中国で少数民族の弾圧といえばチベット族が有名だが、その他にも50以上の少数民族がいる。
新聞報道によれば、今やモスクが閉鎖され、イスーラムの多いウイグル自治区の中国化が進んでいる。
ウイグルといえば、明の時代に世界の海を遠征した鄭 和(ていわ)もウイグル族出身である。
さて中国に併合され、人権弾圧もされてきたチベット族の問題は、長年僧の焼身自殺など衝撃映像にも関わらず、国際社会に軽視されてきた。
しかし、近年の米中対立や中国とインドの関係悪化によって注目されるようになっている。
自国ファーストのアメリカも最近になって米下院で「チベット支援法案」が圧倒的多数で可決するなどし、支援を強化し始めた。
特に、中国が推進する巨大経済圏構想「一帯一路政策」に反対するインドは、自国内にあるチベット亡命政府を「対中カード」として使い始めている。
そして2020年、8月末から9月初めにかけて、ヒマラヤ山麓の中印国境付近で、中国軍とインド軍による武力紛争が再開した。
この国境紛争で、インターネットの映像の中に、前線から戻ってくるインド軍の兵士を、市民たちはチベットの国旗である「雪山獅子旗」を振って歓迎する場面が流れ、注目された。
「雪山獅子旗」は、チベット独立運動のシンボルであり、中国国内で所持するだけでているだけで「国家政権転覆罪」で起訴され、重い刑罰が下される可能性がある旗である。
インドは、中国人民解放軍の相手にSFF(特殊国境部隊)を投入し、チベット本来の国旗「雪山獅子旗」の使用を黙認したことは、「チベット独立」を支持するメーッセージとなり、中国に対する強力な牽制となっている。
実は、この「雪山獅子旗」のデザインにひとりの日本人が関わっている。
青木文教(あおき ぶんきょう)は、浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)の生まれ、仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査をする。
同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見する。
1912年にインドにて再度ダライ・ラマ13世に謁見し、「トゥプテン・ギャンツォ」のチベット名を与えられ、チベットへの入国を許され、ラサ入りを果たしている。
青木文教はラサの街に居住し、特技の写真撮影の腕を活かして多くの当時のチベットの風景・文物を記録した。
また、文法学や歴史学などを学ぶ傍ら、ダライラマ13世の教学顧問として近代化のための助言を行う。
その際、日本の「旭日旗」のデザインを背景に、チベットの象徴である白い雪山、9頭のライオン(獅子)と宝石が描かれている「雪山獅子旗」の制作に、当時のチベット軍首脳と一緒に考案したと自らの著書に記している。
そこには、日清戦争や日露戦争で活躍した日本のように、チベットは独立を勝ち取りたいとの願いが込められていた。
しかし1951年、チベットは中国によって半ば強制的に併合され、それ以降、中国の国旗である「五星紅旗」の掲揚が強要された。
併合から8年後の1959年、チベット動乱が起き、ダライ・ラマ14世は10数万人の難民と一緒にインドに亡命し、ダラムサラという町で「チベット亡命政府」をつくった。
再び雪山獅子旗を「国旗」として使い始めたが、国際社会における認知度はほとんどなかった。
しかし2020年8月の中国インド国境紛争で、その「雪山獅子旗」がようやく脚光をあびたのである。
というのもインドが前線に送り込んだ「特殊国境部隊(SFF)」は、約350人で構成されているが、この部隊の兵士がほとんどがチベット人であるからだ。
山地や高海抜地域での作戦に長けている彼らは、ダライ・ラマと一緒にインドに渡った難民の子供や孫で、すでにインド国籍を持っている。
要するに、「インド国軍チベット人精鋭部隊」なのだが、彼らにとって中印国境で「中国人民解放軍」と戦うことは、故郷を奪った敵との戦いであり、士気は非常に高いといわれている。
そして「亡命政権」の帰還を期待して、チベットで独立の機運が徐々に高まっているという。
今から10年程前に、チベットからきた女性歌手アラン(阿蘭)さんの歌声に衝撃をうけた。
アランは、中国四川省カンゼ・チベット族自治州(甘孜州)丹巴県(ロンタク県)(通称・美人谷)出身の女性歌手。
日本では、2007年11月21日、エイベックス・マネジメントで、歌手デビュー。小学館発刊の雑誌の元専属モデルにもなった。
1987年7月25日、公務員の父と元歌手の母の間に生まれ、四方を山に囲まれ、海抜約2500メートルの高所にある同州の州都康定(ダルツェンド)で育った。
チベット名「達瓦卓瑪」は日本語で「月の仙女」の意味なのだという。
子役で中国のテレビドラマ「太陽女神」などに出演するも、女優の道には進まず、国立四川音楽学院附属中学に入学し、「二胡」の専門訓練を受ける。
16歳で北京にある中国人民解放軍芸術学院声楽科に飛び級にて入学し、オペラやクラシック音楽などを学んだ。
2005年に中国星文レコードより「阿蘭」の名でインディーズ歌手としてカヴァーアルバムをリリースし、翌年の第9回上海アジア音楽祭に出演し銀賞を受賞している。
2006年4月にエイベックスがアジア進出に向け北京で開催した「新人発掘オーディション」の最終日、軍服姿で二胡を演奏しながら歌を披露し、同社長の松浦勝人や審査員の目をくぎ付けにした。
オーディションで歌った歌は安室奈美恵の「NEVER END」と夏川りみの「涙そうそう」。
アランを審査した時の印象について、プロデユサーは「まず衣装で驚いた。さらに日本語で歌ったのに中国人と思えないほど感情が込められていて衝撃だった」と述べている。
さらに三国志の映像化を目指し100億円をかけて製作された映画「レッドクリフ」の主題歌に起用され、世界の注目を集めた。
そして今、「首都ラサの空に雪山獅子旗を」というチベット人の悲願を支援する国際社会の輪が広がりつつ中、アランさんの歌声が、ヒマラヤの峰を爽やかな風のように通り抜けるのを、想像した。
1959年、平和で温順なチベットを中国が何を血迷ったのか「王制打倒」の名目で攻め込んだ。
そのチベットから逃れた人々はインドやネパールなどヒマラヤ周辺に離散し、ある人々はブータンという国に逃げ込み、そこにチベット仏教が伝えられた。
ブータン王国といえば、かつて世界で最も「幸福総量」が大きな国の一つになったことがあった。
2008年にブ-タン王国は王政から民主制に移行した。これだけ聞くと反動的な王制と人々の民主化運動を連想するが、実際はその真逆である。
むしろ開明的な王室が率先して国民を説得して選挙制度を導入し、民主体制へ移行させたという経緯があるのだ。
ところが驚いたことに、国王の説得にもかかわらず国民の90パーセントが政治の「民主化」に反対したのである。
その理由は、自分達は国王を慕い敬愛し、そして国王のために働いている。しかし、選挙によって選ばれた政治家が国王よりもよい政治家をするとは思えないし、自分達はそのような人のために頑張ろうとは思わない。
しかしブ-タンでは、今までどうり王制を維持して欲しいという多くの国民の声を押しきって、”国王主導で”立憲君主制に移行したのである。
またこの国の人々を物語る、次のようなエピソードがある。
電気の通じていないある村に電気を通すODAの案件が持ち上がった。
しかしその村には昔から鶴が飛来して巣作りをするという事情があった。
もし電気を通すために高圧電線を張り巡らすことになれば、飛来してきた鶴がその高圧電線に衝突し、鶴は巣つくりのためにこの村に来れなくなるのではないかという議論が沸き起こった。
結局、村の人達はそれでは鶴がかわいそうだと考えて、村に電気を通す計画を撤回してもらうことにしたという。
さて、若きブータン国王夫妻が、2011年に東北震災のお見舞いに来れたことは記憶に新しい。
夫妻が若くて爽やかであったこと、そして風貌が日本人とほとんど変わらないこと親しみを覚えた。
風貌において、同じアジア系でも、中国・韓国・ベトナム人と日本人は違う感じがする。
一方で、ダライラマ14世の容姿にみるとうり、チベット人と日本人の雰囲気がとても近い、というより見分けがつかない。
彼らの住む高山に日本神話の「高天原」(たかまがはら)という言葉を想起するが、1980年代に大野晋という国語学者が日本語がチベット地域にある「タミール」の言葉に近いと発表したため、大きな反響をよんだ。
ちなみに、日本のテレビドラマ「おしん」は、チベットで大人気番組だったという。
日本人がチベットと本格的な関わりを持つのは、日本が近代化の道を歩みはじめて以降のことである。
19C末、日本仏教界には「入蔵熱」(チベット入国フィーバー)が起こり、何人もの有為の仏教徒が、ヒマラヤ山脈からチベット高原にかけて果てしなく広がる地の探検に名乗りを上げた。
当時のチベットは、外国、特にイギリスに対する警戒心から国を閉ざし、外国人の立ち入りを厳しく制限していた。
そのためその内情は外の世界には殆ど知られず、チベットは「禁断の国」、「神秘の国」と見做されていた。
それだけにこの国は、世界中の探検家、冒険旅行家、学者、調査員、さらには宗教家などの夢想を刺激もしていたのである。
そして19世紀末の日本では、この関心が仏教徒の間の「入蔵熱」となって表れたのである。
日本のチベット史研究は、 小栗栖香頂らによって19世紀後半から始まったが、彼らは北京などでチベット人やモンゴル人のラマ僧から学んだにすぎなかった。
そこで、チベットの地で本格的に調査に乗り出す先陣をきったのが河口慧海(かわぐちえかい)であった。
その著作のうち旅行記はあまりにも有名だが、ほかにチベット仏教と文法など多くを書いている。
そして、数回の旅行でさまざまな請来品をもたらした。
河口慧海に次いでチベット入りしたのが、ダライラマ13世と謁見した前述の青木文教や多田等観で、この3人はチベットに関する入門書を書き、それはアジア研究における教育的役割をはたした。
河口慧海は1886年、和泉国堺(現大阪府堺市)の北旅籠町に樽職人の長男として生を受けた。幼名は定治郎という。
その彼が仏道に志したきっかけは、15 歳の時に釈迦牟尼(ブッダ)の伝記を読んだことにあるとされる。
1888年、定治郎は23歳で上京し、本所緑町にあった黄檗宗羅漢寺(現在は目黒にある)に寄宿して、井上円了の「哲学館」(現東洋大学)に通い始めた。
上京から2年後、彼はようやく両親の許しを得て、羅漢寺で得度し、念願の出家を果たして、慧海仁広の名を与えられた。「河口慧海」の誕生である。
かねて慧海には、分かりやすく正確な和訳の一切蔵経(大蔵経、一切経、仏典の一大集成)を作って、日本国民の大安心の基(もとい)としたいという志があった。
そのためには、仏教の原点である釈迦牟尼の真実の教えを明らかにしなければならない。
そして彼が思いついたのが、梵語(サンスクリット語)で書かれた大乗仏典の原典と、漢訳よりも正確とされるチベット語訳を自ら手に入れて、それらの研究によって釈迦牟尼の真実の教えに迫ることであった。
こうして梵語・チベット語の修得と、それらの言語で書かれた経典の取得を目指す「明治の三蔵法師」の旅が始まる。
第1回チベット旅行 1897年6月26日、慧海は神戸港からチベットを目指す最初の旅に出発した。
インドのカルカッタ(現コルカタ)に上陸した彼は、ヒマラヤのヒル・ステーション(植民地の山岳地帯に避暑を目的に建設された西洋風の小都会)、ダージリンに赴き、そこでチベット学者サラット・チャンドラ・ダースの庇護を受けながらチベット語を学んだ。
そのかたわら入蔵経路を調べたが、この方面からチベットに至る道には、外国人を警戒するチベット兵が配置されていたことが分かった。
そこで彼は、別ルートを探すために、「中国人巡礼」と称して、まずネパールに潜入したのである。
これが、日本人初のネパール潜入の出来事と推測される。
そしてカトマンズ盆地のボダナート大仏塔に滞在しながら、参詣にやってくるチベット人巡礼たちからヒマラヤの情報を集め、日本に初めてもたらされるこの地域の貴重な情報源となるのである。
賢者(哲人)が政治を行えばコストがかからず効率がよい。プラトンもそう考えた。
たた、こうした「賢者」を一般意思として見出し、さらに選ぶことは困難なので、致し方なく民主主義を選んでいると考えてもよい。
チベット社会では、ダライ・ラマという指導者(賢者)を選ぶ方法はベールに包まれている。
ダライラマ14世は、2歳の時に、13世トゥプテン・ギャツォの「転生者」であるとの認定され、15歳で法王に就任した。
しかし前述のとうり、1959年、中国軍のラサ市民の武装蜂起弾圧で、インドへの亡命を余儀なくされたまま今日に至っている。
チベット仏教は上座仏教や大乗仏教のいずれにも属さない独自の仏教で、密教的な要素の強い仏教であり、特別に戒律が厳しい宗派でもない。
宗教学者・中沢新一によると「チベット仏教は心の自然状態にすっ裸のまま直接的に踏み込み、そこに安らうことによって、心の解放(解脱)を生きている身体のままで、その身体を通じて実現することである」のだそうだ。
その一方で、「自然状態にある心」とは、心が自由に流れ、なにものにもしばられるところなく自然成長をとげていく状態のことをさしている。
ただ、密教は深層意識の領域をくまなく探求した末に、この心の自然状態がそうたやすく実現できるものではないということも、同時に教えている。
ブータン国では、人々の生命力の発現を妨げるような「メッセージ」を注意深く避け、それらを仕分けしているかに見える。
国民が小さな頃から耳にするのは、自然界が発する音とチベット仏教の僧達の祈祷の声なのだ。
その表れの一つが観光客の規制である。観光客は特別な許可を得なければこの国に入れない。
通常の国家ならば観光客が来て外貨を落としてくれることは大歓迎であり、現在の中国ならば安い労働力をもって外資までも呼び込もうとするだろう。
チベットでも、積極的に太陽光電池が導入され、通信網についても衛星通信や携帯電話が活用されている。
このように先進的なものも取り入れつつ、送電線や産業道路を造る事については慎重な態度をとっている。
あたかも「国是」として「内なる声」に聞き従う環境を整えようという「精神国家」を創り上げているように見える。
今、世界中で、富と資源をかき集めようとしている中国からすれば、かなり皮肉な話ではある。
ブータン国は中国とは正反対の方向に進みながら「シャングリア」または「ザナ・ドゥ」ともいえる国を実現しようとしているのだから。