山陰といえば、日本海に面する出雲(島根県)や若狭(福井県)は、いまだに「鄙(ひな)」のイメージがある。
個人的には、松本清張の小説「砂の器」の父子の哀しい物語の印象が強く残っているからかもしれない。
この小説の舞台は、国道432号線沿いの湯野神社あたりがその舞台で、「亀嵩」(かめたか)という地名の東北なまりの方言が事件解決のキーとなった。
また、小泉八雲(ラフカデイオハーン)が松江に住み、出雲を「神話の国」として紹介したことも重なる。
ところで、1980年代に「鄙(ひな)」という言葉が、一般に広がった時期があった。
1998年細川護煕と岩圀哲人の「鄙の論理」という本が注目された頃で、それぞれが熊本県知事、島根県知事としての中央政府一辺倒に対する独自のビジョンをうちだしたものだった。
現在、新型コロナウイルスの終息・出口戦略が模索されている中、各自治体が様々な”モデル案”を出そうと試みているだけに、この本は啓発的である。
「鄙の論理」には次のような項目が並んでいる。
「地方から反乱を起こそう/中央に対するコンプレックスを払拭せよ/
一流企業より県庁が面白い/行政は最大のサービス産業だ/ときめきの灯を燃やせ。地方にこそロマンがある/
「田園文化圏」はエキサイティング/神話の国に木の文化を咲かせる/すべては地方から変わる」。
ただ細川も岩圀の二人とも後に中央政界入りを果たし、細川は1987年に内閣総理大臣に就任している。
岩圀は細川ほど政界での活動の印象は強くないが、もともとは財界人で1984年、メリルリンチ社日本法人の社長・会長から1987年、メリル・リンチ・キャピタルマーケット米国本社上席副社長をつとめた人物である。
大阪市生まれだが、母の故郷である島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現出雲市)に転居し、島根県立出雲高等学校を経て1959年、東京大学法学部卒業。大学時代は政治学を学んでいる。
出雲市長選挙に出馬し、初当選した。市長在任中、「行政は最大のサービス産業」「小さな役所、大きなサービス」という持論をもとに、ショッピングセンター内の行政の土・日サービスコーナーや樹医制度の創設、総合福祉カードの導入、日本最大の木造ドームの建設など次々と新施策を実現し注目された。
ちなみに、「鄙」を漢字の部首から意味を探ると、 「啚」 は米倉や納屋を描いた象形文字で、「阝」 は 「邑」 の変形で 「鄙」 はいわゆる”田舎”、”農村地域”を意味する漢字なのである。
日本語では「日無」という文字が当てられ、「日」は支配者(天皇)を意味し、その恩恵が及ばない土地ということになる。
となると、いわゆる「まつろわぬ」人々がいたということだ。
山陰には有力企業が少ないということもあり、山陰の若者たちにとって「役所」や「信用組合」こそ、もっとも望まれる進路先であるという面がある。
そうした地味な役場や信用金庫の仕事をしながら、大舞台で脚光を浴びた人もいる。
例えば、広島カープの元エースで、大野豊投手もその一人である。
セリーグ左腕のエースといってもよい存在ともなった大野だが、実家は日本海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くために出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。
しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。
1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを持ったという。
その3か月後の1976年秋、出雲市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、「出雲市信用組合」野球部員は手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本嵩打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、山本と木庭の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。
信用組合・軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たしたのである。
出雲出身のミュージシャンといえば、竹内まりあは、島根県の元大社町長で出雲大社近くの老舗温泉旅館「竹野屋」主人・竹内繁蔵の娘であるが、世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられた。
島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州の高校に1年間留学が、日米の音楽が融合したニューミュージックへと導かれる契機となった。
竹内は、長く専業主として山下の影にあったが、還暦を過ぎた頃出した「アルバム」ではすっかり山下流のアレンジをうけ、水を得た魚のごとく活動し、再ブレイクしている。
島根は、出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)が、大袋を担ってやってきた地でもある。
大袋の中身が何かを想像するのもロマンだが、”今風”とは真反対の「鄙」の地にあって、出雲の地はなにかキラキラするような”異才”が表れる地域のようでもあるようだ。
ここ1、2年、米津玄師やあいみょんがヒットチャートを独占していたが、最近では「Official髭男dism」はその牙城を崩すほど勢いがある。
実際、ヒット曲の「Pretender」や「宿命」などの新しさ、巧みな言葉づかい、メロデイの馴染みやすさなど、ファンはさらに広がりつつある。
彼らは米子・松江を拠点に活動していたが、2016年2月に活動を本格化させるため上京。メンバー自身は”山陰出身”という言い方をしている。
彼らが異質なのは、年齢が20代後半から30代前半、元銀行員や警察音楽隊出身で、全員、既婚者でありつつ、全員がプロデュサー的な感覚の持ち主であることだ。
要するに異色ずくめなのだが、その曲の新しさと受け入れやすさで、ドラマの主題歌として採用されていることである。
「I LOVE..」は、TVドラマ「恋はつづくよどこまでも」、バッドフォーミー」は、TVドラマ「グッド・バイ」の主題歌で、「Pretender」は映画「コンフィデンスマンJP」、「イエスタデイ」は、映画「HELLO WORLD」、「イエスタデイ」は、映画「HELLO WORLD」のそれぞれ主題歌である。
個人的には「Pretender」の意味が気になるが、「pretend」(~ふりをする人)なので、歌詞の内容から「独り芝居」を演じる人とかいう意味なのではなかろうか。
また、「パラボラ」は、2020年「カルピスウォーター」、「Stand By Yo」は、Apple「Apple Music」のそれぞれCMソング。
それ以外には、「 宿命」は、2019年 夏の高校野球応援ソングの主題歌。
さらには、「FIRE GROUND」は、アニメ「火ノ丸相撲」のオープニングテーマなど。
こうした多方面に曲が使われるところをみると、「国民的バンド」といっても過言ではない。
そんな「ヒゲ男」の構成メンバーのプロフィールを紹介をすると次のとうりである。
藤原聡(28歳)鳥取県米子市の作詞・作曲をするシンガーソングライターで、ボーカル、ピアノキーボード担当。
名門の米子東高等学校・島根大学卒業後、島根銀行に就職し、鳥取県内で2年間営業マンを経験。2019年に一般女性に銀行に就職した理由は確実に休みが取れ、土日祝日にライブ活動ができることが大前提だったから。
幼稚園の頃からクラシックピアノを習い、小中学時代の夢はプロドラマー。高校時代は吹奏楽部でパーカッションを担当していた。
高校2年生の時、地元のライブハウスのイベントで当時中学3年生の小笹大輔と出会う。自身が作詞した「黄色い車」の歌詞に、地元の名峰・大山が登場している。
プロが高く評価する"aikoファン"で、藤原の才能の豊かさは随所に感じさせられる。
藤原は、いろんな選択肢を出した上で最良の音楽、自分が一番好きだと思える音楽を選びたいと述べ、一つの楽曲を作る上でメロディを何パターンも作ったり、低域を意識しながらサウンドメイキングを進めていったりしたことを明かしている。
また、デビュー時には想像もしてなかったアイディアや音の作り方、選択肢が自分達の中に生まれていたとかで、ラッパーなどからの影響をもとに、ゴスペルのエッセンスをJ-POPにどう取り入れるかを意識したなどとも語っている。
小笹 大輔(26歳)は、最年少で島根県松江市 出身で、ギタリスト 。松江工業高等専門学校電子情報システム工学専攻を卒業。
ジャニーズ愛好家で、過去には藤原と共に嵐のコピーバンドをしていたといういう。
楢﨑誠(31歳)で 広島県福山市出身、ベーシスト、サクソフォン奏者。
あだ名は「ならちゃん」、「山陰のローランド」で、中学生時代、ソフトテニス部に所属。広島県立神辺旭高等学校出身。同校では吹奏楽部に所属。音楽の教員免許を持っており、嘱託職員として島根県警察音楽隊でサックスを演奏していた経験がある。
2020年2月、E-girlsの元メンバー山本紗也加と結婚している。
松浦匡希(27歳)で、鳥取県米子市出身でドラマー、鳥取県立境高等学校、島根大学卒業、あだ名は「山陰のディカプリオ」。
隠岐の島で育った経験があり、趣味は釣り。
中学生で剣道初段を取得。在籍していた剣道部では部長を務め、団体戦では大将を任されていた。中学2年生の時、米子市総体で準優勝した経験を持つ。
2019年に、一般女性と結婚している。
「Official髭男dism」はボーカルの藤原聡が大学在学中、同じ軽音楽部の先輩だった楢﨑、後輩だった松浦、学外で仲が良かった小笹に声をかけ、2012年6月7日結成された。
結成前まで藤原は個人的に、これら3人それぞれとコピーバンドをやっていたという。
全員が対等な立場で意見を出しあえるようにあえてリーダーを設けていない。
インディーズ時代の彼らはファンクやブラックミュージックの洒脱なテイストを活かしたピアノポップが持ち味だった。
2018年1月放送の”関ジャム 完全燃SHOW”で、音楽プロヂューサーの蔦谷好位置(つたやこういち)がその”新しさ”を紹介したことがブレイクのきっかけとなり、2019年の紅白歌合戦にも出場している。
ところで、バンド名の「Official髭男dism」は、バンド名の名付け親は楢﨑で、「とにかくインパクト大だったから、これにしようってなった」、「耳で聞いたときのインパクトもそうだし、漢字とローマ字の組み合わせも珍しいから、視覚的にも覚えやすいんじゃないかなって」という理由でつけられたという。
若狭湾周辺の地域は、いいものはみな大阪や京都など都会に貢いできた関係にある。珍しい魚も、上質の和紙も、労働力も都会に供給してきた。
そういえば若狭には「鯖街道」というのがあった。古代より若狭の海産物が京の都へ運ばれ、その中にあったのが大量の鯖。
これが京都で大衆魚として重宝されたことから、小浜から若狭町、熊川、滋賀県の杤木を越え、大原八瀬から京都への道が「鯖街道」と呼ばれるようになった。
200戸ほどの集落となり、今も100戸ほどがそのまま残っている。
日本海に面する北陸地方は、大都会を支える電力をまかなってきた。この地域の中でも、若狭湾周辺は有力な産業もなく、自治体は「原発誘致」に活路を見出そうとした結果、「原発銀座」となっていった。
ここにも異彩を放つ人々がでた。
さて、三島由紀夫の小説「金閣寺」といえば、実際に起きた「金閣寺炎上」に材をとった小説だが、三島以前に金閣寺の放火犯の心の内面をテーマに小説を書いた作家が、若狭出身の作家・水上勉である。
金閣寺が作家の題材となるのも、禅寺でありながら人を魅了してやまない蠱惑的な佇まいの故だろう。
ただ水上は、徒弟による金閣寺放火の動機を三島のように「美のシンボル」といった形而上のものとしてではなく、あくまで仏教徒として有り方としての悩みとして捉えた。
つまり、崇高であるべき仏教の教えが、この金閣によって世俗に堕しているという視点に立っている。
実は、水上も家が貧しく、禅寺の小僧になった体験があり、それが後々に人生にまで影響を与えた。
寺の小僧になったのも「口減らし」のためだった。
寺を脱走したのち、42歳で直木賞作家になるまで、30種類以上の職業を経験し、その中で人間観察を深め、密度の濃い文学に昇華させた。
戦後の日本は欧米に追いつけ追い越せと「上」「表」「中心」をばかりを目指してきた。しかし水上は常にその「下・裏・端」側にいた。
まとめていうと、彼の創作は、常に「鄙」(ひな)からの視点で生み出されたものだった。
ちなみに、「金閣寺炎上」を第一報として世に伝えた産経新聞記者が福田定一。この記者は後に「司馬遼太郎」の名前で国民的作家として知られることになる。
2010年1月、アッツ!と思ったのが浅川マキの訃報だった。それは忘れかけていたが、実になつかしい名前であった。
高校時代にお金持ちの息子が、「これぞ大人の女性の魅力ゾ」といいつつ浅川マキの「アルバム」を貸してくれのがきっかけだった。
その言葉をとても素直に受け取った自分は、ビートルズやローリングストーンズをさしおいて、しばらくそのアルバムの魅力にはまった。
浅川マキの代表曲「かもめ」や「赤い橋」や「ちっちゃやなころから」の少し投げやりなアンニュィを含んだ雰囲気にひきつけられた。
当時、淺川は、「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。
ところで浅川マキは、横浜の本牧のクラブあたりで歌っている感じがしたが、その経歴を見ると意外なことがわかった。
石川県の町役場で「国民年金窓口係」の仕事をしていたのだ。職に就くや、ほどなく上京し、マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。
その浅川を見出したのが寺山修司で、新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を行い、クチコミでその名前が広がっていった。
そういえば浅川マキの「ふしあわせという名の猫」は、寺山修司作詞のヒット曲「時には母のない子のように」の曲想を思わせるものがある。
戦後の混乱期、石川県の役場勤めの女性が上京して”歌姫”として成功するサマは、松本清張の「ゼロの焦点」を髣髴とさせる。
浅川の独自性は、外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行った。そのため表記を「訳詩」とせず「日本語詩」としている。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、搬送された病院で死亡が確認された。享年68。