国家の威信が人を潰し、逆に個人の面子が国家を潰す、ということもある。
現在、新型コロナウイルス感染収束に向けたワクチンの開発や供給の国際競争が激しさを増している。
アメリカと中国の主導権争いが絡んでおり、最初にゴールした国が世界経済へのグローバルな影響力を回復する。
もしそれが中国ならば、ヨーロッパまで伸びる「一帯一路」の沿線国家やアフリカ大陸の資源獲得においても強い影響力を増すことができる。
ロシアのプーチン大統領は2020年8月、新型コロナウイルス・ワクチンの一般市民向け使用が承認されたことを明らかにした。
中国は人民解放軍の兵士に限定してワクチンを承認しているが、一般市民向けの承認は世界で初めて。
ロシアの臨床試験にはプーチン氏の娘も参加し、異常はみられず高い抗体価が確認されたという。
ワクチンは、アメリカをはじめ西側諸国に衝撃を与えた1957年の旧ソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」にちなんで「スプートニク5号」と名付けられた。
プーチン大統領が、いかに国家の威信にこだわっているかがわかるが、それは全く逆の意味での「スプートニク・ショック」となっている。
ロンドン国立心肺研究所の教授によれば「38人を対象に2カ月足らずで第1相試験か第2相試験を実施したようだ。第3相試験は行われておらず、完全に試されたわけではないと強調している。
安全でも効果的でもないワクチンによる副次的な被害は現在の問題を克服できないほど悪化させる。
より大きなリスクは、獲得された免疫が感染を防ぐのに十分ではなく、免疫された個人間でウイルスが拡散し続けることだ。
出来の悪いワクチンはワクチンがないよりよほど悪い結果をもたらすこともありうると警告している。
奈良時代、藤原鎌足の子・不比等は律令国家の中枢としての地位を確立したが、その四子は天然痘で相次いで亡くなり、勢力が衰退化したかに思えた。
しかし、平安時代、北家の藤原義房が清和天皇の摂政の地位につき、躍進を続けてることになる。
その藤原良房を養父とした藤原基経の時代、応天門の変を起こした大伴氏と紀氏を失脚に追い込み、天皇の補佐をする役職である摂政に就任。
さらに、暴虐といわれた陽明天皇を排除し、基経と関係の深い光孝天皇を即位させて自身は太政大臣に就任する。
さらに基経は光孝天皇が亡くなる直前、元々臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ)を半ば強引に皇族に復帰させて宇多天皇として即位させる。
藤原基経は自分の都合で天皇を取り換えることができるほどの権力をもつに至ったことがわかる。
こうして朝廷のトップを立った基経だが、このことを受けて宇多天皇は基経に関白の位を与える。
しかし、その天皇が出すその「詔勅」に問題がもちあがった。
宇多天皇が基経に対して関白に就任させようとした、その詔勅の中に「宜しく阿衡(あこう)の任を以て卿の任とせよ」という表現があった。
この「阿衡」という役職は、古代中国の夏王朝の時代に伊尹という賢い人が、この役職について皇帝をサポートしたという逸話が元となっており、阿衡みたいに関白として天皇をサポートして欲しいというぐらいの意味であった。
基経は関白就任の詔勅を見て当初は十分満足したであろうが、学者である藤原佐世(ふじわらのすけよ)が「阿衡は位貴くも職掌なし」つまり阿衡って地位は高いけど名誉職だから職務を持たない役職であると難癖をつけてきた。
それにより基経は、自分を政治の実権から遠ざけようというという意図があるかという疑いをもつようになり、気持ちはガラリと変わる。
この頃、基経は朝廷の全ての仕事を担当しており、基経なしでは朝廷は回らなくなっている。そんな中、すべての仕事をボイコットするというのである。
宇多天皇は困り、なんとかして基経の怒りを鎮めて朝廷に復帰してもらわなくてはという思いから、左大臣の源融(みなもとのとおる)に命じて「阿衡」が名誉職にすぎないのか博士達に調べるよう命じる。
しかし、基経の圧力により博士達は「阿衡」とは名誉職にすぎないという判断に至ってしまい、宇多天皇は仕方なく改めて詔書をださせた上に、この詔勅を出した橘広相(たちばなのひろみ)を罷免してしまう。
基経は、なおも橘広相の処罰を求めるが、讃岐守・菅原道真が基経宛に送った書簡により基経は矛を収め事件は終結した。
さて当時の日本では「源」「平」「藤」「橘」と呼ばれるように、藤原氏と並んで源氏と平氏と橘氏が大変強い勢力を持っていた。
橘氏という家は、奈良時代の時には橘諸政権を築いたこともあり、依然として強い勢力を持っており、さらに橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇の妃になると、天皇の外戚として橘広相が右大臣に昇進するほどの権力を持つに至った。
阿衡事件は、藤原氏の橘氏の追い落としばかりか、博覧強記といわれた橘広相に対する藤原佐世の学者としての対抗心という面も感じさせる。
「阿衡の紛議」以降、宇多天皇が登用したのが讃岐守であった菅原道真である。実は、問題の詔勅を起草した橘広相は、菅原道真の父の菅原是善(すがわらこれよし)に学んだ関係である。
天皇は、阿衡の紛議以降、藤原北家を完全に排斥はしないものの、嵯峨源氏や菅原道真など藤原氏ではない人物を多用し、藤原氏の勢力を削ぎ落とそうとした。
藤原北家は当然それに対抗し、時代は基経の息子である藤原時平と菅原道真の対立へと変わっていくのである。
1828年9月、幕府体制の根幹を揺るがす「シーボルト事件」がおきる。
オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。
シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられ、地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。
後の「シーボルト事件」はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。
旧来の説では禁制品を積んだ船が暴風雨に見舞われて座礁し、積み荷から地図などが発見されたという説が知られていた。
しかし1996年に旧来の説を否定する論文が出され、オランダ商館長の日記や長崎商人の報告書の写しから江戸で露見したとする説が有力になっている。
オランダ船のコルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。
座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけで、その中から伊能図が見つかったという形跡は見当たらない。
また、2019年、三井越後屋の長崎代理店をしていた中野用助が江戸に送った報告書を本店で写した資料が見つかった。
中野の報告書によると事件は江戸で露見し、飛脚で長崎に通報され、長崎奉行所がシーボルトを取り調べて様々な禁制品が見つかったと述べられており、それがオランダ側の資料とも一致する内容となっている。
ではどうして江戸で露見することになったのか、「シーボルト事件」に関わる”第三の男”が間宮林蔵である。
樺太を探検し、世界に先駆けてその地理を明かにしたが、日本地図に興味を持つシーボルトがこの人物に興味を抱いたのは確実であろう。
そして、シーボルト事件の発覚の発端となったのが、この間宮林蔵の判断なのである。
シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送った。
しかし、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
ぞして、間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容により、シーボルトと高橋景保のやりとりが明らかになり、高橋は捕らえられ取調べを受けることになる。
さらにはシーボルトも、日本地図の返還を拒否したため処分の決定を待つことになってしまう。
シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。
自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。
高橋は1829年3月獄死し、シーボルト自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。
間宮林蔵と高橋景保は、確執があったとも言われている。
それは地理学という学問上のライバル心だったのかどうかは定かではない。
実は、伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度があがったという。
忠敬がスケジュールの都合上、蝦夷地を測量できなかったとき、蝦夷地測量を間宮が代わりに測量して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北の地図は最終的に間宮の測量図になった。そこに、微妙な感情のアヤをうまなかったか。
あるいは、幕府より北方探検を命じられた間宮林蔵からすれば、高橋がたとえ学問上の交流とはいえ、外国人と距離が近すぎることに危険な匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
世界で初めてビタミンB1を発見したのは、鈴木梅太郎という人物である。
当然、ノーベル賞級の功績であることは間違いない。
鈴木は脚気にかかった鳩に「米糠」を与えると症状が改善される事を突き止め、1910年、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功する。
同年12月、この研究を発表し、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名するが、これこそ現在の「ビタミンB1」なのである。
なぜこれほどの功績にノーベル賞が与えられていないのかが逆に不思議だが、そこに森鴎外という人物の陰が影響している。
森鷗外はいうまでもなく文学者として高名ではあるが、同時に、東京帝国大学をでて、陸軍軍医としての最高の地位である軍医総監にまで上り詰めた医療官僚でもあった。
ところで明治以来、陸軍と海軍は威信をかけて競い合っていた。
暫くは「陸主海従」の状態が続くのだが、1893年日清戦争の直前の頃になると海軍は「陸軍は朝鮮海峡に自力で橋をかけて、朝鮮に兵を送るのだろう」と嫌味を言ってきたので、止むを得ず海軍が独自の統帥機関をもつことを認めた。
これが「軍令部」となるが、陸軍は戦時に、陸軍が最高統帥権を握ることを確保する為に、「戦時大本営条例」を制定し、参謀総長を「統合幕僚長」とし、戦時には参謀次長と軍令部長をその配下に置いた。
そして日清戦争はなんとか「陸主海従」で乗り切ったという経緯がある。
さて、そこで浮上するのが軍人たちが見舞われた脚気という症状である。脚気になると、まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。
1875年の陸軍の報告書によると、軍隊では100人中26人が脚気になり、死亡率は陸軍で22パーセント、海軍でも5パーセントだったという。
当然に脚気の蔓延は軍隊にとって、重大な問題であった。そこで軍医の職にある人びとが脚気問題の解決に当たることになった。
しかし今のように「脚気」というのがどういう病気なのか、何が原因によって発病するのか、どう治療していけばよいか、そういった知識が全くないのである。
だが、陸軍と海軍との間では、脚気の出現状況について明らかに差異がでていた。
実は海軍は脚気を根絶していた。それは、海軍医務局長・高木兼寛の功績である。
海軍医務局長高木兼寛は、1875~80年までのイギリス留学中、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのを察する。
彼は、まず遠洋航海実験で、蛋白を増やした新糧食により脚気の発生が事実上なくなるのを示した。
さらに巧みな政治工作で猛反対を押し切り、1885年以降、兵食を蛋白の多い麦飯に切り替えた。
その結果、海軍での脚気はほぼ根絶する。
後に兼寛の研究はビタミンの発見につながり、脚気はビタミンBの欠乏で発症することが証明された。
このことから、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになる。
高木は実験を繰り返すことで脚気の根絶に成功したが、森林太郎(森鴎外)は彼に敵意を燃やして高木の方法を決して受け入れなかった。
日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授が、1981年初めて学会誌「公衆衛生」において指摘した。
両戦役からすでに1世紀近い月日が経っていた。
脚気対策を1884年頃終えた海軍に対し陸軍は森鴎外のプライドと面子から「海軍の対策は科学的根拠なし」として真似ようとはしなかった。
その後、国外での戦争が始まると陸軍の脚気病患者は急増した。海軍の食事改善後も陸軍と森鴎外はその後20年も放置したことになる。
森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しなかった。
その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では 3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた)という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となった。
麦食が脚気を予防するのは、蛋白質ではなくビタミンB1を多く含むからである。
麦食が脚気を予防するというのは事実であり、米食にこだわった陸軍は日清・日露戦争において、多くの脚気患者を出す。
さて、東大の脚気細菌派の中心は、緒方正規(まさちか)の「脚気菌」の発見にもとづいていた。
緒方の弟子にあたる北里柴三郎は、緒方の発見した「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係であるという論文を発表する。
ところが東大では北里を忘恩の輩として非難の嵐が吹き荒れ、森鴎外も北里を激しく非難している。
東大の脚気菌派の人々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、日清・日露戦争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた。
高木兼寛の功績を引き継ぎ、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎を散々批判したのである。
当時、医学の論文はドイツ語で書くのが普通であり、世界中の言語がドイツ語に翻訳されて発表されていたが、鈴木梅太郎博士はドイツ語に翻訳する能力がなかったため、人に頼んで翻訳を行った。
ただ不運にもその翻訳は不正確で、「世紀の発見」が、意味不明な論文として扱われてしまった。
それ以前に、鈴木は農学部出身の農学者であり、学会からは医師でも薬学者でもない人間が、医学的な論文を書ける訳がないと決め付けられてしまった。
鈴木が書いた日本語の論文は、世界どころか日本国内でも相手にされなかったのである。
鈴木梅太郎の功績が認められたのは後年のことであり、その時は既にヨーロッパの学者がビタミンの研究でノーベル賞を受賞していたのである。