「靴磨き」といえば、我々が映像でみる終戦直後の焼け跡の風景の中のヒトコマ。
美空ひばりの「東京キッズ」の歌そのままに、靴磨きで日銭を稼ぐ少年たちの姿があった。
♪右のポッケにゃ夢がある 左のポッケにゃチューインガム。空をみたけりゃビルの屋根 もぐりたくなりゃマンホール♪。
ケネディ大統領の父親は、靴磨きの少年が株の値段を聞いたのをきっかけに、靴磨きが株に手を出すようでは株はそのうち崩落すると予感して株を売って大恐慌から免れたエピソードを思い出す。
そうした「靴磨き」のイメージを覆した靴磨き職人がいる。長谷川裕也、料金は1足4000円、相場のおよそ4倍という高値ながら客が殺到する。
長谷川の技術は目新しいものではなく、指先の感覚が頼りで、僅か数分で乳化性のクリームを塗って革のハリを取り戻すというごく一般的なもの。
傷とはちがって、履きジワは歩く時に生じるいわば宿命だが、ワックスがけで最も難しいとされる。
ほんの僅かでも厚くワックスを塗れば、確実にヒビ割れるためほとんどの職人は手を出さない。
長谷川の腕の見せどころは、ワックスを使った ”鏡面磨き”の工程で、水を含ませつつ極薄のワックスの膜を幾重にも塗り重ねていく。
ひび割れないギリギリの薄さでワックスを塗っていき、つま先からかかとまで光の筋がつながり、靴全体が輝くようになる。
幾重にも塗り重ねられたワックスが靴を傷から守り、しかもその輝きは、最低でも半年は保たれるほど。
長谷川は、どんな靴でも引き受ける。ただ、靴の痛みの多くが持ち主の日頃の扱いに問題があることは、よくわかっている。例えば、かかと付近の こすり傷。逆の足で引っ掛けて脱いだためついたものだ。
ただ、長年の経験から生まれた真情は「靴は相棒」「人生を共に歩んでるパートナー」で、いい感じに壊れてますねとか、磨きがいがありそうなどといいつつ、心良く引き受ける。
ある客の靴は、雨にぬれたことで 革にしみこんでいた汗などの塩分が浮き上がり、大きなシミになっていた。従来の常識にはとらわれずに、靴を丸ごと洗ってをシミをとる。
その分、油性のスプレーで革に栄養を与えれば、シミは全然なくなってしまう。
長谷川は、1984年千葉・木更津の生まれの36才。母はスナックで働くなどして女手一つで長谷川と妹を育ててくれた。
長谷川は「なんとかして 母を支えたい」と、 そればかり考えていたという。
高校を卒業し、英会話教材のセールスマンとなり朝から晩まで売れるだけ売ったが、無理がたたって体を壊し1年で会社を辞めざるをえなかった。
時代は 平成不況の真っただ中で製鉄所で働くも、正社員への道は険しく 日雇いバイトで食いつなぐ日々が始まった。
1日7000円のアルバイトで食いつないでいたが、仕事がいつもあるわけではなく、気付けば財布のなかはついには2000円しかなくなっていた。
誰に頼れるわけもなく、日銭を稼がないといけないと思い浮かんだのは、路上マッサージと靴磨き。
もともとファッションが好きだったから、靴磨きにし100円ショップで、靴磨きのセットとお風呂用のイスを2つ買い、東京丸の内のオフィズ街の路上で靴磨きを始めた。
それでも初日7000円を売り上げ、自分のアイデアで稼げたという感動があった。
もともと人と話すのが好きだから客と会話しながら靴を磨いてお金をもらうというのが楽しくて、いい商売だなと思ったという。
しかし所詮は素人の靴磨き、痛みを伴って転機が訪れる。
ある日、客に「下手くそ。プロの仕事 見たことある?」とこき下ろさ、元来の負けん気に火が付いた。
東京中の職人を見て回り、初歩的なことから技を盗んでいった。
ある日のこと、40代の男性がやって来て、不況下で失業。転職活動を続けているが、うまくいかないという。
自分と似た境遇を感じただけに、靴を精いっぱい磨いて送り出した。数か月後 その男性が笑顔で現れて採用がきまったことを報告にきてくれた。
靴磨きは靴を磨くだけの仕事ではなく人生をも輝くせるものと、のめりこむようになった。
気が付くと、いつしか行列がきるまでになった。
しかし、長谷川はこの仕事に注がれるまなざしが決して温かくないことを知っていた。
靴磨きの格式をあげようと、仲間を集い南青山に靴磨き専門の店を構えた。
設立のための借金は自分一人で背負って、料金は3倍にあたる1足1500円に設定した。
常識外れの高値に客が一人も来ない日もあったものの2500円 、4000円と値上げしていった。
常に自転車操業であったが、靴磨きという仕事を”押し上げる”ため何があっても値は下げないと決めていた。
母も支えてくれ、なんとか店を続けるうち応援してくれる客も現れた。
それは路上時代から通い続けていた客で、会社の後輩を引き連れ 来店し、身銭を切って支えてくれた。
そして33歳の時に出場した世界大会で、本場ヨーロッパの出場者を押しのけ優勝し、世界一の靴磨き職人の称号をえた。
現在は、日本では珍しい靴磨き専門店「Brift H(ブリフトアッシュ)」 の代表をつとめる。
、東京の南青山によく馴染むスタイリッシュな雰囲気の店、従業員は10名だが商社マンと見紛うばかりの出で立ちだ。
長谷川が従業員に繰り返し伝えてきたこの仕事への覚悟は、どこまでのめり込めるか。のめり込めれば おのずと心は磨かれるということ。
キャッチフレーズは、「人生よ、足元から 輝け」。
佐賀県みやき町の工房には全国の料理人から包丁が届く、しかも研ぎの予約は2年待ちという。
そんな工房の主人は、包丁研ぎ一筋53年の研ぎ師・坂下勝美、現在76歳。
その手にかかれば、家庭用の包丁ですら、名刀のような切れ味に生まれ変わるという。
坂下が「孤高の職人」といわれるのは、研ぎの技は誰におそわったわけでもなく全て我流であること。
通常 包丁は「面」で研ぐが、坂下は 丸い砥石に「一点」ずつ押し当てて研ぐ。手間は かかるが、ピンポイントで繊細に研いでいくことで理想的な刃の形を作り出すという。
特に丸い砥石を使って、食材との接触を減らす「空気の通り道」を、手間をおしまずひたすら研ぎ重ねるのが真骨頂。
一見 平らな包丁の表面に見えるが、水を流すと 刃先としのぎの間に作られた「空気の通り道」が姿を現す。
鋭いだけでなく、食材との接触を極限まで減らした包丁。刺身を引けば 角が立ち細胞の中に閉じ込められた”うまみ”をそのままに残す。
研ぎ始めてか3日、仕上がった包丁は、最後には新聞紙に刃先を当てその音を確かめる。
そうして料理人の元に届けられた包丁の刃先は、まるで食材に吸い込まれるかのようになっている。
京料理にかかせない夏が旬のハモを調理する「ハモ切り包丁」の研ぎ直しが始まる。
体じゅうに硬い骨が走るハモの骨切りは、料理人の腕が問われるが、実はその技術にとって”包丁”こそが命なのだ。
注文があったら店を訪ね、料理人の身長やまな板の高さまで頭にたたき込み、”何ができるか”を考え抜くことも多い。
銀座のある料理人の包丁に取りかかった時、刃元の一部分に小さな”欠け”が集中していた。
砥石を出して、包丁から料理人の癖を読み、”欠け”の多かった部分の切れ味をあえて落とす。
更に 料理人の身長やまな板までの距離を考慮し最適な刃先の角度へと落とし込んでいく。
包丁は終生、生きていて、目指すのは”使う人と共に歩み成長する包丁”なのだという。
そこまで、細部まで心を配るのは、坂下が母に教わった大切な言葉がある。
ニラの葉極めて細くとても何かを包めるようなものではない。そのニラの葉でも包めるほど人の心は繊細でこまやかなもの。
今でこそ全国から依頼が殺到するが、坂下の半生は「包丁屋」と蔑まれる屈辱的なもので、歯をくいしばって続けてきた。
坂下は1943年5人家族の長男として生まれた。高校を卒業後、自動車のセールスマンをしていたが、22歳の時に転機が訪れた。
近所の人が電動式の”包丁研ぎ機”を発明したのをきっかけにその販売を手がけることになった。
市場を回っては肉屋や魚屋に研ぎ機を売り歩き依頼を受けると、自らもその機械で1日200本もの包丁を研いだ。
しかし、ある日客にから苦情が出たことをきっかけに、 一念発起。25歳の時に販売の仕事を辞め、”研ぎ師”として一から学び始めた。
包丁鍛冶の職人を訪ねては教えを請い、いい砥石があると聞けば借金をして購入した。
昼も夜も研ぎ続け、理想の研ぎを追究したが、いくら努力しても腕が認められることはなく、借金は700万円まで膨らんでいた。
ある日、研いだ包丁を届けにいくと、いきなり包丁屋がネクタイするのかと笑われた。
”包丁研ぎ”は、ネクタイを締めることすら許されないのかと、気持ちはささくれ立った。
そんな屈辱的なあつかいをうけていた頃、母のキヨさんが亡くなった。その葬儀で目にしたのは、参列者と花であふれかえっていたこと。
暮らしは貧しかったが、キヨさんは困っている人がいるといつも丁寧にお茶をいれ 振る舞った。
そして、坂下は母親の生き様を胸に宿しつつ、もう一度 包丁に向き合い始めた。
目指したのは、自分が認められるためではなく、ただ使い手の気持ちを考え抜いた包丁である。
実際、坂下の包丁が認められることはなく、磨くときに食いしばった歯はほとんど抜け、手は傷だらけで指は変形した。
そして研ぎ師の道に入ってから30年、その仕事を認めてくれる人がようやく現れた。
その人は後に”三つ星”を獲得し日本を代表する料理人、この出会いがきっかけとなり一人 また一人と研ぎの依頼が増えていった。
やがて「佐賀にすごい研ぎ士がいる」と評判になり、全国から注文が殺到するようになる。
永六輔の「職人」という本に「染み抜き」職人の言葉がある。染み抜き職人の仕事の極意は、"自分の仕事の痕跡をのこしてはならないこと"だ。
したがって「染み抜き」の仕事はけしてカタチとして残ることはない。
清掃という仕事もカタチが残るわけではないが、イギリスの航空業界格付け会社の格付けランキングで、羽田空港は2013年から4年連続「世界で最も清潔な空港」として選ばれ記録に残った。
日本人は昔から清潔好きな国民性をもつが、空港の綺麗を支えるなにかがあるはず。
そう考えたTVディレクターが出会ったのが、新津春子という女性。
想像したイメージとは違い小柄で細身の新津の1日は通勤時にエスカレータを使わずに50段の階段をかけ上り、職場についてからは鉄アレイを持って20分以上の体力作りから始まる。
片言の日本語で応じる彼女に経歴を聞くと、第2次世界大戦の時に中国に取り残された日本人を父に持つ、中国生まれの「残留日本人孤児2世」であったことがわかった。
1972年日中国交回復を機に、父親が軽率にも自分たち家族が日本人だということを公(おおやけ)にしたため、その日から誰からも親友からも相手にされなくなり、ついに日本に戻ることを決意した。
17歳で日本に帰ってきたが新津の家族は日本の「豊かさ」に日々目を見張る日々で、いかようにも新しい人生が開けるように思えた。
しかし家族は皆日本語できず、仕事もみつからず、そのうち貯金はつきた。
父親は頑なな人で、日本政府から支給される生活保護をさえも拒否したため、何か月もの間も、家族は30円の「パンの耳」だけで日々を凌いだという。
ところがある日、「アルバイト清掃員募集」の張り紙をみつけて応募したところ、新津一家ごと働くことが許され皆が必死に働き、アルバイトから正社員になった。
新津は、残留日本人孤児2世というだけで中国でも日本でもいじめにあい、自らの居場所を見いだせずにいた。
清掃の仕事は中国同様、日本でも低い位置づけしかされていないことがすぐにわかった。掃除しているとしても、お客に「どうぞ」と言っても相手の返事が来ない。
こっちを見もしないどころか、まったく目に入っていないことを感じた。それでも、言葉ができなくても仕事ができることが一番だった。
それに新津は「自分の居場所」がはじめて見つかったことが何より嬉しかったという。
そしてどんな「汚れ」も見逃すまい、どんな汚れでも「拭い去ろう」と創意工夫を重ねていった。
そのために使う洗剤は80種類を超え、自らも清掃道具を開発して、その数50におよぶ。
10年ほど前、シンガーソングライター・植村花菜の「トイレの神様」が話題をよんだ。
歌詞のなかに、掃除が苦手な幼い植村におばあちゃんが言った言葉がある。「トイレには、それはそれはキレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら、女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」。
そして植村は、べっぴんさんになりたくて、気立ての良いお嫁さんになりたくて、せっせとトイレを磨き続けてきたという。
さて、新津は23歳の時に羽田空港の清掃員として働き始めるが、そこで日本空港テクノ社の鈴木優常務に出会う。
鈴木常務は、汚れや洗剤で分からないことはないといわれるエキスパートだった。
新津はそんな鈴木常務の「熱血指導」を受けている間に「清掃の面白さ」を感じるようになったという。
そして、いつしか「自分にはこの仕事しかない。ならばこの仕事を究めよう」と思うようになった。
しかし、いくら頑張っても鈴木常務は新津の仕事ぶりを一度も褒めることはなかった。いつも「まだ、まだ」と同じ言葉が返ってきた。
どこが足りないかと尋ねると、「君は、いまだ清掃のことがわかっていない」ともいわれた。
がむしゃらに学んで3年が経ったある時、鈴木常務から全国の清掃員が集まる全国大会への出場を打診された。
「全国ビルクリーニング技能競技会」で、腕には自信があった。ところが、絶対1位になれると思った予選会は2位だった。
いったい自分には何が足りないのだろうという疑問が強くなった。
そんなある日、鈴木常務が新津の掃除を止め「心に余裕がなければいい掃除はできませんよ」と語った。
確かに、清掃の技術で高いものがあったが、心の中はいつも”凍って”いたことに気が付いた。
結局、掃除の良しあしを判断するのは客だから、それ以来無理してでも微笑もうと努め、2か月の間、鈴木と特訓に取り組んだ。
技術だけでなく、邪魔にならない身のこなし方から、見えない箇所やニオイにまで気を配るようにした。
そして特訓に励み、全国大会において、見事日本一に輝いた。それを報告すると鈴木常務から意外な答が返ってきた。「優勝するのはわかっていたよ」と。
新津春子も、ようやく「掃除の神様」に出会う。