ノンフィクション作家・工藤美代子の「工藤写真館の昭和」(1993年)に、昭和天皇の摂政宮時代の写真撮影の興味深いエピソードが書かれている。
館主の工藤哲朗は当時、千葉の陸軍航空隊の写真技師で、摂政宮の行啓にあたり撮影を申しつかる栄誉にあずかった。
しかし、上下白い服を着ること、撮影の際には、摂政宮の顔をみてはならないという注文がついた。
工藤は、摂政宮の顔を見ずにどうやって写真をとるか何度もリハーサルを行った。
カメラを抱え下を向いて、あらかじめ測ってある歩数だけ前進してから立ち止まる。
パッと、摂政宮の立っている方角にカメラを向け、いそいでシャッターを切ると、また下を向き、そのまま下を向いて後ずさりする。
絶対に撮り直しのきかない被写体だけに、工藤は緊張のあまり汗まみれになったという。
結局、いい写真は撮りようもないが、その天皇を真正面から撮った写真がある。
しかしそれは外国人が撮影したもの。終戦直後にアメリカ大使館でとったマッカーサーと天皇が並んだ撮った写真であるが、この写真ほど、日本人の心に覆いかぶさったものはないのではなかろうか。
マカーサーのリラックスした雰囲気と緊張した天皇の姿が並んでいる写真だが、アメリカの占領に国を明け渡すに充分な「敗戦の重み」を実感させた。
天皇が玉音放送で国民に敗戦をよびかけて2週間後、アメリカ大使館のマッカーサーを訪問した。
マッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。その姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。
そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」。
そして「罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と語った。
この言葉に、マッカーサーは驚いた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。
マッカーサーはこの時の感動を、「回想記」にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」。
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーは予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。
この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答している。
マッカーサーと昭和天皇は、この後合計11回に渡って会談を繰り返し、昭和天皇は日本の占領統治の為に絶対に必要な存在であるという認識を深めるようになった。
当時、国際世論として「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、マッカーサーはこれらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ったばかりか、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対して食糧支援を行い日本の危機を救っている。
昭和天皇がマッカーサーとの会談につき一切語らなかったのは、両者の固い約束のためだといわれるが、当時の通訳によってようやくその一部が明らかになった次第である。
日本人の最も多くが観た皇室の映像といえば、皇太子殿下(平成天皇)と美智子様のご成婚パレード。
その映像の裏側には、発足間もないNHK、日本テレビ、そしてTBS(当時のラジオ東京テレビ)各テレビがしのぎをけずった。
皇居をスタートし、麹町、四谷を通って神宮外苑を抜け、渋谷区にあった東宮仮御所へ向かうコースを50分間かけて8.8kmを往く。
一番のポイントは、撮影場所の選択および場所とり。
メディアの世界で、まだ新聞やラジオが主流の頃で、テレビ生中継はその普及のチャンス。
1959年4月10日午後2時半にスタート。二人の門出を一目見ようと沿道には53万人が詰めかけ、街頭テレビの前には1500万人もが集まった。
準備段階で一歩リードしていたのはTBS、人脈を駆使し、正式発表の1カ月近く前に早くもパレードのルートを突き止めていた。
そして、ここぞという撮影ポイントの使用許可を取り付けた。それに焦ったのは、NHK。
カメラの台数の問題などから、TBSが神宮外苑の銀杏並木の脇道を手放すとそこを抑え、30歳のエースカメラマン設楽國雄を投入した。
設楽は、その年の夏に開催されたプロ野球の「天覧試合」の生中継や、近年では驚異的な視聴率を出した朝ドラ「おしん」などを担当した、伝説のカメラマンである。
設楽は、長さ200メートルの特注のレールをつくり、NHKのの全中継全予算の5分の4が充てられた。そこまでしたのは、何としても安定した映像でじっくり見てもらう映像が撮るためだった。
NHKの設楽が撮ったブレのないロングカットは93秒間にも及ぶ。その映像には、馬車から手を振る二人の姿はもちろん、手前の木々、押し寄せた人々、神宮外苑の銀杏並木も収まっている。
それは、どこを走っているのか、どれだけの数の人が祝福のために足を運んだのか、それも含めて後世に残したいという思いからだっだ。
TBSはNHKの設楽が脇から撮っていた映像を、ビルから撮っていた。二人が乗った馬車だけでなく、前後に長く連なる行列を正面から捉え続けられるのはここだけ。約2分間に渡る有名なカットが撮影された。
一番出遅れたのは、情報も予算も少ない日本テレビだが、"奇策"を使って割り込んだ。
日本テレビは事前情報はなかったが、ルートがどこになろろうと、ココは絶対とおるという勘を働かせていた。
そして後に多くのドキュメンタリーを手がけ「テレビの鬼」とまで言われた牛山純一が指揮した。
当初、牛山はテレビカメラを建物の屋上に設置し、遠景を撮ることで勝負を挑もうと考えていた。
しかし本番の3日前に気が変わった。国民が一番見たいのは美智子様の顔。屋上に上げたカメラはすべて下ろし、アップ撮影用に再配置を始めた。
その件に関しては、誰も文句言わなかった。牛山が言うことなら間違いないと、皆がそれに賭けた。
そして、日本テレビは、NHKとTBSが最大の見せ場を撮り終えた後も、奮闘が続いていた。
細い道に入ると、馬車とカメラの距離が近くなる。アップ撮影のチャンスだ。そこにとっておきの奇策を用意していた。
美智子様にカメラの方を向いてもらうため、沿道に青山学院大学の学生30人からなるコーラス隊を配備。そして馬車が近づくと「ハレルヤコーラス」を歌わせる策をとり、美智子様の笑顔を約45秒間、独占したのである。
ポルノグラフティの曲に「アポロ」(1987年)は次の歌詞ではじまる。「僕がうまれてくるずっとずっと前に、アポロ11号は月にいったというのに、みながチェックを入れている限定の君の腕時計はデジタル仕様」。
確かにコンピュータの水準を含め、AIやVRなどの技術もないのに、よくぞ人を月に送り帰還させたものだと、感心する。
そう、今から約50年前の1969年7月20日午後4時17分。人類は初めて月に降り立った。
コリンズが司令船コロンビアを操縦、着陸船イーグルで月に降りるのはアームストロングとオルドリンだった。
月と地球との交信は1.3秒の遅れが生じる。もし イーグルに何か起きた場合すぐに指示を出さなくてはならない。
1万5000メートルの高さからおよそ14分かけて 月面に降下する。
開始から5分、イーグルではエラーの警報が鳴り続けていた。コンピューターのオーバーフロー。
実は このエラーは オルドリンのある操作が招いたものだった。
着陸の時 イーグルは月面との位置関係を測定するレーダーだけを使うはずだった。
だが オルドリンが司令船用のレーダーもオンにしたため情報が増えすぎてオーバーフローが起きたのだ。
でも コンピューターはちゃんと動いて、地上のフライト・ディレクターは、着陸はGOと伝えた。
コンピューターには あらかじめエラーを起こした場合でも最重要の命令だけを実行するようプログラミングされていたため、着陸中止を免れた。
だが 着陸を予定していた場所は岩やクレーターで着陸不可能。別な着陸地点を探し、予定よりも飛行距離が伸びた。
ギリギリしか燃料を積んでおらず、イーグルは予定されていた着陸地点を6キロもこえて飛び続けていた。
残された燃料は 17秒、しかしアームストロングは危機を乗り越える訓練を受けており、フライトディレクターが「静かに見守ろう」といった。
そして着陸成功、その場所は「静かな海」と名づけられた。その命名は、彼ら二人の間で極秘で交わした約束からなのだという。
さて、世界中にTV放映された2人の宇宙飛行士が「星条旗」をたてるシーン。その裏側で一人の男が奮闘していた。
それを成功させた人物がヒューストンでテレビ中継を担当していたエド・トーキントン。当時28歳。NASAで月からのテレビ生中継を担当した。
アポロ11号以前からテレビで宇宙船内の様子をモニターする技術は開発されていたが、月面にテレビカメラを運んだことはいまだかつてない。
月着陸船はギリギリまで軽量化されて、重いテレビカメラを積み込むなんてできまない。
重さ 僅か3.3キロ。重力の違う月面では6分の1の500グラム程度になる。ベトナム戦争で偵察用に開発したカメラを更に小さく軽くした。
小型化のカギは 最新の集積回路。無駄をそぐために 映像は白黒とし1秒間のコマ数も30から10に減らした。
月面は 太陽があたる部分はあたらない部分はマイナス150度という極端な温度差、その過酷な条件に耐えられるようボディーは 断熱板で完全に覆われた。
また、月着陸船には60センチ・出力20ワットのアンテナしかなかったので、この月からの微弱な電波を受信するために地球で用意したのはアメリカ・ゴールドストーンの直径64m通信施設のアンテナ。
だが これだけでは足りなかった。なぜなら地球は自転するため他にもアンテナが必要だった。
オーストラリアのハニーサックルクリークス、スペインのマドリードの3か所をはじめ地球規模で電波を受信できる体制を築いた。
その中で最も良好な映像を選んで放送することが、エドの役割だった。
インタビューで、エドは人類が初めて月に降り立つ瞬間を逃したらごめんなさいじゃ済まない。
正直とても怖かったと振り返っている。
しかもNASA職員として中継を担当したのは エド一人で、2人のアシスタントがいただけだった。
エドは いきなりハプニングに見舞われた。きっかけはアームストロングが、プログラムを早めたいとのひと言だった。
予定では着陸後アームストロングたちは1旦 仮眠してから月面に出るはずだった。
しかし休息をとらずに月に出るという。計画は5時間も早まった。
寝耳に水のエドはまだ家にいて 早く行かなくてはと車に飛び乗ってジョンソン・スペースセンターに向かった。
到着してから 中継開始まで1時間足らず。世界中が世紀の瞬間を待つなかで準備を整えた。
いよいよ月面からの中継が始まると、またもハプニングが起きる。
世界中に放送された映像は 上下逆さま。画面の下にあるはずの月面がなんと真上に。
テレビカメラの位置に問題があり、取りつけられていたのは格納庫カメラは 逆さまに設置されていた。
だが エドにこの情報が伝わっていなかった。映像は なんとか正常に戻った。
だが 一難去って また一難。アームストロングがはしごを下りいよいよ 第一歩をしるす姿が、暗すぎてよく見えない。
電波が安定しているはずのアメリカ・ゴールドストーンの映像は不鮮明だった。
予定が5時間 早まったせいでゴールドストーンには映像を調整する技師がまだ到着していなかった。
このままではダメだ思い、エドは 思い切った決断を下す。映像を 南半球オーストラリアのものに切り替えたのだ。
オーストラリアチームは突然の時間変更にも素早い対応をし、アームストロングの姿が見えるようになった。エドは 「最初の一歩」にギリギリ間に合った。
それは皆が、本当に心を一つにしたとてもすばらしい瞬間であった。
ところで、アポロ計画が強行された背景には熾烈な東西冷戦があった。
軍事利用も可能な宇宙開発の競争で、米国はソ連に大きく後れを取っていた。
米政府は国内の批判を抑えるためにも、有人月面着陸だけは負けるわけにはいかなかったのだ。
しかし予想外にも、アメリカの月面着陸は東西冷戦を忘れさせた。
本当に短い間であったが地球上の誰もが武器を下ろし争うことを忘れ 政治を忘れてテレビ画面で同じものを見つめていたからだ。
しかし、月面着陸で成功しても、彼ら3人を地球へ帰さねば、この偉業は悲劇に変わってしまう。
それには、この着陸船イーグルを再び司令船コロンビアにドッキングさせる必要があった。
この大きな難題に 大きな役割を担ったのは一人の女性である。
当時32歳だったマーガレット・ハミルトンは アポロ計画のソフトウェア開発のリーダーだった。
宇宙空間でのドッキングには時速3万キロの猛スピードで進む宇宙船同士を数センチの精度で近づける
離れ業が要求された。
結果 手動操縦でのドッキングは一度も成功できなかった。
そこで力を見せつけたのがソフトウェアだった。
マーガレットによれば、ジェミニ8号でソフトウェアによるドッキングが試されてそれに成功し、コンピューターに何ができるか分かってもらえたという。
アポロ11号でも ソフトウェアがッキングをつかさどったが、チャンスは1回限り。
もし ドッキングに失敗すればアームストロングとオルドリンは宇宙空間に取り残され二度と地球には戻れない。
イーグルはコンピューターに誘導され上空を時速800キロで周回するコロンビアに向かって上昇。
コンピューターが位置を調整。そして見事にドッキンに成功する。
その後、宇宙の旅を続け、7月24日、午後0時50分、ハワイ沖に無事着水することができた。
マーガレットは当時をふりかえり、次のように語っている。
男も女もなく、共通していたのはものすごくタイトなスケジュールの中でアポロ計画を進めなければならないということ。それには、性別など関係なく、とにかく力になる人材が必要だった。