従軍作家と校歌

NHK朝ドラマ「エール」の主人公は古関裕而をモデルにしているが、古関は驚いたことに日本全国305校を作曲されている。
中でも、我が地元福岡県の北九州地区の学校の校歌の作曲者に、その名前を数多くみることができる。
戸畑高校や若松高校、そして甲子園でも流れる東福岡高校なのだが、作詞家が若松出身の作家・火野葦平とのコンビなので、火野葦平の関係で、古関が作曲を担当したのであろう。
それにしても、 古関裕而と火野葦平の接点はどこにあるのだろうか。
1937年7月、中国の盧溝橋で日本と中国の軍事衝突が起き、日中戦争へと発展した。
近衛文麿内閣は国民精神総動員実施要綱を決定し、挙国一致体制を作っていく。
そんな中、招集を目の前にして小説を書いている男がいた。
同人誌「文学会議」に参加していた火野葦平で、「糞尿譚」のタイトルで、糞尿汲取業をめぐる、悪らつな地方政治家たちの実態と善良な小市民の哀歓を、ユーモアとペーソスを交えて描いた。
1937年10月、この小説を書いている途中に、火野のもとへ赤紙が届いた。
火野は招集の直前まで執筆しており、書き切った「糞尿譚」は、選考委員の佐藤春夫の絶賛もあり、受賞することとなる。
そのころ、火野は日中戦争に招集されており、すでに中国の杭州にいた。
戦場にいる火野への一報は取材にきた朝日新聞の記者によってもたらされた。そして、文藝春秋は杭州で授与式を行うことに決める。
文藝春秋社からの派遣で、授与式にやってきたのはすでに文芸評論家としての名声を確立していた小林秀雄だった。
小林秀雄が中国に懐中時計を持ってきた。芥川賞の授与式のあと小林と酒を飲み交わしていた火野は、小林から「きみは傑作を書くよ」と言われたという。
その言葉の通り、火野は時代に翻弄されつつも、流行作家の道を歩み始める。
火野葦平は1907年、福岡県に生まれた。それまでは画家になるつもりで絵を描いていたが、中学3年のときに夏目漱石の「坊っちゃん」と出会い、文学の世界にのめり込む。
早稲田第一高等学院に進学すると、自分でも小説を書き始めた。早稲田大学の英文科に入り、仲間たちと文学同人誌を創刊する。
芥川賞を受賞した火野に目をつけた男がいた。中支派遣軍報道部の馬淵逸雄中佐である。彼はメディア戦略の観点から、火野を報道部員として異例の待遇で採用された。火野は戦地で従軍しながら小説を書くことになる。
戦地で書いた「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の兵隊3部作は合わせて300万部超のベストセラーとなった。
こうして火野は兵士と文学者という2つの立場から小説を書き、流行作家となった。軍部はこの方法に有効性を感じたのか、尾崎士郎や佐藤春夫など多くの小説家を戦地に派遣し、従軍記を書かせた。
火野は宣伝部隊の配属となり、戦地で小説の執筆、雑誌の編集をしながら戦争を過ごした。しかし悪化していく戦況を目の当たりにして、心中は複雑だった。
戦況の悲惨さを上層部に訴えることもしたが、聞く耳を持たれなかった。宣伝活動のための出張で福岡にいた8月15日、ラジオから流れる玉音放送を聞くことになる。
戦後すぐ、公職追放の対象にもされたが、一度は筆を折ることも考えたが小説を書き続けた。
自身の父をモデルとした任侠ものの「花と龍」を読売新聞に連載し、映画化もされ、人気を博した。
1959年、火野は中央公論で小説の連載を始める。タイトルは「革命前後」で、男が戦争責任に苦労する自身をモデルにした小説だった。
1960年1月、「革命前後」を書き終えた約3週間後に火野は自殺する。
高血圧症の悪化にともなう不安によるものだとされているが、文学による戦争協力への呵責や後悔が、死へといざなったようだ。

作曲家・古関裕而は150曲にも及ぶ戦時歌謡を手がけ作曲家として確固たる地位を築いた。「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは」を、今でも口ずさむ人がいる。
1909年古関は 福島市で生まれた。生家は 市内の目抜き通りに店を構える福島きっての老舗呉服店だった。
松任谷由美と環境が似ているが、恵まれた環境の中で 古関は 次第に作曲に関心を示すようになった。
高校卒業後 古関は銀行に勤めるかたわら音楽理論や作曲を学びアマチュア作曲家として活動を続けた。
北原白秋などの詩を題材にした歌曲をはじめ、そんな努力が実を結ぶ日が来た。
21歳の時、イギリスの国際作曲コンクールで入選し、応募作品がレコード化されることになった。
旅費が支給されヨーロッパへ留学する話もあって銀行も辞めたが、1929年に世界大恐慌が発生し、作品のレコード化も留学も白紙となってしまう。
新たな生計の道を探す必要に迫られた古関だが、1930年 古関は東京の大手レコード会社の日本コロムビアに専属作曲家として高給で入社。ジャズやクラシックなど洋楽の素養を持ち流行歌を書ける作曲家が求められていた。
古関が最初のレコード化に選んだ2曲は、竹久夢二の作品をモチーフにした「福島小夜曲」と、福島の街の風情を歌った「福島行進曲」だったが レコードは全く売れなかった。
その後も3年間 ヒット曲を書けず、契約解除寸前まで追い込まれてしまう。
1937年 日中戦争が勃発し、近衛内閣は国民精神総動員運動を展開し、新聞 放送局レコード会社も これに追随した。
そして8月 新聞紙上に懸賞で選ばれたある歌詞が掲載され、古関の目にもとまった歌で、 レコード会社が曲を依頼したのがほかならぬ古関だった。
1937年10月に発売された「「露営の歌」は、大衆の支持を集め60万枚という空前の大ヒットを記録した。
不遇をかこっていた古関は戦時歌謡と出会うことによって作曲家として大きく花開いたのである。
そして日中戦争は 長期戦の様相を呈して、軍は 国民の協力を求めるため作家や音楽家たちを動員し戦地での見聞を報告させることを計画し、古関も この年 中国戦線に赴いている。
この時 古関は 兵士たちが「露営の歌」を大合唱する姿を目の当たりにし、心を動かされたという。
それから3年後 太平洋戦争が始まり戦時色は ますます濃厚となる。
この時期の代表作が海軍航空隊のパイロットを目指す若者たちを歌った 「若鷲の歌」である。
作詞家の西條八十は明るい長調の音頭をイメージしたが、 古関は西條にその部分を削除してもらって、あえて哀愁を帯びた 短調で作曲する。
戦場に赴く若者を明るく歌う曲は古関には作れなかったのである。
さらに、作詞家・西條が提出した「比島決戦の歌」の歌詞に、軍の担当者が 注文をつけた。
しかし、西條は、敵将のマッカーサーを露骨に貶める内容が武士道にもとると抵抗した。
古関も、岐路に立たされたが、戦争を勝ち抜くためにやはり曲を作るべきだろうと考えた。
1934年3月 陸軍はひっ迫した戦局を好転させるためインパール作戦を開始。古関は 特別報道班の一員としてビルマへ派遣されていた。
この時、古関と共に現地を訪れたのが作家・火野葦平である。
決戦に向けて戦意高揚の曲を書くことで兵士たちが 更なる死地へ赴くことにもなりかねない。
ラジオから流れた「比島決戦の歌」は、 職業作曲家として軍の注文に真摯に応えたものだったが、放送は僅か1週間で打ち切られた。
フィリピン戦の大勢はもはや決していて、この歌を作曲していた頃フィリピン レイテ沖では既に特攻作戦が行われていた。
翌年年8月6日広島、3日後長崎に子爆弾が投下され、戦時歌謡の時代は終わりを告げた。
戦後広島を訪れ、古関の心から兵士を鼓舞する歌を作ったという事実が片ときも離れることはなかった。
そのため古関は 平和への思いを込めた曲を数多く作っていく。
自ら被爆しながら被爆者の救護に当たった長崎大学の永井隆医師を歌にした 長崎の「ああ 長崎の鐘が鳴る」は、生以後の代表曲となった。古関は 作曲を通して祈り続けたのである。
一般に、戦時歌謡に関わった人々は、強いられて作ったと自分を擁護するような発言をするが、古関は違っていた。
「あなたにとっての戦時歌謡の代表曲は何ですか」と問われ、「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」だと はっきりと言う。
古関は生涯5000曲以上も曲を作るが、あれをやったのでこれをやらないということをしない。
「エール」との関連でいえば、早稲田も慶應も応援歌をつくっている。つまりどんな依頼にも真摯に応えようとしたた。
ある評論家によれば、「露営の歌」や「暁に祈る」から「長崎の鐘」まで断絶を感じないないという。
つまり 戦争協力をしたから今度は贖罪だっていうのは知識人の論理で、庶民にとっては 苦しい時代が終わって次に新しい世界をつくらなければならないということに、何の矛盾もない。
戦争の苦しみが今度は 平和への希望に変わることに断裂などはなく、古関はあくまで庶民に寄り添った職業作曲家を貫いたといえそうだ。

「吉田学校」といえば、終戦後に吉田茂首相の下で働いた若き官僚達で、後に有力な政治家になる池田勇人、佐藤栄作 前尾繁三郎などである。
しかし、もうひとつの「吉田学校」がある。作曲家・吉田正が育てた歌手(or俳優)として活躍した吉永小百合、橋幸夫、三田明などである。
ところで吉田正作曲のヒット曲には、 三浦洸一「異国の丘」 鶴田浩二「傷だらけの人生」 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 松尾和子「誰よりも君を愛す」 橋幸夫「潮来笠」 吉永小百合「いつでも夢を」 三田明「美しい十代」などのほか数多くある。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲をつくった。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して半月の静養の後に「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、以前の会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットするや、この曲の作曲者が吉田正と知られるところとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は昭和を代表する曲となった。
その一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。
さて、吉田の作曲の原点は、1945年10月から1948年8月の舞鶴港帰還までの「シベリア抑留体験」である。
吉田は21歳の時に徴集され、ソ連との戦闘で瀕死の重傷を負い、その後シベリアに抑留され過酷な収容所生活を強いられた。
このシベリア抑留とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
ところで最近、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、 数年前、一人の抑留経験者の情報提供をきっかけに、吉田が所属していたレコード会社とNHKがさらに調査を進めたところ、同じ部隊にいた人達やシベリアの収容所の仲間が、ノートに書き残したり、記憶に留めたりしていた20余りの曲が発見・復元された。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
自らが知らぬうちに「異国の丘」としてラジオで流れていたのを聞いた時、吉田に戦後の復興にあたる日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたにちがいない。
「シベリア抑留」は、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
最長11年抑留された者も居れば、2~3年で比較的早期に帰国した人々もいた。
シベリアで6万の人々が命を落としたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他スポーツ芸能界では、水原茂、三波春夫、三橋達也などもいた。
また作曲家では吉田正以外に、米山正夫がいた。
米山は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られている。
また、シベリアから帰還する息子を、京都府舞鶴港で待ちわびる母の心情を歌った歌「岸壁の母」が、1954年に大ヒットした。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
実は、我が地元・福岡県立宇美商業高校の校歌の作曲者に「吉田正」の名がある。
まさかと思って調べると、確かに「異国の丘」の吉田正だった。
その経緯は、初代校長は校歌を作ろうと、たまたま同僚だった教員が日本ビクター専属作詞家の井田誠一と知り合いだったため、「校歌」の作詞を依頼したところ、井田がコンビで曲をつくっていた吉田正に校歌の作曲を依頼することになったということ。
1963年12月に作詞家の井田が東京から福岡に来て、学校をとりまく自然環境や歴史的背景を見た上での作詞となった。
そして吉田門下の人気歌手の三田明が歌ったテープが学校に届き、お披露目となったのである。
実は、初代校長と作曲家・吉田正は、ほぼ時期を重ねて「シベリア抑留」を体験している。
初代校長はシベリアで、我しらず吉田正の曲に励まされて生存をつないだのかもしれない。
ならば、「校歌」で吉田正と再会したことになる。

、「応仁天皇生誕の地」宇美八幡宮に近い宇美商業高校にて、吉田正作曲・井田誠一作詞という日本歌謡界に輝くコンビで作られた校歌が今も響いている。
だから 「暁に祈る」も「露営の歌」も最良の彼の軍歌を聴いてると「万葉集」の「防人の歌」とか、日本人が持ってる あの 戦場に夫を送り出すとかで 亡くなったら また ふるさとへ戻ってくるんだなっていうような。
要するに昭和の戦争の歌なんだけど聴いてるとそう思えなくなる。
国のために ふるさとを離れて去っていく夫 息子を見守る妻であり 母っていう歌に聞こえてくる。
国の検閲 通りませんから戦場で死んで帰ってこいなんていうふうな文言が出てきますけど、 そんなことを思って出てく兵隊とか国のために死んで帰ってこいっていう母親なんてそうはいない。
建前といわゆる国民の本音の心情がメロディーになってるっていうのがかみ合わさってるのが 戦時歌謡だと思う。
「勝ってくるぞと勇ましく」って言わなきゃいけないってことは勝つ自信がないことをはっきり意味してる。
ひょっとしたら 犬死にを強いられるかもしれないっていうことが背後に 印画紙のように現れてる。
それが国民的無意識 大衆無意識であって実は 「いいのが出来た。 戦意高揚だ!」と軍人は喜んでたかもしれないけれど 現在住む伊勢原の大山の阿夫利神社下社の脇には火野葦平が故郷の長谷健のために建てた「豆腐塚」があるし、火野葦平とは縁があるのだが、今回の朝ドラで古関裕而が身近に思えてきた。なにしろ私の母校である若松高校と早稲田大学の校歌(いや早稲田は応援歌だ)を作曲した人物だ。朝ドラが面白くなってきた。 関裕而が憧れ、師と仰ぐ音楽家は山田耕筰でした。「作曲する時は、自然と先生の旋律が浮かんできた。知らず識らずのうちに先生の作風を模倣していた。いつの間にかゆったりとした日本的で、抒情的な美しい音楽が、私の中にすっかり入り込んでいた。五線譜の上に並んで音符をたどると、先生の心情が伝わってきた」。これを読めばどんなに山田耕筰の音楽に傾倒していたかが分ります。古関がこうして作曲した作品を選び、山田事務所宛に送ったことが縁となって、山田の推薦でコロムビアの専属作曲家になります。専属作曲家になったものの思うようにヒット曲が書けなくて、苦悩の日々が続きますが『露営の歌』の空前の大ヒットで、状況は好転していきます。この歌について、東京日日新聞の夕刊「前線の勇士『露営の歌』大合唱す」との見出しの「大きな写真を見、この記事を読み、この歌によって兵士が戦いの疲れをいやし、気持ちが和み励まされていることを知り、作曲した甲斐があった、としみじみ感じた」と書いています。古関は他にも支那事変・大東亜戦争で、多くの軍歌、戦時歌謡を作曲しています。『比島決戦の歌』については「この歌は私にとってもいやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた」と書いていますが、中支従軍記には「自分の職を通じて国運の勝利や栄えを祈る態度が正しいと思っていた」とも書いています。この古関の態度は間違っていないのではないでしょうか。 インパール作戦従軍記に「火野(葦平)さんが出発前に司令部から頼まれた『ビルマ派遣軍の歌』の原稿を渡された私はすぐ作曲することを約束した。火野さんらしい格調の高い詩である」「後に『麦と兵隊』『花と兵隊』等の作品により火野さんは『戦犯』としてある期間筆を持つことを停止された。彼は兵隊(すなわち当時の大衆)の最も深い理解者であり、同情者であった。誰かを、何人かを犠牲者の祭壇にあげなければならない敗戦国の悲運だったことによるのだろう」とありますが。師の山田耕筰も戦争協力を烈しく指弾されます。 しかしながら、平成11年7月16日付産経新聞に「宣戦布告なしに日本爆撃 米も計画していた。 ルーズベルト大統領了承 米公文書館に文献」というスクープ記事が載っています。欧州戦線重視などの理由で実施されなかったといいます。大東亜戦争を計画していたとして、私たち日本人は東京裁判で裁かれたのですから、実にもって酷いものです。古関裕而が言うように「敗戦国の悲運」としか言いようがありません。 刑部芳則氏の研究によると、古関は戦後、自衛隊の歌をいくつも作曲していますので、反軍思想を持っていたとは考えられません。ドラマ化にあたってNHKにひと言。「テレビ小説」だからといって、事実を無視した偏向した内容にしないで欲しい。 巻末の作品リスト(抄)の解説に、「終戦後GHQの命により時局色・戦時色の強い作品のスコアを焼却させられた」とあります。これは明白な大衆文化への弾圧で、旧敵国の占領軍が言う言論の自由、表現の自由がニセモノであったことをいみじくも表しています。  続きを読む 23人のお客様がこれが役に立ったと考えています 役に立った コメント 違反を報告 のりーぴー 5つ星のうち4.0 一般的な自伝じゃありません。 2020年5月11日に日本でレビュー済み Amazonで購入 一般的な伝記ではなく、作品背景、作曲した時の想いが割と詳しく書かれています。 時代背景、近代史に興味がない人は辛いかも。 6人のお客様がこれが役に立ったと考えています 役に立った コメント 違反を報告 sarasaこと大山文樹 5つ星のうち3.0 曲に関するエピソードがやや簡略しすぎか・・・ 2020年2月7日に日本でレビュー済み 作曲家・古関裕而の自伝と言うことで興味を抱いて購入した一冊であるが、読み終わってみるとちょっと内容に不満の感じる自伝であった。 古関裕而といえばヒット曲も多く作り、高校野球の行進曲『栄冠は君に輝く』や東京オリンピックの行進曲を作ったことでも知られており、本書ではそうした代表的な曲の作曲事情などが書かれているのは当然と言えば当然。ただ、何しろ作曲した曲数が多いので取り上げられている歌も多く、必然的に作曲事情も簡略して書かれている感があったのが残念。とは言え、例えば『イヨマンテの夜』がラジオドラマ『鐘の鳴る丘』から生まれたというような話は面白かった。 残念といえばもう一つ。古関裕而は交響曲や協奏曲など本格的なクラシック曲も作曲しているのだが、それについて少しでも知れればと思ったのだが、その点にはほとんど触れていなかったのが残念であった。 12人のお客様がこれが役に立ったと考えています 役に立った コメント 違反を報告 網野 貴志 5つ星のうち5.0 古関のなぞ 2020年5月27日に日本でレビュー済み 伝え聞いたところでは、本人が口述したものを夫人が記述した由。古関は「竹取物語」でイギリスの懸賞に入賞したが、その楽譜の存在が明らかになっていない、行方不明。この件には彼は触れていない。渡英中止やコロンビアレコード社入社でも色々言われている(山田が推薦した理由)。上京後、山田耕筰から離れて行く訳も。意外と彼にはミステリアスな部分があり、興味を引く。 4人のお客様がこれが役に立ったと考えています 作詞 火野 葦平 / 作曲 古関 裕而