ルアー、折り紙、ロボット

今やペンライトといえば、コンサート、イベントなどで演出効果をあげるための必需品。
100円ショップで買えるほどの小品だが、もともとはアメリカの「アポロ計画」から生まれた技術である。
アメリカでは、1960年代に有人宇宙飛行計画(アポロ)計画を進めていたが、宇宙空間で火や電気を使用せずに、安全に光を起こせるものとして、「ケミカルライト」が発明された。
ケミカルライトの色は、蛍光色素の種類を変えることにより、変更することができる。
福岡県の「ルミカ」という企業がこれに目をつけ、1979年に商品化した第1号が「ケミホタル」という”夜釣り用の釣り道具”である。
1982年には、現在も見られるようなコンサートやイベントなどで使われるケミカルライト類が販売されるようになった。
さらに、「釣り具」の中には、光を発しながら魚を動き真似て他の魚をおびき寄せる疑似餌「ルアー」というものがある。
この”ルアー開発”で天才といわれるプロアングラーの井上友樹は、ルアーを主力製品とする「ジャンプライズ」を起業したばかりか、ヒラマサやバス釣りの世界でも名を連ねた人物でもある。
井上はルアーの内部構造、CADデータ、プロトモデルの削り出しまでを、一人でこなす。
会社事務所から一番近い海まで車で約10分あまり、完成したプロトモデルのスイムテストは、この海で行われている。
井上は自ら海に潜って開発したルアーアクションや、ルアーカラーまで確認して、可否の最終判断を下している。
海面越しの太陽光線を感じながら、魚目線でルアーを眺めることがポイントで、ベリーカラー(腹)とサイドカラーの組み合わせも重要で、ルアーカラーが変わればルアーアクションも変化したように見えるということらしい。
実は、ルアーもペンライトと同じように暗い中で光ることで、魚をおびき寄せる。
ルアーが光る秘密は、"グラーカラー"という塗料によるものだという。
”グローカラー”に使われている結晶は電子をもっており、光に含まれる紫外線に反応することで興奮(励起)状態になる。
この状態から元に戻ろうとする時に発散されるエネルギーが"光"として見える。
ルアー・アクションつまり色彩鮮やかな魚のカタチをした疑似餌をいかに本物の魚のように動かすかは、釣り人の腕、あるいは「魚心」の感知能力による。
井上は、「ジャンプライズ」の事務所横には、20メートルの細長いプールをもうけている。
プールは、泳ぐためというより、”釣り竿”を投げてその出来栄えを確かめるため。
また、海の中では自然環境によって誤差がでるので、プールに潜ってルアーの動きを確認する。
フィールドにはレーンと砂場が併設され、ウエイトトレーニングルームが設けられている。
実は、井上は学生陸上の”三段跳び”で全国トップクラスのアスリートだった。
「三段跳び」と「釣り具」開発の並行的努力が興味深いが、西鉄ライオンズの大投手である稲尾和久の海との関わりのことが思い浮かんだ。
稲尾の投球術の基礎に海で養った感覚が大きかったという。
年配者の多くは1958年の日本シリーズで巨人を相手に3連敗の後、4連勝した鉄腕・稲尾のことを忘れられないであろう。
稲尾はその4勝の勝ち星をすべてをあげて、地元紙は「神様、仏様、稲尾様」という見出しをつけた。
1961年にはシーズン42勝の最多記録をつくった鉄腕である。
現在の大分県立別府緑ヶ丘高校出身で、甲子園にも出場していない。投手不足で、打撃投手にでもくらいの期待しかされていなかった。
入団しすぐに打撃投手となったのだが、豊田泰光や大下弘、中西太ら「野武士」といわれた大打者と対峙する。
打撃投手は、真ん中に集めるとバッターが打ち疲れる。だからといって、ハッキリ判るボール球を投げると、練習にならないと叱られる。
ボールを散らせながら、しかもストライクかボールかギリギリのところに投げることに専心した。
結果的に身についたのが、針の穴も通すといわれたコントロールである。
そのうち一流でも打ちにくい鋭いボールがギリギリに投げられるようになる。
その稲尾を鍛え育てたのは、少年野球でもなくコーチでもなく別府湾であった。
稲尾は漁師の家に生まれ、別府湾で働く父に連れられて、海に慣らされるために突然海に投げ込まれた。
舟の艪(ろ)を漕ぐうちに腕力がつき、小船の上に立ち続けることによって「バランス感覚」が身についた。
あの高々と足を揚げても崩れないフォームの基礎は舟の上にあったという。
また荒波にもまれながら「自然を読む」ことを学んだ。
グランドにたって風向きを読み、投げるコースを変えるなどの術も自然に身についていったという。

彫深い風貌が印象的な高橋智隆は、”ロボットクリエイター”として世界的に知られる。
意外なことに学生時代"釣り三昧"で日々を送った人で、「ジャンプライズ」の井上友樹と同じく、自ら”ルアー”をつくっていたという。
現在は、ロボ・ガレージ代表取締役社長、東京大学先端科学技術研究センター特任准教授である。
1975年生まれで、父親は大学病院の内科医であった。父親の仕事の関係で、大阪、滋賀、カナダを移り住んだ。高橋自身は公立小学校でだ、そこそこの成績で、中学も高校も第一希望校には落ちてしまう。
自宅にあった「手塚治虫全集」を読んで「鉄腕アトム」が大好きになり、ロボットに興味を持ち始めた。
中学時代は”釣り”にハマり、当時住んでいた滋賀県の琵琶湖で毎日釣り三昧だった。
高校の後半からはスキーにハマり、大学時代は長野県に友達と一軒家を借りて住み、毎日スキー三昧の日々。
私立の比叡山中学校を卒業後、私立立命館高校へ。そして大学はエスカレーター式で立命館大学産業社会学部にすすむ。
しかし、在学中にバブル崩壊。就職氷河期時代に突入する。
そこで選んだのが、大好きな”釣り”、釣り具やスキー用品を扱っている会社を志望して就職活動を行最終面接まで進むも、結果は不採用となってしまう。
他のメーカーからは内定をもらっていたものの、”釣り具会社”を落ちたら京大に行くときめていた。
京大に行ったら子どもの頃から夢だったロボットを作ろうと決めていたからだ。
京大在学中に”二足歩行ロボット”を開発し、関西テクノアイデアコンテストグランプリを受賞した。
2003年、物理工学科メカトロニクス研究室を卒業し、個人事務所「ロボ・ガレージ」を設立した。
翌年には代表作「クロイノ」がアメリカタイム誌で「最もクールな発明」に選ばれ、ポピュラーサイエンス誌では「未来を変える33人」の1人に選ばれた。
高橋が制作を手掛けるロボットは、流線型かつ親しみやすさが見て取れる可愛らしいもので、人間の動作にかなり近づいたものが特徴的と評価される。
釣りの為に、ルアーを自ら作った経験も生かされているに違いない。
CMでも話題にとなったパナソニック乾電池の長持ち性能を実証する目的で開発された「エボルタ」は、わずか"17㎝"。
単三乾電池2本でグランドキャニオンの断崖絶壁を登ったり、ル・マン24時間レースにも挑戦している。
受託開発・企画・コンサルティングなど全て1人で行っていて、スタッフはいない。
それでも世界が認める”ロボットクリエーター”で、実績も知名度も抜群の存在である。
自然と格闘する小さなロボットを見ると、かつて高橋が”釣り”で養ったものと関わりがありそうだ。

吉藤健太朗は1987年奈良生まれ、幼き頃より体が弱く勉強も運動も大の苦手。極度のコミュニュケ-ション障で、部屋で「折り紙」に没頭していたという。
”折り紙”で一目おかれていたが、小学校高学年になると状況は一変する。
同級生たちが興味を持っていたのはサッカーや野球、病気で入院したのをきっかけに家に ひきこもるようになる。
ひきこもりの生活が続いて、精神的に追い詰められてく。気が付けば ひきこもり生活は3年半続いた。
そんな絶望の日々の中で唯一の支えだったのが 折り紙であった。
転機となったのは、中学1年の時、母親が 子供向けの手作りロボットコンテストに応募したこと。
初出場にもかかわらず運よく優勝し、この時感じた手応えがロボット作りの”原点”になった。
地元の工業高校で ロボットをっている先生がいることを知り、猛勉強して高校へ進学することができた。
ひきこもりを脱し早速、ロボット製作の部活動に入り先輩の電動車椅子の開発を引き継ぐことになった。
しかし、そこで”壁”となったのは、基本的な人間関係であった。
そんな中、 国際科学コンテストに参加し海外の学生たちに”おり紙”を披露した時に人だかりができたことが、喜びであった。
当時、一枚の紙で”天使”が折れるほどで、エインジニア的なものの見方が磨かれていたに違いない。
コンテストの主催者から、なぜ折り紙をやってるのかと聞かれ、”空間認識能力”を高めるためだと応えたことが、後に運命を変えることになる。
さらには、部活動の延長で 近所に住む高齢者の家を訪ねた時、高齢者たちが語ったのことが後のライフワークに繋がった。
高齢者が語ったことは話相手がいないということ。それこそ、かつて吉藤を追い詰めたあの”孤独感”とよく似ていると思った
その後、高専へ進学し、目をつけたのは 当時最先端の技術として注目されていた”対話型のロボット”。これを作れば「人間の手軽な友達」として孤独を解消できると信じていた。
ところが その研究はすぐ壁にぶつかった。ロボットからどう話しかけられると、うれしいのかという基本的なことだった。
人工知能で雑談できるロボットをろうと思ってプログラミングしてきたが、どんなデータをいれたらいいかがわからない。そもそも”雑談”が何かを分かっていない自分に気がついた。
そんな時、高校生の時国際科学コンテストで”おり紙”を褒めてくれた人から電話があり、思いがけない提案があった。
早稲田大学へ吉藤を推薦したいという。
吉藤が 「科学の分野の独創的な人材」という入試の条件にぴったりだと言われ、人生を預けてみないかとまでいわれた。
早稲田大学といえば当時ロボット研究で日本トップクラス。吉藤は 大学へ推薦で合格。早稲田大学に進み「孤独を解消するロボット」の開発を続けることにした。
そこで、これまで避けてきた人づきあいを一度 徹底的に学んでみようと決めた。
そこで向かったのは、社交ダンス部。
そこは、「社と交わる」美しい男女が集う華やかな世界。さすがにハードルが高すぎた。
その後 手芸や映画ジャグリングや手話などどこも長続きしなかった。
ただこれまで苦手だった「社交」に、 失敗を怖れずすすめたのは、ロボット開発という目的があったからだという。
しかし、相変わらずコミュニケーションは不得手であったことに変わりはない。吉藤の転機になったのは、アルバイトでキャンプ場で仕事をしたことだった。
行事をスムーズに進行させるため毎日 膝を突き合わせ夜中まで話し合い、これまで人との間に距離を置いてきた吉藤に、みんなが本音でぶつかってきた。
いつしか吉藤も 仲間に全幅の信頼を寄せるようになっていった。
どんな悩みでも自分を受け止め 応援してくれる仲間、人とつながる大切さを初めて理解することができた。
初めて知った”友情”。この気付きをもとに ”孤独”を消すロボットの開発を再開した。
吉藤は、高専時代に人工知能を搭載したロボットと会話することで癒やしを得ようと考えていたが、人と人を結びお互いがまるでいつも繋がっているかのように感じるロボットを目指した。
奨学金のほとんどをロボットの開発につぎ込み、食事は もっぱら もやしと水。授業にも行かなくなり卒業も諦め、1年半の歳月をかけてついにロボットが完成した。
AIが入ってるロボットではなく、もうひとつの自分の「分身」を作ろうというコンセプトで作ったロボット「オリヒメ」である。
大学の講師に早速見せにいったが、遠隔通話の手段は他にもあり、新技術も搭載されていない。離れていても顔をあわせる機器は既にある。工作としては「A」だが、研究開発としては「F」と評価はボロボロ。
「オリヒメ」をタブレットで実際に操作すると、テレビ電話とは全く違うものであることが理解してもらえなかった。
人工頭脳の導入されていないロボットは評価されないのか。吉藤はオリヒメを生かせる道が見つからず不安だったが、ある人が助け船を出してくれた。
流体力学の研究で高校生日本一に輝いたこともある友人の結城明姫であった。
結城にオリヒメの話をしたところ強く共感してくれた 彼女は高校時代結核で3か 隔離入院し孤独を味わった経験があったという。
そして自分の研究の道を捨て吉藤の活動を手伝いたいと申し出くれた。
そして 「オリヒメを多くの人に使ってもらうため起業しよう」と提案してくれ、結城のアドバイスでビジネスコンテストに参加するとなんと”優勝”し、オリヒメの存在が広く知れ渡った。
そしてついに ある病院で「オリヒメを試してみたい」という人が現れた。家族には白血病と闘う小学生の男の子がいた。
彼は 家族でさえ入ることができない無菌室に隔離され孤独な毎日を送っていた。
吉藤は 試しに1週間 貸し出すことにしたところ、その僅か4日後、もう一週間レンタルを延長できないですかという申し出があり、家族が喜んでいることが、伝わった。
家族によれば、テレビ電話と違ってオリヒメの動きがある事でより子供を身近に感じる事が出来、とても気軽に使えましたと。
相手のリアクションが大きくなるとそれにつられてコミュニケーションがすすむ。
吉藤は、ようやく自分の存在が肯定してもらえたような気がしたという。
吉藤はこの成功に自信を深め、株式会社を設立し、オリヒメのレンタルを始めた。
そして、オリヒメの利用の場面は様々な場面に広がっていった。
初孫の結婚式に出られない足の不自由なおばあちゃんが、式場においてオリヒメの身振り手振りを通じて気持ちをを伝える。
福岡に暮らす高校2年生の中島さんは筋力が徐々に衰えていく難病で物心がついた頃から寝たきりの生活を送ってきた。
オリヒメを遠隔で操作しながらカフェで働くことができ、"社会参加"できる喜びを知った。
働き方改革の一環としてオリヒメを導入する企業も出てきた。
ある大手通信会社では育児や介護などの事情を抱えた社員がオリヒメで出社する。こうしたオリヒメを使う企業の数は現在 80社に上った。
ロボットに「心」が宿る、そんな不思議な体験が広がっている。

オリヒメは、首を動かせる 手を上げれる単純なものだが、 誰もが一度は受けたことのある血液検査、病気の早期発見や、患者に対して適切な診療や治療を行う上で欠かせない重要な臨床検査だ。
毎日、数多くの検体が集まる病院の検査室や周辺地域の検体を集約して検査を行う検査センターでは、いかに効率良く、スピーディーに、そして何よりも正確に分析データを報告するかが最大の課題だ。
こうした検査の自動化と効率化を実現するシスメックスは、血球計数分野で国内トップ、世界でも第2位のシェアを握るメーカーだ。
機器だけでなく試薬や運用管理まで、総合的に提供することで、他社の追随を許さない高い信頼性を誇っている。その信頼性を最先端のデータベース技術で支援しているのがアイエニウェア・ソリューションズだ。
シスメックスがこの分野に進出したのは1961年にさかのぼる。当時、拡声器を製造していた東亜特殊電気株式会社(現・TOA株式会社)が、その技術を生かして医用電子機器業界への進出を決めたのだ。
拡声器の技術とは、声を電気信号に変換し、声の信号だけを判別して増幅することで、ノイズを消して声を聞こえやすくする仕組みである。
一見、血液とは何の関係もないように思えるが、小さな血球を判別する際に、微弱な電気信号を処理すると言う点で、コア技術が利用できる分野だったのだ。
その東亜特殊電機が1968年に販売子会社として東亜医用電子株式会社を設立、1972年には親会社からME機器部門を譲り受け、検体検査機器・試薬メーカーとしての第一歩を踏み出した。
そして1975年、初の国産全自動血球計数装置「CC-710」を発売し、以来、より多くの検査項目に対応できるよう技術開発に専心してきた。
「従来の血球検査では、技師が顕微鏡を覗いて赤血球や白血球、血小板の数を数え、種類や状態を判別していたため、多くの時間と労力を必要としていました。自動分析装置の導入によって、検査精度を一定の水準に保ちながら時間を大幅に短縮できるようになりました」。
シスメックスの現在の主力製品のひとつが、多項目自動血球分析装置「XE-2100」だ。特殊な染色技術とレーザー光を使って血球細胞を測定する「フローサイトメトリー」をコア技術とし、血球の数だけでなく、さまざまな項目を自動測定する装置である。日本では機器メーカーと試薬メーカーに大きく分けられるが、こうした機器だけではなく、検査に使う試薬やソフトウェアも含めて自社で提供できる体制を整え、総合的にサポートできるのはシスメックスが唯一だ。
「機器だけを提供するメーカー、試薬だけを提供するメーカーはたくさんありますが、検査は機器と試薬の両方があって初めて行えるものです。全てを自社で提供できるシスメックスは、検査結果に対して責任を持てるということであり、その点がユーザーからも評価されています。
機器と試薬の技術に加えて、IT技術も追っている点がシスメックスの大きな特長のひとつだ。3つの技術のシナジーが高付加価値な製品の提供を可能にしている。
タベースエンジンの比較のポイントは二つあった。一つ目は親和性である。シスメックスでは、複数の検査装置のデータを統合管理し、フォーマットに合わせて出力するLIS(検査室情報システム)の開発と製品化も行っている。
また、新たな事業分野として、予防検査や確定診断のための検査技術の開発にも注力しており、今年1月には、高精度で早期乳がんの再発予測を可能にする世界初の「がん再発予測診断技術」の確立を発表した。

こんにちは、やーまんです。フレンドリーロボット「ロビ」や乾電池のCMで活躍したミニロボット「エボルタ」の生みの親であるロボットクリエーターの高橋智隆。ロボット作りに没頭する人はどんなにもっさりしているのかと思ったら、イケメンでびっくり!彼の家族も気になるところです。 昔、花王石鹸がフロッピーディスクをつくったりしていが、関連が推測しにくいものがある。
例えば、富士フィルムが、エイズの特効薬を発見したことなどである。
最近は、脇道が本道になりつつあるようだ。 核はエイズ、マラリアとともに世界三大感染症の一つで、全世界で年間960万人が罹患し150万人が死亡、なかでもアフリカや東南アジアなど開発途上国で罹患者の割合が多くなっている。
さらに開発途上国ではHIVの感染者も多く、免疫力が低下するHIV感染者は結核に罹患するリスクが非常に高いため、定期的な結核診断と早めの投薬治療が強く求められています。
富士フイルムは、写真の現像プロセスで用いる独自の"銀塩増幅技術"を応用したイムノクロマト法※1によって発症初期のインフルエンザウイルスを検出する診断システムを開発しました。
この技術を世界の様々な感染症の早期発見につなげていくために、2015年2月にエボラ出血熱の迅速診断システムに関する共同研究を開始。
2016年3月には、スイスのFIND※2と結核の高感度・迅速診断キットに関する共同開発契約を締結。この開発では、これまで開発途上国で用いられていた患者の喀痰(かくたん)からの診断ではなく、尿に排出される結核菌特有の成分に着目。
電源の確保が難しい開発途上国の現場でも手動で操作できるよう、カートリッジに検体を滴下するだけで結核菌の有無を判定できる簡便、迅速、安価で診断能力の高い診断キットの開発を目指しています。
これにより喀痰が簡単に採取できない小児・老人の患者や、喀痰での検査自体が有効ではない肺外結核の患者(HIV感染者の多くが罹患)にも検査が容易になります。
なおこの開発は、日本発の革新的な治療薬、ワクチン、診断薬の創出を目的とするグローバルヘルス技術振興基金(GHITFund)に採択されており、2億1,600万円の助成を受け、2016年4月から2017年10月までの開発期間を予定しています。