シャアリングの悲劇

世に「シェアリング・エコノミー」という言葉がはやっているが、それは今に始まったことではなく、昔からあったものだ。
すぐに思いつくのが、かつての日本の村落共同体での森林。森林は村落共同体の共有財産として、皆で管理していて、村人は伐木・採草・キノコ狩りなど共同利用を行っていた。
これを現在の民法では、その山林を共同体が「総有」している、となる。
共同体の各成員はその山林の利用等はできるが、持分はなく、勝手に処分することはできないというルール。
そもそも、共同体とはいえ、自然の山林を自分のモノとしているのは幾分違和感を覚えるが、総有することで、山林を絶やさず守っていくことが出来るという面もある。
イギリスでは日本の共有財産と同様な状況も見られ、たえばイギリス・ウィンブルドンには、元々手付かずの自然の残った「コモン」(共有財産)があった。
ところが1864年、地主が住民を集めて、入会地の3分の1を売却し、そのお金で残りを公園にすると言い出した。
ところが住民は売却に反対、裁判に訴え住民が勝訴。公園にするなら、自分たちで税金を出して公園を管理するということを始めた。
これがイギリスの近代的な公園の原型になった。
ウィンブルドン・テニス大会が行われているのも、そのウィンブルドン・コモンの一角なのだ。
さて、山ばかりではなく、海も川も共同的に利用されている。複数で利用されるので「利用権」がなるものがある。
山が「入会権」なら、海なら「漁業権」、河川なら「水利権」などが定まっている。
漁業権の具体例をひとつあげると、「定置漁業権」というのがある。主として回遊性の魚類の捕獲を目的とする漁撈方式で一定の場所に「網その他の漁具」を敷設し、自然に魚介類が身網に陥入したものを漁獲するものをいう。
その漁業権を奪われつつも、なおも生き続ける漁師たちがいる。
神奈川横浜市の海岸線を走る首都高速横羽線、その脇には「子安(こやす)浜」という小さな船溜まりがある。
船溜まりの岸壁を見ると、水上に家屋の足場が組まれ、水面に半分せり出すように軒を連ねている。
トタンと木材で造られた家が、岸壁に寄りかかるようにずらりと並んで建っている。
こうした印象は日本というより、まるで東南アジアの写真で見たことのある”水上家屋群”である。
この子安浜は江戸時代から続く幕府お抱えの漁師町であった。
子安駅から一駅下った神奈川新町駅界隈には、「神奈川宿」という東海道五十三次の三番目の宿場町があったところ。
ところが横浜が国際港として華々しく発展していくのに対して、神奈川港周辺の子安は、高度経済成長とともに取り残されていく。
そんな漁師たちは、筒を使いアナゴを獲るためにワナを作る。そして日の出前の東京湾に繰り出し、前の日に仕掛けた筒を引き上げる。
砂地に潜むアナゴはレーダーに映らないため、長年の経験と勘だけが頼りだという。
さて、子安の漁師達がどうしてアナゴを獲る様になったかというのが面白い。
昭和40年代、東京湾の埋め立てにより公害問題が発生。子安の漁師たちは、保証金と引き換えに漁業権を放棄した。
これにより、生業としていた「底引き網漁」ができなくなってしまった。
ここで暮らす若者にとって、実質、漁師になる夢が断たれたことになる。
目標がなくなり生活が荒れたものも少なくなかった。
多くの漁師たちは丘に仕事を求めたが、漁業権がなくてもできる「刺し網漁」で再起を図る仲間も現れた。
さらにバブル時代となって、魚がびっくりする高値で取引されている。
このチャンスを逃す手はないと、中古船を買い、遅咲きの漁師になるものさえもあらわれた。
バブル崩壊後には、本格的にアナゴ漁を始めた。
一昔前はシャコ漁で賑わっていたが、アナゴは「江戸前」の中でも、子安産は格別で「身に脂がのっているので、値が張っても買いたい」と市場価値が高まったからだ。
アナゴ漁は、たとえ漁業権がなくても、網を使わずに漁具でもない「筒」を設置しておいて引き上げるため、問題がなかったからだ。
こうして、"子安といえばアナゴ"、といわれる存在になったのである。

福岡県の筑後路は、久留米から東へ(大分方面)と田園地帯が続く。
そんな中、吉井の街に入ると"白壁の塀のある蔵"がいくつも立っていて、ひな人形など伝統工芸の店もあって幾分華やいだ気分になる。
吉井町は、江戸時代に久留米城の城下町と、天領である日田を結ぶ旧豊後街道沿いの宿場町として発展を始めた。
とはいえ、この吉井に白壁の蔵が出来るだけの豊かさをもたらしたのは、五人の庄屋を中心に造られた堰および水路の存在が大きい。
筑後川の南側・浮羽地区は今でこそ、肥沃な農地が広がる豊かな地域だが、350年前は平野の大部分は藪や林に覆われ、その間を開墾してわずかな畑作を主とした農業が営まれている、貧しい地域であった。
それはこの地区が土地は肥沃なのに、水利に非常に不便な地域だったためであった。
当時の農民の生活は、貧しく水不足で不作の年には食べるものが無く餓死者や、先祖から受け継いだ土地を見捨てて他に移り住む者がいたほどであった。
この頃、生葉郡にはの五人の庄屋がいた。彼らは農民の有様に心を痛め、このままでは村が無くなるという危機感を募らせていた。
目の前を雄大に流れる筑後川から何とか水をこの地に引くことはできないか。
何度も話し合った結果、ここから約10キロ上流の現・うきは市浮羽町長瀬の入り江に水門を設けて溝を掘り、落差を利用して川水を引くという、遠大な計画をうちだした。
1663年の秋、五庄屋は、郡奉行に、苦しんでいる農民の有様を伝え、かねてから構想していた計画を説明し久留米藩の許可が出るように直談判した。
奉行から、成功すれば藩の収入も豊かになるので、詳しく調べて設計書や見積書を作成して願い出るように励まされる。
早速、五庄屋を中心に実地の測量を始めた。
水を通す溝の場所、長さ、幅、深さ、溝を通すためにつぶれる土地の広さ、工事に要する人員など詳しい見積書や水路の図面の作成に手を着けた。
こうした苦労の末に出来上がった願い所を大庄屋を通じて藩に提出する。
そこには「これらの工事について費やす費用は五人の庄屋が全部受け持ちますから、藩にはご迷惑おかけしません」と書いてあった。
ところが思わぬところから反対の声が上がった。
溝の上流域にある村々の庄屋が、ひとたび大洪水になったら自分たちの村や田畑が大水で大変な損害を受ける恐れがあるというものであった。
これに対して11人の庄屋が「計画通り工事を進めても決して損害を及ぼさない。万が一損害を与えた際は、必ず責任をとり、どんな重い罰でも受ける」という決意を示し、郡奉行も反対する庄屋たちを説き伏せために治まったという。
また藩はい”普請奉行”の丹羽頼母(にはたのも)重次を実地調査に当たらせることにした。丹羽も現地で測量し、藩に対して”藩の仕事”として取り組むべきだという意見を具申した。
1633年12月、ついに念願の藩からの許しが出る一方で、田畑をつぶしたり、家を移動したりすることについて一切反対してはならないという厳しい命令が出された。
五庄屋が進み出て「もし失敗した時はどうぞ私どもを厳しく罰して皆の見せしめにしてください。よろこんでその刑を受けて、藩や世の人々にお詫びいたします」と覚悟のほどを示した。
実際の費用については人夫こそ藩の夫役で賄ったが、たくさんの人夫の食費や必要な道具や支払い代金はすべて願い出た庄屋が負担したのである。
1634年1月11日、いよいよ工事が始まった。
藩の監督者が駐在する長野村に、「もし工事が成功しなかったら庄屋を磔の刑に処するぞ」というほとんど脅しに対して、人夫たちは「庄屋どんを殺すな」と工事に必死に取り組んだ。
流し込んだ水が逆流したり、大きな岩に突き当たったりするなど幾多の困難があったが、多くの人々の懸命の働きによって、工事は驚くほどはかどり、わずか60日後の同年3月中旬についに完成したのである。
こうして出来たのが「山田堰」であるが、その後1665年から第二・三期工事が実施された。
拡張工事と共に水に需要が増していく中で計画されたのが「大石堰」で、1674年に築造され当初75ヘクタールだった灌漑面積は、1687年には1426ヘクタールに達した。
今もこの水路は活用されているが350年も前の技術というから、その水準の高さに驚かされる。
大石堰の長さは394メートルもの長さがあり、その間に仮船通し、本船通し、簗(魚道)を設け、普段堰面は全部露出しているものの、増水したときは堰面を超えて流れるなど大規模なものであった。
また、筑後川から流れて出た水が北新川と南新川に分かれる分流点「角間天秤」には、水を測り分けるために川底に「大きな石(沈み石)」が置かれている。
この分流点に差し掛かる手間では、川の流れを二ヵ所でクランク式(直角)に曲げ、水流を弱めて分流点に向かわせるなどの工夫が凝らされてた。

アフガン(アフガニスタン)情勢といえば内戦、イスラム過激派などの政治問題が語られるが、人々を根底から苦しめてきたのは気候変動に伴う”水欠乏”だ。
国民の多くが農業で生活するこの国で、近年、干ばつが頻発、全土で沙漠化が進んでいる。
水不測で泥水を飲んだ幼い子供たちが次々と命を落とす惨状もあった。
山岳地帯では電力が利用できず、資機材の入手が困難なだけでなく、国家支配を拒むアフガン農村の独立性や内戦による治安悪化もあり、日本のような公共事業は技術、財政共に絶望的であった。
それ以前に、日常の飲料水にさえ手が届かぬ焦げ付く大地は、もはや”絶望の大地”といってよかった。
2001年10月に米軍がアフガニスタンを爆撃した際、中村哲氏を代表とする「ペシャワール会」では全国に呼びかけ「いのちの基金」を設立し、空爆下に緊急食糧配給を行ってきた。
この活動が大きな反響を呼び、多くの基金が集まり、そして、この基金をもとに始まったのが「緑の大地計画」である。
アフガニスタン東部における灌漑用・用水路建設を含む総合農村復興事業では、東部を流れるクナール川から水を引き、クナール州からナンガルハール州一帯に農業を復活させようというものであった。
アフガニスタン政府も本腰を上げ、2003年3月から始まった用水路建設は、米軍ヘリの機銃掃射(誤射)を受けながら、文字通り、山あり、谷ありの難工事の連続。
中村医師、日本人ワーカー数10人、現地職員120人、村人1日600人が働き、延べ60万人の手により全長24.3キロメートルの「マリワリード」(真珠という意味)用水路が開通した。
冬のクナール河は清流である。大河の流れは天空を映してあくまで青く、激流が真っ白な水しぶきを上げる。標高7千メートル以上のヒンズークシ山脈を源流とし、アフガニスタン最大の水量を誇るこの河で、灌漑(かんがい)事業に着手して、今やっと16年越しの悲願が達成されようとしていた。
中村哲氏がクナール川から水を引く際に参考にしたのが、中村氏の故郷・福岡県の南部・筑後川の水利技術である。なかでも「大石堰」「山田堰」などにみられる知恵がふんだんに取り込まれている。
しかし、そもそも「堰(せき)」とは何か。
水路や河川にある水の取り入れ口は、水を遠くの水田に届けるために高いところに造られている。
これは、高いところから低いところへ流れようとする水の力を利用している。
堰は、こうした取り入れ口に水が入るように、水位を上げる役割をもっている。
測量技術やコンピュータもない時代に完成したこの堰は、叡智の塊りといってよい。
用水路をひくに自ら刑死用の磔を建てて実施した庄屋の覚悟。農民たちも庄屋を殺すなという意気ごみをもって工事にあたった。
アフガニスタンで活躍してきたペシャワール会の代表中村哲氏が何度も、筑後川の堰に通い、その技術を吸収していったことは、その著書で知ることができる。
筑後平野を車で移動しながら、この田圃を潤す水の源はどこか。どうやって取水し、洪水を避けてきたのか、傾斜をいかにとって灌漑面積を拡げたのか。
著書で印象的なの場面は、「山田堰」のこと。アフガニスタンの現場で工事が始まってまもなく、ひとりの青年が「先生、そっくりの場所が九州にあります」と告げた。
中村氏は、ちょう揚水水車の設置を考えていて「朝倉三連水車」を見に行くところだというと、同じ朝倉にあるのだという。
なんのことはない。山田堰からひいた用水路「堀川」の中に”三連水車”があったのだ。
実は、山田堰は「斜め堰」という今はほとんど見ることができない堰の原型であったのだ。
しかも、その間に中村氏の幼い子供は脳腫瘍で命が危ぶまれ、ついには命を引き取る悲しみにも見舞われている。
その時の気持ちを中村氏は、「バカたれが。親より先に逝く不幸者があるか。見とれ、おまえの弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」~凛と立つ幼木を眺めながら、そう思ったと書いている。

福岡の筑後地方には、筑後川より南の柳川あたりを流れるのが矢部川がある。
筑後地方が久留米・柳川の二藩に分割される以前、田中義政統治の時代、矢部川両岸は互いに協力関係にあった。
しかし、川を境として二分されて後は状況が一変し、両藩には用水引き入れと洪水防止を巡り、しばしば紛争が生じた。
その理由は、他領の堰の川上に新たな堰を設け、寺領へ導水したり回水路をつくったりして、自分たちに有利な水を確保しようとしたからであった。
様々な水を巡る争いを通じて、双方の住民は粘り強く交渉を重ねて歩み寄り、"水利慣行"をつくり上げた歴史がある。
さて、中村医師はクナール川に大小のダムを建設したほか、一帯で1500カ所以上の井戸を掘削。クナル川からガンベリ地域に至る全長約25.5キロの用水路建設を主導した。
砂漠はみるみる緑化され、ナンガルハル州の65万人を潤したという。
それは、"ビフォー"と"アフター"を写真でみれば一目瞭然、”偉業”というにふさわしく、アフガン政府もこの上ない"謝意"を表してきた。
その一方で、一部住民からは川の流れの変化や、川の流水量減少について不満の声が上がったという。ここで留意したいのは、実際に流水量が減ったかは、定かではない点だ。真相解明がまたれるが、少なくともそう感じる人たちがいたということだ。
中村氏が筑後平野で学んだことは、”堰の仕組み”など技術面ばかりではなく、”水紛争”をいかに地域で解決してきたかという社会的な面も含まれていた。
しかしながら、2019年12月4日中村哲氏死亡のニュースに、"水利"というものが、いかに一筋縄ではいかないかを突きつけられた感がある。