「博多」という町の由来は、広く多く様々な物産が集まるところに由来するという。つまり、遣唐使の時代から中国や朝鮮との交流があった町。
鑑真和尚の上陸地点として有名な鹿児島県・薩摩半島坊津(ぼうのつ)は、遣唐使船の寄港地だが、「博多」「唐人」「平尾」といった福岡市と同じ地名がある。
というわけで、古代の博多周辺は、坊津と同じように"風の動き"で人の出入りが起きる街だった。
例えば、博多のど真ん中にあたる祇園には、空海が唐から帰国後、密教が広く長く伝わる様に建てた東長寺がある。
また、博多駅から吉塚へと向かう間には閑静な住宅街の中に、東光院がひっそりと存在するが、この東光院は最澄が遣唐使船で帰国し、航海安全を感謝して持ちかえった仏像を保持するために建てた寺で、「東光町」の興りである。
この博多にあって、跡取りのシバリがない"次男坊"の活躍が著しい。
この東光院辺りに「外尾質店」という看板を多く見かける。
この外尾家こそは、TVで「コーヒー・ネスカフェ」のコマーシャル「違いがわかる男」に登場したこともある外尾悦郎の実家。悦郎はその次男である。
外尾悦郎は、1953年生まれ、 福岡高校から京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業。
1978年石工になるべく25歳で日本を飛び出し、バルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、「サグラダ・ファミリア教会」の彫刻に携わる。
外尾は、ガウディの遺志を受け継ぎ、「生誕のファサード」と向かい合う。
ファザードとは、建築物正面のデザインのことだが、丁寧で粘り強く創造性に溢れた仕事ぶりが評価され、現在は、「主任彫刻家」を務めている。
そして2000年に完成したサクラダファミリアの「生誕の門」は、世界遺産に登録された。
外尾は、大学の時の一人の先生と出会う。元特攻隊員で、戦争で死ぬはずだったという先生は、「変わらぬもの」を求めて石にたどり着いたという話を聞き、石への興味が始まったという。
サグラダファミリアに来たのも、石を掘りたかったからだが、まずはガウディを知らなければならないと勉強をはじめた。
周囲は、石を掘ることに過去は関係ないと思いがちだが、外尾はひたすらガウディについて勉強した。
ところが、学べば学ぶほど、ガウディと自分の間には深い溝があると感じた。
或る時、ガウディは自分など見ていなかったし、自分もガウディを見ることをやめようと決意した。
それより、ガウディが見ている未来と同じ方向を見ることにしたら、自分がガウディの中に入り、ガウディが自分のの中に入ってきたと感じた。
つまり自然と、ガウディが「何を」作りたいかが分かるようになったという。
外尾が最初に取り組んだのは、「愛徳の門」に設置される扉で、この二つの扉はサグラダ・ファミリアの礎となったマリアとヨセフに捧げられている。
外尾が最後に取り組んだのは、「信仰の門」である。 棘のない幾千ものバラがこの門を彩っている。
ガウディの生前に建設されの「生誕のファサード」は、その門の到着を待っており、その制作者を選ぶコンクールで外尾悦郎氏が優勝したのが始まり。
このファサードが完成したのは、2015年のクリスマスの頃であった。
外尾は、1年ごとに更新されていく契約で、なんと35年もの間、勝ち残れている。
実際、その作品がこれほどまでに美しいものになると誰が想像することができたであろうか。
そればかりか、その門は、設置された最初の日であったにも拘わらず、まるでずっと昔からそこにあったもののように見える。
近年、イギリスのガーディアン誌やNYタイムスが、福岡は日本におけるリバプールと紹介している。
リバプールといえば、言うまでもなく、ビートルズが生まれた町だが、福岡がなぜリバプールかというと、"明太ロック"と呼ばれるだけに、ライブハウスが多かったり、あるいは居酒屋や、ナイトクラブが密集している地域ということも、関係している。
近くにビーチがあることであったり、幾分、サッカーチームがあることも、考慮されているらしい。
たしかに、福岡には1960年代半ばの頃より、九州のバンドで中央をめざす多くの若者の舞台があった。
現在のソラリアすぐ近くの喫茶店「昭和」で、無名時代のチューリップ・甲斐バンド・武田鉄矢・長渕剛などのミュージシャンが演奏していた。
「照和」は経営者をかえながらも現在も存続している。
西南学院大字の学生を中心に結城されたバンド・チューリップは、第3回全日本ライト・ミュージック・コンテスト(フォーク部門)に出場し、九州代表としてグランプリに進出し3位となる。
この時の第1位は「竹田の子守唄」の赤い鳥(関西・四国地区代表)、第2位は小田和正在籍のジ・オフコース(東北地区代表)という水準の高さ。
何度かメンバーが入れ替わるも財津和男(ボーカル)、姫野達也(キーボード)、安部俊幸(ギター)、上田雅利(ドラムス)、吉田彰(ベース)で本格的に活動を開始する。
1972年に上京し、「魔法の黄色い靴」でメジャーデビュー。翌年に出した3枚目のシングル「心の旅」が5か月かけてレコード売り上げ1位を記録し、一躍有名となる。
この時のボーカルは財津ではなく姫野であった。
ところで、ドラムス上田雅利の実家が博多の名産「西門(さいもん)蒲鉾」である。
解散後も、母校・博多小学校の校歌「奇跡の扉」を作曲して話題となったりした。
西門蒲鉾本店は、1913年創業。現在、東シナ海で取れたイトヨリ鯛の新鮮な素材を獲って、蒲鉾や天ぷらに使用する。
水はこだわりの「麦飯水」で、まるで生き物のような”すり身”の状態を、その道ひと筋の職人が、長年の経験で培った判断で水を加える。
このタイミングに職人熟練の技を必要とするのだそう。
上田雅利の兄の啓蔵氏が、現在の西門蒲鉾社長である。
西門蒲鉾が隣接する「聖福寺」には、1980年代日本の音楽シーンを作り上げた一人の音楽人の墓がある。
その人は、小室哲哉に「先生」ともよばれる存在であったが、表に出ることは多くはなかった。
大村雅朗は1951年、福岡市博多区奈良屋町の、京染店「大村染店」の家庭の5人兄弟の末っ子・次男として生まれた。
小中学校時代は、鼓笛隊に入隊したり、ピアノを習ったりした。
福岡大学附属大濠高等学校では中学・高校では吹奏楽部に所属、アルト・サックスを担当した。
高校在学中の3年間は、吹奏楽コンクール福岡支部予選で3年連続優勝、3年生時には吹奏楽部部長を務めた全国大会で入賞を果たした。
友人によれば、大村はキングコングのテーマを演奏した際に、突然にサントラ盤からぬいたキングコングの声をいれるなど、人を驚かせ、楽しませることが好きだったという。
その後、現在のヤマハ音楽院の第1期生として進学した。卒業後は、ヤマハ音楽振興会九州支部に嘱託スタッフとして入社した。
1975年頃、ポプコンやコッキーポップ用の楽曲アレンジ、スコア書き、レコーディング作業などを行うのと並行して、母校の大濠高校で吹奏楽部の指導をしたりしていた。
その頃から、「日本の音楽は遅れている」と感じるようになり、アメリカ・ロサンゼルスへいった。
帰国後はしばらく、西南学院大学応援指導部吹奏楽団でも指導を行うようになった。
1978年に上京し、本格的にプロの編曲家としての活動を開始する。
すぐに八神純子「みずいろの雨」の編曲で一躍注目を浴び、その後は稀代のヒットメーカーとして活躍する。
1970年代後半から80年年代のいっわゆる「アイドル全盛期」に多数の楽曲にかかわった。
大村雅朗は、なんといっても作曲者・財津和夫や作詞家・松本隆とともに松田聖子の世界観をつくりあげたといってよい。
編曲の仕事は、曲の出だし「つかみ」を創るのが一番の仕事。
例えば、久保田佐紀「異邦人」(萩田光雄編曲)がとても印象深いのは、イランの民族楽器「ダルシマー」を使ったことが大きい。
編曲とはこうした曲調、楽器の組み合わせ、歌手の声の質、シンセサイザーの使い方などを決めていく仕事である。
竹内まりあにせよ松任谷由美が輝きを失わないのは、山下達郎、松任谷正隆といった優れた編曲者を公私にわたるパートナーにもっていることによるであろう。
さて、大村の徹底した仕事ぶりから数多くのアーティストやスタジオミュージシャン、レコーディング・エンジニアから信頼を得ていく。
大村はアレンジャーでありながら、その内容にはプロデューサー的な役割も多分に含まれており、音楽プロデューサー絶頂期を迎える日本の音楽シーンにおいて、その"走り"であったと言われている。
アノ小室哲哉の才能をいちはやくみぬき、音楽の方向性について"テクノ"があっていると後押ししたのも大村であった。
松田聖子にとって”転機”になったが、「SWEET MEMORIES」といわれているが、大村はこの曲の作曲・編曲で「日本レコード大賞・編曲賞」を受賞している。
ジャズのアレンジが松田い聖子のイメージを変える名曲であった。
この曲の出だしでは、テープを逆まわしするなど斬新な手法で不思議な浮遊感をだしている。
この曲は、大村が、期限ギリギリまでに3分の1ぐらいしか曲ができずにいたが、当時の音楽プロデユーサーが大村宅を訪れて、二人でここで作ってしまおうといいだし、一晩のうちに完成したのだという。
このプロヂューサーによれば、大村の編曲を聞いた時の印象を、暑苦しい時に、涼やかな風が走り抜ける感じだったという。
その後、大村は小室哲哉の出世作を手掛け、彼のプロデュース能力を後押ししたこともあり、小室は大村を「先生」とよび、尊敬していた。
また渡辺美里も「マイリボリューション」(小室作曲)で、一躍有名歌手となるが、この曲の編曲者も大村であった。
そんな大村は、1997年6月29日、肺不全のため46歳で急死している。
あまりにも突然の訃報であったが、生涯1600曲もの制作に携わった。
個人的には手塚治の急死(享年60)を思い浮かべる。人生の半分がタイム・リミットとの戦いだったからだ。
渡辺美里は、1997年大阪城ホールのコンサート上のMCでファンに大村の逝去を報告して涙ながらに大村の死を惜しんで歌を捧げた。
同郷の松田聖子は「まーくん」と呼んで実兄のように慕っており、彼女のデビュー当時から良き相談相手として信頼されていた。
大村の訃報を受けて、大江千里は、彼に捧げる追悼曲として「碧の蹉跌」を発表している。
松田聖子のいくつかの曲は、大村編曲で松本隆作詞とチューリップのボーカル財津和夫作曲のトリオでプロデユースされた。
そして大村が生前に残した楽曲「櫻の園」があった。親交の深かった作詞家の松本隆により、誰かの死を悼むような詞が付けられた。
この曲は、松本から依頼されて作った大村の楽曲だが、事情によりお蔵入りとなった。
綺麗なメロディなのでいつか使いたいと松本がとりかっていた曲である。
ところが大村は亡くなってしまい、「聖子さんが歌ってくれたら彼も喜んでくれるだろう」と、作編曲者の”名前を告げず”に松田聖子に歌わせてみた。
すると歌い始めた松田聖子は、途中から泣きだして歌えなくなってしまった。聖子が気が付くまで、それほど時間はかからなかった。
現在、福岡市の繁華街・天神は大規模な再開発中だが、思い出すのは、1970年代、ダイエーショッパーズ福岡店や大丸福岡天神店が開業しており、天神の街が南北にぎわいが広がった印象があった。
また同年代は喫茶店の時代でもあり、ガロの「学生街の喫茶店」が懐かしい。
哀調を帯びていたあの曲は、当時イギリスではやっていたプログレッシブ・ロックそのものだった。
学生街ばかりではなく、西鉄の沿線の駅前にも、少なくとも喫茶店が一軒はあったように記憶する。
福岡には、そんな時代の喫茶店の多くはもはや存在しないが、1976年の創業以来、愛され続ける喫茶店がある。
昭和通り沿いにある「風街」(かぜのまち)で、ビルの1階にあしらわれた赤レンガの外壁が目印である。
オーナーの森公英氏は68歳で、今も現役で厨房に立っている。
23歳のときの一人旅に出たとき、釧路で「仏蘭西茶館」という洒落た喫茶店に出会った。
寡黙な店主ではあったが、店の雰囲気がよく、こんな仕事ならできるかも、これをやりたいな”と思ったという。
森さんは、北海道から福岡に帰ってきて、当時福岡ビルの地下にあった喫茶店「ばらの木」で働かせてもらうことにした。
そこで3年間修行し、独立したその年に喫茶店「風街(かぜのまち)」をスタートした。
修行中も数回釧路へは足を運んでおり、そのたびに「仏蘭西茶館」を訪ねたのだという。
「風街」がオープンしたのは76年、天神地下街や天神コア、岩田屋新館といった福岡市の代表的な商業施設も開業している。
いわゆる「第1次天神流通戦争」時代であった。
森さんによれば、”はっぴいえんど”というロックバンドがあり、メンバーは、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂といった錚々たるメンバーだった。
そして「風街(かぜまち)ロマン」という曲を作っていた。
森さんは、またま音楽雑誌で松本隆が書いた『風街』のコンセプトを書いていて、その文章を読んで内容にいたく感銘を受け、店の名は「風街」しかないと頂いたのだという。
そんな“風街”という言葉の生みの親である松本隆は、2018年5月にSNSの自身のアカウントに「福岡の風街カフェに来てみた」と当店にこっそり来店していたことを投稿した。
森さんは「松本隆さんにも来店いただいて。今回も私のいない時間帯のことだったのであとから知ったんですけど、とてもうれしかったですね」とコメント書いている。
さて最近、松本隆は長い間行くことが出来なかった大村のお墓参りのため、故郷・福岡へ。そして実家や母校など大村の足跡を訪ねた。
大村が若き日を過ごした六本末アパート跡地には、一本の大きな桜が立っていた。
また、松田聖子の曲の作曲を手がけた財津和夫も、最近、大村が”同郷”だと聞いて驚いたという。
それも、”聖”福寺の一角に眠っていようとは!
その聖福寺の西門に位置するのが、かつてのメンバー上田雅利の実家「西門蒲鉾」である。
ところで松本隆は、大村が亡くなったことでサウンド面のパートナーを失い、喪失感でしばらく仕事に手がつかなくなってしまったという。
しかしながら、日本を代表する編曲者・大村雅朗と作詩家・松本隆とは、不思議な縁で繋がっていた。
「風街」のオーナーの森さんは驚くべきことを松本に語っている。
「大村雅朗は、実は俺の従兄弟(いとこ)なんです。
彼がまだ福岡にいたころは『風街』にもしょっちゅう来ていた。松本さんともいろいろと仕事をご一緒していたようなので、かげながら応援していました」と。