菅首相が日本学術会議の推薦候補者105人のうち6人を任命拒否したという報道があったが、日本学術会議による勧告や提言は、果たしてどれほどまで政府の方針に影響するのか。
そもそも「日本学術会議」は、具体的に何をしているのだろうか。
1949年1月つまり未だ占領下において、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立された。
職務は、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。年間10億5千万円が政府支出として日本学術会議にあてがわれ、また日本学術会議会員は非常勤の「特別職国家公務員」でもある。
実は、2007年以降、日本学術会議はわずか2件しか答申が出ていない。「答申」とは文字通り、政府からの諮問に対して答えるもので、諮問がなければ答申は出されないので、職務怠慢というわけではない。
「答申」は出ていないものの、2007年以降も日本学術会議は政府や官庁から「審議依頼」を受けた上で審議し、報告をまとめているケースが多数ある。
また、重大な科学上の問題が生じた場合には、「声明」を発表することもある。
例えば、中国の大学の研究者が、2018年11月、「ゲノム編集」という技術を使ってヒトの受精卵の遺伝情報を書き換えて、その受精卵から双子が生まれたと発表した時のこと、日本学術会議は2017年、「法律による規制について検討すべきだ」などとする声明を発表している。
ところで、日本学術会議の勧告には「法的効力」は無い。あくまで純粋に知見を求めたり提言する場であり、したがって「学問の自由」が保障されてこそ意味がある。
人選は、学術会議の分野ごとの推薦で、各学会の権威の箔づけのようなもので形骸化しているという批判もあるが、問題はアナウンス効果であり、政治とは独立してこそ、その提言は価値あるものとしてみなされうる。
もしも政府が任命権者であるが故に任命しないことがあっても法的には問題ないとか、税金を使っているものなので人事に口を出すのは当然というような説明をするならば、かえって日本学術会議の価値を貶めることにはならないか。
ちょうど「政治的な中立性」を重んじる司法における、慣例破りの裁判官の定年延長問題のように、政治が人事をイジレば、「公正中立」なはずの司法の信頼を自ら揺るがす結果になる。
このたび任命が拒否された6名は、安倍政権の政策に批判的であった人々という共通項があり、菅首相も削除された6名を知らずに名簿だけをもらったという。
では一体どんな力が働いたのか。今のところ背後に元警察官僚で霞が関トップの存在が浮上している。
「共謀罪」に反対した学者などが名簿から除外されたので、なるほどと思わざるをえない。
その一方で、日本学術会議を「学者の国会」とか「学者の代表」というような位置づけをするのも、その選出方法からみて適当とは思われない。
さて、ものごとは「正」と「反」で展開することが少なくないが、「日本学術会議」という存在は、戦時中の「日本学術振興会」という存在の裏返しと見ることができる。
1932年に設立された「日本学術振興会」では学会・国防・産業界の協力がうたわれ、国家総動員の下、原爆研究、電波兵器研究、生物兵器、生体解剖事件に留まらず「国民総武装兵器」なるものまで研究された。
しかし、敗戦直後に資料が焼却されたため、全容は明らかにされていない。
これを反省した「日本学術会議」は1950年に「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対従わない」決意を表明。1967年にも「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」決意を新たにしている。
2017年には2つの声明を継承すると強調した上で、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」は、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って「公募・審査」が行われており、政府による研究への介入が著しく問題が多いという、至極まっとうな指摘をしている。
日本の歴史の中で「学者の提言」がモノ言う場面というのはどれほどあったであろう。
まず思い浮かべるのが、1903年日露戦争時に日露開戦を唱えた「東大七博士」の建白である。
日清戦争で遼東半島を奪った日本は、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉で放棄せざるをえなかった。
しかも、そのロシアが遼東半島に進出したため屈辱の感を深め、いずれロシアと戦うだけの国力を充実させようという気運があった。
東京大学の7人の博士は、1900年義和団事件以後もロシアは撤兵せず、満州を占領状態のまま朝鮮にまで食指をのばそうとしており、日本の防備の危機が迫っていると、この時期を失すべきでないと「開戦」を主唱したのである。
なにしろ東大の法科大学教授のいうことである。その位格は今よりも高く10名前後の教授の内の7名が「ロシアと戦うべし」という建白書を桂太郎首相はじめ政府高官に送りつけたのである。
その社会的インパクトたるやとても高く、日露開戦へとむかう世論をリードしたといえる。
さて前述したとおり、ものごとは「正」「反」で展開することが少なくないが、それから40年後、今度は太平洋戦争の終戦構想を打ち出したのが、奇しくも東大七博士の「太平洋戦争終結」の建白なのだ。
日本の終戦について一般に名をとどめているのは、木戸貫太郎首相・米内光政海軍大臣・東郷茂徳外相で、「東大七博士」建白の方は、いわば「秘史」の領域である。
実は、この七人の教授、将来もこのこと一切を秘密に葬り去ることを「誓い」合ったという経緯もある。
もちろん、日露戦争開戦建白の「東大七博士」と、太平洋戦争終結建白の「東大七博士」では、メンバーは全く違うが、後者の中心的存在となったのが、後に国会で吉田茂首相により「曲学阿世の徒」と呼ばれた人物である。
その人、南原繁教授らはこの「終戦構想」において、空襲の危険ばかりか官憲の警戒監視をくぐりぬけ、何度も内大臣の木戸幸一や海軍首脳と会って、構想を提示し、天皇の裁断と詔勅による終戦以外に、とるべき道のないことを示した。
その構想の中には、「戦後における国民道徳の基礎を確保するために、天皇は終戦の詔勅において、内外に対する自己の責任を明らかにするとともに、終戦後、適当な時期において退位すること」という重い内容が含まれていた。
我が地元・福岡の関連で興味深いのは、新旧いずれの「東大七博士」にも、修猷館高校の卒業生がそれぞれ一人含まれていた点である。
日露開戦建白の寺尾享、太平洋戦争終結建白の田中耕太郎が、それである。
ともあれ、新旧の東大七博士が、「開戦」「終戦」の建白を行ったのは、アカデミズムのトップとしての責任のようなものを感じる。
戦後「学者の提言」が大きな影響をもった事例として、「憲法研究会」の存在をあげたい。
その憲法試案は、当事者達の意図を超えてGHQの新憲法作りに参考にされた部分が大きいからだ。
戦後、日本を占領したアメリカは、11カ国でなる極東委員会が設置され、日本統治に口を出すまえに、日本政府により自主的な(と思わせる)憲法がつくられたという既成事実を作っておきたかった。
だが、日本研究をかなり行っていたとはいえ、法律専門のスタッフもいないなか、徒手空拳で、しかもわずか10日間程の期間に「憲法草案」を作成することはさすがに無理があった。
そこで、すでに政府に提出されていた高野岩三郎らの「憲法研究会」の試案に注目したのである。
「憲法研究会」は、元東京大学経済学部教授であった社会統計学者・高野岩三郎が、敗戦直後の1945年10月末、鈴木安蔵(憲法学者)に提起し、さらに馬場恒吾(ジャーナリスト)・杉森孝次郎(早稲田大学教授)・森戸辰男(元東京帝国大学経済学部助教授)・岩淵辰雄(評論家・貴族院議員)・室伏高信(評論家)らをメンバーとして発足した。
1945年12月末頃に「憲法草案要綱」を首相官邸に提出し翌々日に新聞発表されたが、GHQは、この内容に注目したのである。
この会の座長的存在は東大教授の高野岩三郎であったが、その弟子である森戸辰男を呼び寄せていた。
高野は社会政策学を設立し、労働運動黎明期の活動家・高野房太郎の弟である。
高野兄弟は、長崎銀屋町で生まれで、父親は仕立業を営んでいた。
1877年に家族とともに東京に移るが2年後に父が死去し、長男の房太郎は形式上戸主となった。
房太郎は夜は横浜に住む伯父の汽船問屋兼旅館に住み込みで働き、夜は横浜商法学校に学んだ。
1886年、4月に伯父が急死したことをきっかけに渡米。約半年間サンフランシスコ近郊のオークランドで「スクールボーイ」と呼ばれた使用人の職に就くなどして、帰国後は日本の労働運動のリーダー的存在となっていく。
その弟の高野岩三郎の方は、ドイツ留学の後に東大で統計学を講じており、特に東京・月島における社会調査で知られ、その後に「大原社会問題研究所」の所長となっている。
森戸も師・高野に倣ってドイツ留学の経験があり、ドイツのワイマール憲法に学んで帰国し、新憲法試案においては、生存権ばかりか、労働権の導入をさえ提起していた。
ただ森戸はこの段階での改革をいそがず、試案の10年後に、国民投票を行うべきだと主張していた。
森戸はドイツ留学において、第一次世界大戦に敗戦したドイツの混乱を目の当たりにし、ワイマール憲法という最も民主的な憲法を持ちながら共産党とナチスが台頭し、ヒットラーによる一党独裁を招いてしまう。
こうしたドイツの状況と敗戦後の日本を重ねた上で、森戸はドイツのテツを踏んではならないと考えていた。
そのため、天皇制を否定し「共和制」までを主張した師である高野岩三郎とは、タモトとを分かつことになるのである。
森戸は広島の旧士族の生まれだが、戦時中も栃木県の真岡への疎開経験があり天皇信仰が地方でいかに根強いかということを熟知していたのである。
そこでイギリスの「立憲君主制」などに倣って、天皇を「道徳的なシンボル」とするといった斬新な考えを提起するのが、そうした考えがマッカーサー草案の「天皇=象徴」に影響を与えることになる。
さらに森戸は社会党の代議士となり、マッカーサー草案にはなかった「生存権」をネバリ強く憲法25条に盛り込んだ功績は、今の時代を考えてみても、最大限の評価をしてしすぎることはない。
したがって、憲法改正をするにせよ、GHQからの「押し付け論」を根拠にすることは、あまり適切ではないように思える。
太平洋戦争は、日本の真珠湾攻撃で始まった。このことは、F・ルーズベルトの画策がいろいろあったにせよ、まぎれもない事実である。
しかし日本とアメリカの国力差が圧倒的なことは明白なのにどうして日本は戦争を始めたのか。
この場合、圧倒的な国力・経済力の差を日本の指導者たちは知らなかったとか、研究者たちの国力分析を軍が握りつぶしたとかいったことが、開戦を導いた軍人たちの「暗愚さ」と共に語られてきた。
しかし、開戦の決定をしたリーダー達というのは、帝国大学・陸軍大学校・海軍大学校など当時の最高学府を出たエリート達である。
さらには太平洋戦争の背後に、日本で最も優秀な頭脳を結集した組織があり「秋丸機関」と呼ばれていた。
陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が中心となって陸軍省経理局内に研究班が設立され、岩畔の意を受けて満州から帰国したばかりの秋丸次朗中佐が率いたので「秋丸機関」とも呼ばれた。
有沢広巳という治安維持法違反容疑で検挙され保釈中のマルクス主義経済学の東大助教授をリクルートして秋丸機関の中枢に据えたところをみると、陸軍は「暗愚」どころではなかった。
有沢広巳は、総力戦に於ける統制経済や自給体制の専門家として名が知れていたし、国際政治班主査に東大教授の蝋山正道。日本班主査に、東京商科大学教授の中山伊知郎など錚々たる名前が並んでいる。
その中でも、戦争経済研究班は、陸軍と企画院から日本、アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツ、中国の多方面に亘る機密情報の提供を受け、総力戦の為の研究を進めた。
それによれば、日米開戦は長期戦となり国力差(1対20)から敗戦必死との結論に達している。
当初、陸軍は「仮想敵国」をソ連と定めて研究していたが、日中戦争の長期化の原因が、英米の蒋介石への経済軍事支援であることが明らかな以上、急遽アメリカを研究対象に加えたのである。
研究の方向性は、次期戦争を遂行するには何らかの経済攻勢が必要であり、その研究対象は必然的に経済大国のアメリカに向かったのである。
そこでの問題の本質は、日米の国力差ばかりでなく、戦略物資の「対米依存」にあり、対米戦争が長期化すれば日本に勝ち目がなく、アメリカとの戦争は絶対に不可能であるというものであった。
しかも、これは機密情報でもなんでもなく、日本の国力が圧倒的に劣ることを、何度となく当時の総合雑誌など述べているのである。
つまり、秋丸機関の報告書に書いたようなことを公表しており、軍もそれを咎めている様子もない。
一番の問題は、日本の国力は、とうていアメリカにおよばない。軍はそれを知悉し、また有識者の多くも気づいていたのだ。
ただ、ここで注意したいのは、「秋丸機関」の報告書は、アメリカに勝つための戦略ではなく、日米の国力差を考慮した上で負けない為に如何にして戦うかについての戦略立案であった。
具体的には、もし戦争が避けられないというのであればという仮定に立った科学的合理的な「南方戦略」、つまり太平洋を南下して資源をおさえるという方向性をさえ提案している。
最近の行動経済学の知見によれば、利益を得るためにはリスクを冒さない人でも、損をしないためにはリスクを冒すことがあるという。
その実験によれば、人間は目の前に利益があると、利益が手に入らないというリスクの回避を優先し、損失を目の前にすると、損失そのものを回避しようとリスクを冒す傾向があるということである。
この結果を戦争にあてはめると、人には勝つためにリスクを冒すことは少なく、負けないためにリスクを冒すということは十分にありうる。
現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性があるという認識。言い換えると、座して死を待つよりは、出でて活路を見出さんということである。
それは、連合艦隊司令長官の山本五十六の「是非やれといわれれば、初めの半年や1年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし2年、3年となっては、全く確信は持てません」という言葉がそれをよく物語っている。
日本は初期の戦いの段階で優位に立って、和平に持ち込もうとしたのかもしれない。
とはいえ「秋丸機関」の報告に対する軍の対応などを見ると複雑な気持ちにさせられる。
問題なのは、データの中立さや正確さだけではなく、人間がそのデータとどうつきあうかということである。
人間は正しいデータにせよ虚偽のデータにせよ、聞きたいものを聞き、見たいものを見るというバイアスがかかる。
データの中立さや公正さを否定するつもりはないが、誤解を恐れずにいえば所詮データなのだ。
「データ万能主義」の行き着く先は、政治や政策をAI(ビッグデータ)に任ねるということに他ならない。
"情報"に棹させば流される この世はいよいよ棲みにくい。