「都市封鎖」にロックと花火

第二次世界大戦で敗戦国となったドイツはベルリン宣言によって4分割された。
ドイツの国土の東部地区はソ連が、北西地区はイギリス、南西地区はアメリカ、西部地区はフランスによって分割され、首都のベルリンも東側はソ連が、西側をアメリカ、イギリス、フランスで2分割された。
ちなみに、首都のベルリンはソ連の東部地区の中にある"陸の孤島"のような存在。
ただじ、分割管理は固定的なものではなく将来的には一つの国家として主権を回復するというもの。
1947年ごろにはソ連と西側諸国の関係は悪化し、アメリカは共産主義勢力の封じ込め政策の一環で、ヨーロッパの経済復興と再建を目的とした「マーシャルプラン」を提案する。
さらに、東欧諸国からソ連の影響力を切り離そうと試み、西ドイツで新しい通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を行った。
このアメリカの行動に激怒したソ連は鉄道を停止し、西ベルリンに物資を運ぶトラックを検問所で足止めさせた。
そのため東ドイツに囲まれている西ベルリンは食料や燃料を完全に断たれる。
1948年6月24日に始まったこの出来事を「ベルリン封鎖」と言い、これにより東西ドイツの分断は確定的となった。
アメリカはソ連の「ベルリン封鎖」に対して、アメリカ空軍による空から生活必需品や食料を運ぶ大規模な「ベルリン大空輸」を行った。
だが、人口250万の西ベルリンには1日最低4500トンの生活必需品と食料が必要で、それを空輸で毎日運ぶことには、莫大なコストがかかった。
それでも大空輸を行ったのは、西ベルリンの市民を救おうということに加え、孤立化した西ベルリンを西側は決して見捨てないというメッセージでもあった。
その一方、東から西へと亡命する市民は後を絶たず、東側は1961年にそれを防ぐために一夜にして壁を造り上げてしまう。
それによって 多くの家族や恋人たちが突然 引き裂かれ、時には壁を越えようとして撃たれて亡くなった東ドイツの若者もいた。
このベルリンの壁は東西冷戦の象徴となるが、我々の目には、その崩壊はあっけなく映った。
しかし、それは突然起きたことではなく、そこに至る小さな奇跡が積み上がったうえに起きたことだった。
その小さな奇跡のひとつを起こしたのは、名もなき一人の日本人である。
秋田県大曲(おおまがり)といえば日本一の花火大会で知られるが、昭和30年代には、テレビなどの普及により花火が飽きられ始めていた。
1978年、大曲の市長が西ドイツのボン市を農業視察の目的で訪れたことが、小さな奇跡を生む。
その際に大曲市長はボン市長に対し、「大曲は日本一の花火大会で有名です。ライン川の古城を背景に打ち上げたら楽しいでしょう」と述べた。
この言葉は日本人らしい社交辞令的な意味合いで発言したものだったが、ボン市長はそれを真に受けてしまったらしく、翌日の現地新聞で「大曲から花火を呼ぶことになった」と報じられた。
そしてドイツで日本花火打ち上げが実施されることとなり、指揮をとったのが花火師達を統轄した佐藤勲である。
佐藤勲は、1910年大曲生まれで、秋田鋼材などの経営をしながら、秋田県大仙市で開かれる「大曲花火大会」に関わり、 1962年頃から花火大会委員長、大会顧問を歴任した。
色、音、光などを駆使し、革新的な花火を追求し、「花火は丸いもの」といった従来の概念にとらわれない創造花火の生みの親といわれている。
佐藤は、1979年に、ボン市での花火打ち上げを成功させると、次は東側地区に位置する西ベルリンから「市政750年の記念打ち上げ」を依頼される。
佐藤は再び、西ベルリンで花火の打ち上げを見事に成功させ、記者会見で次のように語った。
「ベルリンの地上には壁がありますが空には壁はありません」「日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」。
これらの言葉は、翌日の紙面の第一面を飾ったばかりか、ドイツ市民の心に長く響き、東西ドイツ合併を促すことになったのである。

1970年代、デビット・ボウイは、化粧を施し斬新なコスチュームで歌う前衛的なロックで、世界的スターとなっていた。
しかし高まる人気と裏腹にのしかかる重圧で、心と体はボロボロ、ドラッグにも手を出していた。
そんなボウイが奇抜な衣装を脱ぎ捨て西ベルリンを訪れたのは、芸術家を目指す若者たちが多く暮らす庶民的な街で音楽作りに専念するためだった。
その頃、ボウイが音楽作りをしていたスタジオからベルリンの壁は真正面に見え、壁までおよそ200メートルに位置していた。
壁の後ろには 大きな建物があり、屋上には監視塔があって東ベルリンから逃亡する人がいないかを常に監視していた。
壁を見つめる中で、ボウイにある曲想が浮かぶ~東西に引き裂かれ自由に会うことができない恋人たち。
そんなイメージから生まれた曲が「ヒーローズ」。
自由を求める若者の祈りのように聞こえるこのこの曲が、約10年後にベルリンの壁崩壊へと導く扉を開くことになるとは、誰も想像することはできなかった。
ドン底から抜け出したボウイは、ニューヨークに向かい、80年代もメガヒットを連発する。
その一方、80年代半ばになると、ソビエトが社会主義体制の大改革に乗り出し、東ドイツでも変革を求める声が高まっていく。
1987年、ボウイは世界中を巡るツアーを行い、8年前「ヒーローズ」を作った西ベルリンを訪れた。
そして野外ステージは、なんとベルリンの壁からわずか20メートルの処に設けた。
それはプロデユーサーとともに、壁の向こうの東側の市民にも曲を聴かせる魂胆であった。実際、壁の向こうにもよく聞こえるように、スピーカーの4分の1を東ベルリン側に向けたりもした。
そして本番当日、西ベルリンの会場に大勢の人が集まる中、東側でも 多くの人が壁の近くに集まってきていた。
東ドイツでは、許可なく自由に集まることは中止されていたが、その数はどんどん膨れ上がり、最終的には6000人から1万人にもなった。
誰もがこのイベントがどんな結果をもたらすか、ピリピリしていて嵐の前の静けさという感じであった。
実際にそれは東側に届き、騒動は激しくなっていく。逮捕者も出る中、若者たちはかまうことなく声を上げた。
そしてボウイがベルリンの壁を見ながら得た曲想から生まれたアノ曲「ヒーローズ」が、大きな時代のうねりを作り出していった。
東ドイツの若者たちの心に音楽で火をともしたデヴィッド・ボウイなら、その導火線を用意したもう一人の若者がいた。
その若者とは、後に音楽プロデユーサーとなるマーク・リーダーという男だった。
イギリス生まれのマークはデビット・ボウイの音楽に憧れ、20歳の時にボウイの後を追うようにベルリンを訪れる。
それはボウイがアメリカに去った頃のことだったが、彼が住んでいたアパートはそのまま残されていた。
人づてに中を見せてもらったマークによれば、これがボウイの部屋か 信じられないほど、質素な暮らしぶりがうかがえた。
そしてマークは、当時あった24時間ビザを利用して東ベルリンを訪ねる。
自由な社会しか知らなかったマークにとって、そこは不気味な緊張感に満ちた場所だった。
当時、東ドイツでは秘密警察「シュタージ」が自国の国民を監視していて、統制されたディストピアの世界で、多くの人は監視の恐怖で萎縮していた。
若者を見つけては、あきらめずしつこく声をかけ続けた結果、彼らが求めているのは西側の最先端の音楽だと知る。
そしてマークは西側の音楽を一人で東側へと密輸しようとはかるが、大きな問題は、検問所でカセットテープが見つからずにくぐり抜けられるのかということであった。
カセットテープに入れた音楽は、当時イギリスで人気だったロックグループで、"反権力"を掲げて若者を刺激するような内容のものもあった。
見つかった場合、没収、逮捕される可能性すらあった。
マークは カセットを自分の体にテープで貼り付け、カセットの中のホイールがカタカタと音が鳴ってしまうので、それもセロテープで固定して音が鳴らないように工夫していた。
幸いなことにボディーチェックはなく、マークはテープの密輸を100回以上繰り返し、それは東ベルリンで瞬く間にコピーされ広がっていった。
運んだカセットは友人たちが、東ドイツ内で何度もダビングして配り、彼らはカセットを台所やトイレでこっそりと見つからないように渡していた。
そんな生活を5年ほど続けた1983年、マークは東ベルリンの若者たちの思いを知り、西側のバンドに、東側で演奏させようと考え始めた。
声をかけたバンドが「クラフトワーク」で、当時は無名だったが後にドイツでチャート1位を11回も獲得するほどの実力派であった。
しかし問題は、どこでライブを行うかということであったが、マークがライブ会場として選んだのは、なんと教会であった。
国民の多くがキリスト教徒だったため、社会主義体制下でも教会への露骨な弾圧はできなかったからだ。
わずか30名の極秘ライブだったが、万が一誰かに見られたら通報されて 秘密警察「シュタージ」がやって来る。
入り口で見張り役をしていたが、ライブは邪魔されることなく成功し、マークはこのライブで音楽の力を改めて知る。
後でわかったのは、客の中には監視するはずのシュタージの関係者もいて、彼らも聴きたかっていだのだ。
マークは10年以上にわたり、テープやライブを運び続け自由に音楽を聴きたいという若者たちの思いを深く静かに広げていった。
東側で 西側の音楽を聴く若者が増え、彼らの自由を求める声も大きくなる中、東ドイツ政府は若者たちの不満を抑えるため、政府が認めたコンサートを東ドイツで行うという決断を下す。
そして 壁崩壊1年前の1988年、当時人気絶頂だったアメリカのロックスターであるブルース・スプリングスティーンが東ベルリンでコンサートを行うことになる。
全ての始まりは、ボウイがコンサートを開いた あの夜のこと。官憲には苦い記憶だった。
今後また壁に近づこうとする若者が出た場合、抑えることができるのか。
FDJ(自由ドイツ青年団)のトップのアウリッヒは、ボウイのコンサートに腹を立てていた。西側が壁の近くでコンサートを企画したのは、東ドイツに対する明かな”挑発行為”であったからだ。
そこで、アウリッヒに アイデアが浮かぶ。壁のそばで行われるコンサートを阻止できないなら、別の場所で対抗するコンサートをやって若者が壁に近づかないようにすればいいと思いついた。
アウリッヒが目をつけたのは、壁から5キロ離れた場所にあった広大な土地で、ここで自分たちが認めたアーティストにコンサートを行わせ若者たちのガス抜きの場としようと考えた。
その時、FDJの中で名前が挙がったアーティストがスプリングスティーンだった。
当時、スプリングスティーンは貧しい労働者たちの夢や苦悩を歌っていたため、労働者階級に寄り添うもので、東ドイツの思想にも合致するとみられていた。
とはいえ、集まった民衆の多くは、コンサートが強制終了になるのではないか、もしくは スピーカーの電源がひき抜かれることを心配するものも少なくなかった。
そして「ボーン・イン・ザ・U.S.A」が始まった。
その時、 会場にいた誰もが盛り上がっていいものか悩んでいたという。
それが「自由の国に生まれた」という意味だということは、そこにいた全員が分かっていたからだ。
しかしもう誰も止めることはできなかった。
「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は数十万人による大合唱になっていった。
そしてスプリングスティーンは、なんと観客をステージに上げた。東西対立に風穴を開けるようにアメリカと東ドイツの人が一緒に踊る。
みんな仲間だというスプリングスティーンのメッセージに観客は熱狂してダンスをはじめ、それを止める者は誰もいなかった。
コンサートであれだけの思いをしたら、もっと自由になりたいという思いが出てくるのが自然なこと。実際、このコンサートは、東ドイツ市民に自由というものを植え付けた。
「自由」を求める声は、もう抑えきれないほどに膨らんでいた。

東ドイツ市民の自由を求める機運の高まりを示すのが、1989年月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた「汎ヨーロッパ・ピクニック」である。
もともとハンガリーは、東社会主義圏の中では、最も開放的な国で、夏に避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再会し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループによって、東ドイツから西ドイツへの「脱走計画」が隠密裏に進められていたのである。
それは、ハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に大量に西ドイツへ逃がして、亡命させてしまおうという策略である。
NHKのスペシャル番組では、この時におきたある「感動的な場面」が放映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東ドイツ市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまい」と思った瞬間、警備兵は赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
このワン・アクションが、はからずも東ドイツを脱出しようとする市民へのメッセージとなった。
実は、ハンガリーの国境警備兵は、隠密裏に東独市民の逃亡を見逃すように命令をうけていたのだ。
この「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、一度に国境を渡った東ドイツ市民は、およそ1000人といわれている。
しかし、その後続々とハンガリーに集まってきた堰をきったような約6万人の東ドイツ市民の流れを、東ドイツ政府は、もはやどうすることもできなかった。
実はその陰にはハプスブルグ家の協力の下、ハンガリーのネートメ首相の決断があった。
ネーメト首相は密かに西ドイツのコール首相を訪問し、ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国さえるつもりであることを語った。コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方、ネートメ首相は、東ドイツ市民の「強制送還」を要請してきた東ドイツ政府に対して、同じことを通達した。
これによって、東ドイツ国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、「壁の開放」を容認する他はなかった。
そして1961年から89年までの28年間、街を分断したベルリンの壁はあっけなく崩壊した。
それから20年が経過した2009年11月9日、「ベルリンの壁崩壊20年記念式典」では、ロックバンドが演奏するステージ上の夜空を、盛大な花火が飾った。