銅像にまつわるエトセトラ

三浦春馬主演の映画「天外者」(てんがらもん)は、五代友厚を主人公に幕末の青春群像劇を描く。
2019年中に撮影が終了し、2020年中に公開予定であったが、新型コロナウイルスの流行に加え、7月18日に主演の三浦が急逝したため、公開日は現在未定となっている。
タイトルの「てんがらもん」とは、鹿児島の方言で「すごい才能の持ち主」を意味する。
実際、五代は薩摩藩出身でありながら外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、商人たちの分裂をふせぎ大阪商工会議所を立ち上げた「大阪の父」ともいうべき功労者。
NHKの「あさが来た」でディーン・フジオカが五代友厚を覚えている人もいるであろう。
そして五代が想像していたよりも、はるかに立派な人物であると知った人もいるであろう。なにしろ五代友厚は教科書において「開拓使官有物払下げ」事件つまり汚職事件の当事者としか出てこないのだ。
もし、教師がその一面だけを教えたとしたら、随分と実像を歪めることになる。
個人的に五代友厚に興味をもったのは、大阪で街を歩くとやたらと五代友厚像と出会うからだった。街中だけでも4箇所に建っているという。
現在「ブラック・ライヴズ・マター 」のウネリが大きくなり、街中の銅像を撤去しようという動きが起きている。
大阪市民が、官有物を不当に安く払い下げてもらったこの人物の銅像建築を公費で行うことに異論がないとするなら、五代とはどれほどの人物なのだろう。
一般的な「英雄」といえども別の角度からみると、差別主義者であったり大悪人でもある。したがって「銅像」が発するメッセージは、視点や時代が変われば全く別ものになるということでもある。
2006年公開のアメリカ映画「父親達の星条旗」は、「1枚の戦場写真」が人々の運命を翻弄していく悲劇を描いた実話に基づく物語であった。
その「戦場写真」とは、太平洋戦争の末期、硫黄島の戦いの最中、アメリカ海兵隊員らが山の頂上に「星条旗」を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つである。
1945年度の「ピューリッツァー賞」の写真部門を受賞している。
写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。
しかも、この写真をもとにアーリントン国立墓地近くに「海兵隊戦争記念碑」が造られているから、なおやっかいである。
「父親達の星条旗」の原作は、ジョン・ドク・ブラッドリーの「FLAGS OF OUR FATHERS」で、主人公はこの記念碑に掘られた英雄である父の「沈黙」に秘められた真実を知るために、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の「真実」に辿り着いたのである。
そこでわかったことは、あの歴史に残る写真は、敵方の砦を奪いとって旗を立てた「写真撮影」が失敗し、もう一度撮り直しをすることになった際に写された写真だったということである。
つまり、実際に戦ったのでもない人々を使って写真の「撮り直し」が行われたのだが、ブラッドリーの父を含む3人は帰還後アメリカの「英雄」として盛大な式典をもって迎えられることになる。
彼らはいわば「偽りの英雄」としてふるまうことを余儀なくされるが、それに上手に乗っかって甘い汁を吸って生きていこうとする者もいる一方、その偽りの重さに耐え切れず身を持ち崩していく人もいる。
その人は、アメリカの「星条旗」の下に居住地や財産を奪われたインディアンの血をひく男性で、帰還後、酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
有名人だけにそれがマスコミの恰好のネタにもなる。
イラク戦争中に「父親達の星条旗」のような映画が作られるのも、「アメリカの正義」についての疑念と分裂があるからに違いない。

福岡県の久留米は古代より九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えら、1897年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。
久留米は陸軍軍人の出世コースであり、226事件の「皇道派」真崎甚三郎は佐賀中学(現佐賀西高校)を卒業後、士官候補生を経て陸軍士官学校に入学している。そして、第一次世界大戦中は「久留米俘虜収容所長」をつとめた。
東條英機も久留米に住み、東條の子供は日吉小学校に通っていたし、司馬遼太郎も久留米の戦車部隊に配属されている。
ところで、久留米藩は1868年、高良山の麓にある茶臼山(現山川町)に招魂所を設け、ここに陸軍墓地が併設され、佐賀の役で政府軍側の戦死者63名、西南の役の戦死者190名の墓が建てられた。
佐賀の役の墓石には「佐賀賊徒追討戦死者之墓・明治七年甲戌自二月一八日至二七日」と刻まれている。
墓石の文字につき、佐賀県より「賊徒」の文字を削って欲しいという要望がなされたが、現在もそのまま残されている。
この「賊徒」の文字以上にインパクトがあったのは、山川招魂社の石段を登ってすぐの処に、「爆弾三勇士」の碑があったこと。
「爆弾三勇士」とは、1932年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという一世を風靡した軍国美談で、当時の久留米市民を熱狂させ、それは全国に広まった。
上海事変は、蒋介石率いる国民党軍の第19路軍が上海に侵攻するとのことで、大日本帝国海軍陸戦隊が防衛のための配備をしていると、いきなり国民党軍から銃撃を受けた。
これが第1次上海事変の始まりである。戦闘は拡大し、日本からは空母2隻を含む第3艦隊まで投入される大規模なものとなった。
1932年2月22日、大日本帝国陸軍は上海郊外の廟行鎮に陣地を構築していた第19路軍への攻略を開始した。
強固に防御された敵陣地を攻略するためには、まずは鉄条網を破壊し突撃路を切り開く必要があった。
しかし鉄条網まで運び、破壊筒の導火線にマッチで点火しようとするときに、激しい銃撃を受け、戦死者を出しながらも成功できなかった。
その為に、あらかじめ導火線に点火してから破壊筒を設置する作戦に切り替えることにした。
当然、設置に時間がかかれば自らも爆死する危険のある作戦である。
その導火線に点火しながらの突撃任務に志願した工兵がいた。そのうちの3名が点火された破壊筒を抱え、敵陣地の鉄条網めがけ突撃した。
猛烈な敵の銃撃を受け、先頭の北川一等兵が被弾したために一度は三名ともに倒れながらも、見事に鉄条網にたどり着き、爆破に成功した。
しかし退避する時間は無く、3名の勇士は破壊筒と共に吹き飛ばされた。
三名の活躍が日本の新聞で報道されるや、たちまちこれを讃える熱狂的な反響が巻き起こり、新聞の取り上げ方により「爆弾三勇士」や「肉弾三勇士」などと呼ばれるようになった。
「三勇士」を讃える色んな歌が作られ、いくつも映画が作られ、学校の教科書にも紹介されるようになった。
1934年「三勇士」の命日の2月22日、全国からの寄付金により東京の芝にある青松寺に、石の台座に「肉弾三勇士」と書かれた銅像が建てられた。
破壊筒を抱えて突撃する姿の三勇士の銅像の台座には遺骨の一部が収められた。
しかし戦後、この「爆弾三勇士」の話が戦意高揚を狙った捏造であるなどと言われる様になった。
志願ではなく強制だったとか、突撃中に被弾して倒れた時に3人が破壊筒を捨て引き返そうとしたけど「そのまま突っ込め」と命令されていたとか、戦後になって言われだした。
時は流れ、太平洋戦争終結後、日本に進駐軍が入り込み、GHQから軍国主義の象徴と指摘される事を恐れ、地元の人間により「肉弾三勇士」の銅像が撤去されてしまい、山川招魂社に「肉弾三勇士」の記念碑だけが残されているのである。

日本人が一番馴染んだ銅像といえば上野の「西郷さん」であろうが、実像とはだいぶ異なるものらしい。
西郷隆盛は大久保利通、木戸孝允と並び、維新の三傑に数えられる人物で、薩長同盟の締結や戊辰戦争の軍勢の指揮など、その功績ははかり知れない。
なんといっても、徳川幕府の重役であった勝海舟と会談をして、江戸城を無血開城させたこと。
そんな新時代を築くのに大きな功績のあった西郷隆盛だが、新政府では大久保利通らとの意見の違いから袂を分かち、参議を辞職して鹿児島に帰ってしまう。
そして、鹿児島に帰った西郷は、不平士族たちに担ぎ出されるように西南戦争を起こし、明治政府に対する反逆者として最期を向かえる。
明治天皇が1899年に、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で、西郷の汚名を解いて正三位の位を追贈されている。
西郷隆盛は明治天皇や周囲の仲間たちからの信頼が大きかったため、そのまま逆徒として埋もれることなく、明治維新の功績を顕彰されることになったのである。
西郷が名誉回復すると、人気の高い西郷の像を造る計画が持ち上がり、薩摩藩士が中心となって寄付を呼びかけ、集まった寄付金で建てられたものである。
ただし、政府内には西郷への反発もまだ強く、あまり威厳のある姿の像は許されなかった。
そこで作られたのがいわゆる「上野の西郷さん」として親しまれる像である。
ただ、この像をめぐっては、ちょっとした話が残っている。
完成した像を見た西郷の妻は「主人はこんな人じゃな かった」と落胆したとか。
風貌が似てないというより、浴衣のような軽装で人前に出る無礼な人ではなかった、 と言いたかったようだ。
実は西郷の写真は一枚も残っていなかったという。一般的に我々知っている太い眉毛に大きな瞳の肖像画は、キヨッソーネという人物が西郷隆盛の弟西郷従道といとこの大山巌顔をモデルに描いたもので、本人の顔ではない。
そこで、銅像を制作にあたった高村光雲はキヨッソーネによる肖像画を参考に像を制作したのだ。
最初、軍服を着た陸軍大将の姿で制作されていたが、最終的には西郷隆盛が普段犬を連れて、野山で狩りをしていた時の姿に変更されたという。
西南戦争からまだそんなに時間が経っていない事もあって、いくら人望の厚かった西郷隆盛といえども、軍服姿の銅像というのは問題があったのだろう。
とはいえ、その像は、飾り気のない親しみやすさで、ますます庶民に愛されることになった。
ところで、長州藩の大村益次郎は、薩摩の西郷隆盛は、共に明治維新の主役であるが、明治維新後は軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築いた。
この大村益次郎像は、東京九段の靖国神社の入り口に堂々と建っている。
大村益次郎は、戊辰戦争後に、同郷の過激な攘夷派の長州藩士に襲撃された傷が元で死ぬことにあるが、死の間際に、 大村益次郎像は、異様に高い台座の上に建立されているが、それは丁度、上野山に建立されている西郷隆盛像の目線に合わせる様に建てられているともいわれている。

福岡県の東公園には、元寇退散を願った亀山上皇像と、国難到来を予言した日蓮上人像が立っている。
亀山上皇の冠の「垂纓(すいえい)」は本来垂れているのに立ってるのは奇妙、日蓮像よりも低くできないと途中で気が付いたのか。
さて、福岡県庁のある東公園一帯は、鎌倉時代に日本軍とモンゴル軍とが戦った主戦場のひとつ、「千代の松原」である。
ここに、どうして亀山上皇像が立ったのか。
元寇時の上皇が、亀山上皇だったからというのだけでは、設立者の本意がまったく伝わらない。
それは、平和の「危うさ」を伝えるために建てられたものなのだ。
1874年、日本軍の台湾出兵に衝撃を受け、琉球帰属問題に直面した清朝政府は近代的な海軍の創設に乗り出した。そして出来たのが「北洋艦隊」である。
1886年8月1日、その北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が日本政府には何ら予告なく、修理のためと称して長崎に入港した。
特に「定遠」「鎮遠」はドイツが作ったその当時世界第一の排水量7400tの戦艦だった。
日本には、まだそのクラスの軍艦はなく、持っている軍艦はイギリスが作った3000tクラスの「浪速」と「高千穂」だけだった。
その巨大さに、長崎市民が度肝を抜かれてしまったのだが、そればかりか500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始。
長崎市内を回り、商店に押し入って金品を強奪。泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くした。
長崎県警察部の警察官が鎮圧に向かうも、市街戦に発展、双方とも80数人の死傷者を出し、水兵は逮捕された。
さらに翌日も、人力車・車夫らと水兵の一団が大乱闘となり、死者・負傷者多数を含む大事件となった。
これがいわゆる「長崎事件」であるが、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出たため、1884年の甲申政変と併せて、日清戦争を引き起こす遠因の一つとなった。
実は、清国は自国では作る技術がなく、イギリスのアームストロング社に巡洋艦二隻、ドイツのフルカン社に戦艦二隻を発注した。
「北洋艦隊」とはいっても、買ってきた船に、訓練していない海軍が乗り込んだ軍艦である。
それなのに、乗り込んだ船員たちは異常に興奮し、こんな状況が、長崎事件を引き起こしたといえる。
当時、福岡の警察署長であった湯地丈雄はその事件の応援に行き、この事件は日本人の平和ボケからきていると思い始めた。
そして、いつ外国が攻めてきてもおかしくないという危機感を持つべきだと、思うようになった。
この、湯地丈雄という人物は、熊本生まれ。1873年熊本県警部となり、翌年の佐賀の乱の鎮定に功があった。
そこで、元軍との戦場ともなった福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意した。
なにしろ、元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所あったからだ。
湯地は、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めようとしたが、なかなか集まらず、生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけることになる。
そして20年におよぶ歳月をかけて、東公園に「亀山上皇」像が建立されたのである。
その完成は、奇しくも日露戦争が始まった1904年であった。
亀山上皇は、モンゴル襲来の際、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された故事を記念し、台座には宸筆の「敵国降伏」の文字が刻まれている。
この亀山上皇像の台座には、この石造をつくった石工の名前が刻まれ、その中には福岡天神の石工の家に生まれた広田弘毅の父親の名前「廣田徳右衛門」の名もある。
しかし、そこに湯地の名はなく、湯地が苦労をかけた妻と子の名前を書いた石板が、亀山上皇像下に埋められたのだという。
しかし疑問が残る。元寇ならば戦いの前面に立ったのは鎌倉幕府8代執権の北条時宗であろう。なぜ、北条時宗像ではなく亀山上皇像なのか。
日蓮聖人は北条時宗が法華経を信仰しないから元寇が起きたと言い、時宗はその日蓮を弾圧した。
そんな二人の像が、東公園に一緒に存在しては"密"にすぎるということか。