「言葉の海」に漕ぎ出す

三浦しをん作「舟を編む」(ふねをあむ)は、「玄武書房」に勤める変わり者達の人間模様を描いた。
新しく刊行する辞書「大渡海」の編纂メンバーとして辞書編集部に迎えられ、辞書の世界に没頭していく。
「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」という意味なのだという。
辞書を作る方ではなく使う方の話だが、作家の浅田次郎が「学而」というエッセイに、辞書のことを書いていたのが、今も心に残っている。
浅田の父親が破産して離婚。母は兄と浅田を引き取り ナイトクラブのホステスで生計をたて、3人6畳一間の生活で頑張った。
そんなときに、浅田は意地を張って私立中学合格し、喜んだ母が高価な「三冊の辞書」を買ってくれた。それは 「広辞苑」、「研究社の英和辞典」、「大修館の中漢和辞典」。
母は戦時中、学徒動員で働かされ、勉強をしたくても出来なかったのだ。
論語に、「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」とある。
「学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや」。
この「論語」の言葉どおり、浅田は自らよろこんで学び続けることができ、今も読み書くことに苦痛を覚えたためしはないという。
母からの思いの込められていた三冊の辞書、それが学ぶ力の源泉となっている。
母は晩年、癌を宣告され 子供らの世話になろうとはせず、都営団地にひとり暮らしを続けた末に73歳で亡くなった。
母の書棚には浅田のすべての著作に並んでいて、小さな国語辞典とルーペが置かれていた。
浅田の机上にはいまだに、朽ち破れた三冊の辞書が置いてある。
ところで自分が馴染んだ辞書といえば、金田一京助の「国語辞典」があるが、金田一はアイヌ語の研究者でもあった。
そのアイヌ語の研究にとって重要な意味をもつのが、15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いであった。
それは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであったといえるかもしれない。
幸恵はアイヌ酋長の家柄で、明治36年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。 1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
幸恵は金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった。
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の誇りを失いかけていた。
学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人になろう」と、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである。
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。
金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の「代名詞」にまでなるのに、幸恵の存在ぬきに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病という病をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた。
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したが、突然訪れたその死は、深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがり付いて泣いたという。
事実、それからの金田一京助の生涯は、ある部分償いの日々を思わせる。
幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え愛弟子として様々な世話をした。
知里真志保は室蘭中学から東大に進み、天才言語学者といわれる存在となり、アイヌ初の北海道大学教授となった。しかし、金田一と千里真志保の師弟は、やがて決別する。
金田一がその死を惜しんだ、知里幸恵の「アイヌ神謡集」の「序」は感動的である。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」という切なる言葉で始まっている。

近年、「佐賀弁ラジオ体操第一」がユーチューブ等で話題になった。その、佐賀県の方言を研究し、それを辞書にまでした人がいる。
当時小学校の教師だった松本亀次郎により「佐賀県方言辞典」が作られ、その功績により東京の中国人留学生に日本語を教える学校の教師としてスカウトされる。
それでは、静岡の小学校の一教師に過ぎなかった松本が、どうして「佐賀方言」と関わり、なおかつ中国人留学生と接点を持つに至ったのか。
松本は静岡袋井の人だが、佐賀県師範学校で勤務したことがある。その時の校長が、静岡師範・静岡中学在職中の校長でもあったため、この校長が招いたものであろう。
松本は佐賀師範で、「方言辞典」を編纂するという思ってもみない仕事を託された。
そして1902年6月に出版された日本で最初の方言辞典を編纂完成した。
そして松本はこの「佐賀県方言辞典」の出版により、初めて国語学者として世に認められた。
西欧列強の脅威を前にして、清国政府は1905年から1910年にかけて1万人を超える中国人留学生を日本に送った。
1902年といえば、嘉納治五郎は中国を訪問し清国政府の要請を受け、宏文学院の教授陣の強化が迫られた時期でもある。
嘉納は世に出ていない優れた人材を見つけだすことを常に心がけていたが、1903年4月嘉納はこの松本亀次郎を宏文学院に招いたのである。
松本は、かつて嘉納が書いた一文に心を打たれ、小学校教員になった経緯がある。
偶然にも、尊敬する嘉納により招かれたことを誇りに思い、今後宏文学院に自らの人生を託して、中国人留学生に日本語を教えることを自分の天命だと感じた。
結局、松本は約80年の生涯のうち35年余りを中国人留学生教育に捧げることになる。
松本は1903年4月から1908年2月まで宏文学院で勤務したが、その中には後に世界的文学者となる魯迅もいた。
松本によると、魯迅は言語感覚において非凡さをすでにみせていて、松本に「流石に」の適訳がないといって嘆いていたこともあったという。
魯迅の日本文の翻訳は最も精妙を極め、原文の意味をそっくり取って訳出しておきながら訳文が穏当でかつ明瞭であったために、学生間では「魯訳」といって訳文の模範にしていたという。
このように日本最初の中国人留学生の教育機関として期待を集めていた宏文学院だが、留学生の激減により1909年7月に閉校を余儀なくされた。
しかし松本は1914年12月留日学生のための学校「日華同人共立東亜高等予備学校」を創立した。
予備学校創設という事業は同じであっても、嘉納の依頼者は清国政府であったが、この「東亜予備校」設立の依頼者はたった一人の中国人留学生であった。
その時、松本は東京府立第一中学校の教諭をしていたが、その時に湖南省出身の曽横海が、松本に日本語講習会の講師を依頼してきた。
湖南省出身者だけでも400人以上の留日学生がいることを知って、松本は私財を投じて学校を設立する決意をする。
そして東亜高等予備学校には、毛沢東の朋友となる周恩来が学んでいる。
神保町の白山通り近くに「愛全公園」という小さな公園があるが、1913年秋、松本亀次郎が中国留学生のために創設した東亜高等予備学校があった場所で、「周恩来ここで学ぶ」の石碑がかろうじて当時の面影を残している。

「古事記伝」は本居宣長が35歳頃から書きはじめ、69歳の時に書き終えた「古事記」の注釈書である。
35年を費やした労作は、ライフワークに相応しい。
その執念たるや驚嘆に価するが、世界に目を転じると、世界最高の辞書「オックスフォード英語大辞典」の完成に至る経過は、”壮絶”という言葉が似合う。
OED(オックスフォード英語大辞典)は41万語以上の収録語数を誇るが、そのコンセプトは用例を徹底的に集め、英語のあらゆる語彙の意味がどのように使用されているかを示すというものだった。
今のようにインターネットで調べれば一発で用例が検索できる便利なものはない時代、人手でいちいち原典にあたって、例文を手書きで書き留めるという気の遠くなるような作業の積み重ねであった。
OEDの編纂は、1858年にロンドン図書館で行われたウェストミンスター聖堂参事会長をつとめる聖職者・リチャード・シェネヴィクス・トレンチの演説がきっかけだった。
トレンチは英語が普及すれば「キリスト教(イギリス国教)」が世界中に広まるという考えのもとに、正統な辞書編纂の必要性を説いた。
OED辞書編纂は、なかなかはかどらなかったが、スタートして20年後、1878年にジェームズ・マレーが編纂者となってから本格的に動きだした。
そこでマレーは1879年にOED編纂主幹に就任すると同時に、英語圏の読書人にヘルプを依頼する。
その求めに応じてOEDで最も多い用例を提供したのは、想像を絶する人物だった。
なんと、殺人罪を犯してイギリスの精神異常者収容所に収容されていたアメリカ人元軍医・ウィリアム(ビル)・マイナーだった。
マイナーはスリランカで生まれ、米国コネチカット州に育ったアメリカ人で、南北戦争で北軍の軍医として従軍し、数々の死者を見てきた。
軍医としてアイルランド人の北軍脱走兵のほほに、焼きゴテで脱走兵を示す”D”の焼き印を押すことを強制されたことが、マイナーの精神に異常をきたす原因となった。
マイナーはアイルランド人が夜になると忍び込んでくるという被害妄想を抱くようになった。
マイナーはその後イギリスにわたり、ロンドン市内で或る夜、歩いている人が自分を襲うアイルランド人だと言って、ピストルで撃ち殺してしまう。
マイナーは裁判にかけられるが、精神異常者と認められ、精神病犯罪者収容所に終身収容の判決を受ける。
だが、資産家だったマイナーは、精神病犯罪者収容所で特別待遇を許され、2部屋を占有し、他の患者を使用人として雇い、アメリカやロンドンから取り寄せた本に囲まれた生活をしていたという。
その一方で、辞書を編纂する側のマレーはスコットランドの貧しい家庭出身、14歳で学校を卒業した後、学校や銀行で働きながら独学で学んだ。
マレーは憧れの大英博物館には就職できなかったものの、ケンブリッジ大学の数学者兼音声学者のヘンリー・スウィートと交友があったことから、英国言語協会の会員となり言語学者として名を連ねることになる。
ちなみに、ヘンリー・スウィートは「マイ・フェア・レディ」の原作のヘンリー・ヒギンズ教授のモデルとなった人である。
その後マレーは博識を買われ、「ブリタニカ百科事典」に英語の歴史について小論を書くように勧められ、OED編纂事務局書記をつとめる人物と知り合い、これがOED編纂者として職を得るきっかけとなった。
1879年に1月に、マレーが編纂主幹を務め、7000ページ、全4巻の辞書を10年間で仕上げるとういう契約が成立した。
マレーはすぐに「英語を話し、読む人々へ」という8ページの編纂協力依頼文を2000部印刷して書店や雑誌社、新聞社に送った。
この訴えが、どういういきさつか英国バークシャー、クローソンのブロードムア刑事犯精神病院に収容されているアメリカ人元軍医・ウィリアム・マイナーの目に留まったのである。
その訴えのなかで、一定のの時期のものに関して、マレーは200人ほどの必ず読まなければならない著作リストを添付している。
これらの大半は稀覯本(きこうぼん)で、きわめて限定された収集家しか所蔵していないものだった。
この訴えに呼応して、ビル・マイナーがせっせと”バークシャー、クローソン、ブロードムア”という住所で、編纂事務局と手紙のやり取りを始めたのは1880年頃のことだった。
マイナーは独房一杯の蔵書から単語リストを作り始め、丁寧な細かい文字でメモに書き込んでいった。
リストがだんだんに出来あがってきたので、マイナーはOED編集部にどんな言葉の用例が必要なのか聞いた。
第2分冊用に"art"が必要との答えだったので、1885年に"art"の用例を書いた4インチX6インチのカードを送った。
他の協力者はせいぜい1~2の用例だけだったのに、マイナーは27用例を送り、編集部員を喜ばせた。
その後マイナーは20年以上にわたって多くのカードを小包で送り、用例183万のうち、マイナーが送った用例は数万にも達した。
マイナーはすでに60歳を超えていたが、被害妄想という異常なところはあったが、辞書編纂についてマレーとじっくり語り合ったという。
マレーは1908年にナイトの称号を与えられていたので、マレーが主導して、年老いたマイナーをイギリスからアメリカに帰国させるべきだという運動が起こった。
ちょうどその時、アメリカ好みのチャーチルが内務大臣となり、マイナーの釈放と本国送還を承認した。
マイナーは出身地のコネチカットではなく、ワシントンDCの精神病院に収容されたものの、1920年に85歳で亡くなった。
マレーはOED完成を見ることなく、1915年に”T”のところでなくなった。前立腺を病み、当時の治療法だったX線照射で衰弱したという。恐らく放射線被爆したと推測される。
OEDは最初の"a~ant"までをカバーした第1分冊が1884年に発刊され、1927年大晦日に「オックスフォード英和辞典」の完成が宣言された。
完結まで44年かかったが、その後も補遺が続けられ、言葉の変化や追加を記録して全20巻となりCD化、最近では、オンラインでも利用できる。
「オックスフォード英和辞典」誕生秘話は、メルギブソン(マレー博士)とショーンペン(マイナー)主演で「博士と狂人」というタイトルで映画化された。
自分の人生を最後まであきらめずに、何かをなさんという強い思いがあれば、生きて完成を見られぬ仕事であっても、人は全身全霊を注ぐことができるようだ。