旧約聖書には、不思議な書がまぎれこんでいる。なにしろ次のような言葉が繰り返し続く。
「私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである」。
この”空(くう)”という言葉、ヘブライ語の原典の意味では「つかの間」ということで、日本人には案外と馴染みやすい言葉かもしれない。
古代のエルサレムの王と名乗る「コレヒト」という人物が、人の世の有様を語ったのが「伝道之書」。
カトリックとプロテスタントの「共同訳聖書」では「コレヒトの言葉」と訳されている書で、 「太陽の下新しいことは何一つない」という言葉は最もよく知られた言葉である。
さらにコレヒトは、人生の不条理を語る。
「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう。わたしはまた心に言った、これもまた空であると。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。そこで、わたしは生きることをいとった」。
コレヒトは自分を知者と自認しているのようだが、信仰者とは思えぬ厭世観さえただよわせている。
実はこのコレヒトの正体は、なんとソロモン王(BC971年~931年)なのだ。
ちなみに「伝道者」は、ヘブライ語で「コーへレス」と呼ばれ、「教会を召集する者」「伝道者」「説教者」等を意味する。
ソロモン王はダビデ王の子で、エルサレムに神殿を築いたイスラエルの王であり、当代の最高の知者であり、栄耀栄華の絶頂にあった人物である。
ソロモン王の知恵は、旧約聖書に「箴言」としてまとめられているが、ソロモン王の富についてば「ソロモンの秘宝」を未だに探している人々もいる。
エチオピアのシバの女王はじめ多くの人々が、ソロモンの謦咳に接しようととエルサレムを訪問した。
ポールモーリア楽団のイージー・リスリングの定番「シバの女王」は、その時の壮麗な会見の場面を音楽として表現したものだ。
また、江戸時代の「大岡裁き」の中に、ソロモン王の裁きの"焼き直し"が登場する。
二人の女が一人の子どもの親権を 争ってソロモン王の前にやって来て、互いに自分の子だと譲らない。
そこでソロモン王は言う。
「その子を剣で二つに切って、それぞれが半分ずつをとりなさい」。
すると片方の女が応える。 「それはあまりに不憫なので、それならその子は相手の女のものにして下さい」。
ソロモンは、「あなたがその子の母だ」と結審する。
世界各国に様々な形で、このソロモン王のエピソードは広まっている。
また、自然ばかりかすべてのことに「道」があるというソロモンの言葉も味わい深い。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」(「伝道之書」6章)。
さて、人生の知恵と無常感となれば、吉田兼好の「徒然草」を思い浮かべる。
「蟻のごとくに」(74段)を現代語訳で紹介すると、「このようにあくせくと働いていったい何が目的なのか。 要するに自分の生命に執着し、利益を追い求めてとどまる事が無いのだ。このように、利己と保身に明け暮れて何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくる」。
ただ「コレヒトの言葉」が、「徒然草」の諦観と違う点は、”神への思い”や"永遠への思い”が、そこはかとなく表されている点である。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である 」(伝道之書3章)。
「徒然草」も、人生を楽しく愉快に過ごせという。
「命という宝を忘れて、やたらと快楽や金銭という別の宝ばかり追い求めていては、いつまでたっても心満たされることはない。そんなふうにして、生きている時に生きる喜びを楽しまないで、いざ死ぬ時になって死を恐れるならば、私の言う理屈とは合わない生き方をしていることになる。
つまり、誰もが生きる喜びを楽しもうとしないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないからではなく、人間はいつも死と隣合わせに生きているという自覚がないからなのだ」。
吉田兼好は、死の隣合わせの人生だからこそ、心から楽しもうというのだ。
「伝道之書」には、次のような言葉がある。
「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ、悪しき日が来たりてなんの楽しみがないという日が来ぬうちに」。
「徒然草」も、同じようなことをいっている。
「年老いてから初めて仏道修行をしようなどと待っていてはいけない。古い墓の多くは年若い人の墓なのだ。不慮の病にかかって、にわかに、この世を去ろうとする時に、始めて過ぎてしまった過去の、誤りは思い知るものであるよ」(49段)。
さて、吉田兼好にならって、最近の心にうつりゆくよしなしごとを書きつづれば、人は老いていくにつれて、色々な「ほころび」がアラワになるようだ。
それが、身体的なものだけならまだよい。
聖書によれば、死は人類創生の時に「罪」によって入り込んだものであるから”死”向かっていく人間の姿というものは、そんなによかろうはずがない。
その壊れ様は、ある意味人間の真実が露わになる過程であり、それは誰も免れるものではない。
カリスマとよばれる人に突然の死が襲ったり、名声がかえって厄になって不幸を招いたり、多くの英雄の「偉業」も値引きしなければいけないような真実が判ったりもする。
最近のバブル期に「風雲児」とよばれた中江滋樹という人物が、東京の下町で生活保護をうけてアパートで暮らす中、焼死するという報道があった。
聖書は、バベルの塔の物語にあるように、神は「人間が神のごとくならん」ことをきらうのか、かつて「時代の寵児」といわれる人の中で、早死にする人とか、末路が哀れな人というのは多い。
実際、この世の中で、一点の曇りもない成功とか、偉業とかいうものをアンマリみたこともない。
一般的にいって、年をとるにつれ健康になる人とか、高潔になる人とか、大江健三郎一家のように「恢復する家族」なんて、あんまり見ない。
そして人間は、エデンの園で善悪の樹の実を食べて、神様の影を畏れたアダムとエバのように、何かの恐れを抱きつつ生きている存在でもある。
日本の古代にも土偶を壊して厄や病を肩代わりさせたという形跡がみられる。
古代の世界では、誰が教えてるでもなく「いけにえ」を捧げることが、カナリ普遍的におこなわれていた。
それは、神のおきてに対して人間が不十分であることを絶えず意識していたということだ。
ところで現代人にとって「いけにえ」などという言葉はあまりにも無知な「迷妄」として聞こえるかもしれない。
しかし、原初の人類に見られる意識にこそ、むしろ人間の本質をツクもがあるのだと思う。
この思いは、誰彼となくある日突然襲う災の「不条理さ」への疑問といいかえてもよい。
イエスの時代の人々も、イエスに、そのような疑問を投げかけている。そうしたことが起きるのは、被災した人々が何か悪いことをしたのかと。
そこでイエスは、当時起きたいたましい事件をとりあげて応えている。
シロアムの塔が倒れて多数が犠牲となった事件で、シロアムというのはエルサレムへの水を供給する貯水池があった場所である。
そこにあった塔が崩れ落ちる、誰かが意図的したものではなく、不慮の事故であった。
イエスは、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13章)と語っている。
ここで「悔い改める」というのは、原語の意味からすれば、行いを改めよという意味ではなく、「心の向き」を変えるということである。
徒然草「賀茂の競べ馬を」(四十一段)にも少し似た話がある。人々が集まって競馬をみていると、木に登って眠りこけて見ている人を愚かな人だと笑っていた。
すると兼好が我々だっていつ死が訪れるかわからない、似たようなものだと諌めたエピソードがある。
日本人が旧約聖書を読むことにハードルが高いのは、「いけにえ」など日本人にはなじみのないことが、頻繁に登場することもあろう。
ただ、旧約聖書の世界は戒律の世界であり、いわば「神の裁き」の世界である。
その神は人間の犯した罪に対して、「いけにえ」を求める峻厳なる神である。
また、「罪の支払う代価は死であり、罪の許しには「血を流す」(ヘブル人9章)必要があると、日本人的な感覚ではなかなか馴染まない。
カインとアベルの物語で、カインが農産物を捧げ、アベルが子羊を捧げ、神がカインの捧げものを受け入れたのは、アベルの捧げものが聖書全体が示す「いけにえの型」と合致しているからである。
具体的にいえば、アブラハムがイサクを神捧げようとした有名な場面が思い起こされる。
イスラエルの祭司達は毎日、きわめて厳格に定められた手続きにのっとって、子牛や羊などの「いけにえ」を捧げた。
それによって祭司職の者は、日々罪の許しをえた。
旧約聖書(出エジプト記29章)には、「いけにえ」の儀式を執り行うときの手順が細かく指定されている。
これを読むと、「いけにえ」を神に捧げる儀式において、「油を注がれるもの」(これがキリストの意味)は、犠牲になる動物ではなくて、動物を祭壇で神に捧げる儀式を行う「祭司」であることがわかる。
「あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちはその雄羊の頭に手を置かなければならない」とある。
これは、祭司(当時アロン)の罪を「いけにえ」の動物に転移して、自身らは潔められるということである。
さらにその雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは「燔祭」というもので、香ばしいカオリとなって主にささげる”火祭”である。
ヘブライズムのそうした文化風土の影響を受け、欧米人は血を恐れることはそれほどないが、日本では血を見ることを恐れる人が多い。
ただ幸いなことに、聖書によれば我々の世界は、もはや「いけにえ」の必要のない時代となっている。
すでに完全な「いけにえ」が捧げられているからだ。
神は、戒律によっては救いえない人間をみて、「新しい契約」を結ぶことを預者エレミヤを通じて語っている。
「主は言われる、見よ、私がイスラエルの家およびユダの家と"新しい契約"を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖達の手をとって、エジプトから導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主がいわれる」(エレミヤ31章)。
それでは、その新しい契約とは何か。神がユダヤ人との間で結んだ限定的な契約ではなく、神が異邦人をも含む人類と結んだ、より普遍的な契約。
それは、人が自らどうにも処理できなかった”罪”を除いて神の国にはいるという保証をうるという、ソロモン王をもってしても体験できなかった”救い”の約束のことである。
前述の完全な「いけにえ」というのは、イエス・キリスト自身。つまりイエスが燔祭の羊となられた。
キリスト教は「罪」、そしてその「贖い(あがない)」としての「十字架」という「いけにえ」があったことにより、罪の許しがある。
聖書には、「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである」(ヘブル人への手紙10章)とある。
また、「これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」と明言している。
つまり神自らが定めた罪の贖いたる「いけにえ」のルールにのっとり、人間の罪の代価をはらうために自ら「十字架につけられた」という。
遡って、アベルが捧げものをした型と一致している。
そして「洗礼」とは、その十字架の贖罪に与ることなのである。
ちょうど旧約で、神がいけにえに対して火を下すことによって応えられたように、イエスの昇天後、50日後、聖霊が下る様になった。
エルサレムの初代教会で最初に聖霊が下った出来事を聖書は次のように伝えている。
「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると、突然激しい風が吹いてきたような音が天から起こって、一同いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが炎のように分かれて、ひとりひとりの上に留まった」(使徒行伝2章)。
使徒パウロは「旧約世界」つまり律法を守る信仰を「文字に仕える」信仰という言い方で表している。
それが「新約」ではそれの本体である「聖霊に仕える」信仰であると語っている。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリントⅡ)。
また、「律法は来たるべき良いことの”影”にすぎず、そのものの真のかたちではないから、としごとにささげられるいけにえによっても、みまえに近づいてくる者たちを全うすることができない」(へブル10章)とある。
ところが、その実体が顕れた時、イスラエルの人々は気が付かなかった。それはイザヤが予言した次のような姿からであったからだ。
なぜならば、「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」とあるとおりである(イザヤ書53章)。
ただ、イエスの十字架の死後に、復活の証人が数多く現れ、聖書の預言がイエスを指すことを人々が認識するに至る。
加えて、約束の聖霊が下ることによって、誰もがその本体に与ることができるようになった。
さて、「伝道之書」で語られることが、人が求め得る最高の知恵と、あり余る富とを手にしたソロモン王だからこそ意味があるのではなかろうか。
それは、この世のどんなものをもってしても心の救いに到達できないことを示すからだ。
これは、「古い契約」(旧約)に生きた人のひとつの”限界”を示しているように思う。
それは、やがてきたるべきよきものによって、満たされる他はない。
新しい契約(新約)の世界から遡ってみれば、伝道者のいう「空(くう)」を埋めるべく、メシア到来を暗示する点で「伝道之書」は"意図せざる"予言書のようにも読める。
同時に、ソロモン王の「空の空」という言葉は、新しい契約の下で、聖霊に導かれて生きることができる恵みを、際立たせる陰画のように思える。