1961年に発売された、ハナ肇とクレイジーキャッツ初のシングル「スーダラ節」は、植木等(ひとし)のキャラを決定づけたコミック・ソングといえよう。
しかしレコーディング前に青島幸男がてがけた歌詞を見て、植木は「こんな歌を歌っていいのだろうか」とかなり悩んだ。
植木の実像は"無責任男"とはほど遠く、浄土真宗の僧侶であった父親に、「こんな歌がヒットしたら、日本はおしまいだ」と言い訳をした。
すると父親は、「"わかっちゃいるけどやめられない"という歌詞はが親鸞聖人の教えにそっている。大いに歌えば良い」と、逆に”励まされた”という。
さて、コロナ後のニューライフでは、人間が距離をとり、会話も控えめといったことが求められる。
"食事”についても、横並びなど森田芳光の「家族ゲーム」(1983年)を思い起こす。
しかし、そんな時にこそ、新たな面白さやユニークな価値観が生まれてくるのかもしれない。
アメリカの作家・マーク・トゥエインには次のような名言がある。
「人間に関することはすべて悲しい。ユーモアそのものの隠れたる源は喜びではなくて悲しみである。だから天国にはユーモアがない」。
10年以上も前に、テレビ番組で聞いた、元お笑い芸人で俳優の石倉三郎の話が印象的だった。
石倉は淡路島生まれだが、家の貧しさが苦しくて恥ずかしくて仕方がなかった。
たまたま大阪で暮らし、「貧乏ネタ」で笑いがとれることを発見した石倉少年は、貧乏を恥じることなく、皆に披瀝するようになった。
すると、友人もたくさんでき、自分の居場所を見つけることが出来たという。
そればかりか、お笑いの才が開花し、今日の仕事に繋がっている。まさに、貧乏サマサマだった。
大阪では「おもろいやつ」が最大のほめ言葉、その為の自虐ネタなど、少々のリスクなら冒す覚悟がある。
そんな環境に"大阪のオバチャン"なるものが育つ。買い物をすれば、取りあえず「兄ちゃん、今日は1000円にしとこ、な!」などど勝手に値段設定をして強引に値切ってしまう。
値切った後には、「このネギ、値切ってもうたワ」などとギャグをとばし、「大阪のおっちゃんはどうしてはりますか」と聞くと、「うちのお父ちゃんなら最近はマナーモードになってはる」と、"病気"でさえも"笑い"に変えてしまう。
以前、街中で”BORO”と書かれたポスターを見つけ、「大阪で生まれた女」のシンガーソングライターのことか思ったら、それは全然違うものだった。
その昔、「ボロは着てても心は錦」(水前寺清子)という歌がはやるほど、ボロは貧乏の象徴だった。
しかし、そんなボロの美しさが世界のBOROとして注目を集めている。
青森では、明治の中頃まで綿花が栽培されなかったため、麻を紡ぎ布地を織り、衣類や寝具を仕立ててきたが、江戸の末期に、刺し子の着物が作られる。
刺し子とは麻布を木綿の糸で刺し通してつづっていく技だが、貴重な木綿糸の白色は麻布の藍の色に映えることになる。
そればかりか、目の粗い麻布ゆえに寒さをしのぐ重ね着が、ボロ独特の色合いを生み出す。
中でも、何代にもわたって使い続けられたドンジャ。冬を越すごとに、ツギハギがさらに重ねられ、麻布の藍の濃淡は自然と多彩になっていく。
青森の女性たちは、これ以上使えなくなったボロ布(きれ)を捨てることなく、ふたたび布によみがえらせる技を編み出した。
これまで凶作や飢きんに、たびたび苦しめられてきた青森の人々。犠牲になった多くは幼い子どもたちであった。
青森には、そうした子どもたちの霊を弔う地蔵がたくさん祭られている。
毎年、新しい色鮮やかな衣装を地蔵に着せることで、青森の人々は、幼くして亡くなった子どもたちを代々慰めてきた。
BOROの美とは、究極的には、もののかたちの美しさというよりは、人の心のやさしさと美しさということかもしれない。
生物学で「環世界」という概念がある。生きものはそれぞれの「知覚的な枠」のもとに構築される「環世界」の中で生きているという。
例えばダニにとっての「世界」は、光と酪酸のにおい、そして温度感覚、触覚のみで構成されている。
ダニのいるところには森があり、風が吹いたり、鳥がさえずったりしているかもしれないが、その環境のほとんどはダニにとって意味をもたない。
アメリカ大陸を世代を超えて渡る蝶がいるが、彼らを地球の磁気を感じ取って移動している。
我々はそれを感じ取ることはできないが、蝶にとっては命を繋ぐ、体感情報だ。
動物たちは、それぞれがそれぞれの生活に「役立つ」環境のなかに棲んでいる。役立たない情報は認識されないと言い換えてもよい。
それはそれぞれの動物によって違うもので、すべての生き物は「イリュージョン」を生きているといえる。
ただイリュージョンといっても、誤った知覚というわけではなく、"抽象された主観"という意味である。
つまり人は、環境のなかの幾つかを抽出し、それに意味を与えて、自らの世界認識をもって行動しているとうことだ。
ポスト・コロナで思うことは、マスク姿が日常化すれば、人間の環世界にも幾分変化がおきうる。
例えば、口元は表現の道具である。チンパンジーは怒ったり、逆に恐怖を感じたりすると歯をむき出し、うれしいと口は半開きにゆるむ。
口元で、周囲に感情を伝えていて、離れていても相手の気持ちがどんな状態かわかる。
人の表情筋はサルより発達しているものの、その半分がマスクで隠された状態で、目の動きからどれだけの情報が読み取れるか。
数年前、NHKの動物番組でマングースの子育てを見ていて、動物の世界での「子育ての社会化」について知った。
マングースの子供達は青年オスに弟子入りして昆虫の捕獲法や食事法を学ぶ。
それにはまず、見知らぬ相手と「距離」を近めなければならない。
母親は寒季が来る前に沢山の子供を育てなければならないので、そうした技術を教える余裕がない。
そこで子供達はこれはと思うオスに「自己アピール」して生きる術を学ぶ。
マングースの子は、青年オスに気に入られるように熱意を充分見せたり、可愛らしく振るまわねければ「弟子入り」は認められない。
ちょうど大阪人が、”笑い”で、相手の懐(ふところ)に入る術を学ぶのにも似ている。
結局「自己アピール力」に欠ける子供は生存できないという厳しさで、表情やしぐさといったノンバーバルな情報の発信と受信の力ともいえる。
ここで、ナチスがユダヤ人の子供達に行った恐ろしい一つの実験を思い浮かべた。
それは、ユダヤ人の子供達から徹底的に社会性を奪い取って、命令通りに殺人を犯す「殺人マシーン」を育てようとした実験である。
その子供達には普通の子供達以上の栄養を与えながらも、母親には「お面」などをかぶせて生活させ一切の人間的コミュニケーションを排除して食事だけを与えて生活させたのだ。
こうした子育てを行わせた結果、多くの子供は生存することなく死んでいった。
実は人間は、母親が目を合わせる、名前をよぶ、赤ん坊に微笑んだり頬ずりをしたりする、などして広い意味でのコミュニケーションをはかることによってその生命力が維持されているのである。
このエピソードから得られる逆教訓は、人間生命の社会性ということである。
つまり人間の生命力という能力ですら、個人の自然性だけでは育たないということである。
そしてこれは幼児期だけではなく大人になる過程で、個人の自然性に対する周囲の様々な働きかけや物的な刺激によってようやく発達する。
ポスト・コロナの子育てにおいて、母親がマスクをして子育てをすることは充分ありうることで、マスクの着用は、人間の「環世界」に微妙な変化が生じ、人の心にも思わぬ作用が生じるかもしれない。
我々の経験するところは、食べることは、人のコミュニケーションと結びついた行為であることだ。
例えば、サルたちは、授乳の他は親子であっても、食べ物の分配はしないし、チンパンジーやゴリラが消極的な分配をするくらいだ。
言い換えると、料理を振る舞ったり、一緒に食べたりという行為は、きわめて人間的な行為ということだ。
そして、集まった人たちが同じものを食べながら時間や場所を共有することで関係性が築かれる。忘年会や花見がその典型といえるだろう。
また旅先で地元の人とふれあいながらの郷土料理は、その土地の記憶を一層強くさせる。
おいしいものを食べている最中に、人と人は争わない。
思い浮かべるのは、フランス革命後のウイーン会議(1814年)で、出席者の利害対立を融和させるために、おいしいものを食べ踊ることに時間が費やされ「会議は踊る されど進まず」といわれた。
そのうち、ナポレオンのエルバ島脱出が伝わり、まともな会議がようやく始まる。
また、「同じ釜の飯を食った仲間」という言葉は、日本ばかりではなく、世界的にも共通している。
とはいえ、アジア圏の中では日本人は一人で食べる傾向がある。それは和食が花鳥風月を楽しむことと結びつく傾向があるからかもしれない。
韓国をフィィールド・ワークとするある文化人類学者によれば、日本は料理を1人前ずつ盛り付け、取り箸を使うのにも慣れている。
いわば、「孤食型」の食事で、一方の韓国は「交流型」で、食卓は議論の場になり、囲んだ大皿に自分のさじや箸を付けて口に運ぶ。
食事の基本はご飯、汁、漬物で構成は日本と同じ。ただし、ご飯はいつでも器に山盛りである。
ひと粒たりとも残さないようにしつけられた日本人には重荷にも感じるほどなのだが、他者へのあふれるほどの「情」を表すからだという。
しかし、韓国でも若者を中心に孤食化の傾向が強まっておりコロナ禍は孤食志向を強めるであろう。
食のコミュニケーションを失わない知恵は、リモート食事会ばかりではなく、嗅覚から触覚までフル活用する斬新なアイデアがでてくるに違いない。
実際、歴史を振り返れば、人間は最も悲惨な時に、新しい価値や楽しみを生み出してきた。
第一次大戦後、不戦条約というのも生まれたし、クリミヤ戦争の頃には「赤十字精神」も生まれた。
アンリ・デュナンはスイス人の実業家で39歳の頃、1859年北イタリアでソルフェリーノの戦いに遭遇し、その救援活動をしている地元の女性たちの群れに入り、自らも救援活動に参加した。
ジュネーブに戻ったデュナンは、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語り伝えるとともに、1862年11月「ソルフェリーノの思い出」という本を出版した。
この中で、戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること、そのための救護団体を平時から各国に組織すること、そしてこの目的のために国際的な条約を締結しておくことの必要性を訴えた。
そして翌1864年には、ヨーロッパ16カ国の外交会議で最初のジュネーブ条約が調印され、国際赤十字組織が正式に誕生した。
このとき、「白衣の天使」ともよばれたナイチンゲールは42歳で、ナイチンゲール看護学校設立し活躍していた。
赤十字活動には関わっておらず、ボランティアによる救護団体組織の設立などをしたが、構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は長続きしないと反対した。
ナイチンゲールは、統計やデータの客観性を重んじるリアリストだった。
実は、赤十字が隔年で贈っている”ナイチンゲール記念章”は、アンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、赤十字国際委員会がデュナンとナイチンゲールが共に死去した翌年の1912年に「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者など」を顕彰するために制定されたものである。
日本では、疫病は思いを残して死んだ人の怨霊が引き起こすものと考えられていた。
祇園祭は863年に神泉苑で行われた御霊会(ごりょうえ)に起源をもち、それは、都で流行した疫病対策だった。
したがって、今年の博多の山笠、京都の祇園祭はハイライトである山鉾(やまほこ)巡行が中止となったのは、皮肉なことである。
統計的にみると、インフルエンザの方がはるかに怖い感染症である。普通の生活をしておれば、コロナなどめったに感染することもないという確率である。
しかし、今回のコロナの怖さは、その病状がわかりにくい点で、朝には元気だった人が夜には急に重篤になることもある。
かかってしまえば、生き死にがかかるという「未知との遭遇」といえよう。
誰しもが生と死という共通したものに囲まれた時間を生き続けるのに、日常の中でそれを忘れがちだ。それが予期せぬ災害によって打ち砕かれる。
かつて、常に死と隣り合わせの生をおくった武士にとって、「諸行無常」の意識がが生死の覚悟の基となった。
西洋ではペストに襲われた中世人は、常に「メメント・モリ(死を想〈おも〉え)」を戒めにしたという。
死を常に想起することによって、生に対して緊張感に満ちた輝きを与えようとしたのである。
老いや病いは、人々の意識から遠ざけるように、日常から隔離されている。そんな現代日本で、人々はどれほどそういう意識があるだろうか。
思い出すのは、東北震災後、人々が悲しみの只中にあったにもかかわらず、整然と救援を待っていた。
そればかりか、老人は若い者に食べさせようと、お握りを渡したりしていた。そうした日本人の姿は世界で称賛された。
かつて上智大学の宗教学教授・宗像巌は、公害で被害を受けた水俣について次のような報告を書いている。
「家族や漁村共同体の多くの人々をつつみ込んだ悲しみの共同体験は、人々の間に一時的な不安と緊張を起こしたにもかかわらず、やがて人々の心の奥に流れる生命の連続環を媒介にして、純度の高い愛の共同体験として展開されている」。
石牟礼道子の「苦界浄土」という言葉に、それがよく表れている。
ただ、これらはよほどの異常事態の結果として生じることで、そうならないように、国家は人々の生存権の要求に応えることを最大の仕事とする。
そのために自粛要請も私権制限もアリなのだが、そんななかで殺伐とした思いに駆られることは、職場や学校教育でも、命を守るために、コミュニケーションを控えるなど、人間の本質的なことを犠牲にしなければならないこと。
もっと本源的なことは、まつりごとは、祭事から政治へと委ねられ、宗教的なものを追放したことだ。
それは、政教分離の原則に基づき、戦没者の慰霊が無宗教で行われることなどに表れるが、どこか味気ない。
コロナが去っても、人々は「距離をとること」が意識にのぼらざるをえない社会がくる。
そんな中、人々はどういう繋がりを見出していくか。
高杉晋作の「面白きなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」という言葉のごとく、人間はどんな時にも"面白さ"を見出してきた。
世界に残る民謡や「バナナボート」などの労働歌は、労働の苛酷さを忘れようと生まれたものである。
ソウルも、ジャズも、スーダラ節も、行き詰った世界を打破すべく、"面白がり精神"が生んだものだ。
上述の高杉の歌は辞世の句であり、どこか無常感を感じさせる。人々は無常感を共有することによっても、繋がりうるものなのかもしれない。