ、インドは今や米の輸出国にまで成長している。
その活動が認められ、オーストラリアで行われた国連の環境会議の議長にも選ばれているが、杉山龍丸は父や祖父と同じ脳溢血で倒れ、1987年9月20日に亡くなっている。
2020年8月に亡くなった台湾の第4代総統の李登輝は「民主化の父」といわれるが、その台湾で「近代化の父」と呼ばれた日本人がいる。
今年に入り、新型コロナの嵐が世界中を吹き荒れている。その中で、コロナをほぼ制圧している数少ない国の1つが台湾である。
その台湾でコロナ対策トップの人物から、「日本にはあの後藤新平はいないのか?」という声が聞こえた。
後藤新平は、日本と台湾で伝染病の撲滅と公衆衛生の改善に辣腕を振るったばかりではなく、民政長官として台湾のインフラ整備を中心に近代化を行った。
それが、国家の衛生に繋がるという発想である。
後藤は1857年、現在の岩手県に生まれ、若干24才で愛知県医学校(現名古屋大学医学部)の病院長になった。
岐阜で暴漢に襲われた板垣退助を治療したのが後藤で、板垣をして「医者にしておくのがもったいない」といわせしめた。
日清戦争後、23万人もいた帰還兵に対し徹底した検疫を行い、国内への病原菌持ち込みを未然に防ぎ諸外国を驚かせた。
1898年、第4代台湾総督児玉源太郎の片腕として台湾に着任するが、当初、台湾はコレラやチフスなどの伝染病が蔓延する「瘴癘(しょうれい)の島」と呼ばれ清国も見放した島だった。
後藤は、生物学の原則に則のっとり病人を健康体にする方法で、台湾の風習や住民を尊重した上で、次々と大胆な政策を行った。
予防接種を義務化し、上下水道の敷設を行い、伝染病の予防に寄与した。
教育の充実を図り、医学校の創設も行い医療レベルを飛躍的に向上させた。
日本の習慣である「大掃除」を台湾に取り入れるため、大清潔法施行規則を定めて春秋2回の大掃除を住民に求めるというユニークなものもあった。
また、人口と土地の調査を行い租税徴収の基盤を整備、鉄道、港、河川等の整備も行い、銀行を設立し貨幣を統一した。
在籍した8年間で、あらゆる産業の基礎を作り、農業その他の産業を飛躍的に発展させ、治安を安定させた。
後藤は日本に先んじて下水道を台湾に導入しているが、その下水道整備で活躍したのは、後に「台湾水道の父」と呼ばれた
浜野弥四郎という若手の土木建築者だった。
2020年コロナ禍の中、台湾政府が素早い対中遮断を含めた水際阻止に加えて、濃厚接触者や感染者の追跡などのいわゆる疫学的調査などを極めてしっかり行ったことが、市中に感染が広がらない最大の要因であったことは間違いない。
それはある意味で、国家が国民の行動を把握し、移動を制限するなどの強権を使うことを意味している。
ただ、コロナ対策の実情をすべて、国民に対して透明性のある情報公開と連日の長時間の記者会見で曝け出していること。
そして、国民が必要とするマスクの確保に国を挙げて取り組んで自主生産体制を整えるなどして、国民が可能な限り通常の社会生活を営めることを政策目標にしたことが功を奏した。
今のコロナ対策でも「経済か衛生か」ということが問題になっているが、後藤は、経済より衛生が先だと100%確信し、こう記している。
「世の中において、資本金を守るということを考えた場合、最も衛生が必要大切であり、衛生法以外に資本を保護する方法はないのであります」。
後藤新平は、後に、満鉄総裁、東京市長、帝都復興院初代総裁など、近代日本の都市建設をリードする。
そのの原点は、当時最先端のドイツで公衆衛生学を学んだ医師としての国家観にあった。
後藤は、1923発生した関東大震災では、復興院総裁として見事な指揮を執り、救済と復興を成し遂げ、日本を救った。
「公衆衛生学」には、人々の生命や生活を「衛る」という意味があり、それが「衛生」という言葉の語源である。つまり衛生を基盤に都市を造る発想である。
病気を治療する医療もその中に含みながら、より大きな社会=公衆を相手にするところにその特色がある。
つまり、公衆衛生は医療に社会政策的配慮を加えたもので、統計学、心理学、人口学なども含まれる。
さて、現在の台湾の人々は、過去の「疫病の島」という「汚名」についてよく知っており、今回、新型コロナ対策が世界各国から高く評価され、完全に汚名を雪いで「防疫の島」として認められたことを、心から誇りに感じているという。
台湾人にとって衛生は、それほど大切なことであり、そこに台湾人が後藤新平を「父」と読んで尊敬する大きな理由がある。
ところで、後藤新平の幅広い人物交流のなかで欠かすことのできない人物が、前述の杉山茂丸である。
杉山茂丸は山県有朋、井上馨らの参謀役を務め、とりわけ台湾統治、満鉄経営などの施策は、杉山が立案、後藤が実行者だとする見方さえある。
台湾総督府民政長官になったのは後藤は42歳で、杉山は35歳の若さである。
杉山はその後日本興業銀行の設立、さらには台湾鉄道の敷設の準備に奔走し、1898年に児玉が台湾総督着任の際には、杉山に意見を求めている。
1906年、後藤新平は南満洲鉄道初代総裁に就任するが、さほど乗り気でない後藤に総裁就任を承諾させる画策をしたのが杉山であった。
さてこの杉山の書生に星一(ほしはじめ)という人物がいた。
1873年、福島県磐城郡に出生し、幼名を佐吉といった。父親は村長や郡議会議長などを務めた知識人であった。
杉山茂丸の書生が星一であり二人ははいわば師弟関係となっているが、星一は台湾で入手したアヘンから苦労してモルヒネの抽出に成功し星製薬の基礎を築いた。
ちなみに、星一の息子が作家の星新一である。
杉山茂丸は現在の福岡県筑紫野市にあって江戸時代から栄えた原田宿の代官の家系だが、この筑紫野市に生まれアジアで「父」と呼ばれた、もうひとりの日本人がいる。
映画カメラマンとして、香港に渡り「香港カラー映画の父」とよばれた西本正である。
さて香港といえば、サンフランシスコに生まれた香港で育ったブルース・リーの存在は今もって色褪せることはない。
ブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ格闘シーンはブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンをとった人物こそ、日本人カメラマン・西本正であった。
西本正は1921年、福岡県の現在の筑紫野市に生れた。少年時代を満州ですごし、満州映画協会の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日本映画社の文化映画部をへて、翌年新東宝撮影部に入社した。
新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ、「亡霊怪猫屋敷」(1958)や「東海道四谷怪談」(1959年)など、特撮技術を駆使したホラー傑作映画を生み出している。
その後、香港へ渡りブルースリーの映画の撮影などを行った。
実は、日本における映画技術は、「戦意高揚」のための映画づくりによって磨かれていた。
それは太平洋戦争の「負の遺産」ともいえるが、アメリカのウォルトディズニーでさえそうした戦争映画に関わっていた時代である。
アメリカの陸・海軍はそうした「戦意高揚」映画に全面協力し撮影のために本物の飛行機や戦車をいつでも動かしてくれたが、日本の映画づくりでは、実際の飛行機を飛ばしたり、戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」という技術を開発せざるを得なかったのである。
また日本軍部は機密保持がきわめて厳しく資料や写真も公開してくれなかった。
そこでミニチュアの飛行機をワイヤーで吊るして飛ばし、大きなプールに模型の戦艦を浮かべた特撮セットがつくられ、「らしく見せる」ための様々な工夫がなされた。
日本の特撮技術の発達にはそうしたお家の事情が作用していたのである。
戦争が終わり日本で高度経済成長がはじまった1960年代に日本は世界トップクラスの特撮技術をもっていた。
特に新東宝の特撮技術・設備は世界一を誇っていた。そして円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。
こうした怪獣映画はそうした特撮技術をもって実現したのである。
そして香港に渡った西本正は、日本の高度な映画技術(特に特撮技術)を伝達し「香港カラー映画の父」とも呼ばれた。
さて話は、1972年「ドラゴンへの道」のローマロケのことである。
連日のイタリア料理にうんざりしていたブルースは、西本が通う日本食レストランに同行した。
食べたものは、すき焼きにマグロの刺身。酢だこも好物になった。
ブルースは、ローマ・ロケが終わって香港へ帰っても日本料理が忘れられず、撮影が終わる度に西本に「ヤマトレストラン! スキヤキ!」と叫んだ。
大和レストランは香港島にある有名店で、九龍のハイアットホテル裏にも支店を出していた。
現在も「大阪レストラン」という名で営業している。
西本が一度連れて行って以来、この店はブルースのお気に入りとなり、プライベートや打ち合わせでもしばしば利用した。
西本は、リンダ夫人も含めて3人で鉄板焼きを食べたこともあったと話している。
ミラマホテル内にあった「金田中」は、有名人がよく来る高級日本料理店として評判だった。
ブルースは日本そばを気に入り、よく日本そばを食べに来ていたという。
現地では日本そばを「ブラウンヌードル」といい、ブルース・リーもそのようにオーダーしていた。
香港の金田中は閉店し、現在は「桔梗」という日本料理屋になっている。
実は最期を迎えた1973年7月20日の夜も、この店で共演者と打ち合わせをするために予約を入れていたのだった。