ある人が、聖書を読むと”発見”があり、”発見する”ごとに自分が"新しくなる"と語っていた。
それほどの体験はないが、聖書にはスルーしそうな箇所にしばしば”発見”がある。
特に旧約聖書には、単調な記述が延々と続く箇所が少なくないが、一瞬ざわつく記述に出会う。
例えば、「エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5)とある。
「神が取られた」というあまりに素っ気ない表現にスルーしてしまいそうだが、エノクは死なずして、この世からいなくなったというのだ。
また、エノクの365年という長寿の方だが、これは驚きに値しない。実は人間の齢が120年と定められたのは、実はエノクから後に生まれた世代ぐらいからで、それ以前は”超長寿”なのである。
これにつき、聖書は「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」(創世記6)とある。
ちなみに、現在の世界最年長記録はアメリカ人女性の119歳97日なので、"神の定め"は、今もなお生きていることになる。
さて、旧約聖書には、「天に移された」もう一人の人物についての記述がある。
「彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬が現れて、二人をへだてた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天に上った」(Ⅱ列王記2)とある。
ここで「彼ら」とは預言者のエリヤとエリシャのことで、二人はともに歩いたところ、エリヤは突然「天にとられ」、エリシャはそれを見届けている。
その後、エリシャは、エリヤの後継者たるにふさわしい働きをすることになる。
この出来事は、”童話”のワンシーンのような荒唐無稽さなのだが、聖書の全体をつき合わせてみると、驚くほど”整合性”をもっていることを発見する。
新約聖書の中には、”天に移される人”について、次のような預言(マタイ24)がある。
「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」。
このように、二人のうち一方が取られるというのは、エリヤとエリシャの出来事を髣髴とさせるが、このイエスの言葉の意味は、パウロが"奥義"がとして語った、次の預言との関連が推測できる。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサロニケ4)。
かくして聖書には「天が取る」「空中に引き上げられる」など、我々の日常の体験を超えた記述であっても、全体としては一貫した世界観で貫かれている。
聖書は、千年を超える時間の幅の中で、多数の人物によって書かれたものだが、あたかも”一つの意思”をもって書かれているかのような感じがしてくる。
さらに、パウロは「奥義」と断ったうえで、次のようなことも語っている。
「わたしたちはすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ずくちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(Ⅰコリント15)。
つまり、イエスが天に昇っていった姿の如く、人々は一瞬にして「霊化」して地上から引きあげられるということである。
この「霊化」というのは、「人は水と霊によらなければ神の国に入ることができない」(ヨハネ3章)とあるように、
”洗礼と聖霊を受ける”ことを前提にしている。
そのことは、新約聖書におけるエノクについての、次の言葉でも裏付けられる。
「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、"神に喜ばれる者"と証されていたからである」(ヘブル11)。
ただ、旧約聖書のエノクやエリヤが「天に移される」話は、イエス復活後の「昇天」と比較すると、あまり知られていないが、旧約の出来事は、新約の”型”としてとらえられる。あるいは、前のことは後の事を予言するように起きることもある。
例えば、イエスの昇天は次のように起こった。「イエスはこう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、”白い衣を着たふたりの人”が、彼らのそばに立っていて言った"ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう”」(使徒行伝1)。
ここでイエスの再臨も預言されているが、「白い衣を着たふたりの人」という言葉に注目していおきたい。
この二人とは誰のことなのか?「聖書のことは聖書に聞け」が原則で、次の”イエスの変容”の場面(マタイ17)の中にヒントがある。
「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。弟子たちは非常に恐れ、顔を地に伏せたが、 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、”起きなさい、恐れることはない”と語り、人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない”と、彼らに命じられた」とある。
この「イエスの変容」の場面から、イエスの昇天の際に現われた「白い衣を着た二人」とは、「天に移された」エリヤと、墓がいまだに見つかっていないモーセと推察できる。
この世の中には、理解ができないような失踪事件が起きる。そういう場合、我々は「神隠し」という言葉で表現する。
人が忽然といなくなる話は、第5回オリンピック・ストックホルム大会に出場した金栗四の身の上に起こったことであるが、NHK大河ドラマ「韋駄天」にも描かれた。
金栗は、折り返し地点を過ぎてまもなく、急激な疲労に襲われた行方不明になる。
朦朧とする中26.7キロメートル地点でコースをはずれ、林の中に消えてしまう。
このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになった。
地元の人に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰ったことが判明する。正式な「棄権」の届出が本部に届いていなかったというだけのことだ。
さらに、「集団失踪」話としてあまりにも有名なのが、ヨーロッパ中世の「ハメルーンの笛吹男」の話である。
13世紀末、ドイツ北部の町ハーメルンの笛吹男の話がある。住民達がネズミの大量発生に悩まさ駆除を男に依頼した。
男が持っていた笛を吹くと、不思議なことに町中のネズミが路上に現れ、行進を始めたのである。笛吹き男は町の住民に約束の報酬を要求した。
ところが、住民達はその約束を反故にしてしまった。今度は、町中の子供達が隊列を作り、行進をはじめたのである。そして子供達はどこか遠いところに消えていった。
実際にハーメルンの町で、1284年に130名の子供が消えたとする記録が残っている。
ではなぜ子供達は集団で失踪したのだろうか。
その理由の一つに、ペストにより子供達が集団死したとの見方がある。ペストはネズミと密接に関連する病気である。ネズミを駆除したという最初のストーリーは、ペストを暗示させるものだ。
通常子供が居なくなると、まずは「拉致誘拐」を考える。この出来事の真相はいまだにわかっていないが、当時さかんに行われていたエルベ川以北への「東方植民」との関連が有力である。
ちなみに、この「東方植民」によって後のプロイセンという国が出来たのである。
近現代にも様々な失踪事件がおきている。スイス人のアンリ=デュナンの発見は感動的だ。
デユナンは、「赤十字」創設に没頭のあまり本業である製粉会社の経営に失敗し、1867年、39歳の時、破産宣告を受けた。
以後放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまった。
デュナンは人生の後半生をほとんど「放浪者」としてヨーロッパ各地をめぐったようである。
1895年、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院でデュナンを見つけたと報道した。
デュナンはこの時すでに70歳にもなっていたのだが、1901年に赤十字誕生の功績が認められ、最初の「ノーベル平和賞」をおくられた。
その後デュナンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月、ハイデンの養老院で82年の生涯を閉じたのである。
ソルフェノールの戦いで、敵味方に関係なく負傷兵を救った事がモノをいったのだ。
アンリの場合、長い失踪にもかかわらず、本人はいうにおよばす世界にとっても発見されて本当に幸運だったケースである。
しかし、同じ行方不明でも、実際に「天に移されたのか?」といった消え方をしたのが、「星の王子様」の作家であるフランス人のサン=テグジュペリである。
学校の勉強は大嫌い、特に算数が苦手だったため、海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたにもかかわらず、結果は不合格だった。
その後、モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、婚約者の家族が飛行士という仕事を良い目で見ていなかったため、パイロットではなくて他の仕事を探した。
サンは、瓦製造会社やトラック製造販売会社のセ-ルスマンとなったが、しかし仕事の単調さにウンザリして、夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
婚約も破棄され、職もなく、何の目標もなく失意の中で考えることは、大空のことばかりであったという。
そして郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。それから輸送パイロットの資格をとり、ついに自分の道を見つけた。
この仕事は、危険な夜間にも飛行することが強制され、最大の効率をもって操縦することが求められるため、不可能を可能にする技術が求められた。
サンのような本来エリ-ト階層に属するものでこうした仕事に従事する者は当時ほとんどいなかったが、サンはこういう仕事に天職をみつけたといえる。
サンは1927年モロッコにある飛行場の主任に任命された。
当時、飛行機はたびたび燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかったので、当時飛行機が「不時着」したりすると現地のム-ア人(北西アフリカのイスラム教教)達は飛行機の乗組員を捕虜にして、スペイン政府に武器や金品を要求することなどが頻発していた。
ところが、サンは航路の中継点でム-ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりした。
そして星の降る村の風景、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民、壮大な自然などがサンの心の養分となり、文学的イマジネーションの源泉ともなっていったのである。
サンは飛行に没頭する中、虚飾にみちた地上での生活にますますイヤケがさしていったようだ。
帰国後、著書「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会うものの、孤独な心は癒されることもなく、彼の心を慰めたものは結局飛行機だけしかなかったようだ。
サンは作家になった後、降る星を見上げて暮らした1年あまりの年月は、孤独だが人生で一番幸せな日々だったと回想している。
1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したが、消息を絶った。
この世界で最重要な紛失物といえば、モーセの十戒の石板を納めた「契約の箱」といえよう。まるで「神隠し」にあったように行方不明なのだ。
世界の冒険家の中には、"ソロモン王の秘宝"とともに、この「契約の箱」を探している人も少なくない。
GHQの日本占領時においても、マッカーサーは「契約の箱」を探すよう極秘指令を出したともいわれている。
さて、ユダヤ人は、おおよそ紀元1世紀ごろにローマに攻められ、以後「離散し」(ディアスポラ)国を失った。
そして長い迫害と放浪の末に、1948年に国連によりようやく「イスラエル国家成立」を認められ「復興」することができた。
これは、旧約聖書にあるごとくに「あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」(申命記30章)という預言が実現したともとらえられる。
しかし、この事実をもって彼らはイスラエル完全復興と心底から思えないに違いない。絶対に!
それは、イスラエル周辺にアラブ人居住区をもち、常にテロの不安にさらされているからではない。
古代イスラエルにおいて、この「契約の箱」が一時期ペリシテ人(パレスティナの語源)によって奪われた時の事態が、旧約聖書の「Ⅰサムエル記」にある。
その時、イスラエルは打ち負かされ、「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という神の不在の徳を迎える。
この時代にイスラエルの民は、他の国と同じように人間の王を求め、はじめてイスラエルに"王制"が導入されることになる。
人々の輿望を担って最初の王としてサウルが立つが、サウルは神への敬虔さにおいて不足があった。
その結果、ペリシテ人に「契約の箱」は奪われる結果となるが、奪った側のペリシテ人は疫病に悩まされ、多くの者が打たれたという。
そこでペリシテ人は、その箱を各地へとたらい回しにし、結局、神の箱は贈り物をつけられてイスラエルに送り返された。「契約の箱」がペリシテ領内にあったのは7ヶ月であった。
現代のパレスチナの政情の不安定さのことが思い浮かぶが、現在かつての栄光の「ソロモンの神殿」にはイスラム教徒による岩のドームが被さっており、神殿に収むべき「契約の箱」が失われている。
「キリスト教福音派」を支持基盤とするトランプ大統領の、テルアビブからエルサレムへの首都移転宣言などに見る強硬な中東政策は、「エルサレム神殿(ソロモン神殿)復興」への布石とみられる。
ちなみに、「キリスト教福音派」はユダヤ教とも相性がよく、アメリカで圧倒的な勢力をもつ。
実は、新約聖書「ヨハネ黙示録11章」には、「契約の箱」の発見の預言がなされている。
「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に”契約の箱”が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起こり、大粒の雹が振った」とある。
ただ、この記述を見るかぎり、「契約の箱」は地上ではなく、あたかも天に在るかのようだ。