聖書の人物(石に打たれし女)

1993年 ワールドサッカーアジア予選で、日本がワールドカップ出場を逃した試合は、「ドーハの悲劇」といわれた。
イラクが「引き分け」に持ち込めば、日本は出場できない。日本が試合で頑張るのは当然なのだが、出場の可能性のないイラクがなんでそんなに頑張るのか。
後で知った話によれば、イラク選手は、負けたら「鞭打ち」まっていたという。
今時、そんな罰があるのかと驚いていたら、その後のニュースで、イランや北部アフリカなどのイスラム教国では未だに「石打ちの刑」が行われているという話を聞いた。
半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げ死に至らしめる。
残酷なのは、罪人が即死しないよう、握り拳から頭ほどの大きさの石を投げつけるという。
こんなこといまだにやっているのかと驚きあきれたが、イエスの時代にはそれが普通に行われていたのである。
聖書は、その出来事を次のように伝えている。
律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
「ヨハネの福音書8章」が伝えるこの出来事の顛末だが、罪なき者はいるかと問われ、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行ったというのも、含蓄のある場面ではある。
イエスの「あなたがたの中で罪のないものが 石をなげつけよ」という言葉には、それだけの権威があったに違いない。なにしろ、人々はそこから一人残らず立ち去ったのだから。
しかしそれ以上に気になるのは、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」という箇所である。
パリサイ人や律法学者が問い続けている真ん中で、身をかがめて地面に何かを書くことを二度まで行っているのだから、全体の文脈の中で「地面に文字を書く」ということがいかに重要なのかがわかる。
それでは、イエスは、地面に何を書いたのか。そしてそのことで、人々に何を伝えようとしたのか。
新約聖書を旧約聖書をつき合わせてみると、「謎」が氷解することがある。
実は、イエスが”指”で地面にものを書くということに対応する箇所が旧約聖書にある。
、 それは他でもない、神が石の板に刻んだ十戒をモーセに与える箇所である。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、”神の指”で書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31)とある。
「十戒」のなかの第七戒は「汝 姦淫するなかれ」であるが、イエスがここで地面に書かれた文字が、モーセの「十戒」であるならば、「地面に文字を書く」という仕草は、この戒律を与えたものこそがイエスであること。さらにはイエスこそが”神”そのものであることを示すサインなのである。

現代日本では”石打の刑”は存在しないが、マスコミの批判にさらされるなど石の礫(つぶて)を浴びるなんてなことはよくあることだ。
ましてSNSの時代、韓国では人気の芸能人が批判にさらされて命を断つケースが目につく。
かつてジョンレノンの妻オノヨーコは、ビートルズ解散の原因をつくったといった噂で、「世界一たたかれた女」とよばれたことがある。
近年では、「スタッブ細胞はあります」と宣言した小保方晴子さんなどが思い浮かぶが、「スタッブ細胞事件」によく似た事件が明治時代に起きている。
その女性とは、鈴木光司原作の「リング」の山村貞子の母親のモデルとなった女性である。
さて、山川健次郎は、NHK「八重の桜」に登場した会津藩士・山川大蔵の弟である。
白虎隊に属し賊軍となった。 そこで官の世界で頭角をあらわすのは無理で、学問(物理)の世界で身を立てようと努力し、最終的には東京帝国大学総長になった人物である。
山川は、東京帝大総長を三度、京都帝大学長、九州帝大学長と三つの帝国大学の総長と空前絶後の経歴を誇っている。
その間に、私立専門学校である明治専門学校(現・九州工業大学)校長の経験もある。
明治専門学校は、北九州の炭鉱王・安川敬一郎が建てた学校だが、そこに「三顧の礼」で迎えたのである。
というわけで山川は会津生まれでありながら、九州とも縁のある人物だった。
そして山川が九州と関わりをもったもうひとつの出来事が、熊本の「千里眼」をもつといわれた女性・御船千鶴子との関わりであった。
御船千鶴子は、日露戦争時に第六師団が、撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかった事を透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱(熊本県荒尾市)を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどして、確かな「実績」をもっていた。
現代では、「超能力」は軍事目的や犯罪捜査にも研究され実際に使われてもいるのだが、当時の日本ではまともな科学の対象とはみなされていなかった。
ところが、明治期には、意外にも「超能力」を科学の俎上に乗せようという動きがあったのである。
近年の「STAP細胞問題」との近似性を感じるのは、それが存在するのかしないのかという問題につき、日本のハイレベルの学者を巻き込んだ論争となった点である。
さらには、マスコミによる持ち上げとブーム、それから一転してのバッシングへと転ずる経過や、そして真偽について第三者の立会いのもとで公開実験が求められていることなどである。
熊本に住む御船千鶴子(24歳)は、密封した封筒に名詞を入れて渡すと、それらを上から手でさすったり、封筒を額にあててしばらく思念をこらしたりするうちに、その内容をあてるといわれた。
そのうちに病気の診断や治療までするようになり、地元ではかなり評判になっていた。
22歳のとき、陸軍中佐の男性と結婚する。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしてしまう。
このことが原因で、結婚からほどなく離婚することになり、実家に戻っている。
さて、彼女の能力に強い関心を寄せたのが、京都帝国大学の今村新吉博士と東京帝国大学の福来友吉博士であった。
というのも、福来の教え子であった熊本工業学校の男性教師が、御船千鶴子が「千里眼」と言われているという話を聞いて簡単な実験を行ない、その結果を福来に報告していたのである。
当初、福来は教え子の研究成果を気にも留めなかったが、旧制中学済々黌校長がレベルの高い実験を勧めたため、自らも実験してみようということになった。
今村博士と福来博士はそえぞれ何度か熊本を訪れ、何度も彼女の能力を試した結果、透視能力は疑い得ないという判断をして、彼女を東京によび公開実験を行うことになった。
多くの学者が立会い、その中には東大を退官してまもない山川健次郎もいたのである。
実は山川は、エール大学留学中に学生仲間で試したところ、疑いもなく透視能力があると認められた出来事に出会っており、この公開実験をけしてうさんくさいものとみてはおらず、真摯にその実験方法につき設計を行ったのである。
山川は提案した実験方法は次のようなものであった。
名刺一枚に法律書からランダムに抜いた「三文字」を記したものを20枚を作る。これをそれぞれ鉛管にいれ、それをハンマーで平たく打ちつぶした上、両端をハンダで密封する。
この中からどれでも一つ選んで透視してみよというわけだ。これだけ手が込んだことをしたのは、X線や放射線による透視ができないようにしたのである。もちろん盗み見は不可能である。
御船はこれをもって一室に屏風をたてまわしてその中に正座した。しばらくすると屏風の中から「判りました」という。そして一同が御船が透視した文字を見ると、「盗丸射」と書いてある。直ちに透覚物を取ってその端をノコギリで切り開き、中を開けると確かに「盗丸射」と書いてある。
みなが驚きの声を上げると、しばらくして山川が不思議だと言いはじめた。
自分が書いて透覚物にいれた文字の中には、「盗射丸」という文字はなかったハズだという。 覚えのためにメモしていた紙片を取り出してみると、「盗射丸」はおろかそれに似た文字さえない。
これは福来助教授があらかじめ山川から実験方法を聞き、練習のために同形のものを渡したものが、なぜか混入していたのだという。
つまり「盗射丸」は福来が書いたものであったのだ。
これではダメだと山川が書いたもので改めて実験したが、その時は一枚も成功できなかったのである。
さらに日をあらためて西洋封筒に任意のも文字を書いたものをいれたものを渡すと、御船は精神集中のために別室にこもり、今度は別の博士が書いた文字「道徳天」を当てることができた。
しかし山川は、これだけで「透視能力」がアリナシを断定することはできないとの判断をだした。
この経過は、「STAP細胞」事件で、何者かが「万能細胞」を混入させたことや、小保方さんが公開実験で一度もSTAP細胞を作ることができずに、その存在が否定された経過と瓜二つである。
さて、そんな中、御船はもうひとりの超能力者といわれた香川の長尾郁子の「念写」を非難する新聞記事を見て、失望と怒りを感じたのか、「どこまで研究しても駄目です」と吐き捨てるようにいった。
山川健次郎はあらためて熊本で実験しようと準備していたが、御船千鶴子は重クロム酸カリで服毒自殺を図り、24歳の若さで亡くなった。
また福来博士は、御船千鶴子・長尾郁子など、彼が採りあげた人物以上にイカサマ師、偽科学者などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職した。
この「千里眼事件」がきっかけで、日本では「超能力」が科学の対象から遠ざけられるようになった。

名前の表し様ひとつで、国家を担うことにもなる。
例えば、靖国神社に参拝する時に、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳することと、ただ単に「安倍晋三」と記帳することとは、雲泥の差がある。
驚くべきことは、ヨーロッパに広まったキリスト教のもっとも根本的な問題は、”何による救い”かを明言できないでいる。言い換えると、自分の「救い」の根拠がわからないのである。
ヨーロッパにおけるキリスト教の歴史の中で最も重要な会議は、392年ニケ-ア公会議である。
この会議で、「正統な」キリスト教が決まった。
いわゆる「三位一体」の神、つまり神は父と子と聖霊三つの位格をもつというアタナシス派の考え方が、イエスを一人の人間とするアリウス派の考え方をおさえて、キリスト教の正統と認められたのである。
ただ「三位一体」ならば、神の名は「父エホバ」なのか「神の御子イエス」なのか、あるいは”聖霊”に呼び名があるのだろうか?
そもそも、信者は何に対して祈ればいいのだろうか。天の父エホバか、子なるイエス・キリストか、カトリックはマリアさえ信仰の対象としている。これではまるで多神教である。
また、この曖昧さから導かれる疑問は、「洗礼」を何の"名前(権威)"で施すか、という問題である。
イエスは、十字架と復活の後に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている」(マタイ28)と語っている。
イエスの名前の”権威”を物語る出来事が「使徒行伝3章」にある。
ペテロとヨハネの元に、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。
この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日宮の門に置かれていた。
彼は、ペテロとヨハネとが宮にはいって行こうとしているのを見て施しをこうた。ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人”イエス・キリスト”の名によって歩きなさい」。
こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。
そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
さて、「神の名」につき、改めて旧約聖書をみてみよう。
モーセが神に出エジプトを命ぜられた時に、モーセは神に「あなたの名前をなんと民衆に伝えるか」と聞いたことがある。
すると神は「私はあってあるもの」と答えた。この「在る」というのが神の名前「エホバ」の由来なのだが、この名前はあくまでも暫定的な答でしかない。
つまり「エホバ」は「偉大なる者」ぐらいの自己表明であって、けして固有の名前ではなく普通名詞なのである。
例えて言うと、ローマの皇帝が、本名オクタウィアヌスでなく"アウグストゥス(尊厳者)"を名乗ったくらいのものなのである。
もっと明快にいうと、神はモーセに名を問われた時、その固有の名を名のらなかったのだ。
新訳聖書には、洗礼は「父と子と聖霊の”名”によって施しなさい」(マタイ28:18)とある。
ちなみに、この”名”は、英語の聖書でみてわかるとうり、”単数”として表現されている。
また別の箇所では、同じ洗礼を「イエス・キリストの名によって施しなさい」(使途行伝2:38)とある。
この二つの聖句の”整合性”を確保する方法はただひとつ。
「父と子と聖霊の名」(単数)=「イエス」ということである。
ギリシア哲学たる"三位一体"が「父なる神、子なる神、聖霊なる神がひとつ」というのならば、神の名は"イエス"というのが聖書的であるが、イエスの名は”神の子の名”としか位置づけられていない。
実は、”イエス”とはヘブル語の「(JAHCSHEA)(ヨシュア)」のギリシア語訳であって「エホバ救い」という意味も含んでいるのだ。
実際、エルサレムを中心とした初代教会において、「イエスの名」をもって”全身洗礼”が行われていたのである。
現代の多くの教会は、ギリシア哲学が邪魔して、「父と子と聖霊の名」という"位格"のみを宣言して洗礼を行っている。
それでは、”名前のない印”を押しているようなもので、その実効性はどれほどのものだろうか。