検察とアメリカの影

「検察官の定年延長」をめぐる問題で、芸能人はじめSNS上でハッシュタグつき抗議があがった。
閣議決定した黒川検事の定年延長により次期検事総長になれば、安倍首相に近しい存在だけに様々な案件で「刑事訴追」を免れるシナリオができているのではないか、とか。
従来の法解釈を勝手に変えて、黒川検事長を一般公務員と同じと扱ったことをアトヅケで正当化しようとしているのではないか、とか。
検察庁法改正により、”複雑困難な問題”への対処を根拠に、内閣の”恣意”で検事の定年を延長できるようになれば、一検事の問題におさまらず、後々までも”検察の独立性”が侵されことになる。
この由々しき事態に世論は反発し、自民党は今国会での検察庁法改正を見送ることにした。
ただ、検察の独立を含む”司法の独立”が侵されているのは、なにも今にはじまったことではなく、”黒い影”の存在を感じさせるいくつかの局面があった。
さて、学校で生徒たちは「三権分立」を標語のように学んでいるが、立法権を握る国会が行政権を握る内閣を組織し、内閣が最高裁判所裁判官を差配する。
したがってその実態は国会の多数派(与党)による党派的な"勝者総取り"の仕組みなのだ。
そもそも”議院内閣制”というのは国会と内閣の部分的融合であるし、司法のトップである最高裁裁判官は内閣が作った名簿から選ぶので、内閣の意向に沿う判決しか出さない仕組みとなっている。
ただ後者を"司法権の独立"を侵すものとみなさないようだ。何しろ裁判所の最高裁裁判官は、国民が直接選ぶわけではないので民主的な基盤をもたない。
したがって、最高裁の裁判官が国会の多数派を基盤にした内閣が”人事に一定の選択枠を設けるカタチで”民主的な基盤”を提供するということなのだろう。
何しろ日本は55年以来の自民党政権下で、最高裁まで昇り詰めるような裁判官なら、ほぼ”自民党寄り”の判決しか出さないのは自然で、これが司法権の独立が侵されているようにみえるのも確かだ。
ただ問題は、”自民党寄り”ということの背後に見え隠れする”黒い影”のことだ。
例えば、1950年代朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは日本に再軍備を要求し、安保条約下で自衛隊が設置される。
そこで憲法9条と”駐留米軍”の関係が裁判になったのが"砂川事件"である。
1957年7月、旧米軍立川基地の拡張計画に反対する農民らと警官隊が衝突した中で、基地内に立ち入ったとして、学生ら23人が逮捕され、うち7人が起訴された。
東京地裁は、そもそも「駐留米軍」は戦力保持を禁じる憲法9条に反するものだから、基地の施設を壊そうがどうしようが問題ではなく全員無罪とした。
しかし、無罪判決後に、検察庁は高裁を”飛び越え”一気に最高裁に持ち込み「跳躍上告」を行った。
ナゼそんなに急いだのかも一つの問題であるが、最高裁大法廷は59年12月、「全員一致」で一審判決を破棄した。
最高裁判決では、日本には自衛権があると認めたうえで、憲法9条が禁じた戦力とは「日本の戦力」であり、米軍は含まれないと判断したのである。
近年、安倍首相はこの判決文の中の「国家の存立と安全のために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使」とあるだけなのに、最高裁は個別的、集団的を区別せずに自衛権を認めているとコジツケた。
それなら、民主党政権の時代に、アメリカで開示されたこの最高裁判決に関する文書にもふれてはどうであったか。
最高裁長官が判決前に米国側と連絡をとり、全員一致で無罪判決を破棄する意向を伝えたのだという。
そもそも「跳躍上告」や「全員一致無罪判決破棄」など、地裁の判決に対する政府の”狼狽”ぶりが透けて見えるようだが、これは「裁判所の独立/司法権の独立」と明らかに反する。
さて、砂川事件で伊達裁判長は「駐留米軍は違法である」といいきったのだが、かつて日本で唯一「自衛隊は憲法違反である」との判決(73年9月)を下した裁判長がいた。
防衛庁が地対空ミサイルの発射基地を北海道長沼町に設置するため農林大臣に保安林解除の申請をし、当該地域の森林を切り開こうとした。
それに対して、当地の農民達は、自衛隊そのものが憲法9条違反なのだから、森林を切り開くことは許されないことであり、そのうえ防災上問題があると主張したのである。
この時、札幌地裁裁判官の福島裁判長に圧力をかけたのが、上司にあたる平賀地裁所長である。
1969年、平賀所長は、福島裁判長に憲法判断に触れないよう事前に”手紙”を出して裁判内容に干渉したという事件で、いわゆる「平賀書簡」問題である。
福島元裁判長の証言では、平賀所長が福島氏を日頃から、自宅に呼び、長沼事件を「慎重に審理されたい」と要請していた事実も判明している。
しかし平賀所長は”変わり者”なのではなく、当時の佐藤内閣、自民党治安対策族議員、最高裁長官や右翼などの意を帯びて動いていたにすぎないとみたほうがよい(ちなみに平賀所長は糸島市前原町出身)。
そして二審の札幌高裁は、自衛隊の存在など高度な政治判断を要する「国家行為」(統治行為)は極めて明白でない限り司法の範囲外としたのである。
つまり、自衛隊の存否のような重大問題は「司法」で判断すべき範疇ではなく、国民の代表者である国会で判断すべきとし、判断をさけたのである。
ちなみに、政府はダムをつくって防災上の懸念を払拭し、農民が裁判に訴える利益を失わせしめている。
さて、前述の「平賀書簡」は裁判官の独立を侵した違憲行為であると批判を浴びたのだが、国会内に設置された「弾劾裁判」では裁判官の独立を侵した平賀所長を「不訴追」にしたのに対して、書簡を公表した福島判事の方を「守秘義務違反」として「訴追猶予」として重く罰するというアキレタ結末となったのである。

検察は、起訴の権限を独占するがゆえ、暴走することは大いにあることだ。恣意的にストーリーを作り国民を刑事訴追していく恐ろしさは、村木元厚労省の冤罪事件でも記憶にあたらしい。
そこで、民主的基盤をもつ法務大臣が検事総長を指揮する権限をもたせたのが指揮権発動である。
これは検察に対するシビリアンコントロールとみてもよいが、指揮権発動が、検察権力が国民を守るより、政権保持のための”暴挙”に映ったのが、1954年の造船疑獄に際して行われた法務大臣の「指揮権発動」である。
そもそも、この場合の「指揮権」とは何か。確かなことは、法務大臣が検察の長たる検事総長に対して行使されるものだということ。
検察は、行政権に属する法務大臣の下にあるので、法務大臣が検事総長を何らかの形で指揮することはおかしくはない。
ただ、前述のとおり、検察も暴走の危険性がある反面、時の内閣の"恣意性"によって検察権が歪められることもありうる。
なにしろ法務大臣は内閣の合議のもと、その意をくんだ存在に過ぎないのだから。
そこで、検察側にも独立的、自律的なものが求められるので、法務大臣は”検察全体”ではなく、”検事総長”のみを指揮する権限を持つものとしたのである。
検事総長の管轄下の個々の検事は、外からの介入のをうけることはないということである。
さて造船疑獄は次のような経緯を辿った。1954年、ある有名な高利貸しより日本特殊産業社長についての告発が東京地検特捜部にあった。
調査したところ日本特殊産業が山下汽船や日本海運などから多額の不正融資をうけていることが判明。
さらに日本特殊産業というのは実態のない会社であることも判明し、特別背任の疑いが強くなった。
さらに調査の過程で、山下汽船の幹部宅から、多数の政治家に対する贈賄ないし政治献金の明細を書いたと思われる暗号メモが見つかった。
検察の取り調べにあたったのは特捜1年生で当時28歳のだった後の検事総長・伊藤栄樹。
また、検察により取調べをうけたのは後の首相になる池田勇人や佐藤栄作だった。この事件が政界への広がりを見せた時に、当時の法務大臣の「指揮権発動」により検察の捜査にストップがかかってしまう。
しかし上述のように法務大臣の「指揮権発動」に対してそれに従うか否かは、検察の検事総長の判断ひとつなのであるから「指揮権発動」それ自体が悪いというわけではない。
検事総長の伊藤栄樹は、法務大臣の指揮権を受けたときに、「従う」「したがわない」「辞任する」の3つの対応があるとし、後に法務大臣となった秦野章(田中派)は「従わない」というのは問題だ発言して物議をかもした。
実際、伊藤氏がいうように法務大臣の指揮権を拒否するような気骨のある検事総長など今後出てくるのだろうか。
伊藤栄樹は、すくなきとも”盲従”すべきことではないことを明言しているが、造船疑獄の際の検事総長・佐藤藤佐は法務大臣・犬養健の指揮権に"服した"ということだ。
犬養は、指揮権発動の理由を「事件の法律的性格と重要法案の審議に鑑みて」という抽象的な説明に終始している。
ここで「事件の法律的性格」というのは、海運会社や造船関係団体からのお金が佐藤栄作個人の私腹をこやすためではなく、党の資金となっており、幹事長の立場から資金集めの役割を果たすのは慣例でもあり、佐藤自身の収賄を立件をすることが困難であったことである。
佐藤幹事長は結局、寄付の届出をしなかった政治資金規正法違反で起訴されたが、1956年の国連加盟の大赦令により免訴となっている。
なお「重要法案の審議に鑑みて」というのは、アメリカの”再軍備"要請で生まれた「自衛隊設置法」と「防衛庁設置法」を指すもので、これらはその後成立し、自衛隊が設置されることになる。
実は、この第5次吉田内閣は、防衛二法ばかりではなく、教育ニ法、MSA協定、新警察法などの強行採決、警官隊導入による会期延長など強権内閣を絵に描いたような内閣で、戦後日本の「逆コ-ス」を示す分岐点であり、吉田内閣崩壊をくい止めんとするために「指揮権発動」があったといえる。
背後にアメリカの影が強く感じられるが、 当時より、検察庁14条に認められているにもかかわらず、いままで一度も行使されたことのない「指揮権」発動するという知恵を与えたのは何ものだろうと取り沙汰されたのである。
ともあれ、法務大臣の一声で汚職捜査をストップできる「指揮権発動」なる権力の横暴に対する不信が渦巻いていった。
なぜなら、「指揮権発動」は法務大臣が行使したにせよ、吉田茂首相の意を戴したものであることは明らかで、結果として吉田首相退任の大きな原因となる。
この時訴追を免れた佐藤栄作幹事長だが、佐藤栄作首相のノーベル平和賞受賞(1974年)にあたって国民が心底その栄誉を讃えなかったのは、沖縄返還の”核密約”などを含めそうした経緯があったからだ。

1976年の田中元首相逮捕は、検察庁の特捜部が元首相をおいつめ、いかにも”検察の独立”を顕した一例としてあげられるが、それは実情とは随分異なる。
それはアメリカの意を戴した国策捜査だった。
1973年10月に第4次中東戦争が勃発した。
アラブ諸国が「親イスラエル国」つまり親アメリカ国には石油を「売らない」という政策に転じたことから、第1次オイルショックが起きたのである。
石油依存度の高い日本は、特別に三木武夫特使をサウジアラビアに派遣し、日本をアラブの友好国として認め、原油供給を確保してしてほしいと願った。
また日本アラビア石油は、インドネシア石油の新しい輸入ルートをつくった最初の「日の丸油田」が、カフジ油田を開発し、北海油田開発にも参加した。
しかし製油所建設には、技術は勿論建設に必要な外貨が必要である。
必要な外貨手当ては欧米からの借款に依存せざるを得ず、欧米は、借款の見返りに色々難しい「条件」をつけてくる。
欧米のシステムに組み込まれることなく、経済発展をとげる方法は、日本の技術と資金でプロジェクトを実現することであった。
原油売却代金を製油所の建設資金に当てる構想であった。そしてこれが、産油国のオイルを消費国日本がメジャーを介さず直接購入する、DD取引の最初のケースとなった。
また田中首相の時代に、フランスと濃縮ウランの委託加工を決定する。
しかし日本がフランスに濃縮ウランの委託加工を依存することは、米国の「核支配」をくつがえすフランスの原子力政策を一段と推進することになる。
それは、米国の「核燃料」独占供給体制の一角が崩れることを意味する。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、ポンピドー大統領は「モナリザ」の日本貸出を申し出、田中首相を喜ばせたという。
米国やロスチャイルド、ロックフェラーなどの国際財閥が日本を抑えつけようとしたにもかかわらず、日本は田中角栄の強いリーダーシップで前述のような資源外交を展開した。
これが、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とメジャーの逆鱗に触れたということである。
1973年、ロッキード事件がおきる。
航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件である。
そして、この事件の発端は日本側の捜査ではなくアメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのである。
そして、この事件の特徴は検察当局からすれば大変やりやすかった事件だったということである。
普通、大物政治家に絡む事件では政府より横槍が入るものであるが、それさえなく予算もふんだんに与えてくれ、色々と便宜をはかってくれたのである。
時の総理大臣が反田中派の三木武夫であったということもあるが、国会内部では「三木おろし」の動きが強まっていったにもかかわらず、最高裁もアメリカ側の調書の証拠能力を法的に認め、コーチャンやクラッターなど贈賄側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
ロッキード事件がアメリカ側の「謀略」とまでいえるかは分からないが、少なくとも田中角栄は或る時点でアメリカ側から「見捨てられた」と言えるのではなかろうか。
そして、それが「国策」を帯びた捜査となって表れたのである。
1974年10月号の文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」が田中金脈問題を告発し、1974年12月に内閣総辞職に追い込まれた。
とはいっても田中角栄もさるもので、依然として最大派閥の率いる領袖として、無為無策であったわけではない。
以後、田中氏は政界から追放されるどころか自らの派閥の勢力を増して、「闇将軍」として君臨し続けた。
すなわちその後田中角栄は政界のキングメーカーとして隠然たる影響力を持ち続ける。
検察に怨念を抱いた田中氏は、次々と自分の息がかかった代議士を法務大臣にして法務省を支配し、検察を封じ込めようとした。
しかし1983年田中氏の第一審での実刑判決が出てからは反転した。
つまり刑事被告人が親分だと自派から首相が出せないと「田中離れ」が起き、竹下登氏らの「創政会」結成に繋がっていくのである。
首相在任中から高血圧に悩まされており、次第に政治力は衰え、1993年12月に75歳で死去する。
ロッキード事件の収賄罪は結局最高裁まで争ったが、被告人死亡のため棄却された。

長沼ナイキ基地事件とは、 まとめていうと、自民党中長期政権期の「駐留米軍」や「自衛隊」をめぐる裁判には、相当に「黒い影」がつきまとっていて、「司法権の独立/裁判官の独立」とは程遠い判決であったということである。

さて森友事件で「改竄」という言葉がニュースで飛び交ったのが佐川局長の命令で行ったとされ、近畿財務局が自殺した話だが、政府は「国会での説明」をすみやかにするためにと説明した。そんなこと許されるはずはないのだがかつて起きた「検察のストーリー作り」で証拠となるフォロッピーディスクの中身を改竄した検事がいた。
その時の説明に、検察のストーリーに合わせて起訴が簡単にできるようにといった説明で、安倍首相の説明によくにていたを思い起こす。
2010年、「検察のストーリー」という言葉が世で語られた。以来、検察では取り調べのあり方が問題となって、録音や録画などの「取り調べの可視化」が議論となった。
ただしこれは、検察が自浄力を発揮したわけでも、世論の喚起に促されたわけでもない。
検察サイドが、自らが取り調べられる立場になって冤罪を免れるために要求したまでのことだ。
そして現在、取調べの開始から終了に至るまでの全過程の録音・録画を義務付けられた。
問題の発端は、「郵便割引不正事件」で検察が取り調べで、厚生省の女性幹部の関与など、あらかじめストーリーに合致するように被疑者の証言や証拠を組み立てていこうとするやり方が、明らかになったこと。
これまで、検察は「法と証拠」に照らして、起こった事件(事実)のみを捜査の対象にしてきたと豪語してきた。
それだけに大阪地検特捜部の検事らによる、証拠となるフロッピーディスクの内容の改竄まで行われたことに衝撃を受けた。
さらに改竄した検事と、上司2人の逮捕者を出すという組織的な犯行にまで発展した。
上司2人は、面会した弁護士に、「意図的ではなく、誤って書き換えてしまったと報告を受けた。自分たちは最高検の作ったストーリーによって逮捕された」などと話し、最高検と全面的に対決する姿勢を示した。
なんと、自分たちこそ最高裁のストーリーにハメラレタというのだ。
そして自分たちが、取り調べを受ける側になったら急に「録音・録画」を要求するようになった。
その際、検察サイドの弁護人が、「密室での違法・不当な取り調べによる虚偽の自白で、多くの冤罪が生み出されてきた」として、最高検に「全面可視化」を求めたというのだ。
虚偽の自白強要を断固として否定してきた検察(検事)が、今度は虚偽の自白を恐れて可視化を求めるというブラックジョークのような話である。

日本人はいつも個人を抑制する心理が働き、作為性よりも自然性を好む、つまり意図的な達成よりも自然な成就を好む傾向を好む傾向がある。
これは、誰かがリ-ダ-シップを発揮して明示的な方向づけを行うよりも、皆の意思が行き渡り自然にコンセンサスが醸成されることを良しとする傾向が強い、ということにもなる。 そういう精神風土の中にあっても、政治的場面には「強権」の発動、簡単に言うと「ウムをいわせず権力を行使する」ことは、いくらでもおこりうる。
例えば、ある事柄に特定の利害をもつものの声を無視して、公(国家)のために土地を収用する場合などで、旧くは成田空港建設反対のための三里塚闘争や沖縄の米軍軍用地の土地収用などを思い起こす。
自民党の一党独裁の期間が長かったので、審議を一切行わず(あるいは審議拒否により)に、強行採決で国の重要法案が成立することもしばしばあり、与党自民党の数に頼った「強権」を思わせる場面も多々あった。
こういう「強権」を行使すると、意思決定のコストは低くとも、意思実行のコストは高くなる、つまり強圧的な力ではかえって人が動かないことがおきうる。
一例をあげれば軍用地の土地収用に対する沖縄県知事の代理署名拒否などである。
法案がたてこんでいる国会で、法案審議は時間との戦いで、いかに重要法案であっても全体としてコンセンサスが得られるまで審議しようなどと悠長なことはいっておられない。
必要な審議をして修正があれば修正して、あとは多数決をとるだけだ。
田中角栄の首相在任は1972年7月から1974年12月まで、わずか2年半の在任期間だったが、田中は「原子力政策」の基礎をつくったといっても過言ではない。
そして、この点においても田中の若き日の「理研」との接点を見逃せない。
日本は戦前から理化学研究所の仁科研究室で、サイクロトロンをつくって「核融合」を研究していたが、敗戦後進駐軍にサイクロトロンを東京湾に投棄させられ、一旦日本の原子力研究には幕が引かれた。
アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を受け、日本では読売グループの総帥・正力松太郎がこれを推進し、メリカから軽水炉原子炉技術を買うことになった。
福島型原発のBWR(沸騰水型)や、関西電力などのPWR(加圧水型)はいずれもアメリカの技術で開発された軽水炉である。
そして理研は戦後の原子力の「基礎研究」においても先をいっていた。
物理学の仁科(芳雄)研究室には、のちにノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹も朝永振一郎もこの研究室に身を置いている。
ところで、世界の石油市場はメジャー・オイルの寡占状態であった。
産油国の原油売り渡し価格はメジャーの言い値で決められ、ガソリンや潤滑油などの石油製品は、メジャーオイルからの輸入に頼っていた。
そこで自由に自分たちの石油を使いたい、そのために何とか「自前」の製油所を持ちたいというのが、産油国の長年の夢であった。