NHKBSで「けものみち」(名取裕子主演/1982年)が再放送となり、黒幕の存在とか派閥政治が批判の対象となった時代がなつかしく思えた。
自民党一党独裁に近い時代だったとしても、今のような「官邸主導」とは違った政治の風景があった。
派閥が党内野党としての役目を果たし、検事総長の定年延長とか「桜を見る会」など、首相の「お仲間」が幅を利かすなどありえなかったのではなかろうか。
言い換えると、お仲間同士で牽制しあっていたともいえる。とはいっても、政治家と官僚の結びつき方は、あまり変わりがないように思える。
松本清張作品の中で、特に目立った作品でもないのに、三度もテレビドラマ化された作品がある。
それは、1953年に農林水産省を舞台に実際に起きた事件を下敷きに描かれた「中央流沙」である。
個人的には、1976年の初のドラマ化のものが記憶に残っている。
農林水産省の課長補佐・倉橋豊(内藤武敏)は収賄の疑いで警視庁から事情聴取を受けていた。
上司の岡村局長(佐藤慶)は、農水省の幹部に顔の利く実力者・西秀太郎(加藤嘉)の示唆を受け、倉橋に北海道への出張を命じた。
連絡が来て倉橋は、札幌から作並温泉に向かい、不安に怯えながら西が来るのを待つ。
西は作並温泉に着くや、人払いをして倉橋とさし向かいになり、「私は君にどうしろこうしろと言える立場じゃないよ」と切り出す。
そして、含み笑いをしながら、「つまり、善処して欲しいんだ」と言う。
「善処しろ」とは、倉橋がいなくなれば皆が助かる、組織は守られるということの婉曲表現なのだが、倉橋はその意味を即座に察する。
そして、「どうして私だけが犠牲にならなくちゃいけないんです」と抗すると、倉橋は「そんな意味で言ったわけじゃないよ」とすかさずとぼける。
そして西は畳みかけるように、「失礼ながら見直した」「私は骨のある男が好きだ」「惚れたらとことん惚れるたちだ」などと、倉橋を不気味なほど持ち上げる。
この場面、実際にありそうで鬼気迫るものがある。
その翌日、濃霧に埋まった早朝の作並温泉、旅館近くの断崖下に、倉橋が墜落しているのが発見された。
死体を受け取りに行ったノンキャリアの岡村事務官(川崎敬三)は、その死に不信を抱く。
このドラマのもうひとつ忘れたいのが、ラストシーンである。
一家の大黒柱の死後、家族はなぜか羽振りよい生活を嬉々として送っている。それは、役所側が残された家族の生活をちゃんと保障していることを伺わせる。
それだけに、課長補佐・倉橋の末路が悲しい。
この「中央流砂」が何度もドラマ化されるのも、組織ぐるみの汚職において、シッポが切られるという体質が変わらないからだろう。
さて昨年、森友学園問題で、国有地売却に関する財務省の決裁文書14件で改ざんが行われていたことが発覚した。
この改ざん作業にあたった職員の一人が近畿財務局の職員の赤木俊夫氏で、改ざんが発覚した5日後に自ら命を絶った。
メモには、「最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ。手が震える。恐い 命 大切な命 終止」。
これは、財務省近畿財務局の職員だった赤木俊夫氏が自殺する直前に書き残した言葉である。
赤木氏は「僕の契約相手は国民です」を信念として誇りをもって仕事をしていた。
この言葉、今の政治家の心に響かないのだろうか。
新型コロナウイルスは、様々な問題を浮き彫りにしている。なかでも、中央政府がなかなか方策や指針をあまり出ないのは、リスクを負うことを嫌がるからであろう。
一方、中央に先んじて明確に方向性を打ち出す地方首長もいることにはいる。
政治家は役人とは違って、国民に方向性を示し、それに対して責任をとるのが仕事である。
一方で政治家は正しい情報の発信が、民衆をパニックに陥れることを恐れ、情報を隠したり操作したりして、かえって危機を煽る結果を招くことがある。
こうした事態は、「失うもの」が大きい管理者やエリートによって起こされるという特徴がある。
災害時などに、マイノリティが犠牲になるのは、そうした「管理者パニック」によるケースが少なくない。
1960年、安保改定の自然成立の日に、国会周辺を30万人が埋めた。
岸信介首相は自衛隊導入を考えるが、赤木農林大臣による「それでは自衛隊を永久に国民の敵に回すことになる」という適切な助言を得て、ようやく踏み留まったという経緯がある。
松本清張の「現代官僚論」(1964年)は、政治家と官僚の間にみられる心理、官僚の中でも出世が約束されたキャリアと、上は望めないノン・キャリアの心のひだまでをも描いていて面白い。
政党人が、利権を得ようとすれば役所の機構を利用しなければならないから、おのれの手先となりそうな局長や、将来有能な部課長まで目をつける。
政党の実力者は、たいてい一度は大臣になるので、その椅子にある間に省内の有望な官僚を自分の勢力下に置く一方で、反対派の前大臣の息のかかった官僚を追い出しにかかる。
かくして大臣と有力局長のコンビが生まれ、局長はまた部課長や係長までも抱き込むことになる。
一方、官僚は自分の頭を押さえつけていた上司をやっつける腹いせのためにも、国会議員になりたがる。
官僚が国会議員になれば、ほとんど出身官庁に関係のある常任委員などに任じられるから、今度は委員会などで、かつての上司または同僚、後輩などを存分に追い詰める「快楽」を得ることができる。
年の若いエリート官僚(キャリア)に仕える年配の事務官(ノンキャリア)の心理を「中央流沙」の中で次のように描いている。
年下の課員には、将来の出世が約束されているキャリアが多くいるが、年配の事務官であってもそうした連中に幾分遠慮する。
なぜなら、いつかは彼らが自分を追い越して上司になる。未来の転倒した位置を考えて、何となく斟酌したものだが、定年を間近に控えた事務官には、もうそんな遠慮はいらない。
自分がいる間に彼らは、絶対に自分を追い越せることはないからである。
実務に限れば、彼らキャリアの知恵はノンキャリアの事務官の足元にも及ばない。したがって、彼らに意地悪くしようと思えば、いくらでも出来る。
さて、黒澤明の映画「生きる」にも描かれたとうり、役所を訪れる多くの庶民の実感は、なんとか行政事務を簡素化してもらえないかということだ。
実際、関係管轄を簡素化し単純化したら官庁能率はあがり、官庁の経費も減少するから、予算の倹約となる。
しかし、いつも掛け声だけに終わってしまうのは、役人がものごとを「変える」ことを好まないからだ。
それは自分を引き上げてくれた先輩(上司)がやってきたことを否定することに繋がるからだ。
彼らは少しでも自己の責任の場を持ちたいのである。この場合の責任とは、「権限」を意味する。
官僚の世界で権限と権力とは同意語で、民間企業では出来るだけ人を少なくして事務の簡素化、スピード化を図っているが、官庁では人員の減少は絶対というほど望めない。
これは整理される人たちへの同情からではなく、一人でも多くの部下を持ちたいという官僚の権力志向からくるものである。
「政治主導」は、与党内支持基盤が脆弱だった小泉首相や小渕首相らが官僚から実権を奪おうという「スローガン」として広まったものだったが、1990年代に大蔵省の役人の不祥事などで、政治が主導権を握ろうという機運が高まった。
その到達点が、2014年の改革で「内閣人事局」ができ、内閣が官庁幹部600人の人事を左右できるようになったことである。
それは、他国にも例がないほど強大な権力を「内閣人事局」や大臣に与えている。
しかし官庁人事までも「政治主導」なると、人事評価の基準がわからなくなり、その結果チェック機能が働きにくくなる。
そのため与党大臣や首相の信任の強い次官や政治家に忖度するため、「政治的中立」を欠く傾向にある。
政治主導で進められた「国家戦略特区」の選定においては、安倍首相のお仲間が理事長である加計学園が優遇された可能性が高い。
今の官僚世界ではかつてほど「年次」がの重きをなさず、天下りの規制も強まったため、「持てる者」ほど倒れることへの警戒心が強くなる。
そのため、優秀な人材がかえって理性を欠いた行動をしてしまう。
その典型が、財務省においてなされた、森友学園の土地取引をめぐる文書の改竄命令といえようか。
松本清張には、佐賀を舞台とした刑事を主題とした「張り込み」という作品があり、映画化もされた。
では、なぜ佐賀市を舞台に選んだのか。実は、松本清張には佐賀の「土地勘」があった。清張の妻の実家が、佐賀県神埼町で、終戦直後に妻の実家に転がりこんで3年間住んだのである。
そんな佐賀県には、唐津市肥前町に「増田神社」という、日本で唯一の警察官を祀った神社が存在する。
1869年8月10日、熊本県合志郡泗水村(現・菊池市泗水町)生まれ。幼少の頃より体格は立派であり、性格温厚と誰からも好かれる人物であった。
永島塾では漢学を、後藤塾では数学や測量学を学んでおり特に数学に秀でていた。
増田は上記の私塾では学業を修めていたことから一般教養に秀でており、本来3か月かかる巡査教習所の教習課程をわずか10日で習得し卒業する。
1895年7月17日に佐賀県巡査を拝命し、19日には唐津警察署へ配属されることになった。
1895年、日清戦争終結に伴い外地から兵士が帰還すると全国的にコレラが流行する。
この年の患者数は全国で5万5千人を超え、死者は4万人を超えるという髙い致死率である。
佐賀県東松浦郡入野村高串(現・佐賀県唐津市肥前町高串)でもコレラが発生し、真性40人、疑似34人、死者9人と猛威を奮った。
当時高串を担当していた巡査は病気がちであったため後任者を警察本部から探していたところ、当時27歳で巡査を拝命したばかりの増田敬太郎が派遣されることになった。
新人巡査である増田が高串の防疫という大役に抜擢された理由として、10日で巡査教習所を卒業した優秀さと伝染病対策に必要な衛生面の知識を有していたためであり、高串赴任の辞令が出された際には、ある警部から「佐賀県警察界にこれ以上の適任者はいない。どうかこの危機を救ってくれないだろうか」と言われたとされている。
増田は交通手段のない山道を超えて巡査を拝命して4日後には高串へ到着する。
増田は区長と相談の上で「コレラ感染を防ぐには、一刻も早く患者と健康な人との接触を断たなければならない」と対策を講じ、発症者の家には縄を張り巡らせて消毒の上で人の往来を禁じた。
また、住民には生水を飲まない、生で魚介類を食べないなど厳しく指導して回った。
中には薬を飲んでから亡くなった発症者もいたことから誤解して「毒薬なんか飲まない」と言う発症者もいたが、増田はその患者にも根気よく説得し続けた。
また、感染を恐れて発症者の遺体運搬が拒まれていることを見かねて、増田は自身で遺体を消毒し、むしろに巻いて背負って傾斜が急な坂道を何度も登っては墓地に埋葬していった。
住民は不眠不休で献身的に働く増田に対して次第に胸を打つようになったが、疲労が祟って高串着任の3日後である23日にはついに自身も感染してしまう。
容体は急速に悪化し、「とても回復する見込みのないことは覚悟しています。高串のこれらは私が背負っていきますから御安心下さい。十分お世話せねばならぬ私が大変御厄介になりました。」と言い残して24日午後3時には死去する。
その言葉通りに、猛威を振るっていたコレラは終息し、再び発症する村人はいなかった。
荼毘に付された増田の遺骨は遺族によって故郷の泗水に埋葬されたが、一部は恩義を感じた村人によって分骨してもらい、地区の中にあった秋葉神社の一角に埋葬されていた。
死後1ケ月経過したころには埋葬されていた場所に「故佐賀県巡査増田氏碑」が建立された。
当初は高さ40センチメートルほどの小祠であったが、人づてに信仰が広まった結果、本格的に神社の体裁を取るようになり、増田の死後1年後の1896年9月には「各村よりの参詣絶ゆる間もなき有り様となりては、御碑を雨露に曝しまいらせ置くは恐れあり」と言う理由からその石碑に瓦葺きの拝殿が建立された。
1923年頃、唐津署の警部補がたまたま祭礼に参加してから、警察関係者も注目するようになった。
今なお毎年増田巡査の命日、7月26日には夏祭りがあり、白馬にまたがる増田巡査の山車がでる。
警察本部音楽隊、海上警備艇もパレード参加している。国唯一の警察神として、全国の警察官が足を運び、熊本県菊池市泗水町(しすい)の生家の入り口横に顕彰碑がある。
ある本に「美徳とは自分の為になることの中で他人の為にもなること」とあった。
皮肉っぽい言葉だが、確かに自分でも気分がいいことではないと、そうそう他人の為には動けない。
しかし、中には本当に他人の犠牲になることができる人というものがいるものだ。
前述の増田巡査と同様に、地域の人々と共に最後まで歩み、「戦場の知事」とも呼ばれた島田叡(しまだあきら)沖縄県知事である。
島田は1901年、兵庫県の現・神戸市須磨区の開業医の長男として生まれた。
1922年に東京帝国大学法科へ入学。東大時代は野球部のスター選手(外野手)であった。
東大卒業後に内務省に入省し、主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていた。当時は官選知事のの時代で、島田に沖縄県知事の打診があった。
前任者は、各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張して、出張中にも係わらず香川県知事の辞令が出されている。逃げ出したというのが真相であろう。
沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任人事は難航していた。
島田当時43歳は、その沖縄県知事の仕事をほどなく引き受けた。
周囲は島田をひき止めたが、自分は死にたくないから、誰か代わりに行ってくれとはいえないと、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせて、沖縄へ飛んだ。
島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していった。
同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始め、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執った。
陸軍守備隊の首里撤退に際して、島田は南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになると反対の意思を示していた。
しかし、同席した軍団長会議において、牛島満司令官は第32軍の使命は本土作戦を1日たりとも有利に導くことだと説いて会議を締め括ったという。
1945年6月9日、島田に同行した県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた。
島田は警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり消息を絶ち、今もって遺体は発見されていない。
美しく青く光る海に抱かれるように、島田知事、そしてともに働き殉職した県庁職員たちの魂は、摩文仁(まぶに)の「島守の塔」に眠っている。
近畿財務局職員・赤木俊夫氏の言葉が再び浮かんだ。
「僕の契約相手は国民です」。