聖書の場面から(モーセ)

紀元前15世紀頃ヘブライ王国では、飢饉で寄留していたユダヤ人(ヘブライ人)と、エジプト人との争いが絶えなくなると、エジプト王は、ユダヤ人の生まれてくる子をすべて殺せという命令を出す。
しかし、ユダヤ人のある夫婦が子供を殺すに忍びず葦でつくった箱舟に入れてナイル川に流す。
すると、その箱舟がエジプト王宮の仕え女の元に流れ着き、子供がほしかったエジプト皇女がその子をエジプト人として育てることになる。
その子は、モーセと呼ばれ、王位継承者として育てられる。
しかしモーセは、あることをきっかけに、自分がエジプト人ではなくユダヤ人であることを知り、王宮での空しい生活よりも、神に選ばれたユダヤ人として生きることを決意し、奴隷の身として生きることを決意する。
ところが王様気分が抜けなかったのか、ユダヤ人同士の喧嘩の仲裁にはいって人を誤って殺してしまう。
しかもそれを同胞に目撃されて、この場にいられなくなりミデアンの野に逃れる。
モーセは、自分のミデヤンの地で結婚し、羊飼いとしての生活をして40年という月日がたつ。
ところが人生も終盤80歳になった頃、突然に神の声が聞こえる。
それは「エジプト人の圧政下にあるユダヤ人の嘆き苦しみの声が聞こえるか」という声であった。
そして、その民を導き出せというのである。
年老いて口下手でもあるモーセは、当初そんなことが出来るハズがないと一旦は拒むが、神は「誰が口をさずけたが、神の御手の働きがわからぬか」とあらためてモーセを促す。
そして、口の達者なアロンという人物に補佐させる。
そしてモーセとアロンはエジプト王パロの前に出て、イスラエルの民を去らせるように求めるが、パロは再三それを拒み、そのたびごとにエジプトに災いがふりかかる。
そしてエジプト中の長子が疫病に襲われ亡くなるに及んで、パロはイスラエルの民を解放する。
喜び勇んで故郷に帰還することになるが、パロは気が変わってイスラエルを追いかけてくる。
その後、海が割れる「紅海の奇跡」などの民族的体験をする。
こうした体験を通じて信仰を深めたことが、ユダヤ教成立の契機となる。
さて、モーセのような壮大で波乱の人生を歩んだ人物を歴史上に探そうとしてもなかなか見いだせない。だが、日本人の中にも、モーセが遭遇したような場面に出会った人なら思い浮かぶ。
「波乱の人生」という観点に立てば、若き日に奴隷として働き、晩年には一国の総理大臣となったのが高橋是清がいる。
高橋はアメリカに仙台藩から留学するが、実は奴隷契約が結ばれえていたことを知って、大慌てて帰国している。
帰国して九州唐津で英語の教師をした後、大学南校の教官から農商務省の役人となり特許事務所に勤める。
ペルーの銀山の話を聞き、役人をやめて南米に渡るが鉱山経営に失敗し失意のまま日本に帰国する。
帰国後、人に紹介され日銀に勤めしだいに財務家として頭角をあらわし総裁に就任する。
そして日露戦争時には外債募集に奔走し日本の勝利に大いに貢献した。
その後、大蔵大臣となり、昭和恐慌から”脱却”させた。その後、政友会総裁から首相となるが、軍部の独走を批判し226事件で射殺される。
また、約束された"エジプトの王位"を捨てたモーセの「潔さ」に注目すれば、大阪高槻の城主・高山右近を思い浮かべる。
高山は当然ながら領地も領民もいたが、豊臣秀吉の伴天連追放令でキリシタンは国外追放となった、多くの大名とは異なり、棄教の道を選ばず、領地・領民を捨て、ほんの少しの家臣をつれてフィリピンに国外追放されている。
最後に、モーセの「リーダーシップ」という点に焦点をあてると、日本の高度経済成長の牽引者というべき土光敏夫という人物が思い浮かぶ。
モーセの「出エジプト」から土光を思い浮かべたのは、昭和の一大改革において中心的役割を果たしたのが、政治家でも官僚でもなく、一民間人のリーダーシップであったことによる。
土光は、岡山県御津郡大野村(現在の岡山市北区)生まれ、腕白でガキ大将的存在だった土光は、名門岡山中学(現在の岡山朝日高校)の受験に3年連続で失敗している。
結局、私立関西中学を経て1917年に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に進学するのであるが、高等学校受験時にも1度失敗し、1年間小学校の代用教員を務めながらの浪人生活を送ったこともある。
工業学校卒業後に土光が選んだ就職先は、当時「町工場に毛が生えた程度」と自身が振り返る東京石川島造船所(現在のIHI)であった。
ここを選んだのは、海外に留学させることを条件としていたことや、タービン技術の開発に力を入れ始めていて、当時タービン研究を志していた土光の希望と合致していたからであった。
石川島に入社すると、土光は設計技師として開発部に配属され、国産タービンの実現をを夢見て辞書を片手に日々研究に没頭した。
1922年に土光は、入社時の約束通りスイスの機械メーカー、エッシャー・ウィス社に留学させてもらい、2年間最新のタービン技術を学び、技術者として社内でも頭角を表していった。
そして、東京石川島造船所取締役の長女・直子と結婚している。
土光は技術部長に昇格し、少しでも優秀なタービンを作るためにみんなで議論しあい、現場で一緒になって働いた。
1945年に終戦を迎え、連合国軍総司令部による”公職追放”によって多くの政財界人が職を解かれている。
そのあおりで、土光が「石川島芝浦ダービン」の社長に就任、従業員2千人を抱える経営者として戦後をスタートする。
その手腕に目を付けたのが経営危機に陥っていた親会社の石川島重工(1945年に改名)であった。土光は1950年に突然呼び戻されて社長に就任する。
そして石川島重工業社長時代の1960年、播磨造船所との合併を実現した。
土光が終戦直後に社長を務めた「石川島芝浦タービン」は、土光が入社した東京石川島造船と、東芝の前身企業の一つ芝浦製作所の共同出資によるものである。
その関係で、土光は経営難に陥っていた東芝の社長に就任し、見事再建を果たした。
また、土光と東芝の関係であるが、つまり東芝と石川島は以前から協力関係にあり、土光自身も長く東芝の非常勤の役員に就いていた。
東芝に単身で乗り込んだ土光が最初に取り組んだのは、名門企業の意識改革であった。
現場の工場を視察して対話を重ねた。それまで社長が一度も訪問したことがないところがほとんどで、工員たちからも慕われていた。
、 前任者が社長室に作らせた専用の豪華な風呂やトイレ、調理施設等を全て壊して改装させるなど、土光の登場は東芝の社員を驚かせることばかりであった。
その上で「一般社員はこれまでの3倍頭を使え、重役は10倍働く、私はそれ以上に働く」と訓示しハッパをかけた。
土光が「モーレツ経営者」と呼ばれるようになったのもこの頃である。
土光は運にも恵まれていた。石川島の社長に就任した時、土光には「朝鮮特需」という運があったが、東芝再建を託された1965年は「いざなぎ景気」が始まった年でもあった。
3Cと呼ばれるカラーテレビやクーラーなどが飛ぶように売れ、東芝の業績も急激に回復していった。
一見、順風満帆に見える経営者土光だが、この間に大きな挫折も経験している。
1954年の造船疑獄に巻き込まれて逮捕された。この贈収賄事件は、政官財の71人もが逮捕される大疑獄事件であった。
政権与党自由党の佐藤栄作幹事長が法務大臣の指揮権発動により逮捕されなかったことは、司法の独立を揺るがしかねない事案として世間を騒然とさせた。
土光も造船会社の社長として逮捕されたが、後に不起訴となっている。
その際、小菅拘置所で21日間にわたって土光の取り調べに当たったのは、伊藤栄樹検事であった。
伊藤は後に事務次官や検事総長を務め「ミスター検察」とも呼ばれるようになるが、当時はまだ29歳の若手検事で、回想録の冒頭部分で土光のことに触れている。
それによると、土光の自宅を捜索した特捜Gメンが帰庁するなり「実に立派な人だ。生活はまことに質素。電車で通勤している」と面食らって戻って来たことを書いている。
伊藤自身も、こういう立派な人と出会って”検事冥利つきる”と書いている。
土光は、1974年から経団連会長を2期6年にわたって務めた。
1981年には鈴木善幸首相に請われ、第2次臨時行政調査会長に84歳で就任。「土光臨調」と呼ばれ、全国で行革国民会議が開かれた。
80歳を超えて突然に、イスラエルをエジプトから導き出せと命じられたモーセを思い浮かべるが、土光は就任にあたって、行革は一種の世直しで、国民の意識をかえる息の長い国民運動、これが自分の最後の御奉公だと語っている。
この行政改革は“当然、政財官の各界のみならず広く国民の中にも”既得権益”を失うものも多く、この改革は「総論賛成各論反対」と言われるような大きな反対の声があがる中で断行された。

イスラエルは、モーセに代表されるように神が選んだ指導者が民衆を率いてきた。
そして、神の声に従ったモーセの働きにより、奴隷とされていたエジプトの境遇から脱出。そしてシナイ山でモーセが「十戒」を神より授けられる。
それまで紅海が割れるなどの奇跡を体験しているにもかかわらず、民衆はモーセがいつまでも戻らないので、山の麓で「金の子牛」を作って拝みはじめる。
また、神はシナイ半島を移動する民を養うために、毎朝マナとよばれる不思議な食べものを降らせた。
しかし、民衆はモーセに、マナには飽きたので、肉がたべたい。我々を野垂れ死にせるために荒野に導いたのではないか。
エジプトに帰ればたらふく肉が食べられるので戻りたいと訴えた。
モーセは、身勝手な民衆に憤りを覚えつつも、民の声が神に届くように、”とりなし”の祈りをする。
すると、風が吹いてうずらの大群が民の宿営の周囲に舞い降りてきて、民は立ち上がってうずらを集め、鼻からハミでるほど食べた。
しかし神は、民がその肉が食べ尽くされないうちに、非常に激しい疫病で民を打たれたという(民数記11)。
聖書の中には「民(たみ)」という言葉がしばしば登場するが、モーセほど民を率いることの難しさを味わった人はいないかもしれない。
土光もまた多くの”民”と向かい合ったが、東芝には40万人の従業員を抱え最強と呼ばれた労働組合があった。
さらには、運輸族と呼ばれる政治家、さらに廃線となる地方の赤字路線沿線の住民などが、次々と土光臨調に向けて反対の声を上げるようになる。
その反対の声は、「国鉄民営化」を含む第3次答申案が提出されることが予定された1982年7月末に向けて日増しに高まっていた。
この頃の土光の自宅には、行革反対を訴える手紙が大量に届くようになり、自宅周辺には街宣車が現れるようになっていた。
そのため、土光に警護のSPがつくようになり、さらに身の安全のため、日課としていた散歩や畑仕事にも制限がかけられるようにもなるほど行革を巡る世の空気は緊迫していた。
そんな逆風が凪いだのは、意外にも土光の日常生活を描いたNHKのドキュメンタリー番組であった。
土光氏、メザシが主菜の一汁一菜の夕食に、農作業用のズボンに古ネクタイを着用するなど、質素な生活で知られ、財界の頂点である経団連会長になっても、バス、電車通勤であった。
番組の最後には、土光家の夕食の様子が登場する。食卓に並んだのは、自分の家とれたキャベツと大根の葉のおひたし、玄米ご飯、そして知人からもらったメザシのみである。
そのメザシを入れ歯のない土光が頭からガブリと噛みつく姿がテレビ画面に大写しとなった。
そして、最後に玄米を食べ終わった御飯茶碗にお茶を注いでひと回しした後ゴクリと飲み込み、一言「ご馳走様」。
この夕食の場面は多くの反響と感銘をよび、このテレビ放映以後、政府各省庁からの行革の妨害はパッタリと止んだ。
政治家も反対をしなくなり、臨調の審議は急ピッチで進むこととなったという。
そして、土光臨調は、1週間後の7月30日、国鉄の分割民営化を盛り込んだ第3次基本答申を政府に提出した。
土光は答申後の記者会見で「国民が行革に関心を持って、自分の利害を主張するだけでなく、自立・自助の精神を持ってほしい」と国民に対する期待を込めてコメントした。
第二臨調の下で、電電公社や専売公社の民営化が実現し、土光はバブルのさなか1988年に91歳で亡くなった。
ところで、晩年の土光敏夫の目に、日本はどのように映ったのだろうか。
今から15年ほど前に、1975年に書かれた「日本の自殺」という論文が文芸春秋にトップに「再掲載」され話題をよんだ。
この論文は信じがたいほど「今」を言い当てている。
過去の「文明の没落」を研究した結果、「文明の没落」は外部の力によって生じるのではなく、内部から自壊していったことを明らかにした。
この「自壊作用」のメカニズムとは、繁栄と都市化が大衆社会化状況を出現させ、活力なき「福祉国家」へと堕落し、エゴと悪平等の泥沼に沈みこんでいくというプロセスをたどる。
ローマ市民は、広大な領土と奴隷によって次第に働かなくなり、政治家のところに行っては「パンよこせ、食料をよこせ」と要求するが、「大衆迎合的」な政治家はソレに与え続けたのである。
現代の政治家は任期中には税金を上げないと国民の人気トリに終始する。
フリーターがニート族といわれる若者も多く、就職しても1年未満で会社を辞め、職を探す意欲もなく失業保険で喰っている。
母親は子育ての拒否から子供の虐待事件がアトをたたず、見かねた役所は赤ちゃんポストまで設置したところもある。
一方で老人は手厚い年金をもらい、仕事のない人間は、「オレオレ詐欺」で老人世代から莫大な金を巻き上げている。
官僚は、天下りをハシゴして国民の税金を貪っているし、国民も他人の働きの成果をあてにして掠めることばかりを考えるようになる。
それは、ローマ人が属州からの産物や奴隷から搾り取ったものから、働きもせずに産物を得た姿と重なるものがある。
この「日本の自殺」を書いたのは「グループ1984」というグループで、各分野の専門家20数人による学者の集まりであった。
この論文の結論として、政治家やエリートは大衆迎合主義をヤメ、指導者としての誇りと責任を持ち、なすべきこと主張すべきことをすべきであること、人の幸福をカネで語るのをヤメ、国民が自分のことは自分で解決するという自立の精神と気概を持つべきだと戒めている。
土光は、この論文を絶賛し、コピーしては知り合いに配ったという。

日本でモーセという人物に匹敵するような人はなかなか見当たらない。ただ、モーセが遭遇した出来事と似たような体験をした人なら存在する。
その筆頭が高橋是清。順序は反対だが奴隷と宰相の二つを経験したという意味でモーゼの生涯と重なる。
高橋のあだ名は「ダルマ宰相」で顔や体型の丸さと何度倒されても起き上がることからそのあだ名がついた。
高橋は晩年、首相や日銀総裁をも務め、その起伏に富んだ生涯は驚嘆に値する。
高橋は仙台藩生まれで、横浜での外国人宅へ住み込みサンフランシスコに渡るが、自分が「奴隷契約」で売られていることに驚き帰国する。
帰国後、芸者に養われ芸妓の箱屋となる。そうした自分の生活を一新しようと佐賀県の唐津藩で英語教師をするが、遊びが原因で悪い噂がたち退職する。
その後 ところで、佐賀県の唐津市役所で文化財課職員の方に唐津時代の高橋是清の話しを聞いたことがある。
一番印象に残ったことは、唐津に短期間しかいなかった高橋是清が、唐津では「先覚者」の一人に列せられているということであった。
高橋是清は、現在の唐津城すぐ近くの唐津東高校正門あたりにあった「耐恒寮」で英語を教えていた。
高橋が帰京の際には、唐津藩の俊英達が高橋を慕い高橋が次に教えることになった大学南校に入校して、後に国家や郷土の発展に尽くす事になったからである。
この中には建築家・辰野金吾などがいた。高橋はペルー銀山失敗後、日銀建設事務所で働くが、その責任者が辰野で、高橋はかつての教え子の下で働くのである。
この頃、人生を立て直そうとした高橋にはそうした謙虚さがあったからこそで、その後に日銀総裁になる高橋と日銀を建設した辰野金吾の因縁に驚かされる。
高橋は政治の世界にはいり政友会に所属するが、政治家としては優れていたとは言い難い。
高橋は財務家としてすぐれた手腕を発揮したが、政友会総裁として党をまとめることができなかった。
前任者である原敬が一度会った人物の個人情報を実によく知っていたのに対し、高橋はそうした人間的関心がきわめて薄く無欲恬淡とした性格であったという
さて、現在日銀の主流派「リフレ派」の理論は、高橋是清蔵相らの政策を現代のマクロ理論で解析したものである。
1929年の世界恐慌後の時、「禁じ手」とされる新発国債の「日銀引受」という今日では財政法で禁じられている非常手段を採用し、それによって世界に先駆けて大恐慌からの景気回復を実現させた。
だが今日のように、不良債権問題とグルーバル化の時代に進行するデフレといった問題にそのまま適用できるとも思われない。
高橋是清が2・26事件で殺害された時の自宅は東京の赤坂にあり、現在は高橋是清公園となっている。
なお、我が地元・福岡の日銀支店と道を挟んで向かい合うように立つのが「赤煉瓦会館」(福岡市文学館)で、これを設計したのが高橋の唐津時代の教え子辰野金吾である。

モーセはエジプトの王位継承者でありながら、自らがユダヤ人であることを知るに及び、同胞と同じように奴隷として生きる道を選んだ。
王を捨てて奴隷になったわけだが、日本においても、幾分似た選択をした人がいる。
豊臣秀吉の時代にキリシタンの禁制が強まっていくにしたがって、キリシタン大名も棄教や改宗が求められるようになる。
ほとんどの大名はキリスト教を捨てるが、あくまでも信仰を貫いたのが高山右近。
高山は領地・領民を捨ててまで信仰を選んだという意味で、日本キリスト教史の中で燦然とその名をとどめている。
高山右近はフランシスコ=ザビエルが亡くなった1552年に生まれ、徳川家康が外国人宣教師を日本から追放した1615年に亡くなった。
高山は、激しい政治的な変動と武力の跋扈した時代の影響を受けたことに違いないが、彼自身の追及する真実や信仰の故にキリシタン大名の中でもとは際立った生き方をした。
その信仰故に彼は多くのジレンマと苦悶に直面する。
高山右近には3つの側面がある。一つは政治的・軍事的指導者としての側面、茶の湯における熟達した主人である側面、最後に際立ったキリストの「使徒」としての側面である。
彼の人生の初期においては、第1の側面が彼のエネルギーの大半をしめる。
彼は戦国期を生きる武士として16歳の時に室町幕府最後の将軍足利義昭に従って初陣に参加している。 高山右近は当初、和田惟政に仕えるが、戦国の世の中で和田惟政は待ち伏せをうけ殺害される。
和田惟政は有力な大名の荒木村重の領地である高槻の城主であった。
高山右近が時の将軍足利義昭や天下人・織田信長と通じたのは、高山家の主君筋にあたる和田惟政を通じてである。
そして織田信長との接触は、右近が政治的・経済的に力をうるために何よりも重要な出来事であった。
ところが和田惟政の息子・惟長は高山父子の名声を羨み、高山父子の殺害を計画する。
この計画は事前にもれ、右近は彼自身と家族を守るために領主の荒木村重の認可のもとに和田惟長を殺し高槻の領地を獲得する。 この時高山右近自身瀕死の傷を負い、彼の終生のトラウマとなる。
その後、父・高山飛騨守は引退を決意し、高槻の領地を息子右近に譲る。
高山右近は21歳にして高槻城主として政治的な経歴をスタートする。
その後高山右近が26歳の時に人生最大の危機に直面する。
高山右近が仕える領主荒木村重が織田信長への謀反をおこし戦いをいどむことになる。
高山は村重の信長への謀反に反対するものの、高山は妻と子供を荒木村重に人質として差し出し忠誠を誓う。
織田信長はここで高山右近に信仰上の挑戦をしかけてくる。高槻領内の神父を捕らえ、もしも右近が 村重に従うならば、神父達を殺害する脅す。
この時、右近は信仰上の挑戦、直接の主君への忠義、人質がさらされている危機などあらゆる精神的な確執の中から、彼自身の良心に従う決心をする。
頭を剃り領地と城を明け渡し、従者をもつけず信長の前にでる。政治の世界との絶縁を示すこの行為は、右近を思いもよらぬ結果へと導くことになる。
彼は信長に許され、高槻の領土を保障され、また荒木にさしだした人質も命が助けられるのである。
人生最大の危機を右近は良心の声に耳を傾けることによって乗り越えたのである。この危機通じて右近は新しい信仰の力を得、新しい人となる。
つまり彼は信仰のみに生きる人となっていく。
1582年、織田信長が明智光秀により殺されると、信長の後継者となった豊臣秀吉に高山右近の命運は握られることになった。秀吉は高山を高槻から明石へと領地替えを行ない、右近の収入は増加する。
秀吉が開く茶会で高山は千利休とも出会い、利休の最高の弟子の一人ともなっていく。
豊臣秀吉の九州遠征に高山は700人の兵を率いて参加する。
1593年秀吉は博多で宣教師に疑惑を抱き、突如バテレン追放令をだす。 秀吉は切支丹家臣団のなかから当時明石城主だった高山右近をいわば生贄とする。
秀吉は使者を派遣して高山に信仰をすてるか、領地を返すかという厳しい選択をせまる。
それに対し右近は、切支丹宗門と霊魂の救いを捨てる意思はなく領地並びに明石6万石を秀吉に返上すると答えた。
高山は博多湾の寂しい孤島に逃れ、そこから淡路島へと長い流浪の旅の一歩を踏み出したのである。
多くのキリシタン大名の中で高山右近は「神の国」を自分の領内に具現しようとしたただ一人の人物である。信仰の故に、その領地や領民を返上するという決断をしたのである。
その後、しばらく加賀の大名・前田利家の世話をうけるが、1592年朝鮮出兵で肥前・名護屋に駐在した秀吉により再び声がかかる。ここで秀吉は茶会を開いていたのである。
1591年秀吉の死後、右近は前田利家の加賀にもどりその息子・前田利長もクリスチャンとなり、加賀で実り多き時間をおくる。
その後、1615年徳川幕府より禁教令がでると、右近は迷うことなく領地を捨てわずかな従者とともにフィリピンへと赴いた。そして数ヵ月後フィリピンの地で亡くなっている。

経団連の名誉会長を務めていた土光は1981年、第二次臨時行政調査会(第二次臨調)の会長を引き受けたことで、その名を世間に広く知らしめることになる。土光は行政改革を断行すべく、国民に対して次のように訴える。 「行革を行わなくては、いずれ国民は大増税で泣きを見ることになる」「政府にばかり依存しないで、自分たちでできることは政府に頼らないで――小さな政府が必要だ」  こうしたインタビューが連日報道され、また、土光の自宅での質素な食事がテレビで放映されたことで、土光人気、さらに行革熱は大いに盛り上がる。土光も行革のためにあらゆる手立てを講じた。公私混同を嫌い、自宅にテレビカメラが入ることを一度は断った土光が取材を受け入れたのは、行革がさまざまな妨害を受けている中、質素な生活をしている姿を国民に見てもらうことなくして行革の成功は危ういとの秘書の提言を受け入れてのものだった。そこでの食事で食べていたのがメザシであったことから、“メザシの土光さん”というニックネームも生まれた。  ともあれ、これを機に政府各省庁からの行革の妨害はピタリと止み、行革に異を唱える政治家もいなくなったことで臨調の審議は急ピッチで進展する。ただし、皮肉なことに土光に臨調会長の就任を依頼してきた鈴木善幸総理は道半ばで辞職。その後、政府は最終的に増税を決定し、土光の「増税なき財政再建」はなし崩しの状態に陥った。土光の無念さはどれほどのものであったのか――。それは、会見に臨む土光の目に涙が光っていたことからも容易にうかがうことができよう。  2年間の臨調会長、その後3年間の臨時行政改革推進審議会の会長を勤め上げた土光は1986年、次のようなメッセージを国民に発している。 「行政改革は、21世紀を目指した新しい国造りの基礎作業であります。わたしは、これまで老骨に鞭打って、行政改革に全力を挙げて、取り組んでまいりました。わたし自身は、21世紀の日本を見ることはないでありましょう。しかし、新しい世代である、わたし達の孫や曾孫の時代に、わが国が活力に富んだ明るい社会であり、国際的にも立派な国であることを心から願わずにはいられないのであります」 1896(明治29) 岡山県御津郡大野村(現岡山市北区)に生まれる 1917(大正6) 東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学 1920 東京石川島造船所に入社。タービン設計を担当 1922 スイスへタービン研究のため留学 1924 留学から帰国後、直子と結婚 1936(昭和11) 子会社・石川島芝浦タービン設立。技術部長として移籍 1942 母・登美が橘女学校(現橘学苑中学・高校)を創立 1945 橘女学校の理事長に就任 1946 石川島芝浦タービン社長に就任 1950 親会社・石川島重工の社長に就任 1954 造船疑獄で逮捕される 1960 播磨造船所と合併。石川島播磨重工業(IHI)発足、社長に就任 1963 IHIが造船量世界一になる 1964 IHI社長を退任。会長に就任 1965 東京芝浦電気(現東芝)社長に就任 1972 東芝社長を退任。会長に就任 1974 第4代経済団体連合会(経団連)会長に就任 1980 経団連会長を退任。名誉会長に就任 1981 第2次臨時行政調査会(第2臨調)会長に就任 1982 NHK特集「85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」放送 1983 第2臨調、最終答申を発表・解散。 臨時行政改革推進審議会(行革審)会長に就任 1988 死去