聖書の言葉から(汝の名はペテロなり)

旧約聖書では、神の名は「ヤーゥエ」(エホバ)で、その名は頻出する。
しかし、新約聖書ではこの神の名は、預言の引用を除いて登場しない。
イエス・キリスト自身の口から、「ヤハウェ」という言葉は発されることなく、イエスは「主なる神」、または「天の父」という呼び方をしている。
これはとても不思議なことなのだが、それを指摘する考察にさえ出会うこともない。
実は、新約聖書では、「イエス」の名が「ヤハウェ」と入れ替わったかのようにさえ見える。
例えば、「キリストは苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえる。そしてその名(イエス)によって 罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべつたえられる」(ルカ24:47)。
「イエス・キリストの名によって、バプテスマをうけなさい。そうすれば、あながたは聖霊の賜物をうけるであろう」( 使徒行伝2:38)。
「使徒たちは御名(イエス)のために恥を加えられることに足るものとされたことを喜びながら議会からでてきた」(使徒行伝5:40)。
「わたしたちを救いうる名(イエス)は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」( 使途行伝4:12)。
以上のように、ヤーウェの名を押しのけるように、イエスの名が全面にでてきている。
イエス自身も弟子に「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」(ヨハネ14章)と語っているほどなのだ。

「名前」というものは人が考える以上に深遠なもので、用い方によっては人を殺す。
古代の日本人は軽々しくは自分の名前を教えなかった。名前を知られれば、その名をつかって呪いの術の対象になってしまう。
名前そのものが最高度の個人情報であったのだ。
日本史では、「呪詛」の疑いだけで、権力中枢から追放された人も多くいる。
そこで「諱(いみな)」というものが作られた。
ところで日本では、生前の業績に応じて諡(おくりな)が与えられた。それも、中国にならった漢風諡号と、和風諡号があった。
例えば、「記紀神話」で、日本の初代といわれる神武天皇の名前は「かむやまといわれびこ」であるが、漢風諡号は「神武」 和風諡号は 「神日本磐余彦」である。
旧約聖書にも様々な名が出てくるが、面白く感じるのは、人名そのものの中に、その人の歩みがまるで「預言」のように含まれているからである。
つまり、日本の諡号が過去指向なら、イスラエルの人名は未来志向なのだ。
その典型はユダヤの12部族の長ヤコブに与えられた名前「イスラエル」である。
もともと運が良いとは思えないヤコブは、神の祝福が欲しいあまり、或るとき神の使者に「なんとしても自分に祝福をください」としがみついて格闘する。
そこから、神はヤコブに「神と争う」という意味の名前を与え、それが「イスラエル」という名である。
そして、ヤコブはその後「ヤコブの産業」と知られるほどの経済的な祝福を手にする。
しかし、ヤコブの子孫「イスラエルの12部族」は、何度も偶像崇拝など神と離反するなどして神と争って、そのうち10部族は歴史の霧のかなたに消えている。
生まれながらにして、その使命が名前に預言されたのが「モーセ」である。
当時、エジプトの奴隷として働いていたイスラエルは人口が増えて、エジプト王パロより赤子の殺害命令が下る。
そこであるカップルが、殺される運命にあった赤ん坊を葦籠にいれてナイル川に流す。
エジプトの女官より水から引き出されたので、「引き出す」を意味する名前がモーセ。
モーセがイスラエルの民をエジプトから引き出す、すなわち「出エジプト」の指導者となるので、生まれた時点でその使命が預言されている。
また面白いのは、ナバル「愚か者」という名のついた人物がいたことである。実際に状況が読めない愚か者だったが、なぜかビジネスだけは成功者だった。
つい、最近のトランプ大統領を思い起こしてしまう。
ナバルは、当時荒野にいたダビデから牧場を守ってもらっているのに、ダビデを「主人(サウル)から逃げてきた奴隷だ」となじった。
ダビデは怒りに燃えて兵をだすが、状況を知ったナバルの妻アビガイルが平身低頭のとりなしをして事なきをえている。
アビガイルは夫ナバルのことを、「名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」と言っている。
そんな愚か者の言葉をまともに取って戦さを起こすなど、これからのダビデの将来にかえって汚点になるのではないかと、ダビデの名誉心に訴えたのだ。
しかしナバルは後に、ダビデが出撃しようとしていた話を聞いて頓死し、さらには賢妻アビガイルはダビデの妻に収まっている。
聖書には、イエスが直接名前をよぶ感動的シーンがある。
イエスがラザロを復活させる場面で、「ラザロよ起きよ」という場面で西洋絵画の題材にもなっている。
それ以外にも、ザアカイという人物への呼びかけ(ルカ19章)も印象深い。
ザアカイは取税人の頭であった。背はひくいが金持ちであった、とても愛されそうも無い酷薄な人間のイメ-ジが浮かぶ。
そして彼は、税金取りだからばかりでなく、その仕事が支配者たるローマの手先(イヌ)として働いているために、皆に忌み嫌われていたのだ。
或る日ザアカイは、今人々の話題になっているイエスという男が自分の村に通りかかるという噂をききつけ、一目みようと木にのぼって待っていたのだ。
騒ぎたつ好奇の群衆の中にあって、イエスが突然「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけたのだ。
ザアカイはきっと、何で自分の名を知っているのか、しかも逢ったこともない自分の家に宿泊させてくれなど、一体どうしてと思ったに違いない。
自分などより善良でまともそうな人間はこの多くの群集の中でたくさんいるし、金持ちもいる。よりによって「なぜ自分に」という気持ちもあったのだろうが、とにかくザアカイはその「とてつもなく不思議なコーリング」に素直に応じている。
世の荒波にすっかり心も凍ったザアカイにとって、喜びの体験であったであろう。
それは、ザアカイがその呼びかけに対して「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という「4倍返し」の言葉に表れている。
その言葉に、イエスは、「今日、救いがこの家に来た」と語っている。

聖書には、神によってか、自らの意思によってか、名前が変わるケースがある。その第1号がアブラハム。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい」(創世記17章)とある。
「信仰の父」と呼ばれ多くの尊敬を集めるアブラムは、「諸国民の父」へとその名前が変わる。
「アブラム」の「アブ」は父親を意味し、「ラーム」は高めるという意味。「アブラハム」は、「多くの」という意味を持つ形容詞「ラーハーム」が合わせられた名前なのである。
またパウロも、もともとはサウロという名前であったが、自らパウロと称するようになったようだ。
厳格な律法学者としてキリスト者を捕縛しようとダマスカスに向かう途中に、突然に光をうけ「サウロよサウロ、なぜ私を迫害するのか」という呼びかけられている。
以後、回心してキリストの使徒として、地中海を中心に異邦人伝道を行う。
パウロはコリント教会に宛てた手紙の中で、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、 使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、 使徒と呼ばれる値打ちのない者です」 (コリント人第一15章)と書いている。
パウロが「パウロ(パウルス)=小さい」 と名乗ったのは、自分はイスラエルの初代の王「サウル」の名を 名乗れるような存在ではなく、ただ神の御恵み によって生かされている「小さな人間」に過ぎないという自覚が与えられたからではないだろうか。
だが、聖書の中で、もっとも奥の深い「コーリング」(呼びかけ)をうけたのは、ペテロではないだろうか。
イエスがガリラヤ湖をめぐっていた時、シモンとアンデレという兄弟が働く姿を見て「網をすてて私に従ってきなさい」と声をかけた。(マタイ4章)
イエスはさっそくシモンとよばれた漁師に、「汝の名はペテロなり」と「ペテロ」の名を授けたのである。
ペテロは「岩」を意味する言葉だが、その意味するところは、ペテロ(シモン)自身にもわからなかったであろう。
しかしイエスはペテロの未来がすべて透けて見えていたように思える。
それは、イエスが十字架の直前に「あなたは、鶏がなく前に私を三度否定する」であろうと予言したことや、復活したイエスはペテロに対して、「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21)とその殉教までも仄めかせていることで推測できる。
ペテロをみると、神の前にすべてを裸にされていく人間という感じがする。
例えば、イエスがガリラヤ湖の上を歩くシーンが、それである。
「ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、”しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない”と言われた。
するとペテロが答えて言った、”主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください”
イエスは、”来なさい”と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、”主よ、お助けください”と言った。 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、"信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか"。
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった」(マタイ14章)。
すっかり、青ざめてイエスに抱き上げられるシーンを思い浮かべるが、それ以上にペテロがイエスによって裸にされてしまった場面がある。
それは一番弟子という自負をもちながら、「あなたは鶏がなく前に三度私を知らないであろう」と預言され、その通りにイエスを3度も否定をしたことである。
その粉々になった”裸のこころ”たるや、想像に難くない。
しかし「悔悟する」ことと自分を改めることとはまた別の問題で、人間はそうやすやすと自らの力で自分を改められるものではない。
しかしイエスの十字架後のペテロの激変はすさまじく、「その時、ペテロが立ち上がり人々を前に説教を行い3千人の人々が洗礼を受けた」(使徒行伝3章)というから、その力強さには驚くばかりである。
イエスの復活との出会い、そしてイエスの死後50日後のペンテコステ(聖霊降臨)により、初代教会が成立したことと、結びつけて理解する他はない。
さて、ペテロはパウロと並んで、ローマ伝道の過程で殉教に至るが、ローマ・カソリック教会においては、ペテロの墓の上にたつセント・ピーター寺院が総本山となっている。
そしてカソリック教会の正統性の根拠は、キリストの言葉、「あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16章)という言葉に拠る。
しかし教会とは「建物としての教会」ではない。
教会とはパウロがいうキリストの体をさす「共同体としての教会」(エクレシア)で、ペテロの墓の上に教会が建っているから正統というのではあまりにも皮相な解釈である。
それよりも、ペテロを含むイエスの使徒達が立てたエルサレムの「初代教会」に基づいた共同体こそが正当な教会で、それこそがペテロの岩の上に立つということではなかろうか。
さて、旧約聖書にモーセが神に出エジプトを命ぜられた時に、モーセは神に「あなたの名前をなんと民衆に伝えるか」と聞いたことがある。神は「私はあってあるものである」と答えた。
この「在る」というのが神の名前「ヤーウェ」の由来なのだが、この答え方は婉曲な表現ともいえる。
つまり「ヤーウェ」は「偉大なる者」程度の自己紹介なのであって、固有の名前ではなく普通名詞なのである。では、神の本当の名前つまり神をさす固有名詞とは何か。
それは、洗礼を何の名前で行うかという、決定的に重要な問題である。
実は、イエスの公生涯において「洗礼」はおこなわれていない。そのことが、洗礼の本質を表してる。
では、洗礼者ヨハネがイエスの登場に先だって、ヨルダン川で多くの民衆に洗礼を施したことがあるが(マタイ3章)、あれは洗礼ではないのかという疑問が起きるかもしれない。
かたちは洗礼でも、イエスの十字架の後でなければ、「洗礼」は罪の贖いについて何らの効力も生じようもないのである。
ヨハネの洗礼は、イエスが「キリスト」として自らを公やけにする頃のことで、ヨハネによる洗礼はあくまでも「悔い改め」のための洗礼であることをヨハネは断っている。
「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(マタイ3章)。
すなわち、ヨハネの洗礼は、罪の赦しという「救い」の洗礼ではなく、いわば「回心の表明」にすぎない。
実はイエスもヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
するとヨハネは、それを思いとどまらせようとして「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と断った。
しかし、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と応えられたため、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
ここで、イエスがヨハネから洗礼を受けたのは、イエスが徹底的に人と同じ立場に自らを置こうという姿勢を明らかにされたからではなかろうか。
その直後にイエスは、荒野でサタンの試みにあう。
聖書には、洗礼は「父と子と聖霊の名によって施しなさい」(マタイ28:18)とある一方で、洗礼は「イエス・キリストの名によって施しなさい」(使途行伝2:38)ともある。
まず「父と子と聖霊の名」は単数であることが重要だが、この二つの聖句の違いを解決する解釈はただひとつ。「父と子と聖霊の名」=「イエス」ということ。
前述のヨハネの洗礼が「イエスの名」で行ったものではないという点で、後にペテロやパウロなど使徒達がほどこした洗礼とは、決定的に意味合いが違う。
それでは「ヤーウェ」の名はどこに消えたのか。
驚くべきことに、「イエス」とはヘブル語の(JAHCSHEA)(ヨシュア)のギリシア語であって、「ヤーゥエ(エホバ)救い」という意味なのである。