新約聖書の有名なたとえ話といえば「放蕩息子のたとえ話」というのがある。
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。
”おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください”。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。
「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。そして彼らは祝宴を始めた (ルカの福音書15)。
この「放蕩息子」のたとえ話で個人的に思い浮かべるのは、1953年に公開された溝口健二監督の名作映画「雨月物語」である。
なにしろ、放蕩息子ならぬ"放蕩おやじ"が二人も登場し、いずれも自らの不甲斐なさを悟り、故郷に帰還する話だからだ。
近江の国・琵琶湖北岸の村に暮らす貧農の源十郎は、畑の世話をする傍らで焼物を作り町で売っていた。湖東岸の長浜が賑わっていると聞き、源十郎は妻子ともに、焼物を載せた大八車を引いて長浜へ向かった。
ところが、瀕死の男が乗る船と出会い、妻と子は村へと返すことにする。
また、義弟の藤兵衛は、”侍”になりたいと源十郎に同行し、市で見かけた”侍”に家来にするよう頼み込むが、具足と槍を持って来いとあしらわれる。
源十郎の焼物は飛ぶように売れ、もうけの分け前を手にした藤兵衛は、今度こそ侍になるのだと、恋人を振り切って具足と槍を買って兵の列に紛れる。
恋人は藤兵衛を探すうち兵の集団に捕まり暴行をうけ、去っていった藤兵衛を呪うことになる。
藤兵衛は戦に敗れ切腹した敵大将の首を拾って手柄に見せかけ、馬に乗って家来を連れて村へと凱旋しようとする。
その途中で寄った宿で、遊女に成り下がったかつての恋人に出会う。藤兵衛は自分の非を悟り、翻然と武具を捨て畑仕事に戻る決意をする。
一方、陶工の源十郎は”若狭”という上臈風の女と知り合い、座敷へ上げられ、饗しを受ける。その若狭の妖しさに惹かれ、この家に居つくことになる。
時に、源十郎は街で買い物をするが、帰り道で神官から「死相が浮かんでいる、家族の元へと帰りなさい」と諭される。
若狭はその源十郎を引き止めるが、神官が施した呪文に守られる。そのうち源十郎は倒れ、気を失う。
源十郎が気が付くとあの屋敷は幻のように消え、朽ちかけた廃屋が残るのみあった。
源十郎は意を決したように村へ戻ると、妻は夫を問い正すことも叱責もせずに、甲斐がいしく夫の身の回りの世話をする。
しかし、彼ははまもなく失われたものの大きさを悟る。その妻は亡霊だったからだ。妻は、夫の留守の間、雑兵の手にかかってすでに死んでいたのだ。
実は、この映画は溝口監督自身の発狂した妻へのレクイエムなのだという。
「陶工」演じる森雅之は、淫楽に身をやつしハット我に返った溝口監督自身。
何もいわず何も知らない夫を優しく迎え入れる妻を演じた田中絹代の楚々とした演技が深く印象に残る作品であった。
10年以上も前に「エリザベス・タウン」というアメリカ映画を見たことがある。
「すべてを失った僕を、待っている場所があった」という印象的なサブ・タイトルだった。
新進気鋭のシュ-ズ・デザイナ-が、会社で大きな損失をだす失敗をして会社を首になり、恋人にも別れを告げられる。死ぬことさえも考えていたところ父の訃報が届く。
自分が生まれ育った自然豊かなケンタッキーの山懐にあるエリザベスタウンに帰郷したところ、思わぬ人々の暖かさにふれる。
エリザベス・タウンの人々は、誰もがその男を癒そうなど思っていないし、励まそうとも思っていない。家族や人々は、時にふざけたり、乱暴に若者と接するのだが、そこには微塵の邪心もない。
帰省の途中で飛行機の中、フライトアテンダントの新たな恋人との出会いなど、ほとんどありえない話もあるのだが、失意の男が、ふるさとに帰って体験する"癒し"がよく描かれていた。
さて、日本の明治期、過剰人口にあった地方農村青年が東京に出て行くという新しい人々の移動が起きていた。
地方からでて大志を抱いて東京にでたものの多くは夢破れたり、煩悶の中に過ごしていくものも多くいた。
2017年7月、北部九州を襲った集中豪雨で、新聞に「朝倉市三奈木」という地名を目にして、ここを故郷とするひとりの作家によって「理想郷」のように描かれた地であることを思い浮かべた。
それは、明治時代に「帰省」という作品を書いた宮崎湖処子である。
「帰省」が当時の大学生で読まぬものはいないといわれたベストセラーとなったのは、この作品が、当時の上京し挫折した若者の気持ちを代弁していたからだ。
当時の若者にとって田舎から東京にでていくということは、今日とちがって「ひと旗あげねば、故郷には帰れぬ」という相当な覚悟をもって出立したからだ。
したがって、東京に出て行った青年達は、故郷に帰ることを夢見る一方で、何もなくして帰郷するのは自らの敗北を受け入れることを意味していた。
1863年、宮崎湖処子は、朝倉三奈木の富農に生まれ、丁丑義塾に入り漢籍を学んだ。
そして、開設されたばかりの県立福岡中学校に入学し、寄宿舎生活を送った。
当時、是非とも政治家、但は代議士、但はギゾーのような政治学者とならねばならぬと思い込んだと書いているように、青雲の志を抱いて上京する。
上京後、東京専門学校政治科(現早稲田大学)や帝国大学の専科に在学するものの、同じ野心をもつ地方青年らで溢れ、志の転換を余儀なくされる。
精神的経済的危機に陥った宮崎はその救いを求めて現在の千葉県流山市の豪農宅に身を寄せる。
家庭教師をしながら、都会生活に疲れた心から一時的に解放される体験をする。
そこで宮崎は、エリザベス・タウンの青年と同じく、父の死去を知るが、故郷に帰るほどの実績もなく帰郷を留まる。
父の一周忌に、兄の強い催促でようやく帰省した。
帰省にあたって、政治家になることを夢みて上京した理想の自分とは程遠い自分を、家族や親戚知人はどのように受け止めてくれるかという不安でいっぱいであった。
しかし実際は、人情と平和のすめる理想郷がそこに存在したのである。
さらに幼馴染の女性の優しいもてなしをうけ、その女性こそが後の"宮崎夫人"ともなる人であった。
この6年ぶりの帰郷は、宮崎の心に故郷礼讃を育くみ、その体験が「帰省」を書く契機となったのである。
実は、朝倉出身の宮崎湖処子という作家を知ったのは、アメリカの作家ワシントン・アーヴィングについて調べたところ、その評論に「宮崎湖処子」の名があったためである。
ワシントン・ア-ヴィングは、19世紀前半のアメリカ合衆国の作家で「スケッチブック」という本を書いている。
そのなかの短編「リップバン・ウインクル」は、故郷喪失の物語といってよい。
リップバン・ウインクルという男が、山へ狩りに行き小人に会い酒をご馳走になり夢心地となり、どんな狩りでも許されるという素晴らしい夢を見た。
ところがその夢がクライマックスに達した頃に、惜しいことに目が覚めてしまった。
辺りを見回すと小人はおらず、森の様子も変わっていた。
ウインクルは慌てて妻に会うために村へ戻ったが、妻はとっくの昔に死んで、村の様子も全然変わってしまっていた。
つまりウインクルが一眠りしてる間に何十年もの歳月が経っており、すべてが変わってしまっていたのだ。アメリカ版「浦島太郎物語」、つまりウインクルは、故郷喪失者となったのである。
このアーウイングと宮崎湖処子は、「故郷」というテーマで重なるが、宮崎はアーヴィングが実際に体験したといわれる「悲恋実話」を紹介している。
アーヴィングは恩師の遺児である踊り子を青年時代にあずかり、同じ屋根の下で生活するうちに、2人は愛しあうようになった。
アーヴィング家は格式ばった家柄であり、妻が踊り子では困ると思い恋人に仕事をやめさせた。
ある日、踊り子の友人から連絡が入り、母親が急病で倒れたために、急遽"代役"の申し出があった。
ところが、アーヴィングは舞台をやめたはずの許嫁が再び踊っている姿を発見し、激しく責めたため許嫁は、弁解の言葉も残さずに家出する。
アーヴィングは深まりゆく愛情と自責の念に苦しみながら許嫁を探すが、行方不明のまま10年の歳月が流れていった。
アーヴィングはスペインに公使として赴任していた時に、腸チフスにかかり尼院から特志看護婦が訪れた。
その献身的努力でアーヴィングは九死に一生を得るが、この女性こそあの「踊り子」だったことが後に判明することになる。
彼女は名も告げずに立ち去り、アーヴィングは退院後、やっとその女性を探し出すと、彼女は看病中に腸チフスに感染し、アーヴィングの看病もむなしく亡くなった。
アービングは生涯、独身を守り続けたという。
この話、どこまでが本当なのかと思わないでもないが、多くの人々がこの悲恋の実話に涙を流した。
社会主義者の安部磯雄をはじめ、黒岩涙香、徳富蘇峰、そして永井荷風にいたっては「歓楽」という作品に使用した。
そしてこの悲恋物語は、どこか横溝健二監督の映画「雨月物語」や「山椒大夫」とも”情感的”に通じるものがある。
それを一言でいえば、再会で知る”運命の酷薄”ということである。
「山椒大夫」では人さらいの罠にかかり豪族山椒大夫の許に売られて、母親と離れ離れとなった厨子王と安寿の兄妹を描く。
奴隷となった二人は過酷な労働を課せられながらも、母親との再会を望む日々を送る。
それから十年、大きくなった二人は依然として奴隷の境遇のままであったが、ある日、新しく荘園にやってきた奴隷が口ずさむ歌「安寿や~、厨子王や~」に驚く。なんと自分たちの名前が呼ばれているのを耳にする。その由来を奴隷に聞き母親の生存場所を確認するや、二人は遂に脱走を決意する。
妹は途中で領主につかまり命を失うが、兄は長い旅の末に浜辺の廃屋に横たわる自分の母親をみつける。
そして、母親に近づくが母親は息子だと気がつかない。母親は、視力を失っていたからだ。
そして、弟は「あの歌」を口づさむ。
「山椒大夫」にもみるとおり、日本人の故郷は母親のイメージと重なるようだ。
TVで、いわゆる飯場といわれる地区で働く人々が故郷への思いを口にしていた。
彼は、家族を育てるために、出稼ぎに出る。東京オリンピックなどの末端労働力として、彼らは高度成長という時代を文字通り、その腕一本で築き上げていく。
故郷の家族を支えるために故郷を出たのに故郷に帰ることができぬまま時間が過ぎ、はたからみると故郷を捨てたように見える。
少年の頃、山や川で遊んだ日々が一番幸せな時だったと振り返る一方で、もう自分はそこには絶対に帰れないと語る。
故郷に帰ることは、自分の「故郷」がもはや存在しないことを確認に行くようなものだからだ。
人間にとって「故郷」はほぼ失われるものだともいえる。実際に生まれた土地、生活していた土地であっても、年月が経てば、親は死に、係累は消え、家はなくなり、地縁も消える。
それでも人は故郷を思うのは、故郷がかならずしも地理的地名によって特定されるものではないからにちがいない。
その意味で、故郷を思う気持ちは、”母親”を思う気持ちと似ている。
つまり”帰るべき場所”であるかのように、いつまでも心の風景におさめているのが”故郷”というものなのかもしれない。
ところで、聖書の「放蕩息子のたとえ」は、子をあたたかく迎え入れたのは母親ではなく、”父親”である。母親は一切登場せず、一体何をしているのかと思うくらいだ。
この違いを、西洋と日本の文化比較という視点からみるのも面白いが、「放蕩息子のたとえ」は、”神と人との関係”を暗示している。
実は、「放蕩息子のたとえ話」には続きがあって、兄息子は帰還した弟息子のことで父親に次のような不満をもらす。
「わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに、友達と楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それなのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。
この兄息子は、律法を守ることにより、神に正しく仕えていると自己義認するパリサイ人を表している。
兄息子に対して”父”は次のように語っている。
「子よ、あなたはわたしと、いつも一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえのことではないか」と。
ところで、ユダヤ教のエリートから奇跡的体験によりキリスト者となったパウロは、それまでの自分の姿を次のように表している。
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んだものであって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩いていたのである。また、私たちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲によって日を過ごし、肉とその思いの欲するままを行い、生まれながらの怒りの子であった」(エペソ人への手紙2章)と書いている。
つまり、あの律法に忠実なパウロでさえも、自らを”怒りの子"であったと表現している。
もっと大きくいえば、「地球」という自然を破壊し資源を浪費する、いわば”身代を喰い潰す”人類もまた”放蕩息子”のようなものなのかもしれない。
問題は、”父"のいた地点に回帰できるかである。