日の丸とピースヒル

日本人はなぜ初日の出をめでるのか。「浄め」や「再生」などといった宗教心と結びついているのかもしれない。
あまり指摘されないが、日本人は太陽を上空にみるよりは、近い処に見ることに意義を感じるようだ
また、"日の本(もと)にある我々”という特有の意識が「日の丸」を国旗にしたのかもしれない。
「日の丸」に少し太陽光のデザインを加えた「旭日(きょくじつ)旗」があるように、”あさ日”のイメージと結びつきやすい。
ところで日の出といえば夫婦(めおと)岩の間を昇る、伊勢志摩の「二見が浦」が有名だが、福岡の糸島(伊都志摩)には同じく夫婦岩の「二見が浦」があり、こちらは「日没」の美しさで知られている。
実は、福岡の地は「日の丸」と関係が深い地である。
黒田藩主の福岡藩11代藩主、黒田長溥(くろだ・ながひろ)は、「蘭癖大名」というくらい西洋の文物を取り入れた人物だが、それもそのはず長溥は11歳の頃に島津藩から福岡藩の黒田家に養子として迎えられ、やがて藩主となっている。
薩摩藩の同じく開明的な島津斉彬の大伯父にあたる人物だ。とはいっても二人は二つ違いで、兄弟のような間柄であったといわれている。
この二人の「絆」を物語るエピソードがある。
島津斉彬は家督相続をめぐって「お家騒動」が起こり、斉彬派への激しい弾圧の中、4人の藩士が脱藩して福岡藩に逃げ込み窮状を訴えた。
薩摩藩は直ちに藩士の引き渡しを求めるが、長溥はこれを拒絶すると、 幕府老中を通じて将軍家慶を動かし、薩摩藩の「お家騒動」を鎮めると、ついに斉彬を藩主の座に導いている。
さて、その3年後の1853年11月に、薩摩藩主島津斉彬は幕府に大型船・蒸気船建造申請を行った時、日本船の「総印」として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、「日の丸」を日本全体の総印とするように進言した。
1854年、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸品川に入港した時「日の丸」が揚げられ、それから日の丸は貿易の際、外国に対して日本の標識として「必要不可決」なものとなっていった。
幕府もその必要を認めて、1854年に「日の丸」を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した。
提案者の島津斉彬が「日の丸」のサンプルを作って幕府に提出しようとするが、当時の薩摩の染色技術では斉彬が望むような色が出せなかった。
そこで頼ったのが、縁戚関係にある福岡藩主・黒田長溥であった。
実は、福岡藩の山口村には赤色の染料となる茜(あかね)草が産出し「茜屋」という地名が残るほど茜染が盛んに行われていた。
鮮やかな赤を出し、さらに変色を防ぐために様々な工夫がこらされた「茜染め」は黒田藩の「秘伝」となっていたのだ。
筑前茜染は、真赤というより幾分黄味を帯びており、日の出をイメージする「日の丸」に相応しいものであったといえよう。
このと茜染めの「日の丸」サンプルが、日本の(実質上の)「国旗」誕生へと繋がったのである。
実は、筑前茜染めの現場は、シーボルトが江戸参府の際に宿泊した筑紫野市山家(やまえ)から車でほんの10分の飯塚市「穂波町」というところにある。
その山間の地に、日本の国旗(日の丸)誕生とも繋がる「記念碑」が立っている。
現在、穂波茜屋(山口)を訪問すると、江戸末期に国旗制定の基となった日の丸の旗を我が国ではじめて染め上げた「筑前茜染めの碑」がたち、近くには日の丸を染め上げた17代松尾正九郎の墓と、茜染めに使った「さらし石」を確認できる。

戦後初の公の場での「日の丸」掲揚は福岡市でなされている。その場所とは、福岡国際マラソンのスタート・ゴール地点ともなっている「平和台陸上競技場」である。
福岡市の繁華街にも近い福岡城跡のある舞鶴公園の一角にあるこの競技場こそが、戦後初の「日の丸」が掲揚された最初の場所なのだ。
そこには、一人の人物の働きが大きくものをいった。
岡部平太は、福岡市の西・糸島市の芥屋出身。隻流館(福岡市)で柔道を始め、福岡師範学校(現福岡教育大学)に入学。
海や山などの自然に鍛えられた運動能力は高く、柔道をはじめ剣道、テニス、陸上競技、野球などさまざまなスポーツで活躍した。
1911年、柔道の全国大会「京都武徳会」で準優勝を果たし、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(現筑波大学)に入学し、同時に講道館へ入門する。
1917年、柔道の国際化を進めるために米シカゴ大学に留学した岡部は、2年半の留学期間中に、アメフト、ボクシング、スキージャンプ、バスケットボールなどたくさんのスポーツを経験。
米ハーバード大学では、スポーツ生理学や女子体育の理論、体育史などを貪欲に学び、日本にはなかった科学トレーニングの基礎を身に付け、日本へ持ち帰った。
岡部は、日本における近代スポーツの遅れを痛感し、スポーツの発展には先進国との交流を積極的に進める必要があると考えていた。
理事長として1928年、日本初の陸上競技の国際試合となる「日仏対抗陸上競技大会」を開催して勝利し、極東選手権では陸上競技の総監督として優勝も果たしている。
1931年 満州事変が勃発すると、満州に渡って「満州体育協会」を創設する。
第1回スピードスケート世界選手権大会でも監督を務め、「満州の雄」として、その名をとどろかせた。
かくして日本が国際大会で活躍することのほとんどなかった時代に、スポーツで「日本を世界に知らしめる」という岡部の活動は、日本のスポーツ発展に大きく貢献した。
日本の敗戦により満州から帰国した岡部は、日本の誇りを取り戻すためスポーツで日本人が優勝できるのはマラソンしかないと考えた。
そして、日本初の五輪マラソン選手・金栗四三(かなくりしそう)に呼び掛け1950年に「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立した。
韋駄天こと金栗は熊本出身で、岡部と同い年で九州人、さらには東京師範で嘉納を師と仰いだところも同じである。
岡部は監督として第5回ボストン・マラソンに参加し、広島県出身の田中茂樹選手が優勝している。
岡部、金栗の二人は1950年に「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成するが、田中優勝の祝辞を述べた金栗が、この会の設立を岡部の発案であることを明かしている。
かくして岡部は、金栗四三とともに日本のマラソン発展に大きな貢献をしたが、岡部はマラソンにとどまらず、日本のアメリカンフットボールの先駆者など、多彩なスポーツで活躍したことで知られる。
岡部が提案したのは、従来の精神論ではなく、科学的な根拠に基づく調査やトレーニング法で、岡部なくして日本マラソンの隆盛はなかったといえる。
「優勝する会」の1期生だった田中茂樹によれば、合宿にすき焼きが出て驚いていると、岡部は「疲労回復には食事と睡眠が一番だ」と笑っていたという。
精神論ばかりの時代で、そんなことを言う人は初めてだったと懐古している。
例えば、選手の疲労回復を促すための科学的調査を提案する。嘉麻市にあった三井山野炭鉱の研究所の協力を得て、走る前後の尿や血液を採取する。その結果、マラソンで1時間半を走る疲労度が、炭鉱労働で最も激務だった木材運搬に匹敵することが分かった。
現在普及している高地トレーニングも岡部の発案だった。
その後のボストンマラソンへの挑戦で結果が出ずに悩んだ岡部が注目したのが、1960年ローマ五輪の覇者、アベベ・ビキラだった。
標高が高い母国エチオピアでの生活が心肺機能を高めたという説を確かめるべく単身で現地に飛んだ。
田中は「優勝する会」参加当初、不思議な練習が多かったと振り返る。400m、1500mなど距離を決め、緩急をつけて走らされる。それは当時日本では浸透していなかったインターバル走だった。
そして岡部が練習や実戦の舞台としたのが、自らが創設した平和台陸上競技場だった。

我が福岡市にはソフトバンクが本拠地とする福岡ドームがあるが、それ以前には「平和台球場」が西鉄ライオンズの本拠地であった。
その跡地に行くと特別な思いにかられる。プレーする選手の息吹や汗の臭いが蘇ってくようであり、選手ばかりではなく観客にとっても、そこは青春が詰まった場所なのだ。
そんな「平和台」を、福岡市民に忘れがたい名として刻んだ人々がいた。
村上巧児は、岡部平太と同じくGHQと交渉して、陸上競技場に隣接する「平和台球場」をホームグラウンドとする「西鉄ライオンズ」を創設した。
1949年4月、日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主)が米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明したことがきっかけだった。
これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請し、遅れじと西鉄も10月に申請したのである。
この年の夏、西日本鉄道株式会社第四代社長を引退後も影響力絶大だった村上巧児は、戦後復興に尽くす福岡の人々に明るい話題を届けようと、「日本一の球団を作れ!」と社員達に檄を飛ばした。
西鉄は1946年6月に社会人野球チームを発足させていたが、社員らはこの日を境に球団結成に動き出した。
当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。
朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだと考えたのである。
正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。
困った村上は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎元総理の父)に助けを求めた。
麻生は村上に、それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいとアドバイスをくれた。
そして村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎を密かに訪ねたのである。
その後村上は、西鉄事業部に親戚にあたる中島国彦という人物がいた。
中島は、旧陸軍仕込みの行動力を買われ、球団設立の特命を担い、白洲との折衝役をつとめた。
中島は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。
白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。
その後、白洲の口添えが功を奏したのか、ともかく加盟交渉は急にスムーズになり、1950年11月にパ・リーグへの加盟を果たした。
そして1954年にパ・リーグ初優勝、56年からは日本シリーズ3連覇を成し遂げた。
これだけの短期間で黄金時代を築いた背景には、中島らの強力な選手獲得の働きがあったればこそである。
1年目は巨人から福岡・久留米商出身の川崎徳次投手を引き抜き、青バットで有名な東急フライヤーズの大下弘選手で、約7か月もの折衝を重ね移籍させている。
新人獲得では、南海ホークスの名将・鶴岡一人(かずと)監督が目をつけた選手を狙ったのは、その後の南海クホークスの福岡移転を考えれば奇縁である。
その一人が、大分・別府緑丘高の稲尾和久投手で、大分出身だった西鉄の初代社長から当時の別府市長に入団を勧めてもらったという。
また香川・高松一高の中西太選手を入団させるため、高松に行くたびに、母親が行商していた野菜を定宿の旅館にすべて買い取らせ、坂道でリヤカーを押す手伝いをして信頼をえて、早稲田大への進学を志望していた「怪童」を翻意させた。
はじめ球団名は「西鉄クリッパーズ」(高速帆船の意)とした。参戦1年目の25年は7球団中5位に終わったが、2年目は、セ・リーグに所属する西日本新聞社所有の「西日本パイレーツ」を吸収し、「西鉄ライオンズ」に改称、読売巨人軍を戦後初の優勝に導いた名将、三原脩(みはらおさむ)を招へいした。
ところで、西鉄ライオンズの栄枯は、産炭地の盛衰とよく重なっている。3年連続優勝後の1959年~60年には三池炭鉱争議が起き、その後石炭産業は斜陽化する。
そんな時代背景だけに、1963年の前半終了時点で首位と14、5ゲーム差からの奇跡の逆転優勝は産炭地の人々にも希望の光となった。
しかしこの時の優勝からまもない1963年11月9日、福岡県最南部の都市・大牟田を悲劇が襲った。
三池炭鉱三川坑(大牟田市)の鉱炭じん爆発事故が起き、犠牲者458人と一酸化炭素中毒患者839人を出したこの事故は産炭地の衰退を決定づけた。
そして1997年3月に閉山した。
しかしこうした悲劇の中、1965年大牟田から甲子園初出場を果たした三池工業高校の優勝は、人々を勇気づけた。
三池工業の監督の原貢(はらみつぐ)は吉野ケ里遺跡近くに生まれ、鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退しノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任したのである。
三池高校の優勝は福岡ばかりか、「三池フィーバー」を起こすが、原貢はその後に東海大相模高監督に迎えられるが、その子原辰徳が現読売巨人軍の監督である。

戦後、満州から郷里に引き揚げていた岡部平太は、福岡市長の相談を受け、人脈を駆使して1948年の第3回国体誘致に成功。大会準備委員長を任せられた。
福岡市は大空襲などで受けた戦争の傷痕が残る街。そこで目を付けたのが、福岡城址の陸軍歩兵第二十四連隊の跡地であった。
連合国軍総司令部(GHQ)が接収し、進駐軍の住宅建設を計画していたが、「もう戦争は終わった。ここをスポーツのピースヒル(平和台)にしたい」と訴えた。
その熱意に負けたのか、GHQは土地を返却。岡部は自ら設計図を描き、GHQに借りたブルドーザーで突貫工事を進めた。
また、最高司令官マッカーサーに直談判して国体での「国旗掲揚」を認めさせた。
縦約2・5メートル、横約3・5メートルある大きな日の丸は、福岡国体の主会場となった平和台陸上競技場に掲げられた。
日の丸には反発も強く残る時期で、「戦場に駆り出した象徴を掲揚するなら、国体をボイコットする」という声さえも出たが、福岡国体には約2万人が集まり大成功を収めた。
岡部は、1964年東京五輪では陸上強化コーチに就任。しかし、再び「純粋なスポーツのために尽くしたい」との思いもむなしく、五輪を目の当たりにすることはなかった。
1963年に九州産業大学の教壇で脳梗塞で倒れ、11月7日に75歳で帰らぬ人となった。
「平和の丘に」という思いを込め、名付けた平和台は、陸上競技場が福岡国際マラソンの舞台となり、かつて隣にあった野球場はプロ野球西鉄などの本拠地として、福岡のスポーツの聖地として親しまれてきた。
またそこは、古代において外国人を接待する「鴻臚館(こうろかん)」の跡地であることも判明した。
スポーツを通じた国際交流に尽力した岡部だったが、一人息子の平一は特攻隊員として沖縄で戦死している。「平和台」の名称は、不戦の誓いと息子への鎮魂の思いも込めた命名であったのだろう。
なお、第三回福岡国体で掲揚された「戦後復活第1号」の日の丸が、岡部の出身地である伊都文化会館(福岡県糸島市)に保存展示されている。
 

原貢は吉野ケ里遺跡近くに生まれ、鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退しノンプロの東洋高圧大牟田(現三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任した。
原監督は無名校を初出場にして全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを起こしたのである。
シーボルトが江戸参府の際に通った道が長崎街道であるが、福岡市近郊を通る長崎街道沿いの二つの宿場町が遺跡として残存している。
それが「山家(やまえ)宿」と「原田(はるだ)宿」だが、ケンペルやシーボルトがこららの宿場町に滞在したことを示す、詳細な「江戸旅行日記」が残っている。
1823年、長崎オランダ商館付きのドイツ人医師シーボルトはまだ27歳であったが、その江戸行きの道中に観察した日本の植物・動物・鉱物に関する記述は驚くはど精細である。
シーボルトが日本で収集した植物はオランダのライデン大学に保管されている。
さて、 実は、シーボルトの江戸参府の際に通過した長崎街道の山家宿から、ほんの少し足を伸ばせば、「日の丸」の染料ともなった茜草を採取できたであろうが、シーボルトがそんなことを知ったら、さぞや口惜しがったに違いない。