コロナ禍で毎日、感染者の数や死者の数が発表される。一部の有名人を除いて死者の名前が明らかになることはない。
一方、アメリカ在住の記者が、ニューヨークタイムズが書いている。コロナ禍で亡くなった1000人の名前を連ね、失われたのは数字ではなく、それぞれが名前をもった人というあたりまえのことの重さが伝わった、と。
昨年、京都アニメ放火の際に、被害者の"数だけ"が発表された。関係者でなくても、亡くなった人の人となりを知ったうえで死者を悼みたいという思いはある。
マスコミが実名報道を控えたのは、取材で暮らしが脅かされること、なによりも静穏にしてほしいという遺族感情に配慮したためだという。
一方で、時代背景の違いはあるにせよ、世界から弔文を寄せられるほどに、世界に作品をつくったクリエーター達なのだから、亡くなった人の名前とその業績を伝えることは、マスコミの役割であるにちがいない。
だが、事件から1か月半、ようやく多くの新聞各社が実名報道に踏み切った。
なかでも、朝日の大阪社会部長は、「ファンから愛されたクリエーター、夢を膨らませて入社した若い作り手…。失われた命の重みと尊さは”Aさん”という匿名ではなく、実名だからこそ現実感を持って伝えられると考えているからです」と語っている。
思い浮かぶのは、天童荒太の小説「悼む人」(2009年)である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人をも悼む。いわば自分と無縁な人の死を悼むことをする。
ただ「悼む」ために、故人のことを知るために、故人の遺族こう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死を愛しむ思いから自然に湧き出た問いにちがいない。
インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。それを映像でみると本来、もっと悼まれ看取られていいはずなのにそれがなされないことを痛感する。
とはいえ「悼む人」のいない死は、「無縁社会」と化しつつある日本も、よその国のこととして見過ぎすことはできない。
孤独死や幼児虐待に代表されるように、人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」に何も感じなくなっている。
大事故や事件に見舞われ、誰が死んでもよかったかのような死を、何も準備されずに強いられる人々。
そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「いたましい」と思う。
というわけで、天童荒太の小説「悼む人」には、この社会に対する「異議」が潜んでいるようだ。
現代人の意識に中で、マスメディアが総体として人間を数字で扱うことと、各個人が自らを数字化(記号化)することとは随分趣(おもむき)が違うようだ。
現代人は自らの名前を、符号化したり数字化することに、抵抗がないのかもしれない。
それは、SNSの発達が生み出した傾向ともいえる。
最近の調査では、女子高生の7割がSNSなどで「裏アカウント」を持っていた。
使う名前に応じて言葉使いや振る舞いを変えることで、自分自身の見せ方をうまくコントロールしている。
たとえ仮のものであっても、同じ名前を使い続ければ、個人の行動履歴などが集積し、どんな人物なのか浮かび上がる。
みずから素性を隠してけして知られまいとするとき、存在をデータにして匿名化する無機質な数字は、人々に安心感を与える装置を与える。
また日本人には、伝統的に「名前をよばない文化」があるようだ。
例えば、上司や同僚を部長・先輩、配偶者をお母さん、パパと役割名でよぶ。普段呼ばない名前が公になることへの忌避感、ある種の「忌み名的感覚」があるという。
また会議の「議事録」で平気で名前が伏せられたりするのは、忌み名的感覚と少し関係があるのかもしれない。
それによって責任が曖昧になって、過去の検証が生かされないことが多い。
現代において、インターネットを通じて、誰もが情報を発信し、つながることが出来る今、実名を明かすことは忌み名的な抵抗感もありそうだ。
さて、文学や映画にも、数字や記号となった人間が見事に表現されている。
村上春樹初期の作品「1973年のピンボール」に数字で表現された双子の姉妹が登場する。
主人公の「僕」がある朝目覚めるとなぜか双子が隣で寝ていた。
そして、目を覚ますと慣れた手つきで朝食を作り始め、おいしいコーヒーを淹れてくれる。
主人公の「僕」はびっくりするものの、3人でごはんを食べ、それから一緒に暮らすようになる。
この二人は、FM放送のステレオ・チェックのように交互に語る。
双子はそっくりでまったく見分けがつかないので、「僕」は名前をどうするか迷ってしまう。
すると双子は、例えば「右と左」「縦と横」「上と下」「表と裏」「東と西」といったように、好きなように呼んでいいという。
そこで、「僕」は、それぞれ胸元に大きく208か209と書かれたトレーナーシャツを着ているので、二人を「208」と「209」と分けて呼ぶことにする。
このトレーナーシャツは、スーパーの開店セールで無料で貰ったものらしい。
そのせいか双子は服には無頓着、突然居候してきたにも関わらず、服はこれ以外ほとんど持っていない。
それを週に一度お風呂場で2人そろって愛おしそうに洗う。
2人はいつも一緒で、顔を近づけてコソコソ話したり、クスクス笑ったり、無邪気にじゃれあっている。
しかし残念ながらこの双子も数カ月もすると帰るべき処へ帰ってしまい、それがどこだかは分からない。
そんな自由きままな二人は"数字化(符号化)”によって、不思議な魅力を放っている。
ところで、人間の名前が数字となったストーリーといえば、映画「海の上のピアニスト」(1999年)に登場する主人公のことが思い浮かぶ。
大西洋を横断する豪華客船ヴァージニアン号には、風変わりなピアニストが乗り組んでいた。
彼の名は生誕の年にちなんで「1900(ナインティーンハンドレッド)」。
船で産み落とされ機関士によって育てられた彼は、誰も耳にしたことのないような素晴らしい演奏をする。
そして「1900」は、またたく間に人気者となる。
「1900」の才能からすれば、世に出れば大きな舞台で活躍することができたかもしれない。
しかし、彼が望んだのは、有名になることでも、裕福に暮らすことでももない。
「1900」は、友人に「自分は存在しない。君だけが、君だけが僕がいたことを知っている」と語っている。
ただ自分という人物が存在したということを覚えておいてくれるただ一人の人がいればいいという。
「1900」は、一生船から出ることもなく、彼にとっては船上での生活が人生の全てだったし、そのことを後悔したりもしていない。
彼にとって生まれた年と場所が唯一のよりどころで、それこそが彼のアイデンティティなのだ。
もし彼が船を降りれば、自分のルーツや出生が不明であることを意識せざるをえないであろう。
「1900」は、あえて彼の人生を世界の文脈から切り離し、船の上で完結させたかったのかもしれない。
唐突に、学生時代にみた映画に「流されて」(1974年)というフランス映画を思い出した。
船が遭難し上流階級の女性 と下層に生きる男が一つの孤島で生きることになる。
いわば社会性を剥ぎ取られた男女に恋愛感情が生まれるわけであるが、二人の恋愛の終局は救助船がやってきた時、つまり再び以前の社会性を身に纏わなければならなくなった時にやってくる。
「1900」が船上の生活を選んだように、二人でそのまま島での暮らしを選びとることなどできるはずもない。
なぜなら二人にはそれぞれの家族があり、数字ではない固有の名前があるからだ。
二人は互いに気持ちを残しつつも、別れを自然に受け入れ、再び社会の文脈に戻っていく。
自分の感情をまったく出さずに仕事をする人をみると、この人本当に血が流れているのかという思いにかられる。
法律と化した裁判官とか、コールセンター女史の声とか、マニュアルと化したアルバイトとか。
一度、レストランで「お水ください」と言ったら、「お水とは、お冷やのことでございますか」と聞き返されて、「はい、冷たいお水のことでございます」と冷静に応じたことを思い出す。
人間の感情をそぎ落として仕事をしているかに見える人をみると、ちょっとは笑わせて本当の人間性を見たくなる。
バッキンガム宮殿の前に立つ直立不動の衛兵に、”変顔”して笑わせたくなるアノ気持ちである。
さて、映画「ペーパー・チェイス」(1974年公開)は、ハーバード・ロースクールに学ぶ若き法律家の卵たちの激しい競争を描いていた。
そこに登場するキングフィールド教授が強く印象に残っている。
「法律の権化」のようなキングフィールド教授が、学生達一人一人に法の問題点を提示し質問をタタミかけてく。そこにいかなる情け容赦も妥協もない。
教授は学生の論理の甘さをツキ、叩きのめすのがルーティーンであるかのようだ。
キングフィールド教授は、一体何人の法律家志望者の”屍”を築いたことであろう。まるで”キリングフィールド”だ。
近年、ハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」を見て一番驚いたのは、明るくてソフトでフレンドリーの雰囲気をただよわせていたからだ。
それは、同じハーバード大教授でもここまで違うかという感じである。
そもそもハーバード・ロースクールに入ってくる男は、もともと尋常な頭脳の持ち主ではない。
異常な知能指数や突出した速読の能力をなんの衒いもなく開陳する。
そんなスーパーブライトの彼らにあっても、教授の緊迫した質問攻めについていけず脱落者がでる。
ある学生は、写真のように再現できるほ記憶力の持ち主だが、法律を現実に応用し使いこなせないと思い知らされ、命さえも絶ってしまう。
学業の厳しさと学生結婚した妻の妊娠を機会に、大学を去る学生もいる。
この映画の圧巻は、その猛勉強ぶりにあるといってよい。アメリカのトップの大学は、単位をとるためにこれほど勉強しなくてはならないか教えられ、今時の若い学生に見せたい映画だが、残念ながらDVD化されていない。
学生達は、なんとかあのキングフィールド教授の鼻をあかしたいという思いの一心で勉強をやっているようなフシがある。
主人公のハートは天才肌ではないが、キングフィールド教授の何らかの「人間味」を見つけ一杯くわせてやろうと思ったのか、友人と二人で夜中に密かに図書館に忍び込み教授の学生時代のノートを持ち出したりもする。
そんな中、主人公は歳上の美しい女性と出会い恋人となる。そのうち、その女性がキングフィールド教授の娘であることを告白、しかも離婚訴訟中であることを打ち明ける。
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この年上の女性を演じたのは、人気テレビドラマ「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」のヒロインとして人気を博したリンゼイ・ワグナーであったのだ。つまり「ペーパー・チェイス」は彼女のお宝映像なのだ。
最終試験を前に主人公は天才肌の学生とホテルに篭城し、天井に至るまで部屋全体にペーパーを貼るなど、ホテルの苦情もかえりみず、1週間寝食を忘れて試験勉強に熱中する。
最終試験も無事終わり、主人公はキングフィールド教授のところに挨拶に行った。
ところが1年間、写真をみながら質問攻めしてきた教授は、主人公の名前さえ覚えていなかったのだ。少なくとも、教授はそのように振舞った。
キングフィールド教授は、権威の権化を演じ続けたのかもしれないが、ここまで学生をくるおしい思いにさせる教授は滅多にいない。
試験終了後、主人公は教授の娘と一緒に海岸に遊びに行く。そこに届いたばかりの成績表をもっている。
そして「成績表」を紙飛行機を折って、海にむけて飛ばす。そして紙飛行機は、心地良く、風に乗ってとんでいく。
紙飛行機は、ついに教授の人間性に迫ることはなかったものの、最後まで脱落しなかったという主人公の”自負”を乗せていたかのようだった。
古代中国にあった「中華思想」にはグローバリゼ-ションの萌芽を感じさせるものである。
中国の周辺の国々は、中国の官制などを多く取り入れ、日本では律令がそれにあたる。
アジア周辺諸国が定期的に貢モノをもって中国に挨拶にいくわけで、古代博多にあった奴国はその挨拶の代りに「漢委奴国王」の金印をもらっている。
つまり中国皇帝から、それぞれの地域をおさめる「王」たるお墨付きをもらったということだ。
こうした中国発のグロ-バリゼ-ション(チャイナイゼーション)の背景に、「規格マニア」といっていい皇帝・始皇帝がいた。
そもそも「皇帝」という称号も、帝国の誕生と共に考案されたものだ。
それまで「秦王政」にすぎなかったが、史上空前の君主に、旧来の「王」という称号ではものたりない。
そこで三皇・五帝の「皇」と「帝」を取って、「皇帝」という称号を新たに定めたのである。
始皇帝は、郡県制の採用、車幅(轍(ワダチ)を統一、度量衡(度=長さ、量=体積、衡=重さ)の統一、貨幣の統一、文字体の統一(篆書)などを行った。
つまり広い中国で広義の言葉の統一を行ったのである。
この時、もうひとつ彼が変えたいと思っていたことがあった。それは「諡(おくりな)」という制度で、君主の死後に、子孫や臣下がその業績を追慕して定める呼び名である。
秦王政は、子どもが父親のことを評価し、臣下が君主のことについてとやかく議論することになる。
「史記」によれば、始皇帝は、それは「はなはだいわれ無し」だと、彼は拒否したという。
日本の天皇の名をみてわかるように白河と後白河、醍醐と後醍醐天皇がいるが、後白河天皇や後醍醐天皇ほどの天皇ならば、もし死後の世界でその諡を知ったとしたら、不満がないだろうか。
後世の人々が「諡」を通じて、今の政治を操作しようとした形跡がないわけではない。
始皇帝はそのことに気づいていたのかもしれない。
そして「朕を始皇帝となし、後世は計(数)うぃもって数え、二世三世より千万世に至るまで、これを無窮に伝えん」。
自分は始皇帝を名乗るから、あとは二世三世の名で続けよということだが、皮肉なことに始皇帝の帝国は彼の死後すぐに崩壊をはじめる。
始皇帝がただ単に、"一番最初"という事実だけの皇帝名にしたのだ。自分を”数字化”しておけば、後世の評価がはいるなどの余地はない。
なにしろ始皇帝は、韓非子の「法家」を採用し人間の感情を極力否定して国をおさめようとした。
「法の権化」と化した、あのキングフィールド教授とも一脈通じるものがある。
さて、チャップリンは「モダンタイムス」で工業社会の中、人間が機械の歯車になる人間の姿を風刺したが、情報化社会の中でどうふるまっていいかわからない人にとって、"歯車"はよほど有難い。
この場合の歯車とはマニュアルに近いが、村田沙耶加の「コンビニ人間」は、現実の世界に絶えず違和感を抱く女性が、バイト仕事のマニュアルと化することによって、ようやく”居場所”を見つけるという内容。
この世の中、血肉をもった自分を表すより、数字や符号化することが、もっとも居心地がよい、つまり安心して生きていけるという人が少なくない。
また一般人でも、デジタル世界で、エンコード(符号化)とデコード(復元)とがあるように、知らぬ間に自己の存在をエンコード/デコードの繰り返しで生きているのかもしれない。