原宿といえば若者の町、竹下通りは若者文化の発信地として知られるが、意外な顔をもっている。
例えば、原宿の「竹下通り」の名前は、このセオドア・ルーズベルトと親交のあった人物、「竹下勇」の邸宅があったことからつけられた。
竹下は、日露戦争中は中立国経由で伝わるロシア情報の分析をしたり、潜水艦の購入を画策したりした人物で、日露戦争の前後に「アメリカ大使館付武官」としてアメリカに滞在している。
柔道を通じてセオドア・ルーズベルトと親しくなり、アポなしでホワイトハウスを訪問しても咎められないほど親しい仲になっていた。
ポーツマス会議では、日本側随員の一人となっている。ちなみに、福岡出身の金子堅太郎は、ルーズベルトとハーバード大学で同級生で、舞台裏からポーツマス条約成立に尽力している。
さて最近、山口県が皇族などが来県した際に使用する「貴賓車」として購入したトヨタの「センチュリー」が2090万円で一般会計からの支出された。
すでに一台が用意してあるうえに、皇族が来県する予定もないため、問題視されている。
この話で思い浮かべたのが「お召し列車」のこと。
東京渋谷区JR原宿駅の北側に、黄緑色の小さな駅がある。
そこには「宮廷ホーム」というものがある皇室専用の特別の駅だ。
天皇陛下の静養の際などに「お召し列車」が発着していたが、2010年以降ほぼ使われていない。
原宿駅の竹下口から代々木方面に約200メートルほど歩くと、宮廷ホームの入り口がある。周囲を囲まれていて、すぐにそれとは気づかない。
完成は1925年10月で、体調が悪化した大正天皇が移動する際、人目につかずに乗降できるように造られたとされる。
翌26年、大正天皇が神奈川県の葉山御用邸への移動のため使ったのが初め。
昭和和天皇の時代には、那須御用邸(栃木県)や下田の須崎御用邸への移動や、地方訪問の際に頻繁に使われた。
JR発足後の87年以降では計30回の発着があったが、お召し列車の運行自体も減っている。
昭和天皇の時代には年に数回あった運行は、平成に入ってからの21年間で合計7回。新幹線や定期列車の編成を利用することが増えたためだ。
2007年にJR東日本が造った新型お召し列車「E655系」のデビュー、新型列車は「御料車」とも呼ばれる皇室専用の特別車両1両と、ハイグレード車の5両からなる。
この5両は「なごみ」との愛称で一般向けの高級列車としても使われる。
かつて西武鉄道の野望の歴史を描いた猪瀬直樹著の「ミカドの肖像」という本があった。
この本によると、天皇が国内を旅行される場合には、明治神宮に近接した原宿駅の「隠れた」宮廷ホームから御用列車が出発するが、通常のダイヤにこの特別列車を走らせるには、なかなかの技術が必要らしい。
列車のダイヤを複雑につくる人々を「スジ屋」というらしいが、この特別列車の「スジ」を通す場合には、三原則というものがあるらしい。
①ふつうの列車と並んで走ってはいけない。②追い抜かれてはいかない。③立体交差の際に、上を他の列車が走ってはいけない。
すべての行程で、この条件を満たすようなダイヤを作るという大変な技術なのだ。
これはテロ防止が目的らしいが、個人的には戦前の「不敬罪」が思い浮かぶ。
松本清張の「点と線」において、ホームの向こう側に列車が見える数分間を使ったトリックを思い浮かべるが、多少でも列車の到着時刻にズレが生じれば、この小説の犯罪は成立しないことになる。
ではこの特別な「お召し列車」の場合にはどうなのか。実は、スジ屋も同乗するらしい。
予測外のことが起きても、スジ屋がいればその都度、即座にダイヤを修正することができるからだ。
また「ミカドの肖像」によれば、皇居に面した処に立つ東京海上火災ビルの高さが30センチメートル低い理由などが書いてあり、いまだに「ミカド」(=天皇)への意識が人々を支配しているという。
三浦半島西部に位置する神奈川県葉山町は、人口3万人程の小さな町。皇室の「葉山御用邸」で知られるこの町は、国内指折りのセーリング・スポットで、石原裕次郎・北原三枝の主演の映画「狂った果実」(1956年)の舞台としてもよく知られている。
数年前、海岸近くの森戸神社に行って、ここから海岸を見渡した時、「狂った果実」のモノクロームの映像がカラーで眼前に拡がるのを見て感動を覚えた。
ふと足元を見ると、そこに「石原裕次郎記念碑」がたっているではないか。
磯辺より沖合に浮かぶ小さな島があり、そこに映画のハイライト場面となった「灯台」が建っていた。
かつての「太陽族」にとって、懐かしさを覚える灯台ではなかろうか。
葉山では有名な鈴木家は、創業100年のスーパー「スズキヤ」を営む地元の名士で、その次男のは「日蔭茶屋」に養子に入った角田雄二。
三男が陸三で、雄二・陸三・兄弟が、ロサンゼルスで出会った「スターバックス」という新しいコンセプトの店を日本に根づかせた。
彼らの若き日は、石原慎太郎「太陽の季節」に描かれたような、典型的な若者であった。
さて、NHK番組のブラタモリで、「葉山の町」が紹介され意外な事実を知った。
日本有数のヨットの町と富士山の表紙とは別に、「葉山層群」という固い地盤と横須賀へのアクセスのよさという裏面の存在である。
森戸海岸に下りて割れ目がある大きな泥岩と砂岩が硬い「葉山層群」で、葉山エリアの大部分はこの「葉山層群」でできている。
御用邸が葉山に建てられた理由は、風光明媚・気候温暖・東京に近いという理由の他に軍港がある横須賀へアクセスが容易であることなのだという。
大元帥であった天皇陛下が横須賀に向かうに、わずか約10kmの距離に位置しており、日清戦争が起きた1894年に「葉山の御用邸」が出来たことが、そのことを物語っている。
葉山の丘に立つ「イエズス孝女会修道院」は、皇族東伏見宮の別荘跡で、建てられた当初の洋館のままに保存されている。
2階からは海岸と江ノ島、そして富士山が展望できたことが古い写真で確認できる。
さて、そんな憧れの葉山を揺るがしかねない計画がもちあがった。
1917年に当時の逗子駅から鎌倉方面と葉山方面に鉄道を延長する計画がでた。
別荘への悪影響が考えられたが、逗子市と葉山町の境界に「葉山層群」があり、硬い地層と断層は当時の技術ではトンネルを掘ることが困難であったため、実現しなかった。
この「葉山層群」の存在が憧れの葉山を守ったことになる。
平成天皇・皇后両陛下が、葉山の御用邸に向かう際に使用されるのは自動車で、JRを使われなくなったのは鉄道を利用すると、多くの人を動かすことに対する平成天皇らしい御配慮があったからだという。
そこで両陛下が皇居から「葉山御用邸」までの移動で使われるのが、「国道16号線」である。
「国道16号線」といえば首都圏に住む人々にとっては、馴染みの道路である。
通称「東京環状道路」の愛称のとおり、都心に入らず、神奈川県、埼玉県、千葉県の3県を通過し、横浜、相模原、八王子、川越、春日部、柏、千葉、木更津、横須賀などの主要な都市をリング状に結ぶ。
「国道16号」としての誕生は戦後で、横浜から横須賀までの区間が1952年、横浜から相模原までの区間が62年。ただ、道路自体はそれ以前から”別の名前”で存在し、重要な役割を果たしていた。
このうち、横浜から横須賀に至る区間の起源は、「旧日本海軍」の軍用道路である。
明治初期から旧海軍の軍港として発展してきた横須賀に、艦隊の根拠地である「横須賀鎮守府」が設置されたのは、1884年。
その3年後、海軍の中枢部がある東京との間を結ぶため、横浜から横須賀に至る道路として政府に指定されたのが「国道45号線」だった。
この道が1920年に「国道31号」、昭和27年には「国道16号」へと路線番号が変更され、現在に至っている。
戦後、同鎮守府の敷地は進駐してきた米軍が接収し、「米海軍横須賀基地」へと姿を変え、第7艦隊の根拠地として米国の極東地域における重要な拠点となった。
同基地の正門前を、鎮守府時代と変わらずに通る「国道16号」。今では、横須賀に入港した米空母の艦載機が発着する米海軍厚木基地をはじめ、ほかの米軍施設との往来に使われ、「軍用道路」としての側面を失ってはいない。
また、道を挟んで向かい側にはバーなどが立ち並ぶ「どぶ板通り」もあり、米空母が入港するたびに大勢の米兵らでにぎわってきた。
「国道16号」に面した正門は米軍基地の象徴。そのため、空母が入港する際にはデモ行進も行われてきた。
この道に転機が訪れたのは、1936年、東京・市ケ谷にあった陸軍士官学校が、現在は米陸軍キャンプ座間(相模原市南区、座間市)となっている場所に移転することが決定したこと。
その後、現在の国道16号沿いに旧陸軍の造兵廠や通信学校、病院といったさまざまな施設が次々とつくられていき、周辺は陸軍の一大拠点となっていった。
沿道に多くの軍事施設を抱えた「国道16号」であったが、1945年8月15日の終戦によって状況は一変した。
各地に点在していた旧陸海軍の施設の多くは、進駐してきた米軍が接収。それらの米軍施設を結ぶ道路ともなった。
特に、ベトナム戦争(1965~75年)が始まると、米国は、戦場で故障するなどした戦車や兵員輸送車などを現在の米陸軍相模総合補給廠で修理される。
再び戦場に向かう戦車は、国道16号を通ってトレーラーで横浜ノース・ドックに運ばれ、輸送船に積み込まれていた。
国道16号線は、「歌の風景」として多く登場する。
松任谷由美の実家は東京八王子の老舗呉服屋「荒井呉服店」であるが、甲州街道と国道16号線に挟まれるように位置していて、実際に「哀しみのルート16」という曲もある。
松任谷の生まれ故郷・八王子は、甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
桑畑が広がる養蚕が盛んな地域であり、もともと多くの呉服問屋が存在する土地柄で、明治維新期以降は織物産業が繁栄し江戸時代からの宿場町を中心に街も発展した。
横浜が開港となると日本から欧米諸国へむけて“絹”は輸出品になった。
長野・山梨を主産地とした生糸は八王子から町田を通って横浜へ運搬され、八王子―横浜間の約40kmの道は「絹の道」(シルクロード)と呼ばれるようになった。
八王子の立地は、田舎ではあったもの西洋の進んだ文物がはいってきた「最前線」に位置し、それが松任谷の音楽に少なからぬ影響を与えたにちがいない。
松任谷由実が、バロック音楽に通じる格調やノン・ビブラート(チリメン・ビブラートとの説もあり)のドライな感じは、彼女が立教女学院というミッション系の学校に学んだことも大いに関係もあろうし、立川の「在日米軍基地」の存在もなにがしかの影響を与えたことであろう。
また、松任谷の車好きは有名で、代表曲の「中央フーウエイ」でもよくわかる。八王子が「中央高速道」(甲州街道の高速道)の通り道であったことも、その想像力を刺激したに違いない。
さて、三浦半島の地名は、徳川家康からここに領地をもらったイギリス人、三浦按針(ウイリアム・アダムズ)に由来する。
そして「国道16号線」が、三浦半島にはいると、さらに多くの「歌の風景」として登場する。
例えば、松任谷の曲では、「リフレインが呼んでいる」や「埠頭を渡る風」などが思い浮かぶ。
1974年にリリースされた山本コウタローとウィークエンドのシングル曲に「岬めぐり」がある。
作詞家の山路夫によれば日本各地の岬を歩きまわってできたイメージをもって書いたそうだが、神奈川県三浦市では三浦半島がモデルであると信じられており、京浜急行電鉄久里浜線三崎口駅の電車の接近メロディーは「岬めぐり」をアレンジしたものだという。
軍港の発展とともにある「海軍料亭」とよばれる存在も、特殊文化の一形態といえる。
日本の海軍は、イギリス海軍をモデルとしたためか、横須賀で有名だった海軍料亭といえば、"パイン"と呼ばれた「小松」と、"フィッシュ"と呼ばれた「魚勝」があった。
「小松」は1885年の開業当初、白砂青松の海岸で海水浴を楽しんだ後に、入浴と食事を楽しむ「割烹旅館」にすぎなかった。
しかし、日本が海軍力の増強に努め、日清・日露戦争に勝利し、横須賀鎮守府の機能が拡大していく過程で、海軍軍人相手の「海軍料亭」となっていった。
1945年、「小松」は紆余曲折を経て、終戦によりいったんは閉店されたが、横須賀に進駐した連合軍の指定料理店となり、横須賀に進駐した主に米兵相手の飲食業を営むことなった。
1952年独立後は、「小松」は横須賀海軍施設の米海軍軍人、そして海上自衛隊、旧海軍関係者らに広く利用されるようになった。
この料亭の創業者は東京・小石川関口水道町に生まれた山本悦である。
そして山本が経営する料亭に「小松」の名を与えたのは、ナント小松宮彰仁親王であった。
山本悦は浦賀の「吉川屋」という旅籠料理店で働いていて、海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれ、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。
そんななか1875年、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4人の皇族が、浦賀沖で行なわれた「水雷発射試験」の視察のために浦賀にやってきたのである。
そして、これから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業してはと勧められ独立を決意し、1885年20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館「小松」を開業した。
「小松」が、海軍関係者によって繁盛するようになるのは自然の成り行きで、増築時に鳶の親方として活躍したのが、後に衆議院議員、逓信大臣となる「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎であった。
この人の孫こそ総理大臣となる小泉純一郎である。
純一郎は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶は受けましたか」と尋ねられ、「花札しか教わらなかった」と答えている。
終戦により閉店となるが、戦後「小松」は営業を再開し、アメリカ海軍士官らに受け入れられていった。
横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となり、しかも「旧海軍の伝統を引き継いでいる。
その横須賀にあって「小松」は、大正、昭和初期の近代和風建築を今に伝えるとともに、東郷平八郎、山本五十六、米内光政らの書など、多くの日本海軍関係の資料を保有し、料亭「小松」は近代日本海軍の歴史を伝える貴重な存在であった。
実は、司馬遼太郎や阿川弘之といった作家たちが日本海軍の提督たちを描くときは、この料亭「小松」から取材したもの多いという。
「小松」は、旧日本海軍の「海軍料亭」ばかりか、日本近代史の舞台の一つである。
それ故に2016年5月16日火災により全焼し、多くの史料が失われたことは、この国の「遺産」が失われたことを意味する。