聖書の人物から(衣にふれる女)

「12年間も長血を煩っていた女性が、イエスのうしろから近づいて衣にさわったところ癒された。
女性は人目につかないように去ろうとするが、イエスは"わたしにさわったのは、だれか"と言われた。
女性は、イエスにさわったわけと、さわるとたちまち治ったこととを、みんなの前で話した」。(マルコ5章25~35節)。
普通、12年間も病にあれば、諦めの境地に侵されて、癒されたいという気持は薄れていくかもしれない。
それでも、人が病から癒されたいという強い願いを抱くのは、例えば育てなければならない子供がいるとか、介護しなくてはいけない親がいるとか、癒されなければならない事情があるのだろう。
この長血を患っていた女性に、そのようなものがあったかどうかは聖書に記されていないが、「癒されたい」思いの強さは、なんとかイエスに近づいて”衣にふれた”ところからもわかる。
この女性の苦境は、身体的な病ばかりではなく、経済的な苦境、そして出血の女性は宗教的に汚れた存在として、 人々から排除され、宗教的にも社会的にも全く希望なき精神的病にあったといえる。
女性が、身を隠すように生きてきたことは、"群衆にまぎれて"イエスの衣に触れたことでもわかる。
、 さすがに体にまで触れることはしなかったのも、この女性の微妙な立場を表しているようだが、それでも”大胆な行為”であることに違いない。
ところで、イエスが他の宗教の”教祖様”と完全に違う点は、ユダヤ社会にあって千年にもおよぶ預言の内容(旧約聖書の預言書)と、自分の言葉、状況、振る舞いとを参照させながら、自らをその預言の”成就”として顕したことである。
ところが大多数の人は、大工のせがれとか、罪びとと交わって神を冒涜しているとしか見なかった。
ところがこの女性は、「み衣にさわりさえすれば癒される」というほどの信仰を抱くことができたのが、他とは著しく違っていた。
実際、女性はその信仰どおりにたちどころに癒されるが、その際イエスは力が出ていくのを感じ、「わたしの着物にさわったのはだれか」と問うたほどだった。
女性ははっきりと自分であると表明したばかりか、皆の前ですべての経緯を話したのある。
全体として、この女性の”強い意思”のようなものを感じるのであるが、唐突に思い起こしたシーンがある。それは「風とともに去りぬ」(1937)のワンシーンである。
原作はマーガレット・ミッチェルが9年がかりで完成させた同名小説で、聖書につぐベストセラーになった。
1861年、南北戦争直前、ジョージア州アトランタ郊外の大農園タラで生まれ育った勝気な娘スカーレット(ヴィヴィアン・リー)は、 想いを寄せるアシュリーが従妹のメラニーと婚約すると聞いて心おだやかではなかった。
激しい気性と美しさをあわせ持つスカーレットは、多くの青年の憧れの的であったが、彼女はアシュリーとの結婚を信じていた。
婚約パーティー当日スカーレットはアシュリーに告白をするが、彼の心は気立ての優しいメラニーのものだった。
スカーレットはそこで、チャールズトン生まれの船長で、素行の悪さで評判のレット・バトラー(クラーク・ゲイブル)に出会う。
彼の失礼な態度に激しい憎しみを感じながら、何か惹きつけられる。
突如、南北戦争が勃発し、スカーレットはアシュリーへに失恋から自暴自棄になり、 メラニーの兄チャールズの求婚を受け入れ結婚してしまう。
やがてチャールズは戦死。アシュリーも従軍し、スカーレットはアトランタへ戻り、メラニーと共に看護婦として働く中、病院でレットと再会をする。
北軍の南部侵攻が始まり、彼女は臨月のメラニーを連れて逃げるため、レットの助けを借りてなんとか故郷へ戻った。
しかしタラの大農園は、母の死と父親の精神錯乱のために荒れ果て、スカーレット自ら汗にまみれて働かねばならなかった。
そしてついに南軍は敗れ、苦しい再建時代を迎えることになる。
スカーレットは農園を維持するため妹の恋人を誘惑し、愛のない再婚するが、この夫も死亡する。
やがて、時勢にのって活躍するレットと結ばれるが、2人の間に生まれた娘の死後、スカーレットから離れていく。 そのとき、スカーレットは自分が愛していたのはレットその人だったと初めて気づくのだった。
ところで、「風と共に去りぬ」は全編に渡って名シーンと名台詞で溢れている。
例えば、"Tomorrow is another day"は直訳すると「明日は別の日だ」だが、「明日は明日の風が吹く」と訳されている。
中でも「第一部のラストシーン」は非常に印象的であった。
戦争によって、親も屋敷も、すべてを失い故郷タラに戻って来た時、スカーレットは、畑に生えている泥だらけの大根をそのまま貪りながらいう。
「神様…私は二度と餓えません!私の家族も飢えさせません!その為なら…人を騙し、人の物を盗み、人を殺してでも生き抜いてみせます」。

「風とともに去りぬ」の作者であるミッチェルは、自動車事故で48歳で亡くなるが、病と闘いながらも強い意志をもって書いた書物が世界的な反響を呼んだ女性がレイチェル・カーソンである。
実は、「レイチェル」という名前の由来は、旧約聖書に登場するヤコブの妻「ラケル」で、イエス誕生時の「生みの苦しみ」に関わる預言の中にも登場する。
レイチェル・カーソンはアメリカ・ペンシルベニアで生まれ、母親の影響の下、文学的才能を開花させていく。
そして地元のペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻するが、必修科目となっていた生物学の授業に魅せられる。
彼女は、悩み抜いた末に方向転換し、生物学者になるべく歩み始める。
そして海洋生物学者として本を出し、全米図書賞の候補になるほど、その名は知れ渡っていった。
彼女の転機となったのは、1958年1月に彼女が受けた一通の手紙であった。
その手紙には身近なところで毎年巣をつくっていた鳥が、「薬剤」のシャワーによりむごい死に方をしていたことが綴られていた。
役所が殺虫剤DDTの散布をしてからというもの、いつも友人の家にやってきていたコマツグミが次々に死んでしまったという手紙だった。
この日からレイチェルの4年間におよぶ闘いが始まる。
レイチェルはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、この問題にトゲのように突き刺さっている人類の「過剰な技術」の問題のいっさいに取り組んだ。
1939年に発見されたDDTが害虫を駆逐し、農作物の大きな収穫の向」が見られていた。
その経済的な利益はハカリしれず、州当局も積極的に散布を推進していた。
しかし、DDTなどの合成化学物質の蓄積が「環境悪化」を招くことは、イマダ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが、彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。
しかも覆い被さるように苦難が待ち構えていた。
まず彼女に生命に対する目を開かせてくれた最愛の母親を失うという不幸、母親を失った親戚の子供を「養子」にむかえて育てる負担もあった。
そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行と、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ-ンの嵐。
また彼女はカツテアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働いたこともあるが、ソノ政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は、本を執筆する際に少しでも「疑問」を覚えたならば、直接手紙を書いて尋ねたのである。
そこには、彼女なりの「戦略」があった。
ソレハ、これから敵となって戦うであろう政府や州政府に対して、自分を擁護してくれる専門家達を巻き込むということであった。
そして、彼女は自身の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
彼女は、「創造あふれる作家はどのようなものか、どんな魂の栄養をとらなければならないか、ほんとうはだれも知らないと思います。確かなのは、私を人間として深く愛してくれる人、ときには押しつぶされそうな創造的な努力の負担を、自分のことのように受け入れてくれる包容力と理解の深さをもつ人、相手の痛みや心身の疲れ、ときに訪れる暗い絶望感に気づくことのできる人、私や私が作ろうとしているものを慈しんでくれる人がいる、そのことが私にとっては欠かせないということです」と語っている。
そして1962年、「沈黙の春」を書き上げた彼女は、編集者の感動に満ちた電話の声を聞き、すべての労苦が報われたと感じた。
彼女を支えた力は、逆説的だが彼女自身の「死の予感」であった。
「沈黙の春」執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、「生命のつながり」に対する直感つまり「センス オブ ワンダー」に導かれ、すべての命に対する「慈愛」のようなものを生んだに違いない。
1964年4月14日、56歳の彼女はメリーランド州シルバースプリングで生涯を終え、彼女が最も愛した海へと帰っていった。

NHKの番組「百分で名著」で、出演者のひとりが「風と共に去りぬ」は、スカーレットとメラニーの友情の物語であると語ったのが印象に残った。
激しいスカーレットと優しいメラニーは、男性をめぐって敵対してもおかしくないのに、最後まで支えあう。
この二人の女性の友情に、またも唐突に思い浮かべたのが、「男女雇用均等法」成立をめぐる二人の女性の物語である。
この法律の成立には、赤松良子という女性キャリア官僚の存在意義が大きい。
赤松良子は大阪生まれで、父親は関西西洋画壇の大家・赤松麟作である。画家は良子を溺愛し「良子」という作品を描いている。
赤松は1953年東京大学法学部政治学科を卒業して、労働省に入省し婦人少年局婦人労働課に勤務して、1975年には女性で初めて山梨労働基準局長に就任した。
つまり彼女は女性官僚キャリアの草分け的存在だったのだが、この法律成立のカギとなったもう1人の女性がいる。
総評の女性幹部の山根和子で、赤松良子と「男女雇用均等法」をめぐり論争相手となった”労働者側代表”であった。
山野和子は三重県出身、高校を卒業して愛知県の会社に入りアシスタントばかりの仕事をしてきた経歴をもつが、1976年から89年まで総評・婦人局長となり、当時加入人数380万人にも達する日本最大の労働組合の全国組織・総評の婦人局長であった。
一方、赤松は国連公使として1979年に、「女子差別撤廃条約」に賛成の投票を行い、翌年コペンハーゲンの世界女性会議で同じ労働省出身の高橋展子がこの条約に署名している。
次の段階で、条約が国会で承認され批准されなければならないが、そのためには当然国内法と条約の相容れない部分を是正ないといけない。
そこで新しい法律を作るには、まずは関係団代の代表者が出席する審議会などで法案の趣旨や必要性を訴え、統一見解とされた「審議会答申」を国会の委員会に提出するという手順をふむ。
したがって、立場を異にする人々をまとめて接点を見出すまでの「根回し」が大きな仕事になる。
実際に、労働省婦人少年局の赤松良子を中心としたプロジェクト・メンバーは、のちに”鬼の根回し”と異名をとるほど懸命に各界への調整を続けたといわれている。
というのも、法案を通す際の最大の障害になったのは経営側(使用者側)であり、赤松らの戦いは立ちはだかる「男社会」の壁との戦いでもあった。
なにしろ、当時の経団連会長が日本経済は男女差別の上に成り立ってきたと臆面もなく言い、法案に反対の姿勢を表明した。
赤松は、依然意識の低い経営者代表に、なんらかの「男女平等法」をつくらないと、国際的に人権意識が低い国と見られ、様々な分野での交渉にも支障が生じると訴えた。
こうした赤松チームの説得で少しずつ経営者側の意識が変わっていった。
しかし、法案の中身については、経営者側、労働者側の立場が激しく対立したことは、いうまでもない。
そこで、経営者側との妥協点が、法の実効性を罰則抜きの”努力義務”とした点にとどまったことである。
赤松らの経営者側の意向を取り入れ努力目標とした「男女雇用均等法」案に対して、労働者代表の山根和子は、その内容が”手ぬるい”と批判した。
そして、労働者者側代表の女性幹部は 男女差別をした企業への「罰則」が科せられる厳重な法律が必要だと訴えた。
それに対して経営者側は、男女平等というのであれば、女性の深夜業禁止など女子の”保護規定”をはずすべきだといい、労働者側は、むしろ男子にも保護規定を認めるのがスジだと相互に主張して譲らない。
結局、法案では妊娠出産の以外は「女性保護規定」を見直すことにした。
実はこの法案成立には、タイムリミットがあった。 1975年が国際婦人年で、日本も10年をめどに男女平等法をつくる「行動計画」を批准していたからだ。
ところが、1984年4月、国会提出のタイムリミットぎりぎりの審議会で、労働者側代表の山根和子は、「手ぬるい法律は認められない」と激しく異論を唱え、審議会への出席を拒否し別室に立てこもった。
その山根が審議会への出席を拒めば、「審議会答申→法案提出→事務次官会議→閣議→国会上程」と続く法案作成の作業に進むことができないのである。
ひいては、1984年4月まで法案要綱つくらなければ、国際婦人年「10年の行動計画」の期限1985年までに、法が成立しないのである。
赤松は時間との戦いの中で、労働者側代表すなわち山根和子が出席を拒否すれば審議会は成立しない、つまり法案の成立は実現しないところまで追い詰められた。
赤松は役所の窓から外の景色を見た。すべての苦労が水泡に帰するかもしれないと涙があふれた。
そして、赤松は山根に最後の電話をかけてみようと思った。
「不十分な法律であることはわかっている。しかし今法律をつくっておくことが大事である。法律ができなければ、国連の女子差別撤廃条約を批准できない。これでは世界の動きからいっそう遅れてしまう」。
そして電話は"無言"で切れた。
そして翌日、山根和子は審議会に出席していた。山根は赤松を睨んだようにみえたが、実は赤松は山根が来てくれるような気がしていた。
赤松は、法案の説明をしながら、心の中で赤松は山根に頭を下げていたという。
そして1984年、国会で「男女雇用機会均等法」が成立した。
働く女性たちにとってこの法律の成立はこの上ない朗報だったろうが、違反者に対する罰則義務規定がなく、努力義務規定に留まってしまったという弱点もあった。
しかし「小さく産んで大きく育てよう」という赤松の確信は正しく、97年に均等法は大幅に改正され「募集、採用、配置、昇進、教育訓練、福利厚生、定年、退職、解雇」のすべてにおいて、男女差をつけることが禁止され、赤松がかつて無念の涙を呑んで見送った"禁止規定"が盛り込まれた。
後日、当時を振り返って赤松は山根に言った。「あなたはたいしたものだった」。山根も「あなたこそたいしたものだった」と返した。
二人は立場の違いこそあれ思いは一つで、男女雇用均等という「新しい衣」の一端をたぐり寄せたのである。

この文章は、彼女を支えた力とは一体「何だったのか」、ソノ一端を伝えているように思う。
実は「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する「誹謗・中傷」にまで及んでいた。