デ・ジャヴの正体

イギリスで生まれ 明治時代に日本に伝わったとされる サンドイッチ。その形は長方形が主流だったが、どうして三角形になったのか。
終戦後まもなく、当時33歳の大林茂のパン屋は、東京・池袋にあって人気の店であったが、なぜかサンドウッチが売れ残ってしまう。味は間違いなくおいしいのに、なぜいつも売れ残るのか。
店じまいをしていたところ、ある客がつぶやいた。「サンドイッチって何が入ってるか分からない」。
そこで大林は、横から中身がはみ出すほど具を入れたが、当然ながら食べづらく具が落ちてしまう。
そこで、ケーキを切るように四角いパンを斜めに切ってみた。これなら食べやすく中身もこぼれない。
さらに具が見えやすいように包みを、箱から紙に変え店に並べると、瞬く間に大ヒット商品になった。
東京オリンピックを機に、三角のサンドウイッチは全国に広がった。
ちなみに、サンドウイッチという名前は”地名”に由来する。ロンドン南東部のケント州に、サンドウイッチの町がある。
エドワード・モンタギュー提督の指揮する艦隊が1660年、国王チャールズ2世をイングランドに連れて帰る途中に「サンドウィッチ」に停泊したことから、サンドウィッチ伯爵の地位を獲得した。
その孫のサンドウッチ伯・ジョン・モンタギューが、1762年のとある日、カードギャンブルに没頭し、食事時間を省略するためにスライスしたパンの間に肉を挟んで持ってくるように頼んだ。
やがて、伯爵の友人たちも「サンドウィッチと同じものを」(same as Sandwich!)と頼むようになり、手軽で人気のあるサンドウイッチが誕生した。
また、偶然のカタチがヒット商品に繋がったのが「柿の種」がある。
新潟に、細々とあられ作りをしていた今井與三郎と さき夫人がいた。
新しく”もち米”で作った”小判形”のあられであったが、ほとんど売れなかった。
それでも今井夫妻は、きっとおいしさをわかってもらえると信じて作り続けたところ、さき夫人が筒円形の抜型を落とし、うっかり踏んでしまう。その”半月形”になってしまった”抜型”はひとつしかなく 、ナントそのままの型をとり”あられ”を作ることにした。そのカタチは偶然にも新潟県にあった大河津柿(筆柿)という品種の"柿の種"と非常に似ていて、それが商品名となった。
與三郎はそれに伴い味を一工夫してピリッと辛い味付けにした。
不思議なピリ辛あられが誕生したが、これがハイカラなものが好きな大正時代の人々に喜ばれてヒット商品になったのである。
サンドウイッチも柿の種のカタチも、人々に安心感をもたらす馴染みのカタチだからこそヒットしたに違いない。
ところで、フランス語に”デジャブ(仏:déjà-vu)”という言葉がある。
どこか見た光景なのに、その詳細が具体的に思い出せない場合に生ずる"違和感"のことで、日本語でいう、「既視感(きしかん)」にあたる。
どこかで会ったのに思い出せないアノ現象である。
個人的体験では、そのカタチや風景を辿ってみると、面白いところに行き着くことがある。
10年以上も前まで、福岡市動物園がある丘の頂にひとつの観覧車があった。どこかで見た記憶のある観覧車だと思いつつ、オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男」に登場する観覧車の緊迫のワンシーンまで思いを巡らした。
数年前、新聞にこの観覧車が撤去されるというニュースが出ていて、ハットした。この観覧車は、福岡市天神の旧岩田屋(現・パルコ)屋上にあった観覧車を動物園に移したものだという。
つまり、我が幼き日に親に連れられて何度か乗ったことのある観覧車であったのだ。
当時はもっと大きく見えたが、小ぶりにみえたものの確かにそのカタチに見覚えがある。
しかし、この懐かしの観覧車も今や姿を消してメリーゴーランドに変っている。
長崎の観光地グラバー邸に行くと、その隣に「リンガー邸」がある。
グラバーと同じくイギリス商人として幕末にこの地に住んだリンガーの邸宅なのだが、この邸宅を見た時、我が脳内にデジャブが生じた。
それは、チャンポンの店「リンガーハット」の店構えである。
名前も同じなので長崎にあるリンガーハット本社にメールで問いあわせると「リンガーハット」の店名は、長崎にあってリンガー商会のような活発な店になるようにという”願い”を込めてつけたそうである。
「リンガーハット」のハットのスペルは、「帽子(hat)」ではなく「館(hut)で、「リンガーハット」とは、”リンガー邸”そのものズバリを表した商標なのだ。

モノのカタチばかりではなく、人の動作の中にも、”デジャブ”を感じることがある。
例えば、卓球の中国女子の世界チャンピオンの張怡寧(ちょういねい)のプレイをテレビで見ていた時、我がうちに"デジャブ"が生じた。
どこかで見たことのあるプレイスタイル。それは、1994年の広島のアジア選手権で見た中国からの帰化選手で元女子ダブルス世界チャンピオンの「小山ちれ」選手とそっくりだった。
後で知ったことは、張怡寧は中国のライバルとなった小山ちれの”コピー選手”として育成されたのだという。
ところで、オルガンを弾く人の姿、どこかTVなどでみる”機織り”をする人の姿に似ていないだろうか。
オルガンは、足踏みによって加圧した空気を鍵盤で選択したパイプに送ることで発音する鍵盤楽器であり、パイプオルガンと呼ばれる。
一方、足踏み式の機織り機は、足元にある角材のような踏み木を足で踏むことで、横糸を通すために縦糸のスキマを開口させる方式の織機である。
実はオルガンは、機織り機や、「からくり人形」、ゼンマイ仕掛けの複雑な時計を高度に組みあわせたような精密緻密な楽器であるといってよい。
「からくり人形」は、江戸時代期以来多くの庶民に親しまれた木製の自動人形であり、「江戸のロボット」である。
久留米出身の田中儀右衛門(初代・久重)が「からくり人形」の代名詞として知られ、儀右衛門は、”からくり興行”を全国各地で行い広がっていった。
人形を動かす「からくり仕掛け」は、ぜんまいで動き、歯車などで動きを制御し、その仕組みは、エネルギーを変換してロボットを動かすという点で、今日のプログラミングで動きを制御するという現代のロボット技術と重なる。
ただ、「からくり人形」のコンセプトは、決して人間そっくりの動作を実現することを目的として製作されてはいない。
からくり人形は人間の意志に反して、自ら暴走することはなく、観客や周りの人々を最優先して働くものである。
その「からくり」の製作こそが近代日本のモノづくりの”跳躍台”となったのではないか。
実際、名古屋のモノ作りの伝統に「からくり」が深く関わっていて、「からくり→織機→自動車」という技術展開していくのだ。
豊田佐吉は1867年、遠江国敷知郡(現在の静岡県湖西市)に生まれ、父伊吉は、農業の傍ら、生活のために大工として働き、腕のいい職人として信頼を集めていた。
佐吉は18歳にして専売特許条例を知り、自らの知恵による発明に一生を捧げようと決意した。
石炭に変わる原動力を案出しようと考えた佐吉は、1890年、東京・上野で行われた「第三回内国勧業博覧会」で最新機械に衝撃を受け、その年の秋「豊田式木製人力織機」を完成し、発明品第1号となる。
そして織機の動力の自動化(自動織機)が、後の自動車の生産に繋がっていく。
豊田佐吉、愛知ではなくその東に隣接する静岡出身であるが、静岡県にも「からくり精神」は生きていたようだ。
特に浜松は、HONDAのオートバイやヤマハ楽器で知られている。
浜松には徳川家康をまつる「東照宮」があり、その周囲には、河岸段丘を利用した石垣がある。
家康は武田に対抗するため、天竜川の河岸段丘のヘリであるこの地に浜松城を建て、浜松の町が誕生した。
中心地から10kmほど離れた町へ行くと、川の近くに小さな高まりがあり、ここで「暴れ天竜」こと天竜川が頻繁に氾濫するこの地帯では、「島畑」という”高まり”を構築して綿花を作っていた。
浜松の綿花で織られた木綿は江戸でも評判となり、大量の織機が必要となった。そのため、複雑な機工をもつ織機を作ることができる高い技術力を持つ大工が浜松に集まってくる。
さらに、南アルプスから天竜川で運ばれた木材と、山を越える乾いた空っ風による乾燥という地形的な面でも、浜松は木製品を作るのに適していた。
このような環境の好条件に恵まれ、浜松は「楽器の町」へと発展していく。
明治維新後、アメリカ製のオルガンが浜松にもやってくるが、2か月で故障することになった。
そこで、医療機器の修理工だった山葉寅楠が、細工大工を集めてオルガンを修理した。これをきっかけに寅楠はピアノ作りを志すようになり、国産初のピアノを独学で作り上げる。
そして、織機の技術を生かして国産のオルガンをも完成させる。
実はピアノの木工技術は、意外な歴史をたどっており、それは他の楽器作りにも活かされている。
航空自衛隊の浜松基地。実は航空機の木製プロペラには、ピアノ作りの木工技術が使われていた。
そして後にプロペラが金属製になると、その金属加工技術が、トランペットなどの管楽器製作につながり、浜松は”楽器の街”とよばれるようになる。
つまり、静岡では「からくり→織機→楽器」という技術展開をしたのである。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」で、「宮本武蔵」をテーマにしたものがあり、武蔵という剣の達人を中心に据えるのでなく、むしろ武蔵に挑み「敗れた」側の人生が描かれていたため大変興味深いものであった。
戦国の時代が終わり徳川による太平の時代となった。関が原の戦いなどで敗れた側は”取り潰し”などになり、そこ仕えた武士達は新しい就職口を求め、各地で”仕合い”に挑み、その「剣豪」としての名を轟かせようとした。そのため各地に道場もできていた。
宮本武蔵はこうした道場で戦いに臨み、生涯無敗だったという。
逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということである。
では、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。
Ⅰ.奈良の柳生の里を本拠とする柳生一族からは大瀬戸と辻風の二人が宮本武蔵に挑み、柳生側が敗れたとされているが、そのためか他流試合を禁止して、「柳生新陰流」を確立し、柳生十兵衛などを生んだ。
徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた柳生但馬守・宗矩の長男が柳生十兵衛で、同じく家光の剣指南役をした。
しかし柳生十兵衛はやがて家光と対立し、後に諸国を漫遊し、やがて郷 里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上の弟子に剣術を指南したという。
Ⅱ.剣とは異なる道で天下に名をあげたのが「吉岡一門」である。
京都で宮本武蔵が実力を腕を試すため吉岡道場の剣豪吉岡兄弟と一乗寺下り松で決闘をするものの、武蔵に敗れる。
その後兄弟の父剣術家吉岡直綱(号:憲法)は染色に携わり、「吉岡憲法染」と云われる黒・茶の染物を得意としたと云われている。
そして吉岡一門は、現代において数々の歴史遺産の復元にあたり、”人間国宝”までも輩出している。
Ⅲ.武蔵に負けたことで学び、新たな術に目覚めた「夢想権之助」という男がいた。
実は、三人のなかでも最も興味をもったのが、武蔵に敗れた「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という人物であった。
なにしろ我が地元・福岡県の宝満山で武術を磨いて一流派をつくった人物であった。
さて「神道夢想流杖術」は今から約400年前に、夢想権之助により創始された武術である。
夢想権之助は宝満山を拠点にして修練を重ね「夢想流」という流派を築いたが、剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツく。
その場面を見ながら、我が脳内に"デジャブ"が生じた。 その「杖使い」こそが、かつてテレビで見たことのある新人警察官の訓練で見た「棍棒使い」と似ていたのだ。
この我が"デジャヴをさらに追及すると、両者は似ているのではなく、実際に繋がりのあることが判明した。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120cmの長い木刀で挑んだのに対し、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と仕合をし、一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と仕合をし二天一流の極意「十字留」にかかり、押すことも引くこともできず敗れてしまう。
権之介は、この武蔵の「剣術」に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参籠し、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授かった。
権之助は御神託をもとにさらに工夫を重ね、ついに四尺二寸一分、径八分の樫の木で、槍、薙刀、大刀の3つを統合した「杖術」を編み出したという。
権之介は宝満山で修行し、その後「杖術」の使い手となる。福岡藩に召抱えられて、術を広め「夢想流」という武術一派を確立した。
「傷つけず 人をこらして戒しむる 教えは 杖のほかにやはある」
杖は、四尺二寸一分、直径八分の樫の円形である。
一見、杖そのものには、他の武術がもつ様に、それ自体の力強さは何一つとてない。
則ち、先もなけれな後もない、見るからに「平凡」であり、「平和」そのものでさえある。
武術として、最も非攻撃的であるかの様にみられるこの杖が、ひと度難局に面した時、その繰り出す技は千変万化なのだ。
伝書の中に「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」とあるが、「杖」は左右の技を連続的の使い、相手をして応戦に暇なしからしむ状態に陥し入れるのが特色である。
「神道夢想流杖術」は当初黒田家の「男業」の一つとして、主に足軽、士分の者、家老等の武士の家臣が学んだという。
そもそも「男業」とは下士、足軽の捕り方武術を総称していうもので、内容は杖、捕手、縄となっていた。
神道夢想流杖術は「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、 幕末までは「杖を学んでいる者を数えるのに暇がない」ほど門弟も数多くいたが、明治維新の改変に伴う廃藩置県で、藩の庇護をはなれ急速に衰えて行った。
しかし道場を開いて「杖術」の伝統を守り抜いたのが白石範次郎重明である。
白石氏没後(1927年)、一人の高弟が「福岡道場」を発足させ、流派の継承に尽力した。
昭和の始め、もうひとりの高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節等の玄洋社社員の後援を得て普及発展をはかった。
その後、「大日本杖道会」を発足し、それをもって柔道の講道館、警察の警杖術を指導したという。
そして、「神道夢想流杖術」の技法の一部は、日本の警察で「警杖術」として採用され、全日本剣道連盟の杖道形として普及し、剣道の理合と融合した武道の「杖道」となったのである。