「明日のことはわからない」。だからこそ人生は面白い。
「テルマエ・ロマエ」というの作品を書いた漫画家ヤマザキマリは、1967、東京都に生まれる。母親がヴィオラ奏者として札幌交響楽団に在籍していたことから、幼少期を北海道千歳市で過ごした。
父は指揮者であったが、幼少のころ亡くなった。
14歳の時、母親に勧められて1ヶ月ドイツとフランスを一人旅した際、老齢のイタリア人陶芸家と出会い、旅をしている理由(芸術のため)を話すと、「イタリアを訪れないのはけしからん」と叱られる。
振り返れば、この出会いこそは、ヤマザキにとってどれほど運命的といえるものであったかは後に悟ることになる。
ヤマザキは、そのイタリア人陶芸家に招かれて17歳でイタリアに渡り、フィレンツェのイタリア国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵を学びながら11年間を過ごした。
21歳の時に一時帰国するが、スキー旅行に向かう途中、交通事故にあい全身打撲で肺胞が潰れるという重症を負う。
健康を回復し、フィレンツェの学生アパートのに戻り、隣室のイタリア人詩人と恋愛をする。
いつしか妊娠が発覚したものの、その詩人とは別れ、シングルマザーとなった。
そんな境遇にあって生活費を稼ぐため漫画を描き始めた。このあたりは、「ハリーポッター」を書き始めた頃のJKローリングの境遇と重なる。
そしてヤマザキは1996年、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビューする。
2002年、中学時代にイタリア旅行をすすめたあのイタリア人陶芸家の孫と結婚することになる。
後にイタリア文学者となるこの14歳年下の夫の家族の壮絶ぶりをギャグにして綴ったエッセー漫画などを講談社の雑誌に連載する。
実は、ヤマザキの夫は、ローマ皇帝の名前を全員言えるほどの古代ローマおたくで、日常会話でも古代ローマの話題が当たり前のように出るほどであった。
そういう家庭環境の中、古代ローマをモチーフにしたギャグ漫画「テルマエ・ロマエ」が誕生する。
つまり、夫とその家族こそが「テルマエ・ロマエ」を描くきっかけを与えたのである。
富田昌子の職業は「フレアバーテンダー」。「フレアバーテンダー」とはボトルやシェイカー、グラスなどを使ってバーテンダーが曲芸的なパフォーマンスでカクテルを作るスタイルである。
映画『カクテル』で、トムクルーズがフレアバーテンダーを演じたことで一躍に有名になった。
ちなみに、「フレア」(flair) は、英語のスラングで主に「自己表現」と訳される。
富田昌子は新潟生まれで、父親は高校教師、母親は日本舞踊の先生という堅実な家庭であった。
しかし、母親が病気になり、3歳から習っていた日本舞踊も中学に入る頃には身が入らなくなった。
以後、周囲に流されるまま、ギャルになってしまう。学校をサボり、 雑居ビルの屋上で昼寝をして時々、補導されたりした。
高校生の時、日帰りのひとり旅で初めて憧れの東京を訪れた。
渋谷109で撮影をやっていて、「写真を撮りませんか?」と声を掛けられ、単なる記念写真だと思いつつ撮影してもらった。
しかし、その写真がミスコンにつながっているとはつゆ知らず、勧められるまま応募すると通過してオーデションに出場することとなった。
しかし、特技が思い当たらず、とりあえず「逆立ち」をしてみた。特技でもないので失敗しヘラヘラしてごまかしたところ、その明るさが気に入られたのか、ある芸能事務所に所属することが決まった。
アイドル活動するなら東京に行けると思い、1年だけだと父親を説得して上京する。
しかし病に倒れた、新潟の母親の介護もあり、新潟と東京の往復を繰り返す生活となった。
アイドル活動もままならず、極貧フリーターの生活を強いられるようになる。
或る有名ストランで働き始めるが、サラダの名前がおぼえられない。
そこで富田は、お客さんに何か聞かれると「しゃきさゃきサラダです」と応えて切り抜けた。
すると、お客さんは「シャキシャキしてるんだって」と応じ、一度も「これは頼んだサラダなの?」、とはならなかった。
これでお客様も嬉しいし富田も嬉しい、とは本人の弁。
ところが「しゃきしゃきサラダ」の命運も尽きる時がやってくる。
いつものように、「お客様 お待たせ致しました。シャキシャキサラダです」といってもっていくと その人が「え?」と反応したので、もう1回 「シャキシャキサラダです。新鮮なうちにお食べください」といったら呆れた顔をしている。
その客はなんと一般客を装った会社の幹部だった。
そこでホールをクビになり、バーテンになりなさいと異動させられる。
最初は受付の仕事をしていたが、ある日「バーテンダーをやってみないか?」と声を掛けられたが今度はカクテルがおぼえられず、客には冷えたグラスがあるなどといって、ビールを注文するよう仕向けた。
或る時、フレアのパーフォーマンスを見て、これができればカクテルの名前を覚えずとも、お客さんを喜ばすことができると思うようになった。
そんな矢先、母親が亡くなって落ち込み、父親もふさぎ込んでいる。富田は再起をかけて東京に戻ってきたものの、頼るものもなく、ホームレスとなって公園で暮らすことになる。
その公園はとても大きく、先住の方達が多くいて、森の中に居で暮らしちゃんと縄張りがあった。
富田が、空いたベンチに座っていると、話しかけてくれたり、チョコレートくれたり、何曜日に新宿行くとご飯もらえるよとか教えてくれた。
ただ、女性としては結構きついものがあり、シンプルに 水道の水で体というか 頭を洗ったりした。
ホームレスの始まりはすごしやすい5月であったが冬をどう乗り切るか、なにしろ新潟の冬にミニスカで暮らしていたので東京の寒さぐらい余裕であった。
ここで、ここでコギャル時代に、雑居ビルの屋上で寝ていた経験が生きる。
そして空き時間は、フレア練習に大半の時間を使うことができた。
ビンで生傷だらけだったが、何かほかにすることもなく、目標のワザができるように、1日15時間も練習したりすることもあった。
富田とってビンはお金と一緒で宝物のように大事にしまっていた。
しかしある時 ゴミ収集屋さんに回収されてしまい、ショックで警察に届けようと思ったりした。
しかし、警察にいってもそのビンが自分のものと証明する術がないので、諦めた。
また、公園での縄張りが荒らされることもあった。富田は、先輩方の縄張りを侵したりしないように マナーをしっかり守ってきた。
ただ、或る時パン買いにいくと、自分のベンチに知らないおじさんがご飯食べていたりしている。
公園だから仕方ないといえばそのとおりだが、住処が奪われたような気がした。
また広い公園なのに、なぜか自分のベンチの近くでイヌに排泄させるおじさんがいた。
なぜここを選ぶんだと抗議すると、おじさんは「君の家じゃない」の一点張り。会う度にけんかしていた。
ついに公園生活をやめようと思ったきっかけは、日照り。森は先住民に取られてるので、かつて働いていた漫画喫茶が近くにあったので駆け込んだ。
すると元バイト仲間が2番の席 空いてるから使っていいよと優しく言ってくれた。
ただ、シャワーを利用し寝る時はお金を払った。
富田はそんなめちゃくちゃな生活をしながらも毎日10時間近くのフレア練習を欠かさなかった。
何かするんだったら練習したいという思いがあったので、ホームレス生活も結構楽しかったそうだ。
YouTubeをよく見て今はこういう事をやってるんだということがわかった。
独学でひたすら練習し続けるうちにその実力は とんでもないことになっていたのである。
2009年、グアムで開かれた世界大会で世界中が衝撃を受ける事になる。
会場全員がナメていた無名の若い日本人女性が、人々の目をくぎ付けにして、フレア界初の女性優勝者となったのだから。
5本のビンを使って行う「カスケード」というワザができるのは世界で4人しかおらず、女性は富田だけが出来るスゴワザである。
2016年にはショービズ界の登竜門ニューヨークのアポロシアターに出演するなど、「美しすぎるバーテンダー」として世界的に活躍されている。
最近、スカイツリーを借景に映える「浅草寺(せんそうじ)」が東京観光の目玉となっている。
その浅草寺近くの国際劇場はもともと「松竹歌劇団(SKD)」の本拠地であった。
それでも、「はとバス」の観光客を相手に、なんとか興行を続けてきた。
その後、ミュージカル劇団への再編おこなうなど試行錯誤を重ねたが、赤字経営と団員数の減少により、劇団も存続を断念し、1996年ついに解散のはこびとなった。
SKDの本拠地・国際劇場跡地には、現在「国際ビューホテル」が建っている。
浅草全盛期の賑わいは追憶の中に沈みそうだが、浅草寺境内でとても意外な記念碑と出会った。
「映画弁士塚」というもので、一時代を築いた花形であったにもかかわらす、トーキー(音声映画)の出現とともに、まるで泡沫のごとく消えていった「映画弁士」の名前を記した記念碑であった。
明治・大正期において無声映画が盛んだった時期の活動写真の弁士100余名の名が刻まれている。
トーキーが日本で初公開されたのは、1929年の5月で、新宿の武蔵野棺で、この時の観客は驚きをもって画面を見入った。
スクリーンから直接に、音楽や人間の言葉が飛び出してくるということ自体、夢想だにしなかったことだからだ。
観客は以後トーキーの虜になってしまい、弁士がクビになるのは「時代の流れ」であったといえる。
弁士達の中で、「時代の趨勢」と諦めてさっさと転職した人もいたであろうが、その多くは時代の波に抗って戦い、抵抗した。
転身組の中には、徳川夢声、大辻司郎などは漫談家となって古川ロッパと組み、浅草常盤座に「笑いの王国」を旗揚げして一世を風靡した者達もいる。
ところで日本においてのみこうした「活動弁士」の文化が発達したのであろう。そこで思いつくのは歌舞伎の舞台である。
歌舞伎の上演では、浄瑠璃と呼ばれる三味線伴奏による語りが加えられている。
それは、俳優の演技や台詞とは別に、状況を説明したり、人物の心情を表現したりするというもので、義太夫節に代表される。
無声映画と弁士の語りの関係というのは、この歌舞伎と浄瑠璃の関係にも似ている。
また、講談や落語、浪花節など、日本には独特の「話芸」があるが、活弁はこれらとも共通点が多い。
例えば、講談は「七五調」の言い回しで構成されるが、昔の活動弁士たちの多くも、「七五調」で活弁を行っていた。
日本人にとって親しみやすい「リズム感」を採り入れたことで、活弁は日本人の琴線に触れることができたのだろう。ただし、活弁には特に決まった型がなく、全てが「七五調」だった訳ではない。
サイレント映画の時代、活動弁士達は、他者と差別化を図っていた。それが結果的に、全体のレベルアップへと繋がり、活弁はひとつの「話芸」として成長していったのである。
それは、バスガイドから声優やナレーターなどその他の「声」に関する仕事の中に今でも生きている。
2000年にグランドキャバレーの設備を利用して、無声映画上映レストラン「東京キネマ倶楽部」がオープン。大正時代のダンスホールを設定された施設はコンサート、パーティーなどのイベントスペースとして利用されている。
無声映画を再現しよと、初期の弁士は飯田豊一、万朶るり子。その後オーディションで山崎バニラや斎藤裕子が加わる。
山崎バニラは、「ヘリウムボイス」と呼ばれる個性的な声と、金髪のボブヘアがトレードマーク。
大正琴を弾き語る独特なスタイルの活弁士として知られる。
また、声優やナレーターなど話芸を活かしたフィールドで活躍している。
まずは声に注目されがちなバニラだが、実はITメディアでコラムを執筆したり、活弁の舞台で使う曲や映像を自作したりと、かなりマルチな才能の持ち主である。
山崎バニラは、宮城県白石市生まれ、父は慶應義塾大学理工学部名誉教授の山崎信寿、母はピアノ教師という家の生まれ。清泉女子大学文学部スペイン語スペイン文学科卒業。
4歳からピアノとモダンバレエ、絵画を習い始めた。
大学在学中は早稲田大学ミュージカル研究会に参加。その頃、自主映画に多数参加。大学卒業後はダンサーや舞台俳優、声優として活動を始める。
大学卒業間近に、とあるイベントにてミュージカル研究会の先輩でもある振付師の香瑠鼓と出会い、2年ほど彼女の指導の下ダンサーを請け負ったり、振付指導に出向いたりとダンス関係の仕事をこなしていた。
活弁士のオーディションを受けた理由は「話芸」という響きに惹かれたから。
それまでも、自らの個性的な声を活かしたいという思いからだが、芸能界を志し、様々なオーディションを受け続けていたという。
バニラの活弁といえば、大正琴やピアノを弾き語る独特のスタイルが特徴。この弾き語りスタイルは、活弁士の中でもバニラでしか出せない、オリジナルものである。
少しでも台本の台詞を減らそうとして思いついたものだったが、今では結局、台詞も多めになっているので、楽譜を起こさないといけないぶん大変になってしまったという。
ご本人によれば、活弁士は基本オタク気質なのかもしれないという。
自身の活弁ライブで上映するための動画を作ろうとしたときも、ハイスペックPCを自作するところから始める。
作家、演者、演出家の三役を一人でこなしながら、2〜3ヶ月かけて1日の公演日に備える。
超氷河期といわれた頃の就職活動でフジテレビのアナウンサー試験を受けた時には、面接官に「今は声優も需要があるから」と声優になることを勧められた。
2005年からは「ドラえもん」にジャイ子役で出演、各種メディアで注目を集めるようになった。
「ドラえもん」の声優オーディションでは元々はしずか役志望で、最終選考まで残ったが落選した。
しかしその後インタビューで「私にはジャイ子かドラミちゃんの方が合っているんじゃないでしょうか」とコメントしたところ、ジャイ子役に抜擢された。
特徴のある声は地声であり、自らは「ヘリウムボイス」と称している。実際、ヘリウムを吸った後の声と、地声の差がないのだという。
特徴的な声から、金田朋子としばしば比較されるが、バニラ弁士の魅力は声の質が漫画的雰囲気を生じさせ、自然に笑いがこみあげてくる話術といってよい。
現在の芸名になった理由は、CD「牛ちゃんマンボ」を出した際、「牛といえばミルク、ミルクといえばバニラ」という事務所スタッフの連想から。最初は嫌だと言ったのだが、事務所の社長に「字画が良いから」と説得され、しぶしぶ使用することとなった。
お客さんが生で舞台を見たときに「すごいものを見ることができた」と喜んでくれるのが何よりだという。