「日本人」偽名の客

日本人に偽装する時、かつては「眼鏡・カメラ・マスク」という3点セットがあった。
しかし昨今では、眼鏡はコンタクト、カメラは携帯、マスクはウイルスの広がりで、日本人らしいイデタチの構成要素とはいえなくなったようだ。
しかしながら、日本人らしい行動やしぐさの特徴というのがあって、偽装のプロ(スパイ)はそこまで細かく研究をするという。
そのことを知ったのは、「大韓航空機爆破事件」の真相を追跡した一つのテレビ番組であった。
2005年、アラブ首長国連邦大使館アブダビ勤務の矢原純一に「大韓機消息を絶つ」の一報が届いていた。 矢原は自衛隊から出向していた書記官でヘリのパイロットだったこともあって航空事情に強かった。
大韓航空機の飛行経路チェックすると、交信記録の更新がミャンマー沖合いで突然途切れていることについて、あらゆる可能性を考えてみた。
「故障・故障、ハイジャック、空中衝突、撃墜、パイロットの異常、そして爆破」。
矢原がたどりついた可能性は”爆破”以外にはなかった。当時日本赤軍が活発に動いていたし、犯人が日本人である可能性も否定できない。
矢原は、バグダッドからの大韓航空858便の搭乗者リストを自分の手で再チェック。その中に、「Mrシンイチ」と「Missマユミ」を発見した。
航空券の発券記録から、二人は東欧ベオグラードからバグダッドへ、バグダッドから"大韓航空機"に搭乗、中継地アブダビで降りてバハレーンへ行くチケットになっている。しかし、これは”偽装用”のチケット。
逃走用としてはアブダビからローマへ向かうチケットを所持していたことが、後に判明している。
ところがアブダビで、乗換え専用ゲートで係員にチケットの乗換チケットの提示を求められ、バハレーンへのチケットを見せるしかなく、バハレーン行きの航空機手続きされて搭乗することになってしまった。
つまり彼らにとって手違いが生じ、そのバハレーンで宿泊し、次のローマへの便を待つという想定外のことがおき、それまで緊迫の時間を過ごすことになる。
アブダビの矢原より、バーレーン大使館の砂川昌順と塩原順に「シンイチ」「マユミ」のファーストネームしか記載されていない二人のことが連絡されてきた。
矢原は、彼らこそが飛行機の爆破に関わった可能性があると睨んでいた。
しかし、外交官とはいえ異国の地で何らの捜査をすることはできない。なんとか地元の官憲を動かさなければならない。
バハレーンは中東の空の交差点であり、”入国の確認”さえ特定困難だったが、犯人がこのバハレーンにいる間こそが、日本の大使館員にとっては"唯一の犯人確保"のチャンスだったのだ。
”パスポート・ナンバー”が別人のものであることが判明したが、「捜査権」がないため、出来ることは限られていたので、砂川と塩原は、空港の出国ゲートで二人がパスポートを見せる一瞬を狙うことにした。
そして二人は、容疑者のパスポートを押さえ、日本の”旅券法違反”で容疑者の身柄を一旦は確保することに成功した。
砂川は荷物の中に、手帳の中の暗号を発見し、彼らが日本人ではなく"北朝鮮の工作員"だと確信するが、彼らは突然に用意していた毒入りタバコで服毒自殺をはかる。
「ハチヤマユミ」だけ、バハレーンの係員がタバコを撥ね飛ばしたので、かろうじて助かった。
砂川は嘘を繰り返す「ハチヤマユミ」に面会した。
「私は日本が懐かしい。中国の黒龍江省出身の日本人である」とたどたどしく話す彼女に、砂川は中国語で話しかけたが、彼女は答えられなかった。
砂川が1対1の人間として真心をもって語ると、とうとう彼女は日本人でないことを告白した。
そしてハチヤマユミこと金賢姫(キム・ヒョンヒ)は韓国に移送され、さるくつわをはめられ、腕を抱えられて韓国の金浦空港のタラップを降りる、アノ誰もが知る場面に導かれていくのである。
後に、金賢姫が拉致被害者の田口八重子さんから日本語や日本文化を学んでいることも判明した。
結局、中東の大使館勤務のノンキャリアの3人が、異国で”捜査権がない”という壁をこえ、外務省・国という組織のルールの中で精一杯駆けずり回ったことか、事件解決につながったといえる。
特に、矢原純一が早い段階での爆破の事実を掴み、日本人名の二人が大韓航空機に乗っていて、そして乗り継ぎのため降りたこと。その際に機内に爆発部が入った手荷物を置いていったという適確な推理をしたことが、犯人逮捕に繋がったのである。
実は矢原は、事件後「何故不審に思ったか」とか「何をどう分析したののか」等々、分析の経緯について報告を求められるものと思い、資料を準備していた。
しかし矢原は、そのような質問は一度さえ受けたことなかったという。
つまり外務省は命令は出しても、彼らの活動の中身は上層に吸い上げられていなかったことになる。
当時、翌年のソウルオリンピックを控えて民族意識が高まっていて、教科書問題もあり、日本人がやったとなったら、大変なことになっていたというのに。
2007年12月に放映されたフジTV「金賢姫を捕らえた男たち ~封印された3日間~」で、外務省ノンキャリア3人の身を挺した働きが、ようやく世に知られることとなった。

1998年、「日韓共同宣言」により、韓国において日本の大衆文化への規制は段階的に緩和されていった。それにより日韓関係も改善され、韓流ブームや日韓サッカーも共同開催されていく。
そうした融和の立役者は、金大中(キム・デジュン)大統領だが、野党の大物議員の時代に、日本で何ものかに拉致され、生死の淵をさまよった事件は忘れ去られようとしている。
1973年8月8日 午後1時過ぎ、靖国神社に近い東京九段のホテル・グランドパレス22階の廊下で、金大中議員は知人との会食を終え部屋を出たところで、数人の男に囲まれ隣の部屋に連れ込まれた。
一緒にいた議員は外部と連絡しないよう監視され、ようやく見張りがいなくなり隣の部屋に急いだが、既にもぬけの殻となっていた。
異様なほど遺留品が多く、大きなリュックサックが3つも。更に 殺すことを予告するかのようにアメリカ製の実弾が入った弾倉があった。
捜査をかく乱するために 犯人がわざと手がかりを残したようにも見える。
拉致を実行した男は、前夜マッサージ師を呼んでいる。畑中金次郎を名乗った50歳前後の男は、がっしりした体格。お釣りを渡そうとすると「よろしいワ」と関西なまりの返事。
マッサージ師をよんだのも、偽装工作か。
では、そもそも韓国の大物政治家であった金大中議員は、なぜあの時日本にいたのか。
韓国の民主化を訴えていた事件の2年前 大統領選に出馬し敗れたもののその人気はすさまじかった。
だがその直後に、不可解な事故に遭う。乗っていた車が突然現れたトラックにぶつけられ、同乗者の3人は死亡、金は生涯歩くのに支障が出るほどの重傷を負った。
金は当時の大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)に命を狙われていると感じたという。
韓国の病院で治療を受ければどんな細工をされるか分からないと思い、日本での治療を望み事件の10か月前に来日した。
だが直後に、突然パスポートを”無効”とされ帰国を命じられる。
身の危険を感じた彼は、日本に残り反政府運動を行う半亡命の道を選んだが、日本にあってすら安全ではなかったのである。
さて、金大中の行方はようとして知れず絶望的な空気も漂い始めた5日後の夜、金大中の自宅前に変わり果てた姿で立っていた。
近くのガソリンスタンドで解放されたらしく、口元の殴られたような傷と手足を縛られた痕が生々しい。。
金大中は、子供の頃から日本語教育を受けていて、日本のマスコミに事件の顛末を日本語で語っている。
車で長い時間 走り関西方面と思われる港で船に乗せられた。目隠しをされ 手足を縛られおもりを つけられたので海に沈められると思ったが、その時 奇妙なことが起きた。
船の上を飛行機が旋回し、威嚇するような行動をとったため、それを見た船員たちは金大中の殺害を思いとどまった。
捜査側は犯行の大胆さから、韓国でその名を知らないものはいないKCIA(韓国中央情報部)の犯行と疑った。KCIAは、政権に反対する国民を令状なしに逮捕して拷問、さまざまな諜報活動に従事し誰もが恐れる存在だった。
間もなく日本の警視庁が重要な証拠が出たと発表する。現場に残された指紋がある人物と一致した。彼の指紋が現場で見つかったのはその正体が工作員だったことを物語っていた。
日本の警察は、外務省を通じて金東雲(キム・ドンウン)に出頭を要請するも、韓国側は「外交特権」を盾に拒否したために、捜査は行き詰まる。
あのマッサージ師をもう一度あたり容疑者として浮上していたキム・ドンウンではないかと尋ねてみると、「男はキム・ドンウンに違いない」と断言した。
韓国に戻ったキム・ドンウンは行方をくらまし、日本と韓国の外交問題に発展していく。
この事態に、 金大中本人と直接つながりを持っていた町田貢という外交官がいた。町田は、金大中拉致事件の僅か2日後には犯人の正体をつかんでいる。
事件当時は 外務省の韓国担当。更に事件後は ソウル駐在となり金大中との極秘のパイプ役を務めていた。
町田と金大中の縁は事件の10か月前に遡る。当時 町田は外務省の北東アジア課に勤務していた。
そこに、来日中パスポートを”無効”にされた金大中が助けを求めてきた。
この時、上司に相談された町田は彼の滞在を認めるべきだと進言し、韓国政府の意向に反するビザの取得を助けた。
それは、 韓国の大統領候補を助けておく外交上のメリットも考慮したのであったろうが、さすがの町田も、10か月後のこの成り行きは予想していなかった。
韓国の政府機関が本当に日本で事件を起こしていたなら主権の侵害になる。だが韓国政府は 関与を認めないまま、2か月後に町田はソウルの日本大使館に異動となった。
町田が帯びていた密命は、日本との関係や、金大中の処遇をどうするつもりなのかなど、事件の周辺を探ることだった。
しかし 情報のガードは極めて堅く、町田は大胆な手を思いつく。なんと軟禁されていた金大中に接触して、直接に情報を取ろうとした。
自宅を訪ねると、この日は挨拶だけで帰った。直後に当局から「金大中に近づくな」と警告を受ける。
しかし軟禁状態の金大中にとって町田は貴重な情報源であったため、度々呼び出しがかかった。
時に 日本が警護をしなかったせいで殺されかけた」と不満を言われ激論にもなったものの、信頼を深めた二人は やがて極秘の情報を交換する仲になる。
その内容は 韓国の政情から日本政府との関係まで 多岐にわたった。
自宅は盗聴のおそれがあり、会話は筆談で2時間以上も行い、金大中がマッチをすって全部焼いた。
以後2年 韓国政府が あの拉致事件をどう決着させようとしているか町田の情報収集は続いた。
水面下で さまざまな やり取りが行われ日韓両政府は拉致事件の概要を発表する。
韓国政府は、キム・ドンウンを犯人とは認めず、日本政府は その説明を受け入れた。
これが当時、日韓両政府が折り合いをつけた一線だったともいえる。
金大中拉致事件は誰も犯行を認めないまま闇に葬られ、事件の責任も誰一人追及されないままであった。
そんな中、その一端を暴いた新聞記者がいた。
その韓国人の新聞記者は、事件から14年後に犯行の黒幕とされるKCIAの部長を直撃し、関与を認める証言を引き出した。
この国を揺るがすスクープをものにした記者は、イ・ジョンガク(李 鍾二)という人物。
きっかけは 金大中がある手記を発表し、一人の男の名を挙げ今こそ真相を話すべきだと訴えていたことであった。
名前があがった元国会議員のイ・フラク(李厚洛)には、誰もが知るもう一つの顔があった。
彼は、金大中拉致事件が起きた当時はあのKCIAの責任者で、強大な権限を手に拷問や拉致を企てたと噂されていた。
政治部の記者 イ・ジョンガクは、ソウル郊外で焼き物の工房を営んでいるイ・フラクを直接取材した。
イ・フラクは、「今更 何も話すことはない」と断るが イ・ジョンガクはなおも食い下がった。
今は民主化の時代金大中が大統領になるかもしれない。あなたの主張を世に出すチャンスは今しかないのではないかと。
イ・フラクは しばらく考えた末、ついに「分かった」とうなずいた。
取材は3日間15時間にも及び、金大中拉致事件にKCIAの元トップが事件への関与を認めた。
しかし いよいよ出版という時に、韓国政府より"待った"がかかった。
イ・ジョンガクたちは言論の自由を盾に抗議するが、会社の上層部から一つの提案があり、政府の意向をくんで表現を弱めた。
出版差し止めから8日後表現を修正したことで 政府は印刷を許可した。
すると、発行前から話題となったこの雑誌は40万部という韓国の歴史に残る売り上げを記録した。
2006年7月26日、韓国政府はKCIAの組織的犯行であったとする結論をだし、国家機関が関与したことを初めて政府として認めた。
事件の再調査の責任者は、容疑者として浮上したあのキム・ドンウンからも話を聞いている。
これが 韓国政府の「最終報告書」となっだが、この再調査には意外なところから異論が持ち上がった。
そのひとつが、被害者の金大中からであった。
その理由の一つは船で殺されそうになった時、突然に現れたという謎の「飛行機」についての記述だ。
当時の船員たちに聞いたが、誰一人「飛行機」を見ていないとして事実無根とされた。
ところが金本人は、日本の海上自衛隊あるいはアメリカの飛行機が飛んだかなと思ったという。それとも何かの勘違いだったのか。
1998年、金大中はついに大統領となった。そして在任中に日韓関係の新たな時代を築いた。
そして大統領になった金大中は、この事件を一切不問にするとの立場を明らかにして、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を"けん制"した。
金大統領自身が被害者であっただけに、そこには両国関係に配慮した"政治決着"が存在していることを匂わせるが、その政治決着の裏側が次第に明らかになていった。
金大中拉致事件の時代、日本は田中角栄内閣で、元外務大臣の娘真紀子によれば、田中は「殺害しないこと」を条件に金大中の拉致を認めたのだという。
とするならば、あの飛行機の謎が解ける。ホテルに残された遺留物から”不穏さ”を感じ取った日本政府が、自衛隊機を朝鮮海峡に飛ばしたということか。そこに、アメリカ政府の意向も働いたかもしれない。
当時、金大中は「船で運ばれている途中で両足に重しをつけられ、殺されると観念したが、その時謎の飛行機、あるいはヘリコプターが接近した。船は猛スピードで逃げようとしたが、拡声器で何かを支持され、それから船内の男たちの態度が変化し、以後は殺される心配はなくなった」と証言している。
日本における韓流ブームは一時の勢いは去ったものの、今日本の10代が世界の舞台を夢見てK-POPの世界に飛び込む者が少なくないという。
ここに至る分岐点として、1973年韓国軍事政権下における、ひとりの政治家の”生死”を分けた"007"顔負けの場面があったのだ。