それぞれの国に、建国の精神や美学が込められたシンボル的存在というものがある。
スイスのウイリアムテルがその典型であるが、日本の場合「源義経」がそれにあたるかもしれない。
また文学者が社会が抱えた矛盾や苦悩を体現するように描いた人物像というものもある。
中国の文学者・魯迅にはの「阿Q正伝」という作品がある。
阿Qは、働き者との評判こそ持ってはいたが、家も金も女もなく、字も読めず容姿も不細工などと閑人たちに馬鹿にされる、村の最下層の立場にあった。
そして内面では、「精神勝利法」と自称する独自の思考法を頼りに、閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る日々を送っていた。
これは、西洋列強に国土を食い荒らされても「中華」の思考方法によって一向に自身を変えようとしない中国の病巣を「阿Q」に体現させたものである。
アメリカの歴史上の人物・ベンジャミン・フランクリンは、大統領でもなければ、英雄でもない。街の印刷屋にして避雷針などの発明愛好家である。
元々人を楽しませたり、驚かせることが好きな好人物ではある。
そのフランクリンは、現在の「格言入りカレンダー」を考案して大アタリ。大金をもうけその金で、公立図書館や自警団などを作って街の名士となった。
政治の世界に入ると、彼の活動は多彩で、その傑物ぶりをようやく発揮し始めた。
後の大統領となった軍人ワシントンらを支え、独立戦争の際してはフランスへ趣き、「熊の毛皮」を被って、野蛮なアメリカが強いフランスの支援を求めているとオドケテみせた。
プライドの高いフランス人のハートをくすぐって、フランス社交界の寵児となる。
「フランクリン人気」はそのまま「アメリカ人気」となった。彼の活躍がフランスの援軍を引き出した一因となったのである。
フランクリンはこうした功績を買われて、「アメリカ独立宣言」の起草者のひとりに選ばれている。
フランクリンを「代表的アメリカ人」の一人とよんでもよさそうな気がする。
それは、貧しい生い立ちから強い意志でものにしたアメリカンドリームの実現者というばかりではなく、彼の生き方のうちにある精神的原理によるものといってよい。
フランクリンの精神は、勤勉性でピューリタニズムと重なりつつも、功利主義的な思考法が占めていたようだ。
プラグマチズムにおいて、行為や制度の良し悪しは、それによって生じる結果によって判断される。
したがって「結果」を手早く生み出す効果や有用性が重視される。
したがって彼が目指す「幸福」という結果に結びつかないものはできる限り排除し、「節制」「沈黙」「規律」「決断」など幸福に繋がる徳目を「自己抑制」として自らに課している。
「信仰」でさえもこれらの徳目と同列であった。
その一方で、「アメリカンドリーム」の暗部をついたのが、フィッチジェラルドの名作「グレート・キャツビー」である。
プラグマチズムでいうように、結果がすべてなら「金がすべて」ともなりかねないし、手段を選ばずということになりかねない。
キャツビーもまた、アメリカンドリームを求めたセルフメイドマンの生き方をした人物である。
キャツビーは、ノースダコタの貧しい農場から身をおこしたたたぎあげの人物だった。
実際、キャツビーの「人物造型」に際して、作家の意識の中には、ベンジャミン・フランクリンという歴史上の人物がいたのではなかろうか。
ただフランクリンが国や地域の為に役立たんと自己改善を行ったのとは対照的に、キャツビーは欲望のためにそうしたのであった。
キャツビーは、まばゆく神秘的な女性デイジーの愛に相応しい人間になろうと努力し、成功した暁には彼女をパーティに招く夢を描き続けた。
その一方、キャツビーの華麗なる姿の裏側には、違法行為によって蓄財を行ったことが描かれている。
また、デイジーはすでに人妻であった。
キャツビーはあくまで自己抑制的なフランクリンとは対照的に、ある部分で欲望に忠実な主人公として描かれ、彼が描いた夢は「悪夢」となり死という結末に至る。
結局、金という成功に裏切られたという点で、キャツビーは「裏フランクリン」といえるかもしれない。
「謦咳に接する」とは、尊敬する人や身分の高い人の話を直接聞く、または親しくお目にかかるという意味である。
だが「謦」も「咳」ともにせきやせきばらいの意味なので、コロナの時代には使いにくい。
さて、世間の評価はどうあれ、謦咳に接すると惹きこまれてしまう、そんな存在がある。
”金権政治家”と指弾されるつつも、今なお求められるリーダー像”田中角栄”である。
総理になったばかりの田中角栄に政策秘書が、デモをしたりゲバ棒で暴れる学生たちをどう思うかと訊ねた。
田中は「日本の将来を背負う若者たちだ。経験が浅くて、視野はせまいが、真面目に祖国の先行きを考え、心配している。彼ら彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生がひと筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」と語っている。
実はこの秘書とは田中をオヤジと慕う元新聞記者の早坂茂三である。学生時代に共産党に入ってに暴れたことがあり、鬱々としていた。
そんな早坂に田中が声をかけた。「お前が学生時代、共産党だったことは知っている。公安調査庁から書類を取り寄せて目を通した。よくもまあ、アホなことばかりやった。若かったからね。あの頃の若い連中は腹も減っていたし、血の気が多いのは、あらかたあっちへ走った。それは構わない。そのぐらい元気があったほうがいい。ただ、馬鹿とハサミは使いようだ。俺はお前を使いこなすことができるよ、どうだい、一緒にやらないか」と笑った。
また、田中が郵政大臣になった折、後にロッキード裁判で対決する舌鋒鋭い論客・社会党の大出俊がいた。
田中は、当時全逓書記長の大出俊の登用を申し入れた。
すると全逓はOKの返事をしてきたのだが、郵政幹部が、それでは大臣の遊びが過ぎる、労働への不当介入にあたる可能性もある、と断ったという。
大出本人も筋を通してこれを断り、やがて代議士として国会で田中と向き合うことになる。
両者には、さらに後日談がある。大出は最愛の夫人を亡くすことになるが、その通夜の席に、あの田中がひょっこり現れた。
一体、どこで夫人の死を耳にしたか、葬儀に行くと目立って迷惑だろうと、あえて通夜に足を運んだということだった。大出はなんという人かと感激したという。
田中は、対極の存在であっても、自分の側に引き込むたけの説得力と包容力があった。
今時、わざわざ壁をつくって、分断を煽ろうとする政治家とはまったく正反対の政治家だった。
さて、戦後日本の姿は、その栄光と没落という点で、田中角栄という人物に大きく重なる気がする。
石原慎太郎は近年、田中角栄の伝記を「天才」という書名で出しているが、田中角栄がよく語った言葉が「努力なくして天才なし」である。
田中の関わった議員立法の数33に及びその数はいまだ破られていない。
自ら「六法全書」を読破して法案を書き、各委員会では官僚にたよらず 一人で趣旨を説明をした。それこそ、努力の積み重ねの賜物以外の何物でもない。
官僚にとって有能な政治家とは、彼らが汗水たらして作った法案を陽のめにあわせてくれる政治家である。
田中の場合は逆に、官僚を知り尽くして「手足」のように彼らを動かすことによって出来た「議員立法」である。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった時の田中氏の挨拶は次のとうりであった。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」。
個人的な印象をいうと、田中角栄は自分の血肉を政治の中でも実現せんとした特異な政治家であったともいえる。
その原点は故郷・新潟で、その血肉とは雪国特有のものでもあった。
ただ同族意識の強さは同郷に限らず日本人全般にわたる。
マスコミの厳しい攻撃にさらされると「10人も兄弟がいれば一人ぐらいは共産党もいるさ。記者には記者の仕事があるんだ。それでめしをくっているんだから、それでいいよ。日本という国は同族社会さ」という言葉をよく口にした。
田中は、吃音を克服するために生まれた浪花節調で、自らの庶民性をアピールし、人情と弱者へのいたわりに多くの人が魅了された。
田中角栄は、石破茂の父親と朋友であった。その父親が死に当時銀行員だった石破の結婚式に、田中が父親代わりとして出席した。
新婦は 新潟出身で、なんと ロッキード事件での贈賄側・丸紅の社員。
この時の角栄のあいさつは次のとうり。
「皆さん 聞いたら彼女は丸紅っていうじゃないですか」。
「うん 丸紅はいい会社だ。私の事がなければもっといい会社だった」。
ドドッと沸いて、「皆さん 親は新潟っていうじゃないですか」。
「もう 私は 即座に この結婚を認めたのであります」といって会場は 大沸きに沸いた。
雪深い故郷のに新潟に村人が命懸けで掘ったという中山隧道のトンネル。それは、なんと1日3交代で、手掘りで16年かけたものだった。
雪に閉ざされた冬は病人が出ると 村人が背負って山の尾根伝いに4キロもの道のりを運ばねばならなかったという。
中には途中で命を落とす病人もいた。そこで 村人たちはなんとか 隣村まで道を繋ごうと手掘りのトンネルを掘ったのだ。
彼らにとって雪との長い戦いに小さな風穴を開けた瞬間だったが、軽自動車しか通れない。
なんとかなんとかならないかと 田中に現場を見てほしいと頼み込んだ。
田中はジープの助手席に乗って隧道内を見て回った。
雪に閉ざされた苦しみを身に染みて知っている田中は硬い岩を掘り続けた村人たちの必死の思いを自分の目で確かめた。
そして、田中の約束どうり、国道としての改修予算がつけられ完成したのが隧道の脇に造られた中山トンネルである。
田中が地元につくしたことを証する4つの橋がある。
「和田橋」「市中橋」「井角橋」「東栄橋」。今はやりの縦読みで、2番目の文字をとると「田中角栄」になる。いずれも、田中への陳情で生まれた橋だという。
田中が初当選から「日本列島改造論」に至るまでこだわったのは道路の拡張であったが、そこには雪国に育ったルサンチマン(怨念)があったからだ。
それは議員立法で成立させた「道路三法」と、それを実現させるためのガソリン税の目的税化として表れる。
ガソリン税をそのまま道路整備にまわすことができれば、「大蔵省の査定」に関係なく、建設省の自由になる財源ができるからだ。
また田中角栄の特質が、人間へのあくなき興味に基づく人間通であったことがあげられる。
田中は、政治家の情報をまとめた「国会便覧」を隅々まで記憶していたが、そればかりでなく、官僚の世界においても課長以上の官僚に対して個人情報を調べ上げた「リスト」をつくりあげていたという。
生年月日、出身大学、学部から趣味は何か、結婚記念日はいつか、親しい人物、親しい政治家は誰かまで、十数項目にわたっていたとされている。
官僚の世界は入省年次別に構成されたピラミッドであり、その秩序は寸分の狂いもなく作られている。
彼らが一番嫌うのは、位階・序列を無視して、大臣や政治家が自分達の人事に介入することだ。
一時的に成功しても、彼は二度と役人の協力は得られなくなる。
また政治家の経験はほとんどなかったが後藤田正晴を官房副長官に抜擢した。
官僚のツボをよく知る元警察庁長官で、ロッキード事件で総理を辞任した後、田中派の支持で出来た中曽根内閣に官房長官として送りこんだ。
同い年で当選同期ながら出自や経歴の全く異なる田中と中曽根。しかし2人には共通点があった。
共に戦場の最前線で戦争の現実に直面していた。
田中角栄は1939年、19歳の時に陸軍二等兵として満州に渡った。その直後に ノモンハン事件が起き出撃した同僚の古参兵の多くが命を落とした。
その2年後に 病気で除隊となった田中は周囲には ほとんど戦争体験を語っていない。
また国家観のような抽象論もあまり語らなかったが、総理大臣として日中国交正常化を実現させる半年前に、国会で自身の戦争観を初めて語っている。
1982年、田中派の支援を得て、中曽根康弘は総理の座に就く。
中曽根もまた、壮絶な戦争体験をもつ。海軍主計中尉として従軍、ボルネオ島バリクパパンへの移動中に、僚船4隻が撃沈される。
さらにバリクパパンへの上陸間際、オランダとイギリスの巡洋艦、駆逐艦が奇襲、魚雷と砲弾の嵐の中でさらに4隻を失った。
自らの船も炎で包まれ、多くの戦友の死を目の当たりにした。
その中曽根と歩調を合わせるように階段を昇った読売新聞の渡辺恒雄は、ある人物との出会いを記憶している。
1950年代、若き渡辺は共産党の奥多摩にあった「山村工作隊」のアジトに赴いた。
アジトの炭焼き小屋に近づいた渡辺は山村工作隊のメンバー10人ほどに囲まれた。
渡辺を警察のスパイと見なした山村工作隊のメンバーは突然の闖入者を殺害しようとしたという。
そのとき 渡辺を殺そうとするメンバーを制止したのが後に作家となる高史明だった。
渡辺を小屋に招き入れた高。二人の間に時を置かず流れたのは、すべてが瓦解した戦争体験を経た親近感であった。
山村工作隊の潜入取材を記した渡辺のスクープは、社会面のトップを飾った。
社会を分断から防いだのは、戦争という「共通体験」であった。日本ばかりではなく、戦争という共通体験が社会から薄れていっていることは、社会の分断と無関係ではないように思う。
さて日本は1980年代初め、二度の石油ショックを乗り切って、日本は国民1人あたりのGNPでアメリカを抜いて、「ジャパン イズ ナンバーワン」とおだてられ、政府主導でバブルを演出し銀行も証券会社も追随した。
一転、規制でハジケタ1990年代以後は、「失われた10年」が待っていた。
時代は遡るが、首相という頂点に上り詰めた田中角栄が、文春で「金脈」を追求されロッキード裁判で被告になる姿と重なる。
学歴も人脈もない田中が頼ったのは、類まれな人心収攬術、それにまつわるカネだった。政治の世界にホンネを持ち込み過ぎたともいえる。
今太閤・田中角栄に、「戦後日本」の自画像を見ることもできようか。