中島みゆきの「糸」によれば、「逢うべき人と出逢うことを、人は仕合せという」のだそうだが、逆に「逢うべき人に出逢わない不仕合せ」もある。
大正ロマンを代表する画家の竹久夢二と詩人の北原白秋は、そんな"不仕合せ"な二人である。
竹久夢二は1884年に岡山で生まれ、北原は翌年福岡県柳川に生まれているが、驚くほどに共通点がある。
ともに造り酒屋に生まれ、ともに家出して上京し、同時期に早稲田に学び、ともに中退している。
また恋愛においても北原は姦通罪により告訴され未決監に拘置された体験があり、竹久は刃物を突きつけられるほどのシリアスな体験をしている。
北原の実家は1901年の大火によって酒倉が全焼し破産し、竹久の廻船問屋も破産している。
竹久は実家の破産後、神戸で1年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをしたというわけである。
また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」と名づけたのも似通っている。
そして何よりも二人は大正ロマンを飾るトップランナーであったのだ。
ジャンルは違うが芸術的な感性がきわめて似通った二人には、互いの感性を磨き高めあう共通の場があってもよさそうなものである。
しかも、ある雑誌の対談で竹久は、好きな詩は何かと聞かれ、北原白秋と答えている。
竹久自らも「詩人になりたかった」といい、竹久の作品は絵で描いた詩であったともいえる。
ではどうして、芸術上の兄弟にも思える二人が交わらないのか。
15年ほど前に、そのことに疑問をもち、それを調べて本に書いた安達敏昭氏と柳川で出会った。
安達氏は竹久の九州行きを調査するうちにアット驚く新聞記事に出会ったという。
1919年(大正8)8月19日付けの「東京日々新聞」に「竹久夢二等、訴えられる北原白秋等より」の見出しで、「作詞家北原白秋と作曲家中山晋平らが、画家竹久夢二と岸他丑を著作権侵害で訴えた」という記事を見つけた。
竹久の元妻たまきの兄・岸他丑が絵葉書店を営んでおり、絵葉書を作成した際にその中に北原が作詞、中山が作曲したものを無断で採録印刷し発表したというのである。
北原はそれが著作権侵害にあたるとして、竹久らを提訴したのであった。早稲田に学んだ詩人の野口雨情が間をとりもって収まったという。
結局、そうしためでたくない接点が、二人の間を遠ざけてしまったようだ。
ところで、個人的に出会ってほしかった二人がいる。
民俗学者の宮本常一と作詞家・星野哲郎である。
二人は瀬戸内海の山口県・周防大島に生まれ、この二人の巨匠の記念館が10キロと離れずに存在している。
年齢は宮本が19歳ほど上だが、二人が対談の機会でもあれば、さぞや盛り上がったことであろう。
なぜかといえば、二人の仕事は、周防大島という故郷ぬきに語ることはできないからだ。
かたや作詞家として東京を出ることは少なく、かたや「旅する巨人」として全国を歩いており、二人が交わろうにも交われなかったというのが実情であろう。
ただ、宮本常一も、星野哲郎も、それぞれに替えがたき相方と出会い「最強コンビ」をつくっている。
宮本常一は1906年、山口県の周防大島の貧しい農家に生まれた。
苦学して天王寺師範の夜学を終了し小学校の教員になったのち、民俗学に目覚め教師のかたわら土地の古老などから「昔話」の蒐集を始めるようになる。
宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ-ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。
一方、渋沢敬三は財界の大立物・渋沢栄一の孫で、幼い頃から動物学者になりたかったものの、日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。
そして渋沢敬三は、東大卒業後に銀行員として勤め1944年に日銀総裁にまでなっている。
戦後、幣原内閣の大蔵大臣として預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの政策を打ち出し、日本経済の復興の足場を築いた。
しかしその反面で学問への情熱は冷めやらず、古くからある各地の玩具などを集めて自宅を開放して「アンチック・ミュ-ジアム」としていたのである。
それでは、宮本常一と渋沢秀雄双方にとっての「運命の扉」はどのように開かれたのだろうか。
渋沢と宮本の出会いは、1935年柳田の記念講習会に出席したおり、渋沢敬三が自宅に蒐集しているアンチック・ミュ-ジアムを仲間とともに見学したのがきっかけである。
そして宮本は、渋沢に郷里である瀬戸内海の漁村生活誌をまとめるように勧められ、1939年妻子を大阪に残して単身上京し、芝区三田にあった渋沢のアチック・ミュージアム(のちの日本常民文化研究所)に入り民俗調査を開始したのである。
渋沢は宮本に、自分の処に居ればいくらでも旅をしてよいからと勧められ、宮本は渋沢の家に起居るようになり、それ以来、宮本は渋沢の家族の一員となってしまった。
宮本は1961年に博士号を取得するまで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。そ哲郎れは後に、赤塚富士夫がタモリを評した時の言葉と同じである。
渋沢は、宮本常一という学問におけるいわば「分身」を身近に置いたというわけである。
宮本は柳田国男の知遇を得て、渋沢に育てられたのだが、象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田とは対照的に離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり、漂泊民や被差別民を取材し研究した。
つまり宮本民俗学は、柳田のような解読可能な「記録の文化」ではなく 語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会)を現地で見聞し調査した点がユニークであった。
宮本は、日本の離島や山間僻地を訪ねて歩いた4000日の距離は16万キロ(地球を10周)、泊めてもらった民家は1000軒を越えるという。
星野哲郎は1925年、周防大島に生まれる。両親はどちらも学校の教師だった。
星野が幼い頃に両親が離婚し父は家を出た。
母親は 生計を立てるため中国大陸に教師として赴任、残された星野は祖母 ツヨの手で育てられた。
1943年 太平洋戦争のさなか学費のいらない 商船学校に入学するも、太平洋戦争は次第に敗色が濃くなり、星野が商船学校在学中に終戦を迎える。
戦後は 訓練航海と大陸からの引き揚げを助ける任務を兼ねて「海の貴婦人」と呼ばれた初代「海王丸」に乗り東シナ海を往復する経験もした。
卒業後 星野は水産会社に働き口を見つけ「第六あけぼの丸」という漁船に乗り込んだ。荒れる東シナ海で木の葉のように翻弄される船。星野は必死で しけに耐えた。
そして、ようやく慣れ船上の暮らしを謳歌し始めた頃思わぬ災難が星野の身に降りかかった。
ある時 血尿が出ている事に気づいた星野は帰国してすぐに病院へ駆け込んだ。診断は 腎臓結核。
山口市内の病院で腎臓の摘出手術を受けたが、術後の経過は 思わしくない。ふるさとの島へ帰り長い療養生活が始まった。
船乗りへの憧れが誰よりも強かっただけに、その気持ちは深い海の底に陥るほどに沈む。
そして、体が思うように動かなくてもできる仕事はないかと、詩や短歌、小説を書き始めた。
そして1952年に、ある雑誌の作詞コンクールに星野の応募した詞が入選し、「チャイナの波止場』のタイトルでレコード化が実現した。
星野の詞に目をつけたのは「憧れのハワイ航路」の作詞家石本美由起。
星野は石本が主宰する歌謡同人誌「新歌謡界」に投稿し詞の腕を磨いた。
その数年後 かつて乗船した「第六あけぼの丸」が長崎県の沖合で沈没し、乗組員の多くが死亡した。
自分も命を落としていたかもしれないと、人の運命の不思議さを噛みしめた。
横浜の開港100周年で新聞社が募集した「横浜の歌」に、1位を獲得。その作品は、美空ひばりの「浜っ子マドロス」としてレコード化された。
このコンテストで審査員を務めたのが作曲家の船村徹が 星野に上京してプロになるよう勧めた。もう一人の師匠 石本美由起も賛成してくれた。
そこには 星野の方にも東京に早く出たい事情があった。それは同郷の恋人・朱實の存在。
手術後長く療養していた星野をいつも励まし、その才能を真っ先に認めて応援してくれた大切な人。
星野が上京後まもなく2人は 一緒に暮らし始めて反対を押し切って結婚。
朱實は星野の詞に 最初に目を通し適確に批評し、 星野の詞を清書するのも妻の役目だった。
だが結婚後、皮肉にも星野の詞はほとんど採用されることなく、妻の洋服や時計は生活費に消えた。
こんな生活がいつまで続くのかと、すっかり自信を失いかけた。そしてふるさとに帰る際、一度ボツになった歌詞を雑誌の懸賞に投函した。
するとそれが採用され、1958年 島倉千代子の「思い出さん今日は」のタイトルでレコードされ、狐につままれた思いだった。
ともかくも、これで星野の作詞人生は首の皮一枚繋がり、妻の献身も報われ作詞家 星野哲郎はコロムビアと専属契約を結ぶことになる。
そして子の頃、市川昭介と出会う。
市川昭介は 歌手を夢見て故郷の福島から上京。10年に及ぶ長い下積みを経てようやく 作曲家のスタートラインに立ったばかりだった。
1933年市川昭介は福島県郡山市郊外で生まれ、父親は和菓子職人で両親と姉弟の5人家族であった。
市川は当時の実業学校郡山工業学校に合格するが、入学の喜びもつかの間その4日後に郡山を襲った空襲で父親が命を落としてしまう。
母親も亡くなり、相次いで両親を失った市川。親代わりになったのは9歳年上の姉だった。
それでも市川は貧しい暮らしの中、笑顔を絶やさなかった。
その笑顔を支えていたものこそ音楽だった。
市川は学校の文化祭に出演するためハワイアンバンドを組み音楽に のめり込む。やがて 歌手になりたいと夢見るようになった。
無謀とも思える挑戦。はじめは、ある歌手の付き人をしながら、歌作りに励んだが、雑用に追われ歌のレッスンどころではない。
市川の頑張りを見ていたディレクター 馬淵玄三が作曲家の代わりに歌手にレッスンをつける「代教」に市川を採用。さらに コロムビアの専属作曲家に抜擢したのである。
ちょうど その頃市川は星野哲郎を訪ねて互いを認め合う関係になった。
そして生まれたのが、畠山みどりの「恋は神代の昔から」「出世街道」を作り市川と星野はヒットメーカーの仲間入りをした。
ある時、作詞家 星野は一通の手紙を受け取る。差出人はとある会社の社長だった。
そこには、経営不振で一時は死のうと思ったが、「出世街道」を聞いていちからやり直そうと思い直し再起できたとあった。
星野は生涯のテーマを見つけたような気がした。
星野は歌詞づくりについて、次のようなことを語っている。
ギリギリに刻み込んで芯だけ渡すというのが歌で、やたらおしゃべりな歌は良くない。
また、耳障りのいい言葉を上手に並べてみても、それだけでは人の心は打たない。
要するに その作品の陰にそれを書いた人間の生き方なり考え方なりがにじむようなものを書かないとだめだ、と。
星野自身、歌に人生を織り込みながら作詞の道を歩んできたが、それゆえに 「演歌」という言葉に様々な字を当てた。
妖艶の「艶」、えにしの「縁」、海の「塩」、宴会の「宴」もある。
作詞家の星野哲郎は、人々を勇気づけ人生の応援歌「援歌」作りこそ生涯のテーマと定まった。
御当地ソングの傑作北島三郎「凾館の女(ひと)」も、市川・星野のコンビで150万枚の大ヒットとなった。
ところが、1933年会社の運営方針を巡ってコロムビアから音楽業界の実力者 馬淵玄三ら多くのスタッフが退社。
新たにクラウンレコードが発足した。馬淵に恩義を感じて星野哲郎はクラウンへの移籍を決断する。
一方、市川昭介は悩み抜いた末、コロムビアに残留し、専属制度の壁により星野と市川はコンビが組めなくなったのである。
この いわゆるクラウン騒動は師匠と弟子の関係にも深く影を落とした。
コロムビアに残った市川昭介も懸命に新たな道を模索し、市川の前に現れたのが驚異的な新人・都はるみであった。
都はるみ本名北村春美はその前の年に開かれたコロムビア全国歌謡コンクールに15歳で出場し 優勝を飾った。
その時、市川昭介も審査員の一人で、恥ずかしがり屋のはるみの歌いっぷりは天下一品。
市川は、はるみの歌声をぜひとも星野哲郎に聞かせたいと考え、はるみを連れて星野宅を訪れた。
星野はコロンビアとの契約がまもなく切れるため曲を書かないことにしていた。
はるみが全身を使って唸りながら歌うと突然、星野が飼っているシェパードが吠えだした。タバコを持つ星野の手は小刻みに震えている。はるみの歌に感動している証拠だった。
星野の家を出て3時間後市川の元に星野から電話が入った。1964年、クラウンへ移った星野哲郎の置き土産「アンコ椿は恋の花」は130万枚を売り上げ、都はるみ初のミリオンセラーとなった。
1965年 「涙の連絡船」。デビュー以来これでもかと唸ってきたはるみに市川はささやくような歌唱法を教えファンを驚かせた。
都はるみがスターへの階段を上るのと同時に作曲家市川昭介の評価も確かなものになっていった。
星野哲郎の「人生の応援歌」というコンセプトは、熊本出身の水前寺清子に引き継がれる。
コロムビアにいた頃、星野は市川と組んで畠山みどりのために新曲を用意していたが、クラウン騒動の余波でお蔵入りとなっていた。
実は、市川は水前寺清子にために書いたとされる待望のデビュー曲「涙を抱いた渡り鳥」は、元々は畠山みどりに書いた「袴をはいた渡り鳥」を少しいじったものであった。
水前寺清子という”語り部”を得て星野のライフワーク「援歌」作りは完成の域に近づいた。
多忙を極めたクラウン時代に星野が手がけたヒット曲の数々なかでも、寅さんこと渥美清が歌った映画「男はつらいよ」の主題歌は、不朽の名曲ともいってよいだろう。
最も愛する生涯の伴侶 朱實が1994年 くも膜下出血で急死。63歳の若さだった。
また、星野哲郎も2010年、幾多の荒波を乗り越え妻の待つ静かな海にいかりを下ろした。
渋沢秀雄と宮本常一と異色のコンビ、星野哲郎と市川昭介の絶妙コンビで、これぞ”仕合せ”。
面白いのは、星野哲郎は官軍の山口(長州)出身で、市川昭介は賊軍の福島(会津)出身、その一方で交わることのなかった同郷の宮本常一と星野哲郎。
仕合せに、”ほつれ”が生じ、不仕合せにも奇妙な"纏(まつ)わり"が生じることがある。
運命の糸は、布地が仕上がるまで、なかなか見分けがつきにくいようだ。