Tommorow never knows

「明日のことはわからない」。だからこそ人生は面白い。
「テルマエ・ロマエ」というの作品を書いた漫画家ヤマザキマリは、1967、東京都に生まれる。母親がヴィオラ奏者として札幌交響楽団に在籍していたことから、幼少期を北海道千歳市で過ごした。
父は指揮者であったが、幼少のころ亡くなった。
14歳の時、母親に勧められて1ヶ月ドイツとフランスを一人旅した際、老齢のイタリア人陶芸家と出会い、旅をしている理由(芸術のため)を話すと、「イタリアを訪れないのはけしからん」と叱られる。
振り返れば、この出会いこそは、ヤマザキにとってどれほど運命的といえるものであったかは後に悟ることになる。
ヤマザキは、そのイタリア人陶芸家に招かれて17歳でイタリアに渡り、フィレンツェのイタリア国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵を学びながら11年間を過ごした。
21歳の時に一時帰国するが、スキー旅行に向かう途中、交通事故にあい全身打撲で肺胞が潰れるという重症を負う。
健康を回復し、フィレンツェの学生アパートのに戻り、隣室のイタリア人詩人と恋愛をする。
いつしか妊娠が発覚したものの、その詩人とは別れ、シングルマザーとなった。
そんな境遇にあって生活費を稼ぐため漫画を描き始めた。このあたりは、「ハリーポッター」を書き始めた頃のJKローリングの境遇と重なる。
そしてヤマザキは1996年、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビューする。
2002年、中学時代にイタリア旅行をすすめたあのイタリア人陶芸家の孫と結婚することになる。
後にイタリア文学者となるこの14歳年下の夫の家族の壮絶ぶりをギャグにして綴ったエッセー漫画などを講談社の雑誌に連載する。
実は、ヤマザキの夫は、ローマ皇帝の名前を全員言えるほどの古代ローマおたくで、日常会話でも古代ローマの話題が当たり前のように出るほどであった。
そういう家庭環境の中、古代ローマをモチーフにしたギャグ漫画「テルマエ・ロマエ」が誕生する。
つまり、夫とその家族こそが「テルマエ・ロマエ」を描くきっかけを与えたのである。

富田昌子の職業は「フレアバーテンダー」。「フレアバーテンダー」とはボトルやシェイカー、グラスなどを使ってバーテンダーが曲芸的なパフォーマンスでカクテルを作るスタイルである。
映画『カクテル』で、トムクルーズがフレアバーテンダーを演じたことで一躍に有名になった。
ちなみに、「フレア」(flair) は、英語のスラングで主に「自己表現」と訳される。
富田昌子は新潟生まれで、父親は高校教師、母親は日本舞踊の先生という堅実な家庭であった。
しかし、母親が病気になり、3歳から習っていた日本舞踊も中学に入る頃には身が入らなくなった。
以後、周囲に流されるまま、ギャルになってしまう。学校をサボり、 雑居ビルの屋上で昼寝をして時々、補導されたりした。
高校生の時、日帰りのひとり旅で初めて憧れの東京を訪れた。
渋谷109で撮影をやっていて、「写真を撮りませんか?」と声を掛けられ、単なる記念写真だと思いつつ撮影してもらった。
しかし、その写真がミスコンにつながっているとはつゆ知らず、勧められるまま応募すると通過してオーデションに出場することとなった。
しかし、特技が思い当たらず、とりあえず「逆立ち」をしてみた。特技でもないので失敗しヘラヘラしてごまかしたところ、その明るさが気に入られたのか、ある芸能事務所に所属することが決まった。
アイドル活動するなら東京に行けると思い、1年だけだと父親を説得して上京する。
しかし病に倒れた、新潟の母親の介護もあり、新潟と東京の往復を繰り返す生活となった。
アイドル活動もままならず、極貧フリーターの生活を強いられるようになる。
或る有名ストランで働き始めるが、サラダの名前がおぼえられない。
そこで富田は、お客さんに何か聞かれると「しゃきさゃきサラダです」と応えて切り抜けた。
すると、お客さんは「シャキシャキしてるんだって」と応じ、一度も「これは頼んだサラダなの?」、とはならなかった。 これでお客様も嬉しいし富田も嬉しい、とは本人の弁。
ところが「しゃきしゃきサラダ」の命運も尽きる時がやってくる。
いつものように、「お客様 お待たせ致しました。シャキシャキサラダです」といってもっていくと その人が「え?」と反応したので、もう1回 「シャキシャキサラダです。新鮮なうちにお食べください」といったら呆れた顔をしている。
その客はなんと一般客を装った会社の幹部だった。
そこでホールをクビになり、バーテンになりなさいと異動させられる。
最初は受付の仕事をしていたが、ある日「バーテンダーをやってみないか?」と声を掛けられたが今度はカクテルがおぼえられず、客には冷えたグラスがあるなどといって、ビールを注文するよう仕向けた。
或る時、フレアのパーフォーマンスを見て、これができればカクテルの名前を覚えずとも、お客さんを喜ばすことができると思うようになった。
そんな矢先、母親が亡くなって落ち込み、父親もふさぎ込んでいる。富田は再起をかけて東京に戻ってきたものの、頼るものもなく、ホームレスとなって公園で暮らすことになる。
その公園はとても大きく、先住の方達が多くいて、森の中に居で暮らしちゃんと縄張りがあった。
富田が、空いたベンチに座っていると、話しかけてくれたり、チョコレートくれたり、何曜日に新宿行くとご飯もらえるよとか教えてくれた。
ただ、女性としては結構きついものがあり、シンプルに 水道の水で体というか 頭を洗ったりした。
ホームレスの始まりはすごしやすい5月であったが冬をどう乗り切るか、なにしろ新潟の冬にミニスカで暮らしていたので東京の寒さぐらい余裕であった。
ここで、ここでコギャル時代に、雑居ビルの屋上で寝ていた経験が生きる。
そして空き時間は、フレア練習に大半の時間を使うことができた。
ビンで生傷だらけだったが、何かほかにすることもなく、目標のワザができるように、1日15時間も練習したりすることもあった。
富田とってビンはお金と一緒で宝物のように大事にしまっていた。
しかしある時 ゴミ収集屋さんに回収されてしまい、ショックで警察に届けようと思ったりした。
しかし、警察にいってもそのビンが自分のものと証明する術がないので、諦めた。
また、公園での縄張りが荒らされることもあった。富田は、先輩方の縄張りを侵したりしないように マナーをしっかり守ってきた。
ただ、或る時パン買いにいくと、自分のベンチに知らないおじさんがご飯食べていたりしている。
公園だから仕方ないといえばそのとおりだが、住処が奪われたような気がした。
また広い公園なのに、なぜか自分のベンチの近くでイヌに排泄させるおじさんがいた。
なぜここを選ぶんだと抗議すると、おじさんは「君の家じゃない」の一点張り。会う度にけんかしていた。
ついに公園生活をやめようと思ったきっかけは、日照り。森は先住民に取られてるので、かつて働いていた漫画喫茶が近くにあったので駆け込んだ。
すると元バイト仲間が2番の席 空いてるから使っていいよと優しく言ってくれた。
ただ、シャワーを利用し寝る時はお金を払った。
富田はそんなめちゃくちゃな生活をしながらも毎日10時間近くのフレア練習を欠かさなかった。
何かするんだったら練習したいという思いがあったので、ホームレス生活も結構楽しかったそうだ。
YouTubeをよく見て今はこういう事をやってるんだということがわかった。
独学でひたすら練習し続けるうちにその実力は とんでもないことになっていたのである。
2009年、グアムで開かれた世界大会で世界中が衝撃を受ける事になる。
会場全員がナメていた無名の若い日本人女性が、人々の目をくぎ付けにして、フレア界初の女性優勝者となったのだから。
5本のビンを使って行う「カスケード」というワザができるのは世界で4人しかおらず、女性は富田だけが出来るスゴワザである。
2016年にはショービズ界の登竜門ニューヨークのアポロシアターに出演するなど、「美しすぎるバーテンダー」として世界的に活躍されている。

最近、スカイツリーを借景に映える「浅草寺(せんそうじ)」が東京観光の目玉となっている。
その浅草寺近くの国際劇場はもともと「松竹歌劇団(SKD)」の本拠地であった。
それでも、「はとバス」の観光客を相手に、なんとか興行を続けてきた。
その後、ミュージカル劇団への再編おこなうなど試行錯誤を重ねたが、赤字経営と団員数の減少により、劇団も存続を断念し、1996年ついに解散のはこびとなった。
SKDの本拠地・国際劇場跡地には、現在「国際ビューホテル」が建っている。
浅草全盛期の賑わいは追憶の中に沈みそうだが、浅草寺境内でとても意外な記念碑と出会った。
「映画弁士塚」というもので、一時代を築いた花形であったにもかかわらす、トーキー(音声映画)の出現とともに、まるで泡沫のごとく消えていった「映画弁士」の名前を記した記念碑であった。
明治・大正期において無声映画が盛んだった時期の活動写真の弁士100余名の名が刻まれている。
トーキーが日本で初公開されたのは、1929年の5月で、新宿の武蔵野棺で、この時の観客は驚きをもって画面を見入った。
スクリーンから直接に、音楽や人間の言葉が飛び出してくるということ自体、夢想だにしなかったことだからだ。
観客は以後トーキーの虜になってしまい、弁士がクビになるのは「時代の流れ」であったといえる。
弁士達の中で、「時代の趨勢」と諦めてさっさと転職した人もいたであろうが、その多くは時代の波に抗って戦い、抵抗した。
転身組の中には、徳川夢声、大辻司郎などは漫談家となって古川ロッパと組み、浅草常盤座に「笑いの王国」を旗揚げして一世を風靡した者達もいる。
ところで日本においてのみこうした「活動弁士」の文化が発達したのであろう。そこで思いつくのは歌舞伎の舞台である。
歌舞伎の上演では、浄瑠璃と呼ばれる三味線伴奏による語りが加えられている。
それは、俳優の演技や台詞とは別に、状況を説明したり、人物の心情を表現したりするというもので、義太夫節に代表される。
無声映画と弁士の語りの関係というのは、この歌舞伎と浄瑠璃の関係にも似ている。
また、講談や落語、浪花節など、日本には独特の「話芸」があるが、活弁はこれらとも共通点が多い。
例えば、講談は「七五調」の言い回しで構成されるが、昔の活動弁士たちの多くも、「七五調」で活弁を行っていた。
日本人にとって親しみやすい「リズム感」を採り入れたことで、活弁は日本人の琴線に触れることができたのだろう。ただし、活弁には特に決まった型がなく、全てが「七五調」だった訳ではない。
サイレント映画の時代、活動弁士達は、他者と差別化を図っていた。それが結果的に、全体のレベルアップへと繋がり、活弁はひとつの「話芸」として成長していったのである。
それは、バスガイドから声優やナレーターなどその他の「声」に関する仕事の中に今でも生きている。
2000年にグランドキャバレーの設備を利用して、無声映画上映レストラン「東京キネマ倶楽部」がオープン。大正時代のダンスホールを設定された施設はコンサート、パーティーなどのイベントスペースとして利用されている。
無声映画を再現しよと、初期の弁士は飯田豊一、万朶るり子。その後オーディションで山崎バニラや斎藤裕子が加わる。
山崎バニラは、「ヘリウムボイス」と呼ばれる個性的な声と、金髪のボブヘアがトレードマーク。
大正琴を弾き語る独特なスタイルの活弁士として知られる。
また、声優やナレーターなど話芸を活かしたフィールドで活躍している。
まずは声に注目されがちなバニラだが、実はITメディアでコラムを執筆したり、活弁の舞台で使う曲や映像を自作したりと、かなりマルチな才能の持ち主である。
山崎バニラは、宮城県白石市生まれ、父は慶應義塾大学理工学部名誉教授の山崎信寿、母はピアノ教師という家の生まれ。清泉女子大学文学部スペイン語スペイン文学科卒業。
4歳からピアノとモダンバレエ、絵画を習い始めた。
大学在学中は早稲田大学ミュージカル研究会に参加。その頃、自主映画に多数参加。大学卒業後はダンサーや舞台俳優、声優として活動を始める。
大学卒業間近に、とあるイベントにてミュージカル研究会の先輩でもある振付師の香瑠鼓と出会い、2年ほど彼女の指導の下ダンサーを請け負ったり、振付指導に出向いたりとダンス関係の仕事をこなしていた。
活弁士のオーディションを受けた理由は「話芸」という響きに惹かれたから。
それまでも、自らの個性的な声を活かしたいという思いからだが、芸能界を志し、様々なオーディションを受け続けていたという。
バニラの活弁といえば、大正琴やピアノを弾き語る独特のスタイルが特徴。この弾き語りスタイルは、活弁士の中でもバニラでしか出せない、オリジナルものである。
少しでも台本の台詞を減らそうとして思いついたものだったが、今では結局、台詞も多めになっているので、楽譜を起こさないといけないぶん大変になってしまったという。
ご本人によれば、活弁士は基本オタク気質なのかもしれないという。
自身の活弁ライブで上映するための動画を作ろうとしたときも、ハイスペックPCを自作するところから始める。
作家、演者、演出家の三役を一人でこなしながら、2〜3ヶ月かけて1日の公演日に備える。
超氷河期といわれた頃の就職活動でフジテレビのアナウンサー試験を受けた時には、面接官に「今は声優も需要があるから」と声優になることを勧められた。
2005年からは「ドラえもん」にジャイ子役で出演、各種メディアで注目を集めるようになった。
「ドラえもん」の声優オーディションでは元々はしずか役志望で、最終選考まで残ったが落選した。
しかしその後インタビューで「私にはジャイ子かドラミちゃんの方が合っているんじゃないでしょうか」とコメントしたところ、ジャイ子役に抜擢された。
特徴のある声は地声であり、自らは「ヘリウムボイス」と称している。実際、ヘリウムを吸った後の声と、地声の差がないのだという。
特徴的な声から、金田朋子としばしば比較されるが、バニラ弁士の魅力は声の質が漫画的雰囲気を生じさせ、自然に笑いがこみあげてくる話術といってよい。
現在の芸名になった理由は、CD「牛ちゃんマンボ」を出した際、「牛といえばミルク、ミルクといえばバニラ」という事務所スタッフの連想から。最初は嫌だと言ったのだが、事務所の社長に「字画が良いから」と説得され、しぶしぶ使用することとなった。
お客さんが生で舞台を見たときに「すごいものを見ることができた」と喜んでくれるのが何よりだという。

ケンゾウ(鈴木健三)は、恵まれた体格を武器にラグビー選手からTV局の営業マンになり、世界的レスラーにまでなった人物である。
そこまではアルアルとしても、奥さんまで巻き込んで、女性レスラーになってしまった。
ケンゾウはラグビー部に所属していて日本代表の予備軍日本代表Aに選出されるほどで、「ラグビーマガジン」表紙を飾ったことがある。
奥さんのヒロコ(水野浩子)とは同じ明治大学で、放送部に所属しケンゾウを取材したのが出会いのきっかけ。
2人はそれぞれに希望の就職先がテレビ局で、見事別のテレビ局に入社する事ができた。
就職してから1年経ったある日、アメリカにいたケンゾウからヒロコに電話があり、いきなり「プロレスラーになるから」と言ってきた。
夫ケンゾウがどうしてプロレスラーになってしまったのか。それはヒロコの知らないところでとんでもない奇跡が起こっていた。
ある日、ケンゾウがスーツを仕立てにいき、たまたまお店にあったプロレスのカレンダーを見ていたところ、その姿を見たスーツ屋の店長がおもむろに誰かに電話をした。
その相手がなんと プロレス界のレジェンド坂口征二だった。
ケンゾウは、たまたまプロレスのカレンダーを目にしただけなのだが、この店長からすれば身長191センチその時の体重が120キロというガチマッチョな体形の男性がプロレスに興味を持っていると思い込んでしまったという。
そしてお店の常連の坂口に、こんな男が店に来ていると報告した。
するとケンゾウは、坂口に会う事になり、すぐさまスカウトされたのである。
ケンゾーが坂口の大学の後輩だったということもあり、 猛烈ラブコールを受ける。
ケンゾウは安定したサラリーマンの道とプロレスラーの道との2択で迷うが、ケンゾーにはひとつのポリシーがあった。
迷ったって時は やりたい方を選ぶということ。脱サラしてプロレスラーになることを決めヒロコへ正式に伝えたというわけだ。
ケンゾウは入社してわずか1年にして「新日本プロレス」にいり、ヒロコも夢だったアナウンサーを辞めて東京へ引っ越してきて、二人はめでたく(?)結婚をする。
その後、ヒロコはケンゾウの恐るべき”破天荒ぶり”を知ることになる。
ケンゾウは当初”プロレス闘魂三銃士の橋本真也”の付き人をやっていたが、この付き人時代に 数々の事件を巻き起こしていた。
付き人なので 本当は「もうすぐ出番ですよ」とか「橋本さん次の試合です」とかって「ガウン着てください」とかやるのが役目だが 橋本がテレビ見てると 一緒にテレビ見入ってしまう。
すると出番が来ているのを知らせるのことを忘れて、「橋本さん もう音楽鳴ってます」なんということは、一度ならず何度もあった。
さらに、入場が始まるとすごい遠くからケンゾーが「橋本さん 忘れてます!」と声がかかり、途中まで花道出てあわててガウンをとりに戻ってくるなどの恰好の悪いこともあった。
ところが、ケンゾーはプロレスラーとしてはすごかった。デビュー後4カ月でタイトルを獲得する。
集中力がすごいく、ゾーンに入ってしまうとすごく格好よく、しかも華があった。
そして3年後別の団体へ移籍するが、ケンゾーとヒロコの2人にとんでもないピンチが訪れる。
なんと移籍後、興行主にお金を持ち逃げされて資金ゼロになってしまった。
いわゆる崖っぷち夫婦になって、貯金を切り崩してなんとかしのいだ。ヒロコは経済の苦しさは、自分だけに収めて出来るだけ”普通”を装っていた。
しかし、ケンゾウは、金もないのにまたもや”無茶”を言い始める。
それまではカナダを拠点にしていたが、WWEというアメリカ発の超人気プロレス団体をめざすという。
そして、ケンゾウのポリシーに従って安定より”攻める”ことを選んで、世界一の団体に決死の売り込みをする。
売り込むにも金がないので、WWEがニューヨークでショーがある日を見付けてその前後を5日間ツアーに行った。
当然のごとく、門前払いを食らってしまう。ところが、ケンゾウは片言の英語で熱い気持ちをアピール。もうこれが最初で最後のチャンスなんだというような事を一生懸命語って 強引にセキュリティーを突破してしまう。
さすが、元ラグビー選手だが、何を思ったかケンゾウ、着てるものを脱ぎパンツ一丁でうろつく。
やばいヤツがいると警備員が来て、騒ぎを聞き付けたWWEの社長が見にきた。
社長が来たら、お得意の全力アピール。 するとまたもや情熱が伝わった。
社長はケンゾウを気に入その日の 前座の試合に出場が決定した。
その場で契約し、契約の支度金として500万円をその場でもらったという。
ケンゾウの破天荒すぎる行動力で奇跡的に世界的プロレス団体と契約が成立したのだった。
しかし、ケンゾウのアメリカデビューに当たってある問題が浮上する。WWEでは”ディーヴァ”というキレイなモデルが一緒に出場することになっている。
難航する会議の中で、WWEの社長にひとつのアイデアがひらめいた。それはヒロコではどうかというものだった。
プロレスド素人のヒロコが笑って断ろうとしたところ、ケンゾウが生涯で”最大級の奥さん振り回し”を敢行する。
なんとオーケーをだして、社長と抱き合っているではないか。
そればかりか、「東スポ」に電話して"日本人初"と銘うって自分で写真撮って送ってしまった。
元ニュースキャスターだったヒロコは、全然乗り気ではないのに、白粉を塗って着物を着て「ゲイシャガール・ヒロコ」として夫と共ににアメリカでプロレスデビューをすることになる。
WWEのディーヴァはけしてお飾り的存在ではなく、相手選手やディーヴァを襲ったり襲われたり、マット上で取っ組み合ったりもする。
しかしヒロコは、デビュー戦を迎えある気持ちの変化に気付く。相手選手からラリアットを食らって観客が「ウオォ~!」と盛り上がった瞬間、自分でも気がつかない感情がメラメラと沸き起こった。
そして、何を言ったら相手もしくは観客に嫌われるかとか、どんどん湧いてきて口からでてくる。
リングの袖に帰ると、「天性の悪役だ」と、エージェントに褒められる。
大人気になったヒロコに、目つぶしの必殺技が生まれた。人よんで"ニンジャパウダー"。
白い粉で目つぶしを食らった相手がひるんだ隙に、蹴りを入れたりする。
ところが人気も絶頂で夫のために頑張っていたヒロコに、ケンゾウが再び破天荒発言を繰り出す。
子どもが3歳になった時、「地方議員をやりたいって言っていただろ?」というのだ。
ヒロコが長年温めていた夢を、夫はよくぞ覚えていてくれた。
ケンゾウにしてみれば、ずっと振り回してきたヒロコへの恩返しのつもりだったという。
そして、「ゲイシャガール」ヒロコは、船橋の市議会議員選挙に出馬を決意し、ケンゾウも選挙を全力でサポートした。そしてヒロコは、見事に当選する。
現在は千葉県議だが、”天性の悪役”のヒロコが地方議員で留まっていてはもったいない気がする。
国政の舞台で、意表をつくニンジャ・パウダー的センスは政敵を煙に巻くにはもってこいだ。

先が見えにくい時は、自分の足元を確認することが、安心感をもたらす。つまり、旧きを訊ねて先の見通しのヒントにしようということかもしれない。
映画「黄泉がえり」(2005年)の主題歌「月の雫(しずく)」は、歌詞がとても文学的。
♪♪言の葉は、月のしずくの恋文 哀しみはうたかたの夢幻 艶色は愛をささやく吐息 戦 災う蝉しぐれの声♪♪。
柴崎こう(RUI)が、歌ってヒットしたこの曲の作詞家をみるとSATOMIというお方。
きっと古典文学に通じた人にちがいないが。プロフィールはあまりでていない。
ただ、趣味で詞を書いていると、元マネージャーがたまたま私の詞を見て、興味をもってくれたのがきっかけとなる。
2000年11月作詞家としてデビューし、これまでにto-yaでデビュー作「」、 代表崎は中島美嘉「雪の華」で、日本レコード大賞作詩賞を受賞している。
また、kinkikidsの「孤独の街角」など幅広く作詞を手掛けている。
ちなみの「月の雫」、言葉の問題でいえば「しずく」は、「雫」と「滴」はどうちがうのだろうか、ということ。
「雫」は、雨のしたたり落ちる状態(自然現象)で、「滴」は、物理的な水の状態(水滴、一滴二滴)というニュアンスの違いで、「雫」の方が文学的な雰囲気がでる。
さて月といえば「中秋の名月」で、お月見はいまでも愛されている。例えば京都大覚寺の「観月台」というものまで設けられている。
あるテレビ番組で「観月台」の中継をしていて登場されたのが、「養生料理」の料理人が井戸理恵子(いど・りえこ)という人。
単なる料理人ではない。自ら 民俗情報工学研究家を名乗っておられる。
1964年北海道北見市生まれ。国学院大学卒業し、「ゆきすきのくに」代表として各種日本文化に関わるイベント開催。オーガニックカフェ「ゆきすきのくに」にて自然食を提供している。
最近では、ホテルや温泉施設、化粧品会社の商品などのコンセプト、デザイン、ネーミングなどに携わるほか、映画やオペラ、アニメなどの時代考証、アドバイザーも務めている。
「ゆきすきのくに」とは井戸さんの造語。『悠紀』。『東』であり『未来』。 『すき』とは『主基』。『西』であり『過去』を意味しているという。
悠久の時の中で先人たちにセレクトされてきたモノ、コトにこそ、この国の主軸であり、未来をかたどるアイデンティティがあるというコンセプト。
民族情報工学とは、幾分仰々しいが、伝統儀礼、風習、歌謡、信仰、また、地域特有の祭、風習、習慣、歌謡、信仰など。そこにはこれから未来を生き抜く、「日本人」への大いなる遺産としての「情報」として未来に生かしていこうという意図らしい。
「日本人なら知っておきたい!カミサマを味方につける本」などの著書で知られている。
日本人は、普通はカミサマを見たことがなく、姿かたちもわからないのに、森羅万象にカミが宿るとみなし、「カミサマ」と口にします。
そんなカミサマをもっと知り、もっと身近に感じ、味方につけてしまおうという趣旨のもと、本書は日本独特の暮らし、「しきたり」や「しつらい」を紹介し、毎日の生活にうまく取り入れる方法をく。
ときどき旧暦で暮らす「アエノコト」-ふた月に1度、カミサマを迎えてもてなす食のおまつり(食べ物に感謝してこれからの季節に備える/冬至ー甦りの日/人日ー七種(草)粥を食す日/上巳ー桃の節供「桃」と「雛」と「蛇」/端午ー梅雨の邪気を祓う日/七夕ー罪穢れを清め技芸上達を願う日/重陽ー九が重なるおめでたい日)。
さて、井戸さんが最近出演された番組○○のテーマは「今夜は中秋の名月お月見を楽しもう!」。
お月見のポイントの1つが、お供え物の数々。収穫の時期で、収穫に感謝しながらおいしいものをいただけるのもお月見のだいご味の1つなんです。
中でも忘れてはいけないのがお月見だんごである。
中秋の名月は、別名芋名月とも呼ばれるんですがほかにも食べ物の名前がついたお月見の日があります。
それはエ戸時代ぐらいから盛んになってきたんですから、くりです。
月餅は、昔は中にアヒルの卵を入れたが、最近はくりとか、はすの実も入ってるものもある。
栗名月の由来はくりがとれるときもある。くりという実が、昔の人はものすごい栄養分がたくさんあって くりには本当に体の中に必要なビタミン類とかたくさんある。
縄文時代から、日本人はとにかく「くり」をめでていた。
中国のお月見で楽しむ月餅でした。
栗名月が旧暦の9月13日の夜なんです。今年は10月の11日と月をめでる日が続きます。
そして、3つ目の十日夜。これもまたポイントなんですよね。
10日目の夜ということで非常に重要なお月見でこのころというのが最初は芋がとれるくりとか豆とかとれる。
10月の10日のころになるとすべての作物が全部、収穫されるということで1年で一番お金持ちといいますか。
一番楽しい子どもも大人も無礼講でみんな、お月様を見ながら外で遊んで歩いたという。
みんなそうして楽しんでたんですね。
大沢池は日本三大名月鑑賞地の1つに数えられている池なんだそうです。
今から1200年前に嵯峨天皇様が作られました庭池(にわいけ)でございまして 日本最古の庭池といわれています。
龍です。迫力すごい!ちらが龍であちらが鷁(げき)。架空の水鳥になりますが龍頭鷁首舟と申しまして これで2そう一対になっております。
これは唐の国から伝わった舟なんですが高貴な方々がこういった龍であったり鷁をつけて舟遊びをされるというものです。
この舟からはどのような感じで月を楽しめるんですか?。空見上げて、月。みなもに映る月。一度で二度楽しめるということですね。
私どもとは平安時代とかになりますとお月見の作法が違いまして。
私たちは上にお月様がございましたらそれを見てきれいだなと見ながら楽しむわけですけど この時代の方といいますのはこのみなもに映る月であったりあるいは舟でお酒を酌み交わしながら その杯に映るお月様をめでると申します。
紫の幕がございますがここに御簾(みす)と申しまして今風に言いましたらすだれのようなものです。
直接上が見えないような形になっておりました。
見上げるというよりもみなもに映る月と杯に映る月をめでる。これ、お酒進むでしょうね。
この大沢池にまつわる歌はたくさんの方が詠まれておるんですが 特に、平安時代後期の公家の方で藤原俊成さんという方。 「大沢の 池の景色はふりゆけど 変わらず澄める 秋の夜の月」。 こういう歌を詠まれてるわけです。
時代が、時を経ましても先人の方がめでたのと同じ月がめでられると
本当に平安貴族の方々が体験されたことと同じことがこちらではできるということです。
こちらの舟券が発売されるんですよね。平安貴族のお月見が皆さんも体験できますよ。
「観月の夕べ」の最大の行事「満月法会」についてお伝えします。
月をめでるのはそれ以外にも目的があるんですよね。先ほど、芋をささげたりくりをささげたりということで 五穀豊じょうを願う。
五穀豊じょうになりますようによい世の中になりますようにということを祈るお祭りなんですね。 あまり月見しなくなりましたので今日を機に広めていきたいですね。
井戸≫若々しさを保つというのも月から若々しさをもらうという。 おだんごは昔の人にとってお米というのはごい貴重だったのでご先祖様たちにささげるというのと あとは元は貴族の習慣で月見だんごをお供えするものがだんだん武士の時代に入ってきて そこから民間に落ちてきたというような形で。江戸時代ぐらいから。