歴史の中で、もしも「夢のヒストグラム」があるなら、最も高い土地とはどこだろうか。
最初に思いついたのは、ブレイク前の音楽家が多く棲んだ街・福生(ふっさ)。都心から西へ約40kmに位置する。
そこには横田基地が蟠踞し、米軍払い下げのハウスがあり、画家、小説家、音楽家など若きアーティストが夢をハグして住んでいた。
大滝詠一、桑田圭介、忌野清志郎、フィンガーファイブ、福山雅治、そして村上龍や山田詠美ら。
村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」で描かれた街は、この福生であった。
そこは、安く住める払い下げ住宅街があったばかりではなく、フェンス越しにアメリカがあったのがポイントのひとつだったのかもしれない。
多くのミュージシャンが成功するとこの街をでたが、故・大滝詠一は終生・福生の住人であった。
世界的にみて若い芸術家が多く住む街といえば、パリのモンマルトルがあげられる。
ここに集まってきた貧乏芸術家たちが共同生活をしていた場所で、
モンマルトルはパリ市街の景色がよく見えるので、確かに絵心を刺激する場所である。
そのモンマルトルをさらにフォーカスすると、モンマルトル頂上から麓へむかって道なりに歩くと、全体が傾斜した感じの広場に出る。
ここは、「Le Bateau Lavoir」(バトー・ラヴォワール)と、名づけられた地点である。
フランス語で「Bateau=船、Lavoir=共同洗濯場」という意味があるようで、ここにはひとつの木造家屋が建っていた。
セーヌ川に浮かぶ「洗濯船」によく似ているので、或る詩人がこの建物をそう名付けた。
この場所こそ、「アトリエ洗濯船」の跡地である。10年ほど前にこの地を訪れたが、残念ながら1970年に当時の木造家屋は焼失しており、”空き地”という以外なにものでもないこの場所に、観光客数人が集まっていた。
パブロ・ピカソは、1904年から1909年までの5年間をこの「洗濯船」で過ごし、自らの表現方法を模索し続け、後に現代美術の幕開けとも言われる「アヴィニヨンの娘たち」を描き、“キュビスム” を確立させた場所である。
キュビスムとは、3次元を2次元(というより4次元かも?)に再構築するアノ芸術手法である。
当時、「洗濯船」でピカソの絵を見た友人達は誰もが驚いて理解できなかったようで、マティスに至ってはフランス美術を汚すものだ、怒り出した。
ピカソ自身はここに住んだ時期を「自分の黄金期だった」と語っている。
なおアメデオ・モディリアーニら他の貧乏な画家達もここに住み、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらもここに出入りし、モンマルトルは、「印象派」など前の世代の芸術家たちの揺籃の地であった。
日本にも「洗濯船」と同様に、天才的な漫画家が集結したアパートがあったことを思い浮かべた。
西武池袋線の「椎名町」という駅で降りると、戦後の最大の謎の事件である帝銀事件や宮崎龍介・柳原白蓮夫妻が住んだ家もあるが、「夢のヒストグラム」の高さにおいてどこにも負けないであろう「トキワ荘」跡がある。
この「トキワ荘」にて共に暮らした仲間達は、手塚治、石森章太郎・藤子不二男・赤塚不二男らで、いずれも漫画世界の「大家」として名を成すことになる。
しかし、それにしてもナゼこれほどの漫画家が集まったのだろうか。偶然にしては出来すぎである。
実は、多くの才能ある漫画家たちが「トキワ荘」に集まった背景には、リーダー的漫画家であった寺田ヒロオの思いがあった。
寺田ヒロオは、「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。
また「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。
なお、「トキワ荘」への入居と「仲間入り」に際しては、条件があった。
リーダー的存在の寺田ヒロオが担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていることや、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること、共同生活に耐えうることなどで、こうした基準で厳格な事前審査が行われていたのである。
こうした背景を考えると、「トキワ荘」に居住した(できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート達であり、「トキワ荘」から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく必然だったのだ。
ところが「トキワ荘」には寺田ヒロオが漫画の一線から退という意外な展開が待っていた。
それは「少年漫画は健全明朗であるべきだ」というスタンスを絶対に譲らず、壮絶な死をもって彼自身の信念に殉じることになる。
パリの「洗濯船」出身の画家が大家なった頃には、モンマルトルは観光地であるばかりか、高級住宅街となってしまった。
そこで若きアーティスト達は次第に家賃の安いモンパルナスに移動した。そこには平地だが絵なる農村風景が残存しているためであった。
東京にもかつて「池袋モンパルナス」とも言われた地域があった。実は、前述の「トキワ荘」から徒歩で30分ほどの処に位置する。
今なお清々しい鳥のさえずりが聞こえる閑静な住宅街の中、緑豊かな公園や美術館などがある。
10年ほど前にこの一帯を歩いていて、小さな美術館に足を踏みいれたところ、ひとりの画家の存在を知った。
そこは、熊谷守一の自宅跡であった。明るい色彩と単純化された風景、動物や植物の絵で知られ、その容姿や言動から「画壇の仙人」と呼ばれた。
2017年東京国立近代美術館で開催された回顧展「没後40年熊谷守一生きるよろこび」は、記録的な入場数を達成するなど、今も多くの人に愛されている。
熊谷の絵は、それほど上手くは見えないのに、時がたってもその印象が消えない。シンプルな筆さばきながら、猫や昆虫がとても愛おしい存在にみえてくるのが不思議だった。
実際、面と線だけで構成された独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ている。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。
熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。
晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。
同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描いたことが推測される。
近年、公開された映画「モリのいる場所]では、山崎努と樹木希林が熊谷夫妻を演じた。
さて、この映画の監督・沖田修一は、熊谷が30年もの間、家から出ないとはどういうことなのかと、その生き方に興味を持ったという。
映画は「これは何歳の子どもの描いた絵ですか?」と、二科展で熊谷守一の作品「伸餅」を見た昭和天皇が尋ねたという有名なエピソードで始まる。
映画の舞台は1974年の夏のある1日。94歳の画家“モリ”は、結婚して52年目の妻・秀子と彼女を手伝う姪の美恵の3人で暮らしている。
午前中は草木生い茂る庭を“探検”して虫や草木を観察し、深夜に絵を描く生活。
子煩悩で大変に子供をかわいがったが、生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。
4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いた「陽の死んだ日」、長女・萬(まん)が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品「ヤキバノカエリ」なども絵に残している。
熊谷は二科の研究所の書生に「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれた時、「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えた。
そればかりか、下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と素っ気なくいってのけた。
これ以上人が来てくれては困ると文化勲章の内示を辞退し、1977年、老衰と肺炎のため97歳で没した。
日本のアニメコンテンツの海外人気の理由に、「トキワ荘」出身の手塚治虫という天才の存在を抜きにしては語ることはできない。
それはコンテンツの中身ばかりか、「プロダクション方式」を確立したことが大きい。
かつてマンガ家を目指す人々はマンガ家になるために、先生に師事して仕事を手伝いながらデビューを目指した。
ところが、はじめからアシスタントとして会社(宮崎プロなど)に入り自分の役目を果たしつつ腕を磨いていく。
売れる売れないは、今やマンガ家1人の問題ではなくプロダクション組織全体の問題となったのである。
「鉄腕アトム」の最大の功績はその内容ばかりではなく、コスト面で不可能といわれていたテレビアニメを実現させたところにある。
手塚は、プロダクションを設立してテレビアニメーションに取り組むようになったが、「鉄腕アトム」は制作費に加え、毎週の放映時間までに納品できるかということでが大きな問題だった。
当時、東映動画では90分の劇場長編アニメを作るのにのべ350人ものスタッフを動員しており、90人ほどの作画スタッフによる制作ラインを2班作り、生産性を上げようと試みたがうまく行かなかった。
90分の劇場アニメを制作するだけでも四苦八苦しているのに、ケタ違い総時間数になるテレビアニメはあまりに非現実的な話であった。
その不可能の壁に挑戦したのが手塚治虫の「鉄腕アトム」であった。
手塚が制作を決断した時点でスタッフはわずか20人ほど。週1回オンエアできる体制からはあまりにもかけ離れていた。
アメリカでは動画とセル画の枚数を極端に減らし、背景にも同じ場面を何度も使うといった手法を取り入れて、動画など付加価値の低い作業を人件費の安いメキシコに外注するなどしていた。
彼らがとった手法が「リミテッドアニメーション」といわれるものであった。
そして、圧倒的な人手不足を補うため、制作現場では今までにない工夫がなされる。
つまり、動画枚数のかからない、動かし方の幾つかのパターンを見つけ出していったのである。
こうしたアニメの「プロダクション方式」につき、江戸時代の最高の芸術家と評される本阿弥光悦の「芸術村」を思い浮かべる。
本阿弥家は刀剣の家で、室町時代には足利氏に仕え刀剣の鑑定、研磨・浄拭を家業としてきた。
光悦は京都人であり「江戸嫌い」で知られて、家康により洛北・鷹峰の地に土地を与えられた。
京都郊外の鷹峰は、辻斬り・追剥が出る治安の悪い土地であったのだが、一族だけでなく、絵師、蒔絵師、神筆職人、陶工など本阿弥家にゆかりがある人達が集まり、自然ここに「芸術村」が誕生した。
彼の周囲に集まった人々は芸術家というよりもむしろ職人的な人々であり、本阿弥光悦は「芸術村」のいわば総合プロデューサーというべき役を担った。
こういう制作の有り様は、マンガ・プロダクションにおける制作現場を思わせるものがある。
実は、光悦芸術の粋は「茶碗」と「書」といわれるが、完成した作品の一体どれだけが光悦自身の手によるものかは判別しがたいものだという。
家康が鷹峰の地をどうして本阿弥光悦に与えたかについて深い理由は分からないが、今日の「クール・ジャパン」の先鞭者の1人として、徳川家康の名をあげてはどうであろうか。
江戸時代に宿場町だった我孫子(あびこ)は、常磐線で上野から2時間かからなくなり、交通の便が格段に向上する。
田沼意次の干拓で知られる利根川水系の手賀沼(てがぬま)が近く、かなたに富士山を望む景色の良さに、別荘地として人気が出始めていた。
そしてここに白樺派のいわば"芸術村"が生まれるのである。その始まりとなったのが柳宗悦(やなぎ むねよし)がここに住んだこと。
柳宗悦は、1889年東京生まれ。1910年、学習院高等科卒業の頃に武者小路実篤らがはじめた文芸雑誌「白樺」の創刊に参加する。
東京育ちの宗悦は、ここを大層気に入り、月に光る沼の美しさに時に夜更かしもし、自ら設計した別棟の書斎で、思う存分思索と執筆に没頭した。
「静(しずか)な音もない沼の景色は自分の心をはぐゝんでくれた」と書いている。
柳に誘われ、白樺の仲間たちが我孫子に集まってきた。翌15年に志賀直哉夫妻、16年に武者小路実篤夫妻が移り住む。
東京からの来訪者も絶えず、泊まっていく人も少なくない。意外なところでは、講道館柔道の創始者で宗悦の叔父(母の弟)、嘉納治五郎も別荘を構えた一人である。
庭に椎(しい)の古木が3本あったことから、嘉納が「三樹荘」と名付けた。
英国人陶芸家バーナード・リーチは17年に三樹荘の裏手に窯を設け、泊まり込みで作陶に打ち込んだ。
我孫子の生活はそれぞれに大きな実りをもたらした。
父との不和などに悩み小説が書けなくなっていた志賀は、ここで生まれた5人の子のうち2児を失う不幸にも見舞われたが、創作意欲を取り戻し「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」などを次々に発表。充実期を迎える。
長編「暗夜行路」の連載を始めたのもこの時期だった。
武者小路の我孫子滞在は1年9カ月と短かったが、その間に村落共同体「新しき村」の構想を練り、実現のため宮崎県へと旅立っていく。
そして柳にとっては、思想の深化と共に、"民藝"へと続く道の出発点となったことが大きい。
我孫子に住んで間もなく、朝鮮に住んでいた教師の浅川伯教という人物が、柳の手元にあったロダンの彫刻を見るために訪ねてきた。
浅川が手土産に持参した朝鮮陶磁の小さな白い壺に、柳は新しい美しさを発見する。
柳は、その時の感動を「その冷な土器に、人間の温み、高貴、荘厳を読み得ようとは昨日迄夢みだにしなかつた」と書いている。
伯教と弟・巧の兄弟が水先案内人となり、柳は1916年以降たびたび朝鮮半島を訪問。日常の品々の中にある造形の美を感じ取った。
そして、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。
そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判したのである。
そして、リーチを訪ね我孫子に来た陶芸家の浜田庄司と知り合う。浜田とは6年後、河井寛次郎と3人での旅のさなか、民衆的工芸を意味する「民藝」の新語を作り出し、生涯にわたる同志となる。
現在、高台の別荘跡には、和服姿の嘉納像が手賀沼を向いて立っているものの、嘉納や白樺派の人々が集まったことも、あまり知られていない。
埋め立てられて沼は小さく遠くなった手賀沼の細く長い水面の光りが、かつての巨匠たちが紡いだ夢の面影をかろうじて伝えている。